松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2012年5月27日(日)ペンテコステ礼拝(聖霊降臨日礼拝)
説教題「老人は夢を見、若者は幻を見る」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第17章22節〜37節

それから、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない。稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。人の子が現れる日にも、同じことが起こる。その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。言っておくが、その夜一つの寝室に二人の男が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。二人の女が一緒に臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。」そこで弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか」と言った。イエスは言われた。「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ。」

旧約聖書: ヨエル書 第3章1〜5節

本日はペンテコステと呼ばれる日です。教会では主に三つの祝いの日があると言われています。いずれも主イエス・キリストに関係する祝いの日です。一つ目はクリスマスです。主イエス・キリストがお生まれになった日です。二つ目はイースターです。主イエスが十字架にお架かりになり、死んで葬られて、三日目にお甦りになられた、その祝いの日です。そして三つ目がペンテコステです。

ペンテコステは日本語では聖霊降臨日と言います。文字通り、聖霊が降った日であります。主イエスがお甦りになられてから、四〇日を弟子たちと共に過ごされたと聖書に書かれています。そして主イエスは天に挙げられました。その後まもなく、ペンテコステの日を迎えました。ペンテコステというのは「五〇番目」という意味があります。イースターの日から五〇日目ということです。主イエスが天に挙げられて、弟子たちの前から姿が見えなくなってから、一週間ほど経った頃でしょうか。ペンテコステの日を迎えたのです。

この日、主イエスの一番弟子であったペトロをはじめとする弟子たちは、聖霊に注がれて説教を語り出しました。ペトロの説教が聖書に収められていますが、その説教の最初のところで、ペトロは旧約聖書のヨエル書を引用しました。本日の旧約聖書の箇所としてお読みした箇所です。ヨエル書の言葉と、ペトロの説教の言葉は細かいところが微妙に違いますが、ペトロの語った説教の言葉をそのままお読みいたします。

「『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。』 イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。」(使徒言行録二・一七~二二)。

ペトロの説教がこのようにして始められました。説教が語られ、その説教を聴く者たちがそこにいました。その中から洗礼を受ける者が生まれました。ここに教会が誕生したのです。ペンテコステ、聖霊降臨日は教会の誕生日とも言われています。

先ほど、教会には三つの祝いの日があり、それぞれが主イエス・キリストに関わりがあると申し上げました。クリスマスとイースターが主イエスとかかわりのあることはすぐに分かります。ペンテコステはどうでしょうか。こういうふうに言えるでしょう。主イエスが天に挙げられた。これからいよいよ弟子たちは、主イエスが地上にはおられない中で、本格的な歩みを始めていった、そう言ってもよいと思います。

主イエスがおられない歩みということが、本日、私たちに与えられたルカによる福音書の箇所に記されています。二二節のところになります。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。」(二二節)。

「人の子」というのは、主イエスがご自身を指して使われる言葉です。いろいろなところで主イエスはこの言葉を使われましたが、今日のところでは何度も繰り返し、「人の子」という言葉を用いておられます。この言葉は旧約聖書にもたくさん出て来る言葉です。それほど特殊な言葉というわけではありません。人間一般を指している言葉です。例えば詩編にこんな言葉があります。「そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。」(詩編八・五)。人間という言葉を、すぐに「人の子」と置き換えています。ごく普通の人間のことを、天地を造られた神が御心に留め、顧みてくださる驚きを、詩編の詩人は語っています。

主イエスがご自分を指して「人の子」と言われた。神の独り子であられる主イエスが、本当に人に、「人の子」になられたという意味で使われているのかもしれません。あるいは、主イエスが「人の子」と言われる場合には、よく十字架での受難のことが言われます。今日の聖書箇所の二五節もそうです。「しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。」(二五節)。

しかしそれだけではなく、本日の聖書箇所で多用されているように、主イエスが終わりのときに再び来られることを言われるときにも、「人の子」を使われているのです。例えば二四節です。「稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。」(二四節)。二六節、三〇節もそうです。「ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。」(二六節)。「人の子が現れる日にも、同じことが起こる。」(三〇節)。主イエスは天に挙げられ、地上を去って行かれましたが、終わりのときに再び来られる。このことを再臨とか、来臨と言います。

主イエスが再び来られる再臨はいつなのか。それは私たちには知らされていませんので分かりませんが、そのときは終わりのときです。世界が終わるときであります。世界の終わりはどういうふうになるのか。信仰のことを抜きにしますと、あまり明るい終わり方を考えることはできないと思います。例えば大きな戦争が起こり、世界が破壊をされて世界が終わるという終わり方も考えられるでしょう。大きな災害が起こる終わり方もあります。あるいは環境が破壊されることによって終わりが来るかもしれません。昔の人たちの中には、世界が永遠に続くものだと考えていた人たちもあるようですが、最近の人たちはあまりそのようには思わないでしょう。世界に始まりがあれば、終わりもあると考えています。

これに対し、私たちキリスト者は世界をどう考えているのでしょうか。神が世界を造られたことを信じています。そのことは聖書の最初のところに書かれていますし、使徒信条でも「天地の造り主」を信じています。それでは終わりはどうでしょうか。神が世界を始めて下さったのですから、世界を終わりへと導いてくださいます。その終わりのときには、「人の子」、つまり主イエスが再び来られるわけですが、そのときには裁きがあるのです。

そのことは、本日の聖書箇所の三四節、三五節のところに書かれています。「言っておくが、その夜一つの寝室に二人の男が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。二人の女が一緒に臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。」(三四~三五節)。

お気づきになられた方もあると思いますが、三六節が飛んでいます。その代わりに、十字のようなマークが聖書に付けられています。三六節は、ルカによる福音書の最後のページに書かれています。なぜそうなっているのか。それは、聖書には古い写本がたくさんありますが、写本の間で微妙な違いも多いのです。ある写本では三六節がありますが、別の写本では三六節はない。だからそのことを表して、ここではそうなっているのです。三六節は「畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される」でありますから、三四節、三五節とほとんど同じことが言われているわけです。

三四~三六節でとても興味深いのは、ほとんど同じような生活をしている人たちの裁きの結果が違うということです。同じ寝室で生活をしている二人の者の結果が違うのです。一緒に臼を引いて仕事をしている二人の者の結果が違うのです。畑で仕事をしている二人の者の結果が違うのです。二人がまったく別の生活をしているとか、まったく別の地位にあるとか、そういうことではないのです。ほとんど同じ生活をしている二人なのでしょう。普段はまったく違いが分からないのです。

このことに関して、私がかつて聞いた、こんな話を思い起こしました。ある教会の礼拝に出席している夫婦がいた。その夫婦は礼拝のときに、いつも二人並んで座っていたのだそうです。妻の方は洗礼を受けて、キリスト者になっている。しかし夫の方は洗礼を受けていない。聖餐があるときには、夫は聖餐を受けることができませんから、見た目でもその違いが分かるでしょうけれども、聖餐がなければ、その違いはまったく分からなかったでしょう。

しかしあるとき牧師が、その夫婦に言ったのだそうです。あなたたちは平然と礼拝をしているかもしれないけれども、終わりのときの裁きのときに、その違いがはっきりするのですよ、そう言ったのだそうです。夫の方はその牧師の言葉に最初は反発しました。しかしよく考え直してみた。そして夫も洗礼を受けたのだそうです。

私たちも、終わりの日の裁きのことを、どこか遠くのことのように考えてしまうところがあるかもしれません。終わりがあるということや、裁きがあるということを、あまり深く考えずに、普段の生活をしているかもしれません。

先週、東海教区の総会がありまして、私は一泊で出掛けておりました。教区の総会でも、あるいはこの教会の総会でもそうですが、なされることは、基本的には昨年度の報告と今年度の計画についてです。昨年度の報告をする際に、昨年度は主の再臨がありませんでしたという報告をするようなことはないと思います。あるいは今年度の計画に主の再臨を入れるなどということもしないでしょう。それはそれで無理があるかもしれません。けれども、私たちが毎年同じような歩みを繰り返している中で、主イエスが再び来られる、裁きがあるということを、軽く考えてしまったり、やがて考慮の対象外にしてしまったりするようなことはないでしょうか。

そうなってしまったら、私たちは、今日の聖書の箇所にあるように、ノアの時代の人たちと同じであります。ロトの時代の人たちと同じであります。「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。」(二七節)。「人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。」(二八~二九節)。人々はその日、その時が来るまで、何事もなかったかのように、普通に生活をしていたのです。しかしその日、その時は突然やってきたのです。

終わりのときに、主の再臨とともに、裁きが起こります。先ほど、使徒信条を告白いたしました。「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」とあります。私たちはどちらでしょうか。裁きの結果、生ける者とされるでしょうか。それとも死ねる者とならなければならないのでしょうか。今日の聖書箇所の表現で言えば、連れて行かれる者になるのか、それとも残される者になるのか、どちらでしょうか。もっと根本的なことを言えば、私たちは無罪とされるのか、それとも有罪とされるのか、一体どちらなのでしょうか。

無罪になる人にとっては、終わりの日は待ち遠しい日になるでしょう。無罪が確定するからです。しかし有罪の人にとっては恐ろしい日になるでしょう。あるいは、有罪か無罪か、はっきり分からない場合でも、恐ろしい日であると言わなければならないでしょう。

果たして神は、人の子と言った方がよいかもしれませんが、人の子である主イエスは、私たちのことを無罪にしてくださるでしょうか。主イエスがその裁判の裁判官になります。果たして私たちはこの裁判官を信頼することができるでしょうか。神は信頼に足るお方なのでしょうか。

このことを考えるために、先週のオリーブの会のことをご紹介したいと思います。オリーブの会は毎回、テーマを決めて、そのテーマを学んでいます。先週のテーマは「神の導き、摂理とは何ですか? 運命とは違うのですか?」というテーマでありました。毎回、私が簡単な文章を作って、それをもとに学んでいます。この説教では、その内容を詳しく説明をすることはできませんが、受付のところに用紙がありますから、興味のある方はお読みください。

摂理とは聞き慣れない言葉かもしれません。一体どういう意味か。私たちは、私たちの力では及ばない、何らかの大きな力を感じることがあります。その力が神に由来するのではないと考えた場合、何か運命のような力に翻弄されていると考えることになります。しかしキリスト者はそうは考えません。運命ではなく神の導きと考えるのです。その神の導きのことが摂理であります。

オリーブの会で話題になったのは、この神の摂理に委ねることができるかどうかということであります。あるキリスト者の方は、神の摂理に委ねることができると言いました。たとえ自分の思っていることと違うことが起こったとしても、それは自分に必要な経験を神がさせてくださっていると、前向きに考えるようにしていると言っておられました。しかし洗礼を受けておられないある方は、神の摂理に委ねたいけれども、委ねきることができないと言われていました。

神の摂理に委ねるためには、神を信頼していなければできないことです。神が良いようにしてくださるのか、あるいは良いようにしてくださらないのか、はっきりしなければ信頼することはできないでしょう。これと同じように、神の裁きに身を委ねるというのも、神を信頼していなければできないことです。有罪にされるのか、無罪にされるのか、分からないような状況では、信頼することができません。神は私たちを無罪にしてくださるのでしょうか。神は信頼に足るお方なのでしょうか。

私たちが、あなたはなぜ神を信じているのか、なぜ神を信頼しているのかと問われたら、どう答えるでしょうか。私たちが信じている神とは別に、人の手によって造り出された神々がたくさんいます。たくさんの神々がいるのに、なぜあなたは教会が信じている神を信頼しているのか、どうしてその神が信頼に足ると言えるのか、と問われたらどう答えるでしょうか。

この問いの答えの急所は、本日の聖書箇所の二五節のところです。「しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。」(二五節)。今日の聖書箇所は、人の子が再臨するということが大きなテーマでした。しかしこの二五節の箇所だけは、再臨のことが言われているのではありません。人の子の受難です。つまり、主イエスが十字架にお架かりになることを、ご自分で言われているのです。再臨よりも前に、まず、十字架が起こるのです。

主イエスの十字架の出来事は、金曜日の日に起こりました。その前日の木曜日の夜に、主イエスが逮捕されました。その日の夜のうちに、裁判が始まりました。裁きが行われたのです。翌日の金曜日の朝も、裁判が行われました。そして判決が下されました。十字架での死刑の判決です。主イエスの裁判は、このようにしてあっという間に判決が下されました。裁判の結果は、有罪だったのです。

終わりの日の私たちの裁きの前に、主イエスの裁きが行われました。人の子が、まず、有罪になってくださったのです。私たちの裁判が終わりのときに行われますが、私たちの裁判はすでに終わったに等しいものとなりました。私たちの代わりに、有罪になってくださったお方がいるからです。しかもそのお方が終わりの日の裁きのときの裁判官です。誰もよりも私たちの無罪のことをご存知です。私たちの無罪が、その日に確定するのです。

このことを信じることが、洗礼を受けてキリスト者になるということです。キリスト者は終わりの日に、そのことが起こることを信じています。終わりの日は、裁きの日でありますが、私たちの無罪確定日です。だからこそ、私たちは終わりに日を待つことができるのです。恐ろしい日としてではなく、私たちの無罪が確定する日として、私たちが罪に定められる日ではなく、救いが確定する日として待つことができるのです。神は信頼に足るお方です。神の摂理にも身を委ねることができるのです。

本日はペンテコステ、聖霊降臨日であります。今日の説教の説教題を、「老人は夢を見、若者は幻を見る」としました。これは旧約聖書の箇所としてお読みしたヨエル書にもありましたし、ペトロの説教の中でも語られた言葉です。ペンテコステと言えば、この言葉と言っても過言ではないでしょう。

夢と幻という言葉が出て来ました。夢というのは、私たちが寝ているときに見る夢のことではありません。アメリカのキング牧師が「私には夢がある」(I have a dream)という説教しました。キング牧師の夢は、白人と黒人の子どもたちが差別なく一緒にテーブルにつくことができるということでありました。ヨエル書で言われているのは、これと同じような将来の希望という意味での夢であります。

幻というのも、はっきりしない幻想のようなものではありません。ヨエル書のこの箇所を英語で見ますと、幻という言葉はビジョン(vision)という言葉になっています。ビジョンという言葉は、もう日本語になっていると言ってもよいかもしれません。私が会社に入ったときも、ビジョンという言葉をたくさん耳にしました。「この会社のビジョンは…」というように、これから先のあるべき姿が語られたのです。ヨエル書で言われているのも、先のことです。先が見えることです。しかも明るい光が見えているのです。

キリスト者も、この夢や幻が与えられた者たちです。将来のことを知っている者たちです。世界に終わりがあるということを知っています。終わりに日に、主イエスが再び来てくださることを知っています。裁きがあることを知っています。しかも、私たちの無罪確定日であり、私たちの救いの日であることを知っています。将来のことがはっきりと示されているのであります。だから私たちは、終わりの日を心待ちにすることができるのです。恐れる必要は何もないのです。