松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2012年5月20日(日)
説教題「神の国はあなたがたの間にある」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第17章20節〜21節

ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」

旧約聖書: イザヤ書 第2章1〜5節

ニューヨークの国連本部に、本日、お読みした旧約聖書の箇所の一節が記されているのだそうです。「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」(イザヤ二・四)。

国連と申し上げましたが、正式には国際連合のことであります。第二次世界大戦を経て、一九四六年に国際連合が発足しました。その前には、国際連盟という機関がありました。これも、第一次世界大戦の反省から発足した機関ですけれども、うまく機能しなかった。有力国のアメリカも参加しませんでしたし、日本も満州国をめぐっての対立から、脱退してしまいました。そして第二次世界大戦へと至る。世界を巻き込むひどい戦争でありました。核兵器まで使用されて、終結しました。

国際連合が発足したときは、こんな状況だったわけですが、もう二度とこんなことがあってはならない、誰もがそう思ったでしょう。このイザヤ書第二章四節の言葉が、どういう経緯でニューヨークの国連本部に刻まれたのかは知りませんが、イザヤが見た幻に、多くの人が自分たちの願いを重ね合わせたのだと思います。「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」(イザヤ二・四)。

特に二節のところでは、「終わりの日に」という言葉で始まっています。この終わりの日という言葉がどれほど真剣に受け止められたのかは分かりませんが、いつか来るであろう平和な日々を夢見て、国際連合は発足したのだと思います。今は二度の世界大戦を経て、各国がぼろぼろになってしまったかもしれないけれども、恒久平和がいつの日か実現する。そんな願いだったと思います。

そうなりますと、自然と出て来る問いは、いつ、そのような状態になるのかという問いであります。本日、与えられましたルカによる福音書の問いで言うならば、「神の国はいつ来るのか」(二〇節)ということです。

この問いを発したのは、ファリサイ派の人たちです。ファリサイ派の人たちは、福音書の中でしばしば登場してくる人たちです。何かと主イエスに噛みついてきて、主イエスの足を引っ張り、陥れようとするような人たちです。私たちもどこか悪いイメージを抱いているかもしれません。

ファリサイ派の「ファリサイ」という言葉ですが、諸説あるようですが、分離者という意味があるのだそうです。一体何から分離していたのか。世の中のこと、世俗的なことから分離していたのです。生活を整えて、神の戒めを守ろうとしたのです。食べ物に関する規定も細かく一生懸命守りました。十分の一の献金もきちんと献げました。安息日もきっちりと守りました。世俗には流されず、一生懸命、生活を整えたのです。なぜか。それは、現実社会が神の国からほど遠かったからであります。

当時、イスラエルの国はローマ帝国に支配されていました。ローマ帝国は、何事にもある程度、寛容なところがありまして、イスラエルの人たちが自分たちの神を拝む自由は認められていました。ローマ帝国の兵役も免除されていたようです。しかし、支配されているのですから、自由にならないことも多かった。ポンティオ・ピラトという総督もローマの中央から派遣されていました。ピラトの決定を仰がなければならないことも多かったのでしょう。そしてローマの支配の中で、うまく歩調を合わせてやっていくユダヤ人たちも多かったのです。ファリサイ派の人たちは、我慢のならないことだったでしょう。この世の中は神の国からほど遠いと感じていたのです。

神の国とは言いかえると神の支配ということです。神の支配が及んでいるところが神の国です。ファリサイ派の人たちにとっては、とても現実社会に神の支配が及んでいるとは思えなかった。ローマに支配されている。人々もそれに流されてしまっている。しかしそれではいけない。自分たちは神の国にふさわしい生活をする。その意味では、ファリサイ派の人たちは真剣に主イエスに問うたのです。今は神の国とはほど遠いかもしれないが、一体神の国はいつ来るのか。切実な問いだったのです。

この問いに対する主イエスの答えは、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(二〇~二一節)というものでした。ここにある、あそこにあるというものではない。つまり、場所で言うことができるものではないということです。ファリサイ派の人たちは「神の国はいつ来るのか」(二〇節)と尋ねていますので、主イエスの答えとしては、いつ来るとも言えないというものでした。つまり、時間で言うことができるものでもないということです。

場所でも時間でも言うことができないとすれば、どう理解したらよいのでしょうか。主イエスは「見える形では来ない」(二〇節)と言われています。ある聖書学者がこの箇所を「観察しうるようなさまで到来することはない」と訳しています。

観察という言葉が用いられています。私たちが何かを見るにしても、いろいろな見方があります。外国語の方が、いろいろな見方を表現する言葉が多いかもしれません。例えば英語では、seeとかwatchとかobserveという言葉があります。ここで用いられている元のギリシア語の言葉は、observeという言葉に近いのだそうです。観察するということです。

この元のギリシア語の言葉は、自然科学の分野でも用いられている言葉だそうです。自然科学の世界では、物事を観察することを大切にします。まず、じっと見るのです。自分がそこから一歩身を引いて、物事を捉える。そして一般化していきます。一般的な法則を見つけ出していくのです。例えばニュートンの万有引力なんかもそうでしょう。ニュートンはリンゴの木からリンゴの実が地面に落ちてきたのを観察しました。

なぜリンゴは下に落ちるのか。なぜ左でも右でも上でもないのか。その観察から始まって、二つの物体には互いに引き合う力があるという万有引力の法則を発見したのです。リンゴが落ちるのは重力ですが、要するにこの重力は、地球という大きな物体とリンゴが引き合っているから、下に落ちるのです。ニュートンは、まず客観的に観察することによって、大きな発見に至ったのです。

ファリサイ派の人たちがここでしようとしていたのも、まさにこれと同じです。今は神の支配ではなく、ローマの支配。人々も流されてしまっている。神の支配ではないしるしならばたくさん見つけることができる。しかし神の国がやってきたら、どんなことが観察することができるのか。いつ、どこに、どんなしるしが生じるというのか。こんなふうになったら神の国と言うことができる。こんなときに神の国と言うことができる。ファリサイ派の人たちがしようとしていたのは、まさにこのことです。神の国から一歩身を引くようにして、神の国を確かめるように観察しようとしていたのであります。

主イエスはそのようなファリサイ派の人たちに対して、そうではないと言われます。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(二一節)。この主イエスの言葉は、解釈が最も難しい言葉の一つであると言われています。

昔のこと、昔と言っても一八〇〇年も前の話になりますが、教会のオピニオン・リーダーにテルトゥリアヌスという人がいました。北アフリカのカルタゴという街で活躍した人ですが、この人は、今日のこの箇所を「神の国はあなたがたの内にあるのだ」と理解しました。つまり、私たちの内面の出来事として理解したのです。このように理解したのは、テルトゥリアヌスだけではありません。今から五〇〇年ほど前に、教会を改革した改革者、マルティン・ルターもテルトゥリアヌスと同じように理解しました。神の国は私たちの心の中に、内面の出来事として理解したのです。

しかし、このような理解の仕方は見直されました。なぜか。それはこの言葉の文法的な理解が見直されたということもありますが、何よりも、果たして神の国が私たちの内面的なことにすぎないのかと問われたからです。私たちの心の内の出来事であるならば、私たちの外側のことが軽視されるのです。極端な話、外側のことはどうでもよくってしまうのです。たとえ外側が荒波にもまれていようとも、戦争が起ころうが、災害が起ころうが、事故が発生しようが、外のことは外のこととなってしまいます。それらの外のことから逃げるように、私たちの内側が荒波が立たずに、平穏ならばそれでよし、そこに逃げ込めばよいということになってしまいます。果たして神の国、神の支配はそうなのでしょうか。私たちの内側だけの話で、神の支配は外側には及ばないのでしょうか。

今、皆さまがお開きになっている新共同訳聖書では「あなたがたの間に」と訳されています。「内に」と訳すよりも、ずいぶん理解が変わったことが分かります。他の聖書の翻訳でも「あなたがたのただ中に」という訳もあれば、少し大胆な訳では「あなたがたの現実のど真ん中に」というのもあります。また「あなたがたの手の届くところに」という理解もあります。

あまり細かい議論はするつもりはありません。今ご紹介した訳は、心の中の出来事ではなく、私たちが生きて生活をしているところに、神の国があるという理解です。あるとき主イエスはこう言われました。「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(一一・二〇)。

また、主イエスが七十二人の弟子たちを派遣されるときに、こう言われました。「『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。」(一〇・九)。つまり、主イエスがおられ、主イエスの力がおよび、主イエスによって派遣された者たちの「間に」、神の国がありそうです。どこかのある場所や、ある時間に、神の国があるというのではなさそうです。

ルカによる福音書には、「神の国」という言葉が四〇回くらい出て来ると言われていますが、この福音書を書いたルカは、続編として使徒言行録を書きました。新約聖書の四つの福音書に続いて、使徒言行録があります。主イエスが天に挙げられたところから始まっています。そして弟子たち、使徒たちと呼ばれるようになりますが、使徒たちがいろいろな場所に派遣されて、教会を建てていきます。使徒言行録では、ルカによる福音書ほど「神の国」という言葉は出て来ませんが、要所、要所で「神の国」という言葉が出て来ます。

例えば、使徒言行録の最初にこうあります。「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」(使徒言行録一・三)。主イエスが天に挙げられる直前の話です。十字架にお架かりになり、復活されて、使徒たちと共に四十日を過ごされました。そのときに、使徒たちに語られたのが神の国のことだったのです。主イエスが天に挙げられたのち、使徒たちは各地で神の国を宣べ伝えていきました。

そして使徒言行録の最後に記されているのが、こういう言葉であります。「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」(使徒言行録二八・三〇~三一)。パウロをはじめとして使徒たちは、十字架にお架かりになり、復活された主イエスのことを宣べ伝えました。たくさんの説教が使徒言行録に収められていますが、使徒たちが語ったのは、このことに集約しています。その言葉を聴いて信じた者たちが集まり、教会になっていきました。神の国はそのような形で、人々の間に、いたるところに現れたのであります。

この「あなたがたの間に」ということは、今なお続けられていることです。先々週の月曜日から火曜日にかけて、東京神学大学で研修同窓会というものが開かれ、そこに参加をしてきました。研修同窓会という名称では、あまり何をしてきたのかはお分かりにならないと思いますが、今年の九月に受験する正教師試験の勉強会であります。二〇名の者たちが全国各地から集まりました。二年ぶりに再会をした者たちも多かった。

二〇名のほとんどは同級生です。入学から卒業まで、毎日のように同じクラスで学びました。学生寮に入っている者は、寝食までも共にした者たちもいます。その一緒に学んだ者たちが、卒業と同時に、全国各地の教会へと遣わされていきます。私の学年は、北は北海道、南は四国まで。前後の学年では、九州、沖縄の教会に赴任した者もいます。

私は卒業を迎えて派遣されたときに、弟子たちと同じことが私たちにも起こったと思いました。弟子たちは主イエスの弟子として、毎日を一緒に過ごし、寝食を共にしてきました。しかし主イエスが天に挙げられ、弟子たちが使徒たちとして、遣わされていく。バラバラに各地に派遣されていったのです。私たちの卒業生もこれと同じです。そして同時に、伝道はこのようにしてなされると思わされました。私たちが遣わされることによってなされる。私たちが派遣される派遣先という場所に、神の国が待ち構えているというわけではない。私たちが遣わされ、その地に神を礼拝する者たちが集う。その私たちの間に神の国があるのであります。

このことは、何も伝道者に限った話ではありません。先週の水曜日、木曜日、金曜日と、教会で集会がもたれました。土曜日には納骨の依頼もあり、私は墓地へと出かけていきました。それぞれのところで、来られた方と話をしたり、讃美歌を歌ったり、聖書を読んだり、祈りを献げたりいたしました。また、先週は教会員のある方のご自宅を訪問したり、病室を訪ねたりいたしました。そこでも、話をし、讃美歌を歌い、聖書を読み、祈りをいたしました。その私たちの間に、神の国があるのであります。

私たちはあまりそのことを意識しないかもしれません。私たちが一歩離れて、観察をするように、私たちは今、祈っているから神の国がある、そんなことは考えないかもしれません。しかし神の国が確かに私たちの間にあるのであります。十字架にお架かりになり、死んでお甦りになられた主イエス・キリストが、今このとき私たちと共におられ、支配していてくださるのであります。

主イエスの支配は、使徒言行録にありますように、世界各地に教会が建てられていったことから分かります。教会という建物のところに、神の国があるのではありません。主イエス・キリストが十字架にお架かりになり、復活をされた。そのことを信じる者たちの集いが教会なのです。私たちの教会もその一つです。教会に集まる私たちの間に神の国がある。どこか遠くにでも、いつの日かやってくるのでもない。主イエスがすでにこの世界の支配を始めてくださっている。私たちが神の国を、神の支配を運ぶ者とされているのであります。