松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2012年5月6日(日)
説教題「願いが叶ったら神に感謝しよう」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第17章11節〜19節

イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

旧約聖書: レビ記 第14章1〜9節

教会生活を続けていますと、教会ならではの言葉をいくつか覚えていくことになります。教会の外で耳にすることがなく、教会の中だけで聞かれる言葉がいくつかあると思います。その中の一つに「信仰義認」という言葉があります。信仰による「義認」というわけですが、「義認」の漢字は、正義の義の字に、認めるという漢字を書きます。

信仰義認という言葉は、たとえば信仰に関する書物を開くとそこに書いてあることです。使徒であったパウロはたくさんの手紙を書きました。新約聖書の中に、その多くの手紙が収められています。その手紙の中で読み取ることができることですが、パウロの大切にしていた信仰の考え方は、信仰義認であると、多くの書物は記しています。また、今から五百年ほど前に、ヨーロッパで宗教改革という出来事が起こりました。各地の教会で改革がなされたわけですが、改革者たちが大切にしたのは、信仰義認ということであります。そのことも、信仰の書物の中にたくさん記されています。

このようなことは、少し難しい議論であるとお考えの方もあると思います。確かに、信仰の書物の多くは、少し難しく書かれているようなところがあります。パウロの信仰義認、改革者たちの信仰義認を詳細に理解するとなれば、多少の忍耐や努力が必要になってくるかもしれません。しかし、これは決して遠い話ではないのです。学問的な机上の空論にすぎない話なのではなくて、私たちにとても大切で、私たちの近くにある話なのです。なぜなら、信仰義認は私たちの救いの話だからです。

「義認」という言葉に、ひらがなを補って理解してみましょう。「義と認める」とふりがなを補うことができるかもしれません。しかしこれは多少、間違っていると言わなければなりません。正解は、「義と認められる」であります。私たちが義と認めるのではなく、神が義と認めてくださるからです。私たちからすると、神によって義と認めていただくのです。

義というのは、訓読みにすると「ただしい」と読むことができます。義と認められるということは、神が私たちに「あなたはただしい」と言ってくださることです。もし神が私たちにそう言ってくださるのであれば、私たちは何も恐れる必要はなくなります。たとえ、人間が義と認めてくれなくても、神が義と認めてくださるのですから大丈夫です。たとえ、この世の中でどんなことが起ころうとも、神が義と認めてくださるのですから大丈夫です。私たちが最も必要としていることが、私たちの存在を神によって保証していただくこと、つまり義と認めていただくことなのであります。

本日、私たちに与えられましたルカによる福音書の箇所の最後のところに、こうあります。「あなたの信仰があなたを救った。」(一九節)。主イエスがこのサマリア人に言ってくださった言葉です。この言葉こそ、信仰によって義とされること、信仰義認の言葉であると思います。このサマリア人の中にあった信仰を、主イエスが認めてくださったのです。

「あなたの信仰があなたを救った」という言葉は、ルカによる福音書の中で四回出て来ます。つまり、四人の人が、主イエスから信仰を義と認めていただいたことになります。最初は、「罪深い女」(七・三七)に対してです。この人は香油の入った壺を持ってきて、涙で主イエスの足を濡らして、自分の髪の毛でぬぐい、香油を塗った人です。この女に対して主イエスは「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(七・五〇)と最後に声を掛けてくださいました。

二番目の人は「十二年出血が止まらない女」(八・四三)であります。群衆が主イエスを取り巻いている間、後ろからそっと服の房に触れて癒された人です。主イエスの服の房にさえ触れれば癒されると信じて、そのように行った女です。この女に対して主イエスは「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(八・四八)と言われました。

三番目の人は今日のこのサマリア人です。そして四番目の人は、目の見えない盲人です。そばを通りかかった主イエスに「わたしを憐れんでください」(一八・三八)と叫んだ男です。そばにいた群衆は叱りつけて黙らせようとしましたが、彼は叫び続けました。その結果、主イエスはこう言われました。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」(一八・四二)。盲人だった男は、こうして見えるようになりました。

四人の人物を簡単にご紹介いたしました。いずれも「あなたの信仰があなたを救った」と言われた人たちです。なぜこの四人が義と認められたのでしょうか。いずれの箇所においても、はっきりとした説明はありません。この人のこういうところが立派だったから、主イエスにこう言っていただいたという説明はまったくないのです。もしも説明があったとすれば、私たちはその説明通りに行おうとして、その結果、自分で自分を義とすることになってしまいかねません。私が義であるかどうかは私では判断できず、神に委ねなければなりません。ですから、なぜこの四人が義と認められたのか、その判断も私たちにはつきにくいところがあるのは事実です。

しかし一つ言えることがあると思います。それは、この四人とも、主イエスに対して絶対的な信頼を抱いていたということです。「罪深い女」は人目を顧みず、高価な香油で主イエスの足をぬぐいました。「十二年出血の止まらない女」は主イエスの服の房に触れさえすれば、必ず癒されると信じていました。盲人は人々に制止されながらも、「わたしを憐れんでください」と叫び続けました。たとえ周りからどう言われようとも、主イエスに対する絶対的な信頼を抱いていたのであります。

このサマリア人もそうでありました。自分のこの癒しが主イエスによるものであり、祭司のところに行くよりも、主イエスのところに戻って神を讃美することを最優先に選んだのです。この人もまた、主イエスが出会ってくださり、信仰を認めてくださった一人になりました。

主イエスはこのとき、エルサレムに向けての旅の途中であられました。主イエスのエルサレムに向けての旅はもうすでに始まっています。章節の区分で言いますと、第九章五一節から始まっています。エルサレムに向かう決意を固められ、旅が始まったのです。その旅は、第一九章二七節まで続いていきます。

ルカはこの間で、時々、読者の私たちに思い出させるように、今、主イエスはエルサレムに向かう旅の途上なのだということを記します。今日の聖書箇所の最初のところもそうであります。「イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。」(一一節)。

「サマリアとガリラヤの間」というのは一つ問題になる言葉です。主イエスはエルサレムから北の方角にあるガリラヤ湖周辺から旅を始められました。そしてその南にサマリアがあり、さらに南にエルサレムがあります。単純に行くと、南に下り続ければよかったのです。しかし主イエスがどのような旅の行程を進まれたのかはよく分かりません。今日の聖書箇所において、主イエスがどのくらいまで進まれていたのかも分かりません。細かい話はできませんけれども、「サマリアとガリラヤの間」というのは、地理的に考えますと、少し無理があるのだそうです。主イエスがかなり遠回りをして旅をされたのか、それともこの福音書を書いたルカが、あまりこの辺りの地理に詳しくなく、誤って書いてしまったのではないかと言われることすらあります。

しかしこれが地理的なことを言っているのではないという指摘もあります。今日の話に十人の人が出て来ます。この十人の中には、ユダヤ人とサマリア人が混ざっていたのです。一人だけがサマリア人だったのか、半々だったのかはよく分かりませんが、しかし混ざっていたのです。ユダヤ人とサマリア人が混在している場所という意味で、「サマリアとガリラヤの間」という表現をルカはとったのかもしれません。

ユダヤ人とサマリア人の間柄は、実は親密なものではありませんでした。いわゆる犬猿の仲だったのです。ある歴史が関係してきます。かつてイスラエルの国は北と南に分裂していました。しかし北王国があるときアッシリアという国に滅ぼされてしまいます。北王国の人たちはそれまではユダヤ人たちだったのですが、別の民族の人たちとの同化政策が進められて、純粋なユダヤ人ではなくなってしまいました。ユダヤ人たちは純血であることを重んじますから、南のユダヤ人たちは北の人たちを厭うようになった。それで犬猿の仲になったと言われています。

普通でしたら、ユダヤ人とサマリア人が一緒に住むことはしなかったのです。一緒に住むどころか、話すことさえしなかった。あるとき主イエスがサマリア人の女に話しかけられたとき、サマリア人の女がびっくりしてこのように言っています。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか。」(ヨハネ四・九)。

しかしこの十人はそうも言っていられなかったのです。この十人は重い皮膚病を患っていました。重い皮膚病を患っていると、重い皮膚病を患っていない人には近づくことができません。だからこの十人も、遠く離れて主イエスに大声で声を掛けていたわけですが、この十人は一緒に共同生活をしていたのです。犬猿の仲にもかかわらず、そうせざるを得なかったと言った方がよいかもしれません。

本日、合わせて旧約聖書のレビ記をお読みいたしました。お読みしたのは第一四章の箇所です。ここでは清めの儀式のことに関して書かれています。その前の第一三章のところには、この章は長い章なのですが、様々な重い皮膚病の症状が記されています。重い皮膚病とは言っても、一概に言うことはできなかったのです。重い症状もあれば、軽いものもある。すぐに治るようなものもあれば、一生かかっても治らないようなものもある。この十人はどうやらなかなか治らない重い皮膚病にかかっていたようであります。

それだけに「イエスさま、先生、わたしたちを憐れんでください」(一三節)という叫びは、切実な願いでありました。主イエスはそれに対して、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」(一四節)と、遠くから言われただけでした。この十人は主イエスの指示通りにしました。すぐに癒されたのではありません。祭司たちのところへ向かっている途中で、癒されたことに気付いたのです。

ところが、話はこれだけで終わりませんでした。もしこの話の目的が、主イエスの癒しの力を伝えることだけが目的であれば、ここで終わってもよかったのかもしれません。主イエスが十人を癒された。めでたし、めでたし。主イエスにはその力があるのですね、という形で話が閉じられてもよかったのかもしれません。しかしそうではなくてこの話には続きがあった。続きのところに、この箇所の意味が込められているのです。

十人は「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」(一四節)と言われた後も、集団行動をしていたでしょう。十人がまとまって、祭司のところに向かっていた。ところが、途中から一人だけが集団からはぐれて別行動をしました。この人にとって、どうしてもそうせざるを得なかったのです。「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。」(一五~一六節)。

この人はずいぶんと喜びました。もちろん、他の九人も大いに喜んだと思います。しかしこのサマリア人は、祭司のところに行って、「あなたは清い」と判定してもらって、社会復帰するよりも、まず主イエスのところへ行き、主イエスに感謝する。神に讃美をささげ、神を礼拝することを第一としたのであります。

今日のこの話は、教会の中で大切にされてきた物語であります。教会の礼拝にやってくる者は、この一人のサマリア人の姿と自分の姿を重ね合わせてきたのです。このサマリア人のように、自分も今、教会にやってきている。神を讃美し、礼拝するために来ている。他のどこかへ行ってしまったのではない。他にすべきことならいくらでも挙げることができるでしょう。仕事のこと、家のこと、友人とのこと、いろいろ挙げることができますが、それらのことを優先したのではない。そうではなくて、このサマリア人のように、神を礼拝することを第一として、教会にやってきたのです。

神を信じ、教会にやってくる者は、すでに得難い経験をしていると思います。私が最近読んだある幼児教育の本の中で、こんなことが書いてありました。「こどもが幼児の頃に幸いな経験をした場合、その味わった幸いな経験はいつまでも残る」。例えば、親から愛される。その幸いな経験を幼い頃にしている場合、その経験は忘れることなくいつまでも残り、その後の人生、たとえどんな荒波があったとしても、その幸いな経験が礎になるのだそうです。

その本は、だから幼児の頃にその幸いな体験をさせてやるようにと説いているわけですが、今日の話のサマリア人もまた、その幸いな経験をここで味わっているのであります。この人を含めて確かに十人が癒されました。しかしこの話が癒しで終わっているのではなく、主イエスに感謝し、神を讃美し、礼拝をしている。そして最後に主イエスが「あなたの信仰があなたを救った」と、信仰義認の宣言までしてくださっている。このサマリア人が味わった得難い体験とは救いの体験であります。癒されるということでは終わらなかった。その先の得難い幸いを得た。

ですから、このサマリア人にとって、この幸いな体験は人生の礎になったと思います。重い皮膚病を患っていた頃の消し去りたいような過去も吹き飛んでしまったでありましょう。これから先どのようなことが起ころうとも、この幸いな体験が土台となったのでありましょう。

私が福音書を読むときに、いつも気になりますのは、主イエスと出会った人たちがその後、どうなったかということです。このサマリア人はその後、どのように人生を歩んだのでしょうか。聖書にはそのことは記されていませんから、想像するしかありません。肯定的に考えるならば、その後、この人は神を信じ、洗礼を受けて、教会のメンバーになったでありましょう。もしかしたらルカがいた教会のメンバーだったかもしれません。

このサマリア人はこのとき神を礼拝しましたけれども、その後も神を礼拝することは続けたでしょう。重い皮膚病を患っていた頃は、人に近づくことすらできませんでした。十人でひっそりと生活する以外にはなかったでしょう。礼拝にすら満足に行けなかったと思います。しかしこの病が癒されて、すぐに主イエスのもとに戻ってきました。先ほどまでは主イエスと距離をとって、大声で話さなければならなかったのに、今やこの人は主イエスの足もとにひれ伏しています。大声で神を讃美しています。もはや神を礼拝するのに、何の支障もなくなったのであります。

この人は主イエスに言われました。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(一九節)。この人は礼拝を終えて、自分の生活の場へと遣わされていきました。「あなたの信仰があなたを救った」と主イエスに言っていただいた他の人たちもそうでありました。盲人も見えるようになって、自分の本来あるべき生活の場へと戻ったでしょう。「罪深い女」も「十二年出血が止まらない女」も、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われています。礼拝を終えて、それぞれが自分の生活の場へと送り出されるのです。しかも主イエスによって、信仰によって義と認められて送り出されるのです。神を礼拝し、その礼拝で祝福を受けて、義とされて、派遣されていくのであります。私たちも同じであります。

私たちを義とするために、主イエスはエルサレムへの旅を続けてくださいました。私たちはどう考えても、そのままでは義と認められるわけにはいきません。そのまま判定されてしまうとすれば、私たちには不義という判定が下されてしまうでしょう。そんな私たちを主イエスが憐れんでくださり、私たちの不義を担ってくださいました。不義なる者が、本来ならば受けるべき苦しみを、私たちの代わりにエルサレムで背負ってくださったのです。それが主イエスがエルサレムに向かわれた理由です。それが主イエスが十字架を背負われた理由です。

エルサレムに向かう途上、主イエスはいろいろな人に出会ってくださいました。このサマリア人もそうであります。ああ、この人のためにも、自分は十字架に向かわなければならない。主イエスはそう思われたでしょう。同じように私たちのためにもです。私たちに出会ってくださり、私たちのために、主イエスは十字架を背負ってくださった。私たちを義と認めるためにであります。