松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2012年4月29日(日)
説教題「神の御業は小さなところから始まる」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第17章1節〜10節

イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

旧約聖書: 申命記 第26章5〜9節

本日の礼拝に、たくさんのこどもたちが一緒に出席しています。このことはずっと以前からの願いでありました。こどもの教会でもずいぶん長い間、話し合われてきたことです。そして今日の日を迎えました。教会は神の家族であります。大きな家族です。大きな家族ですから、小さな子供がいるのは当然です。子どもたちが大人になるにつれて、信仰を持ってほしい、信仰を言い表して洗礼を受けてほしい、礼拝者として育ってほしいと願うのは、家族全体としては当然のことであると思います。

その場合、問題となってくるのは、一体、子どもたちがいつから、いわゆる大人の礼拝に出席するのかということです。これは教会によって様々であります。小さな赤ちゃんから出席している教会もあります。小学生から出席している教会もありますし、中学生から、高校生から出席している教会もあります。私たちの松本東教会では、明確なルールを定めてはいません。しかし子どもたちに、早いうちから礼拝に慣れて欲しいと思っています。

私も自身の話をいたしますと、私は高校生から、いわゆる大人の礼拝に出席するようになりました。正直に申し上げますと、きちんとした礼拝者ではありませんでした。礼拝は長いし、何よりも説教が長いし、ひたすら忍耐を強いられる時間でした。それでも礼拝が終わった後の時間を楽しみにして、教会に通い続けました。そうすると、いつの間にか日曜日の午前中に礼拝を守るというのは、身に着いた習慣になっていたのです。やがて大学生になり、社会人になり、教会を離れる理由はいくらでもあったでしょうけれども、日曜日に教会に行くというのは自然なことになっていたのです。

なぜそうなったのか。いろいろな理由が考えられましょうけれども、私が特別に信仰深かったとか、そういうわけではありません。習慣として身に着いていたからであります。それは本当に小さなことの積み重ねだったと思います。毎週毎週、教会に行く、礼拝に出るという、いわば小さなことを積み重ねていく。そういうことが大事なのだと思います。

本日、私たちに与えられましたルカによる福音書の箇所もまた、小さなことが大事であるというメッセージを聴き取ることができると思います。小見出しが付けられています。何度も繰り返し申し上げていることですけれども、私たちが用いております新共同訳聖書は、ブロックごとに小見出しが付けられています。もともと聖書にあったものではありません。便宜上、このブロックにはだいたいどのようなことが書かれているのかを小見出しで表示しているにすぎません。

この箇所の小見出しは「赦し、信仰、奉仕」となっています。小見出しに句読点の「点」が付けられるのは珍しいと思います。小見出しならば、このブロックが表していることをひと言で表現すればよいと思いますが、小見出しを付けた人は「赦し、信仰、奉仕」の三つに分けざるを得ないと判断したのでしょうか。

今日の聖書箇所で主イエスが言われている言葉は、他の福音書にも記されています。ただし、ルカによる福音書のように、すべてが一つにまとめられているわけではなく、バラバラになっています。ルカはそれをここに一つにまとめて記したわけですが、一体なぜルカは一つにまとめて書いたのでしょうか。ルカの意図は何だったのでしょうか。

この聖書箇所は「赦し、信仰、奉仕」とありますように、私たちキリスト者にとって、大事な項目が挙げられている箇所であると言えるかもしれません。ルカが信仰者にとって大事なことを寄せ集めたと理解することもできるでしょう。しかしそれだけでなく、この箇所に一貫して流れているテーマがあると思います。それが小さなことを大切にすることであります。

今日の聖書箇所で主イエスが最初に言われたことは「つまずき」に関してであります。「これら小さな者の一人」(二節)をつまずかせるなと主イエスは言われます。まず考えなければならないのは、「これら小さな者の一人」とは一体誰かということです。

先週、私たちに与えられました箇所は、この一つ前の箇所、金持ちとラザロの譬え話でありました。ラザロは貧しい人で、体中できものだらけで、金持ちの家の門前にいて、食卓からこぼれ落ちて来る食べ物で腹を満たしていた人です。この話の続きと言うことを考えれば、「これら小さな者の一人」とはラザロのことであると考えることができるかもしれません。

しかし、他の福音書を見ると、「これら小さな者の一人」は子どもたちのことであるという文脈の中にあります。当時は、今とは違って、子どもは重んじられることは少なく、むしろ軽んじられていました。しかし主イエスは、「このような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(マタイ一八・五)と言われたのです。そうなると「これら小さな者の一人」は子どもということになります。

あるいは別の福音書では、子どもと並んで、「キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者」(マルコ九・四一)と言われています。キリストの弟子であるあなたに対して、私は取るに足らない水一杯しかあなたに与えてやることはできないけれどもと言い、水を与えてくれる人のことです。

ルカは「これら小さな者の一人」が一体誰なのかは、はっきりとは書いていません。ラザロかもしれませんし、子どもか、他の誰かかもしれません。しかしいずれにせよ、普通ですとあまり重んじられることのないような人を指しています。主イエスは、「これら小さな者の一人」をつまずかせる者は不幸だ、恐ろしい結果になると言われるのです。しかし一方ではそう言われながらも、他方では「つまずきは避けられない」(一節)とも言われる。つまり、私たちはつまずいたり、つまずかせたりすることは避けられないが、それは何と不幸なことか、すべての者が不幸であるかのように言われているのです。

そんな私たちであるからこそ、主イエスは話を続けてくださる。赦しが大事だと言われるのです。信仰者にとって赦しが大事であるということは、何度も繰り返し聞かされていることだと思います。しかし自分を吟味してみると、なかなか赦すことができないと悩むことも多いと思います。

ある説教者が、この箇所の説教の中で、赦しのプロセスが大事だと言っています。相手をなんでもかんでも赦せと命じられているのではなく、赦しに至るまでの過程が大事なのだとこの説教者は言うのです。確かに、主イエスの言葉を一つ一つたどっていくと、そのことが分かると思います。主イエスは罪犯した兄弟がいたら、まずは戒めなさいと言われる。その上で悔い改めたら赦せと言われている。つまり、罪があった場合、戒め、悔い改めというプロセスを経て、赦せと言われているのです。

しかも主イエスは七回も赦せと言われる。これもある説教者が言っていることですが、私たちが寝ている時間を除くと、一日に七回赦すということは、二時間に一回のペースだと言うのです。しかも二時間のうちに戒めと悔い改めの時間もあるわけですから、ひっきりなしに、罪、戒め、悔い改め、赦しを繰り返していることになります。

もちろん、七というのは完全数であって、主イエスは何度も何度も赦しなさいと言われているにすぎないと考えられますけれども、私たちが罪を犯したり犯されたりする頻度を考えますと、一日中、主イエスが言われた通りのことをしていなければならないのではないかとさえ思わされます。これもまた、小さなことの積み重ねなのであります。

このことを聞いていた弟子たちは、主イエスの言葉に厳しさを感じていたかもしれません。自分にはなかなか赦すことができない。そんな思いから、「わたしどもの信仰を増してください」(五節)と弟子たちは言いました。それに対し、主イエスは増してくださるのか、増してくださらないのか、よく分からないような答えをされました。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」(六節)。

からし種が出て来ました。以前、主イエスがからし種に関して語った箇所を思い起こしている方もあるでしょう。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」(一三・一八~一九)。また、この直後で「神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」(一三・二〇~二一)とも言われています。

どちらも似たような譬えですが、からし種一粒は目に見えないほどの小さな種です。あるいは、練り粉全体から比べるとパン種はわずかです。それくらいのごく小さな信仰がであっても、それさえあれば、桑の木が海に根を下ろすと主イエスは言われるのです。他の福音書では桑の木ではなく、山をも動かすとまで言われています。ほんのわずかな信仰といえども、驚くべき大きな力になると言われるのです。

私たちは自分の信仰の少なさを嘆くかもしれません。神を信じる、いや、神を信じたいと言った方がよいような、ほんのわずかの信仰しかないと思うかもしれません。それはからし種のようであり、パン種のようであります。しかし主イエスはそれで十分だと言われる。あなたは信仰を増すことを求めているが、その信仰で十分だと言われるのです。

信仰者が陥りやすい誤りがここにあると思います。自分の信仰を増そうとする。それも弟子たちが「増してください」と主イエスに求めたようにではなく、自分の力で増そうとしてしまうのです。

ファリサイ派と呼ばれる人たちがいました。この人たちは信仰深くあろうとした人たちです。それゆえに、神が与えた律法、戒めを大切にしました。これをしなさい、あれをしてはならない、という掟を忠実に守ろうとしたのです。しかし信仰深くあろうと思い、掟を一所懸命守ろうと思い、いつの間にか、掟に忠実であることだけを考え、神のことを考えなくなってしまった。

ファリサイ派というのはそういう人たちだったわけですが、私たちの姿にも結びつくと思います。自分も信仰者であるからには、こうすべだ、ああすべきではないということを考えているうちに、自分だけの力でそれをやろうとする。自分の力でできなければ、信仰の足りなさを嘆く。それは結局、神の力を信じているのではなく、自分の力でやろうとしているだけなのであります。

それでは、小さなものしか与えられていない場合に、一体どうすればよいのか。主イエスによれば、それを増してくださいと言うのではなく、小さなものであっても、神に委ねるところから始めればよいのです。

洗礼を受けて、キリスト者になるという大きなことも、たいていの場合は小さなところから始まります。洗礼を受けたいという志が与えられるところからが第一歩が始まります。最初の頃は、本当に志だけしかないと思うでありましょう。もっと信仰が増さなくてはならないのではないか、もっと深い信仰がなければならないのではないか、もっと聖書を読まなくてはならないのではないか、もっと祈りをしなくてはならないのではないか、増すことに関して、いろいろな不安が頭をよぎると思います。自分は洗礼を受けるにふさわしいのだろうかと考えます。

しかし何よりも大切なのは、洗礼を受けたいという小さな思いであります。吹けば消えてしまいそうな小さな思いを大切にする。そのようなわずかなものであっても、神が大きくしてくださることを信じる。わずかなからし種が大きな木に成長したように、神の力を信じるのです。ここでも小さなことが大事になってくるのであります。

主イエスが語られた最後の話は、奉仕に関する話です。僕という言葉がありますが、奴隷のことです。奴隷は主人に仕えなければなりません。言われたらその通りにします。主イエスは、主人と奴隷の話を例にして、お語りくださっているのです。

七~一〇節の箇所の中で、前半部分にあたるのが、七~九節までのところです。ここでまず主イエスは私たちを奴隷ではなく主人の立場に立たせて話をされています。あなたに奴隷がいる場合を考えよと言われる。この奴隷は外での仕事をしています。そして日が暮れて一日の労働が終わって家に帰ってくる。けれどもあなたはまだ奴隷を働かせる。今度は夕食の用意をさせ、給仕をさせるのです。

当時は外の仕事と内の仕事は別々の奴隷がしていたようですけれども、この人は一人しか奴隷がいなかったのでしょうか。外も内も一人の奴隷にやらせているのです。奴隷ですから命じられたことはして当然だとあなたは思うかもしれない。感謝することもないかもしれない。主イエスはまずそう言われるのです。

そして今度は、主イエスは私たちを奴隷の立場へと逆転させます。「あなたがたも同じことだ」(一〇節)。神と人間との関係を考えたとき、神は私たちの主人であり、私たちはその僕であります。神から命じられたことを果たしたときに、報いを期待するべきではないということです。むしろ「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」(一〇節)と言うことを求められているのです。

ある人は、この言葉は私たちが死を迎えるときに言うべき言葉であると言っています。墓石に刻むような言葉だと言っている人さえいます。なぜかと言うと、「自分に命じられたことをみな果たしたら」(一〇節)と言われているように、全部を果たしたときの言葉だからです。この僕は自分のことを「取るに足りない僕です」(一〇節)と言っています。しかし無能なのではなく、むしろ全部を果たしたのですから忠実な僕ということになります。その忠実な僕が最後に言うべき言葉が、この言葉なのです。小さなことを忠実に積み重ねてきたからこそ、言うことのできる言葉なのであります。

本日、私たちに与えられた聖書箇所で、主イエスはいろいろなことをお語りになられています。バラバラのことが言われているように思われるかもしれませんけれども、一貫していたのは、小さなことを大切にすることであります。私たちが小さい、弱い、少ない、これしかないと言っているところで、神の力が働き、大きく用いられるのです。

私たちは小ささを嘆く必要はないのです。取るに足らない僕として、本当に取るに足らないような小さなことしかできないかもしれません。しかし自分の力ではなく、神の力を信じる。小さなからし種が大きな木となるように、大きく用いていただくことを信じるのであります。

使徒パウロも、非常に大きな困難を覚えているときに、主イエスの声を聞きました。短い言葉でしたけれども、こういう声であります。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(Ⅱコリント一二・九)。そしてこのようにパウロは文章を続けて綴ります。「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(Ⅱコリント一二・九~一〇)。