松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2012年4月22日(日)
説教題「死の先を考えて生きる」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第16章19節〜31節

「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

旧約聖書: 詩編 第49編10〜21節

本日、私たちに与えられましたルカによる福音書の箇所には、一つの譬え話が記されています。実話ではありません。主イエスがお語りになった譬え話です。「金持ちとラザロ」という小見出しが付けられているように、ある金持ちと貧しい人ラザロの話であります。

話としては単純な話かもしれません。金持ちは生きている間、良いものをもらっていました。上等な服を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていました。ラザロは生きている間、悪いものをもらっていました。お金もなければ、体中、できものだらけでありました。金持ちの門前で、食卓からこぼれ落ちてくるもので腹を満たしていたような人です。

ところが、二人が死んだ後、立場が逆転します。金持ちは、地獄と言い換えてもよいような場所、陰府(よみ)に行くことになりました。ラザロは天使たちによって宴席に連れて行かれました。いわば天国に行ったのです。主イエスの話は後半部分に続くのですが、簡単に言ってしまえば、そんな話であります。

どこにでもあるような話かもしれません。聖書を読まなくても、同じような話には出くわすものです。私たちもどこかで似たような話を聞いたことがあると思います。善いことをしないと死後、地獄に堕ちるだとか、たとえ貧しかったとしても、善いことをすれば報いがあって、死後、天国に行けるだとか、その類の話です。

実際、聖書学者の中には、同じような話がエジプトやその他の地域でも語られていたことを指摘しています。いろいろなところで同じようなことが語られ、主イエスもその話を知っておられて、その話をここで用いておられるというように考えることができるかもしれません。なるほど、そうかもしれません。しかし主イエスはここで、どこにでもあるような、善いことをすれば天国に行け、悪いことをすると地獄に堕ちるというような教訓話をされているのでしょうか。

この譬え話を丁寧に読んでいくと、決してそうではないということに気が付くと思います。主イエスはどこにでもあるような教訓話をされているのではないのです。

金持ちが出て来ます。金持ちの一体どこがまずくて、陰府に行くことになってしまったのでしょうか。最初の一九節にこうあります。「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。」(一九節)。たしかにこの節が言いますように、金持ちは上等な服を着て、贅沢三昧の暮らしをしていました。そのような暮らしぶりが陰府に行くことになってしまったのでしょうか。

しかしこの金持ちにもなかなか感心なところがあると思います。この金持ちの家の門前には、ラザロがいたのです。少し想像していただきたいのですが、もし皆様の家の前に、ラザロのような人がいたとしたらどうでしょうか。皆様の家庭の食卓からこぼれ落ちて来る食べ物を求めて待っているのです。体にはできものだらけ。そのような人が門のところで横たわっているのです。この金持ちはラザロを排除することはありませんでした。家の前にいることを許したのです。食卓からのおこぼれに与らせることも許したのです。この金持ちはラザロの存在も知っていましたし、名前さえ知っていました。

さらに言えることは、ラザロは金持ちの家の門前に「横たわり」(二〇節)と記されていますが、これは文法的には受け身の形です。ラザロは横たえられていたのです。つまり、ラザロは自分では動くことができずに、誰かがラザロをこの場所に連れて来てくれた。想像の範囲を超えませんが、金持ちがラザロを横たえたのだと考える人もいるくらいです。

もう一つさらに付け加えるとすれば、死んだ後、陰府に行ってから、五人の兄弟たちの執り成しをしています。自分は陰府でこんなに苦しんでいるが、私の兄弟たちには同じ目に遭わせたくない。おそらくこの金持ちは兄だったのだと思いますが、自分の弟たちのことを考えてくれる、陰府に行って当然というような悪い人どころか、なかなか感心な男なのであります。

同じことはラザロに対しても言えます。ラザロは天国に連れて行かれました。ラザロが天国に行けるような優れたところがあったでしょうか。ラザロは悪いものをもらっていました。貧しい人でありました。体にできものがありました。食卓からこぼれ落ちる食べ物で腹を満たしていました。犬もやってきて、できものをなめていました。ただそれだけです。主イエスはただそれだけのことをお語りになった。ラザロが貧しいながらも神を見上げて、悲観せずに生きたとか、清い生活を送ったとか、そのようなことは一切語られていません。金持ちが陰府に行かなければならないような理由もはっきりと記されていなければ、ラザロもまた天国に行くことができるような理由もまったく記されていないのです。

ここに、一般的な教訓話との違いを見出せると思います。世界のどこにでもあるような教訓話であれば、善いことをすれば天国に行ける、悪いことをすれば地獄に堕ちる。だから悪いことをせずに、善いことをしましょう、というメッセージで話は終わると思います。しかし主イエスはそのようなことを一切、お語りになっておられないのです。

一般的な教訓話であれば、私たちがどのように生きればよいのか、その基準は明らかです。私たちは悪い行いを捨て去り、善い行いをする以外にはない。その基準ははっきりとしています。しかし主イエスがなさった話の場合、どうもよく基準が分からないのです。死の先を見据えて、私たちはどう生きればよいのでしょうか。

この譬え話で問題になっていることの一つは、富の問題、つまり金の問題であると思います。少し前のところに「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(一六・一三)と主イエスは言われています。その言葉に対し、「金に執着するファリサイ派の人々が…イエスをあざ笑った」(一六・一四)のです。その文脈の中に、この譬え話は置かれています。金持ちは富を持っていた。ラザロは持っていなかった。金持ちはただお金を持っていたから陰府に行かねばならなかったのでしょうか。ラザロは貧しかったから天国に行くことができたのでしょうか。そうだとすれば、一体どのくらいの財産までが許されるのでしょうか。いろいろな問いが出てきて、おかしな方向に膨らんでしまいます。

この譬え話を聴く私たちは、一体どちらの側に自分の身を置いて聴くでしょうか。日本人は経済的に豊かであります。最近は経済が低迷していますが、それでも世界の中で見れば、それなりの経済力を誇っています。私は以前、タイに四年間、住んでいたことがあります。普通の日本人がタイに行くと、日本の経済力ゆえにタイの中では豊かな生活をすることができます。

私が住んでいたマンションも、タイの中では高級マンションの部類に入ったと思います。そのマンションのすぐ隣に、トタン板で作ったようなバラックの建物がありました。地方からバンコクに出稼ぎに出て来た労働者たちの住まいです。今でもそうかもしれませんが、バンコクでは次々とビルが建てられていく建設ラッシュの最中にありました。そういう建設現場で働く労働者が多かったのですが、たいていの場合は、私のマンションのすぐ隣にあったような建物に住むことになります。高級マンションが建っているかと思えば、そのすぐ隣にバラックの建物がある。まさに、金持ちとラザロの構図がそっくりそのままあるという感じなのです。

日本人はバラック小屋ではなく高級マンションに住んでいる。そうなると、ラザロの立場ではなく、金持ちの立場でこの譬え話を聴かなければなりません。金持ちの死後は、陰府が待っています。陰府に行くことを回避するためにはどうすればよいでしょうか。貧しい人のことを考えて、お金を献げればよいでしょうか。そのようにして献金を集め、貧しい人のために送金をすればよいでしょうか。金額が足りないと言われるかもしれません。そうすれば、財産の半分を寄付すればよいでしょうか。全財産を寄付すればよいでしょうか。そうすれば、天国が保証されるというのでしょうか。残念ながら、この譬え話はその保証はしてくれません。私たちは何を基準にして、生きていけばよいのでしょうか。

ある説教者が、この問いを解くための鍵があると言っています。それは「ラザロ」という名前だと言っているのです。説教の冒頭でも申し上げた通り、これは譬え話です。譬え話であるならば、別に名前は必要ないと思います。「あるところに金持ちがいて、貧乏人もいた…」という形で譬え話を語れば、それで話は済むと思います。

ところが、主イエスは貧しい人だけには「ラザロ」という名前を与えました。ラザロという名前は、「神は助け」という意味があるのです。この説教者は、この名前の意味に、この問いを解くための糸口があると言うのです。ラザロは天国に行けた。なぜか。それは、ラザロの名前が表しているように、ただ神が助けて下さったからなのであります。

金持ちはなぜ陰府に行かなければならなかったのか。先ほど、金持ちはなかなか感心なところがあるという話をいたしました。陰府に自分が行って、自分が助からないと分かると、せめて自分の兄弟たちがここに来ることのないようにと執り成しをしました。そのときに、この金持ちはこう行っています。「いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。」(三〇節)。

この金持ちはここで「悔い改める」という言葉を使っています。自分もそうだったのでしょうけれども、兄弟たちも悔い改めていないということをよく知っていたのです。悔い改めるとは、元来、向きを変えるという意味があります。今までは神の方など向いていなかったのに、神の方を向くことが悔い改めるということです。神の助けなど要らないと言って、神の方を向いていなかったのが、神の助けを求めるようにして、神の方を向くのであります。

つまり、ラザロの名前が表すように、ただ神が助けて下さったのか、それとも金持ちゆえに神に頼らず金に頼ってしまったのか、これが違いなのであります。この譬え話を、ラザロという名前の意味をもとに解いていくと、新しい味を帯びて聴くことができる譬え話になるのであります。

さらにもう一つ新しい味を付け加えて、説教を終えたいと思います。この話にはアブラハムが出て来ます。先週一週間、私がずっと考えてきたことですが、なぜアブラハムなのだろうかということです。天国での食卓です。神が出て来られてもよさそうなものです。なぜ神の代わりにアブラハムが登場するのか。なぜ神が出て来られないのか。そのことを問うてきました。

もちろん、アブラハムが登場する理由はある程度、説明はできます。アブラハムはイスラエル民族の出発点となった人です。すべての人にとっての父であります。そのアブラハムならば、必ず天国にいるはずだと人々は考えていたのです。だから天国の絵が描かれたり、彫刻が彫られるときには、アブラハムが登場することがあります。

特に今日の聖書箇所の二二節のところに「アブラハムのすぐそばに」という言葉がありますが、新共同訳聖書以外の聖書のほとんどは「アブラハムのふところ」という訳になっています。ふところというのは、人が座った時に生じる膝の上から胸にかけての位置を意味するのだそうです。天国の席でアブラハムの懐に抱かれるイメージというのが、人々の間で一般的だったのでしょう。だからこの箇所でも主イエスがアブラハムを元にして語っておられるのかもしれません。

アブラハムが言うには、天国と陰府との間インは「大きな淵」(二六節)があるということです。隔てられていて、行き来することができず、自分ではどうしようもないというのであります。さらに、最後の三一節のところでは「たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」(三一節)と言っています。たとえ天国にいるラザロが生き返って、兄弟たちのところに行って、悔い改めを求めたところで、駄目であろうと言うのであります。アブラハムの限界と言わざるを得ないような発言です。

もしこれがアブラハムではなく神であったとしたら、その発言内容が変わるでしょうか。神はご自分の独り子である主イエス・キリストを私たちのところにお遣わしくださいました。ラザロの名前のように、ただ神の助けを求めて生きることができず、陰府に直行せざるを得なかった私たちのために、十字架にお架かりになってくださった。

先ほど、私たちは使徒信条を告白いたしましたけれども、私たちは主イエスが十字架にお架かりになり、陰府に降り、三日目に死者の中から復活されたことを信じています。主イエスは陰府にまで降ってくださったのです。陰府と天国の間の淵を破るようにして、陰府から戻って来られ、復活してくださいました。もはや神の救いの力が及ばない場所はどこにもなくなったのであります。

このようにして、主イエスがお語りになってくださったこの譬え話は、まったく新しい味が加わったのです。天国か地獄かというような教訓話ではなくなりました。陰府の淵もなくなり、陰府を乗り越える話として、主イエスはお語りになってくださったのです。このお方が陰府ではなく、天国の宴席へと私たちを導いてくださる救い主なのであります。