松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2012年4月15日(日)
説教題「神に尊ばれる人になろう」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第16章14節〜18節

金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。 そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。 しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。 妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる。」

旧約聖書: エレミヤ書 第17章9〜10節

教会では日曜日の礼拝を大切にしていますが、ときどき、結婚式があります。結婚式も神の御前で行われる礼拝です。二人の男女が一つに結び合されるわけですが、教会の結婚式は礼拝として整えられています。しかし、ただ結婚式を行うだけではなくて、たいていの教会では、結婚前にこれから結婚生活を始める男女に対して、結婚のための学びを行います。

結婚のための学びでは、いろいろなことを学びます。結婚式を何のために行うのか、ということに始まり、結婚生活をどのように築いていったらよいのかということも大切なことです。しかし細かいことを学んでいくというよりは、もっと根本的なことを学びます。例えば、聖書の中に結婚の話も記されていますが、こんな言葉があります。「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」(エフェソ五・二一)。

今までは違う生活をしていた男女が結び合されて一つの生活をするわけですから、当然のことながら、いろいろな問題が生じるでしょう。そのときに、自分のやり方や考えを押し通すのではない。お互いが下に立つようにして、仕え合うことを覚えなければなりません。仕えることだけではなく、愛するとはどういうことか。相手を赦すとはどういうことか。そのような根本的なことを学んでいくことになります。

確かに結婚生活をうまく送るためには、根本的なことが大事だと思います。細かい規則で結婚生活を成り立たせようと思っても、それはおそらくうまくいかないでしょう。例えば、妻が不機嫌になったとき、夫はしばらくの間、しばらくの間、話しかけないこと、というような規則があったらどうでしょうか。あるいは、夫の務めは、第一にこれをすること、第二にそれをすること、第三にあれをしないこと、などというように細かな規則を定めたとしたらどうでしょうか。もし妻に文句を言われたら、規則を盾にして、自分は細かい規則をきちんと守っている、だから正当な夫だ、と主張する。こんな主張をされた妻はどう思うでしょうか。これでは結婚生活がうまくいかないのは明らかであります。こういうやり方は「力ずくで」結婚生活をうまくいかせようとしていると言えるかもしれません。

本日、私たちに与えられたルカによる福音書の箇所には、こんな言葉があります。「それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力づくでそこに入ろうとしている。」(一六節)。ここでは言われているのは、神の国に入るために力を使うこと、それも強引な力を使うことであります。細かい規則によって自分を正当化するような、強引な手法のことです。

あるいは、今日の聖書箇所にある別の表現を用いることもできるでしょう。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかす」(一四節)。「自分の正しさを見せびらかす」というのは、自分を義とすることです。自分で自分を正しいとする。つまり自己正当化することです。

私たちが自分自身を正当だと主張するために、どんな方法が考えられるでしょうか。いくつかの方法が考えられると思います。例えば、自分が正当な人になるために、自分以外の不当な人を作り出すという方法があります。今日の聖書箇所の最初のところに、ファリサイ派の人たちが出て来ました。この人たちは主イエスの話を聞いて、「あざ笑った」(一四節)とあります。あざ笑うというのは、人を見下した笑い方です。つまり、ファリサイ派の人たちは主イエスを見下して、自分より下だと見たのです。ずいぶんおかしなことを言いだす者だ。それに比べて自分たちは賢い。自分たちが正当だとしたのです。不当な人、自分より下の人を作り出すというのが、自分を正当化するための一つの方法です。

その他にも別の方法が考えられます。例えば、先ほどの結婚生活のように、いくつかの規則を作って、その規則によって、自分を正当化する方法も考えられます。形の上だけでも規則を守っていれば、自分は規則からは逸脱していない、正当化だと主張することができます。

こういうような自己正当化の手法は、問題ないと言えば問題ないと言えるかもしれませんが、どこか府に落ちないところがあると思います。本当にこれが正しいことだろうかと思わされます。しかし主イエスは、私たち人間の病の根っこであると見ておられます。問題がないどころか、大いに問題があると見ておられるのです。

今日の聖書箇所の最後のところにこうあります。「妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる。」(一八節)。今日の説教の冒頭を結婚の話で始めたのも、この箇所があったからでありますが、どこかこの一八節が唐突に出て来た感じがします。なぜここに離縁の話がいきなり出て来ているのか。

ファリサイ派の人たちは、律法という様々な規則を作って、自己正当化しようとしていた人たちです。離婚をする場合もそうでした。離婚をするためには、不当に離婚したのでは困るのです。誰からも文句を言われないようにしなければならないと考えたのでしょう。ルカによる福音書には書かれていませんが、マタイによる福音書に同じようなことが書かれています。しかしさらに具体的です。「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」(マタイ五・三一~三二)。

離縁をするとき、自分を正当化するために、離縁状をきちんと渡せばよいという規則が定められていたようです。しかし主イエスはこれに反対されました。なぜかと言うと、本来ならば不当なことをしているはずなのに、規則によって正当化するようなことをしているからです。

本日、合わせて旧約聖書のエレミヤ書をお読みしました。エレミヤというのは預言者です。今日のルカによる福音書の箇所にも、預言者という言葉がありましたが、預言者の務めは、神からの言葉を預かって、それを人々に伝える役目をした人です。エレミヤもその一人でした。

このエレミヤ書の箇所に、こうありました。「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。」(エレミヤ一七・九)。この聖書の言葉によると、私たちの心は病んでいると見ているのです。それもとらえ難く病んでいます。一体どんなところが病んでいるのか。いろいろな言い方ができるでしょうけれども、今日の説教でここまでに話してきたように、本来ならば不当なことを正当化してしまうようなところも、とらえ難く病んでいると言うことができるでしょう。主イエスは病の根っこがそこにあると見ているのです。

エレミヤ書の言葉はまだ続きます。「心を探り、そのはらわたを究めるのは、主なるわたしである。それぞれの道、業の結ぶ実に従って報いる。」(エレミヤ一七・一〇)。主なる神が言われているように、正当なのか不当なのかをお決めになるのは、神であります。それなのに、人間がまるで神になったかのように、正当、不当を決めてしまう。自分が正しさの基準を持ってしまう。こういうところが病んでいるのです。

そしてさらにこの病みは、神の国に入ることまでも判定してしまうのです。自分はこれらの規則を守っているから正当であり、それゆえ神の国に入れる。あの人たちは規則を守っていないから不当であり、それゆえに神の国に入れない。まるで神がおられないかのように、人間の側でその判断を下してしまう。だからこそ、誰もが自分を正当化しようとする。人間の力で、それも力づくで神の国を勝ち取ろうとする。このことこそ、主イエスが問題視されていることなのであります。

ルカによる福音書では「神の国」という言葉がたくさん出て来ます。別の福音書であるマタイによる福音書では、神の国ではなく「天の国」となっています。意味としてはまったく同じであります。つまり、神の国に入るということは、天国に入ることであります。天国に入るための方法を、人は模索してきたということです。「だれもが力ずくでそこに入ろうとしている」(一六節)と主イエスは言われましたが、主イエスの言葉によりますと、天国に入るための方法が変わったのであります。

一六節にこうあります。「律法と預言者は、ヨハネの時までである。」(一六節)。ヨハネというのは、人々に洗礼を授けていた洗礼者ヨハネとも呼ばれる人のことです。この人は主イエスよりもほんの少しだけ先に生まれ、主イエスのための道備えをした人と言われています。ヨハネも預言者の一人です。その預言者が「ヨハネの時までである」と主イエスが言われる。つまり預言者の働きをしたのは、ヨハネが最後であるということになります。

律法も同様に考えることができます。旧約聖書の特に最初の方を読みますと、様々な規定が書かれています。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。いろいろな規定がありますが、これらを律法と言います。この律法も「ヨハネの時までである」と主イエスは言われます。

律法と預言者というのは旧約聖書全体であるとも言えます。旧約聖書の今までの時代では、律法を守ることによって、また預言者の言葉を聴くことによって、神の国に至るという方法でありました。しかしとらえ難く病んでいる私たちにとってはどうなるでしょうか。この方法で神の国に至ることができたでしょうか。残念ながら、私たちはこの方法では神の国に至ることができなかったのです。自分を正当化するために、律法を用いてしまうような私たちです。イスラエルの民は、預言者の言葉にほとんど耳を傾けずに、せっかく神が遣わしてくださった預言者を亡き者にしてしまうということすらありました。

従来の方法では、私たちがとらえ難く病んでいるがゆえに、誰も神の国、つまり天国に至ることができなかったのです。そこで、新しい方法が神から与えられました。それが、イエス・キリストによる新しい方法なのです。イエス・キリストが来られることによって、まったく違う天国への道が開かれたのです。

そこで考えたいのは、「だれもが力ずくでそこに入ろうとしている」(一六節)という一六節の言葉です。力ずくで入るためには、ある程度の力が必要です。神の国に入るならば、かなりの力が必要でしょう。しかし私たちにはその力はありません。そこで、この話を私たち人間の側の話ではなく、神の側の話と考える。ある新約聖書の学者が、この箇所を「誰もが激しく招かれている」と訳しました。私たちの力ずくではなく、神の招きが力ずくであると言うのです。

確かにこのことは他の聖書箇所からも確認できます。ルカによる福音書第一四章一五節以下に、大宴会の譬えが記されています。主イエスがお語りになった譬え話です。この譬え話は、以前も説教で聴きましたけれども、ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を予め、招いておいたけれども、宴会の当日になって、次々に断られてしまいました。そこで主人は怒って、町の広場や路地にいた「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」(一四・二一)を連れてきます。それでもまだ席が余っていたので、通りや小道にいた人たちを「無理にでも」(一四・二三)連れて来て、宴会の席をいっぱいにしました。神の力ずくです。こう考えますと、「誰もが激しく招かれている」と訳すことができると思います。

先ほど、エレミヤ書の箇所に触れました。本日、聖書朗読をした箇所ではありませんが、直後の箇所にこうあります。「主よ、あなたがいやしてくださるなら、わたしはいやされます。あなたが救ってくださるなら、わたしは救われます。」(エレミヤ一七・一四)。この言葉を、今日の文脈に沿って言い換えるならば、こうなるでしょう。「主よ、あなたが招いてくださるなら、わたしは招きにお応えできます。あなたが神の国に入れてくださるなら、わたしは入れます」。

神がこのようにしてくださったのですから、私たちの神の国への入り方が変わりました。神の国を力ずくで奪い取る必要はなくなったのです。神の国にお招きくださる。入れてくださる。入り方が変わったのです。それゆえに、私たちの生き方も変えられるのです。もはや自己正当化する必要はなくなりました。自分より下の人たちを作り出す必要もない。規則を守っていることをアピールする必要もない。私たちがすべきことは、ただこの招きを受け入れることであります。

この招きを受け入れますとき、律法の意味もまた変わってきます。一七節にこうあります。「しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。」(一七節)。主イエスが来られたからと言って、律法が消えてなくなるわけではありません。天地がなくならない限り、律法もまた存続するのです。ただ、私たちが自己正当化するための律法ではなくなります。律法を本当の意味を持つものとなるのです。律法の根本精神は、神を愛し、隣人を自分のように愛することです。私たちが愛するためには、まず私たちが愛を知らなければなりません。私たちが知るのは、神が私たちを神の国へと招いてくださる愛です。そのようにして愛を知ります。愛を知った私たちはその時、初めて、愛することができるようになるのです。

私たちが神の国へ招かれるために、主イエスは十字架にお架かりになってくださいました。神の国に入るにふさわしくなかった私たちであります。何よりも、神の国に力ずくで入ろうとしても、その力を持ち合わせていなかった私たちであります。そんな私たちのために、神の独り子が私たちの罪を背負い、十字架にお架かりになられた。私たちはこのお方によって救われたのです。救われた私たちに招待状が準備されています。主イエスはこの招待状を携えて、激しく招いてくださるお方です。この招待状にお応えをする人こそ、神に尊ばれる人なのであります。自分の力で力ずくに入るのではない。神のお招きにお応えすることが、神の国に入れていただく第一歩なのであります。