松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2012年4月1日(日)
説教題「小さなことに忠実な者は大きなことにも忠実である」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第16章1節〜13節

イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

旧約聖書: 申命記 第6章16〜25節

受難週を迎えました。主イエスがご受難をされた、つまり十字架にお架かりになった週であります。信仰者にとって、最も大切な一週間が始まったと言っても過言ではないと思います。私たちの救いのための決定的な出来事が、この週になされたからです。

今朝、皆さまに受難週の祈りをお配りいたしました。月曜日から土曜日まで、聖書の言葉と共に、祈りの言葉が印刷されたものです。受難週のふさわしい過ごし方は、主イエスの十字架の歩みを想い起こしつつ、祈りをもって過ごすことであると思います。

主イエスの十字架の一週間の歩みがどのような歩みであったのかは、マルコによる福音書によってたどることができます。月曜日には何をされて、火曜日にはどんなことをお語りになり、水曜日には裏切りが企てられ、木曜日に弟子たちと食事をされて、金曜日に十字架にお架かりになったことを、順を追ってたどっていくことができるのです。お配りした祈りも、主イエスの曜日毎の歩みに基づいています。つまり、主イエスの十字架の一週間と同じ歩みをたどりながら、祈ることができるものになっています。

先週、私はこの説教の準備とともに、皆さまにお配りした受難週の祈りの準備もしていたわけですが、一方で主イエスの歩みをたどりながら、他方でどうしても気になってしまったのは、主イエスの弟子たちの歩みであります。この週に至るまで、弟子たちは主イエスに従い続けていました。困難なこともあったでしょう。それでも弟子たちは主イエスに従っていたのです。ところが、この一週間はそうではありませんでした。この一週間が分かれ目となってしまい、弟子たちの全員が脱落してしまったのです。一体なぜ弟子たちは主イエスについていくことができなくなってしまったのでしょうか。

主イエスを裏切った張本人はユダであります。ルカによる福音書の記述によると、この週の最中、「ユダの中に、サタンが入った」(二二・三)と記されています。ユダは祭司長たちのところに行き、どのように主イエスを引き渡すのか、相談を持ちかけました。その相談の結果、ユダに金を渡すことが決められました。そうすると「ユダは承諾して」(二二・六)、主イエスを引き渡すのに良い機会をねらうようになったのであります。ユダはこのように富に仕えるようにして、脱落してしまいました。

ユダの脱落の仕方とは違いますが、他の弟子たちもやはり脱落してしまったのは同じであります。弟子たちの中にペトロという人物がいましたが、ペトロはあるとき主イエスにこのように言いました。「このとおり、わたしたちは自分の持ち物を捨ててあなたに従って参りました。」(一八・二八)。ペトロのこの言葉はもっともなところがあります。ペトロは主イエスの弟子になる前は漁師でした。ガリラヤ湖という湖で漁をして生計を立てていたごく普通の人でしたが、主イエスから「今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」(五・一〇)と言われて弟子になりました。そのときの聖書の記述によれば「すべてを捨ててイエスに従った。」(五・一一)と記されています。ペトロももちろんそのような思いがあったと思います。

ところが、すべてを捨てて従っていたはずのペトロでしたが、やはりこの受難週に、主イエスの弟子であることをやめてしまいました。主イエスがユダの裏切りによって捕まった後に、ペトロはこっそりと主イエスの後について行きましたが、主イエスの仲間であることを問い詰められると、主イエスのことを知らないとはっきりと否定してしまったのです。ペトロに代表されますように、他の弟子たちもこの週のうちに、主イエスの弟子から脱落してしまったのです。

今日、私たちに与えられましたルカによる福音書の箇所は、そんな弟子たちに対して語られた話であります。先週まで、私たちはルカによる福音書第一五章から御言葉を聴き続けてまいりました。この章には主イエスがお語りになられた三つの譬え話がありました。主イエスが三つの譬え話を、続けて一気に語って下さったのですが、これらの譬え話が誰に向かって語られたのかと言うと、第一五章の最初のところにこのようにあります。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。」(一五・一~三)。この記述から明らかなように、主イエスは三つの譬え話を、ファリサイ派や律法学者の人たちにお語りになられたのです。

弟子たちも、三つの譬え話を横で聴いていたと思います。弟子たちはどんな様子で聴いていたのだろうかと思います。感動を覚えていた弟子たちもいたかもしれません。しかし中には、この話はファリサイ派や律法学者向けの話なのだから、自分にはあまり関係がないと思っていた弟子たちもいたかもしれない。主イエスが自分たち弟子には背を向けて、ファリサイ派や律法学者たちの方を向いて、話をされている。そうかと思ったら、主イエスが突然後ろを振り向いて、あなたがたにも聴いてもらいたい話があるというようにして、今日の話が語られたのであります。

弟子たちは受難週の一週間で脱落してしまいましたが、主イエスはすでにこのとき、弟子たちの中に、そのような気配があることを感じ取っておられたかもしれません。なぜなら、今日の聖書箇所の最後のところで、主イエスがこのように言われているからです。「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(一三節)。

「一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。」(一三節)と言われているように、二人の主人に仕えることはできないのです。ところが、弟子たちは二人の主人に仕えているようなところがありました。弟子たちは「すべてを捨ててイエスに従った」(五・一一)はずでありました。ところが、主イエスという主人に一本化できていなかった。だからユダの裏切りも起こってしまいましたし、ペトロをはじめとする弟子たちも主イエスを見捨てて逃げてしまったのです。主人を一本化することができず、どちらも中途半端に仕えてしまっているという問題点を、主イエスが見抜かれて、この話をなさったのであります。

ルカによる福音書ではこの箇所に限らず、富の問題が多く出て来ると言われています。弟子たちと同じように、神に一本化することができず、中途半端な信仰者がルカの周りに多かったのかもしれません。それは私たちの問題でもあります。

それにしても、なぜ富が問題になってしまうのでしょうか。私たちも富がよく問題を起こすことは知っています。特にここで主イエスが「不正にまみれた富」(九節、一一節)と言われていることに注目したいと思います。不正にまみれた富と言うからには、不正にまみれていない富、正当な富がありそうな感じもします。

けれども、主イエスはここでそういう分類の仕方はされていません。考えてみると、それもそのはずだと思います。正当な富と言われてすぐに思い浮かぶのは、自分が一生懸命働いて、もちろん不正などはせずに得た収入のようなものが考えられるでしょう。けれども、最初にこれが不正な富ではなかったとしても、いつの間にか不正の臭いがこびりついてしまうことがあるものです。

同じルカによる福音書から例を挙げて考えてみますと、第一六章に「金持ちとラザロ」という譬え話があります。ある金持ちが贅沢な暮らしをしていましたが、その家の門前にラザロという貧しい人がいました。やがてラザロも金持ちも死にましたけれども、死後の世界では、金持ちとラザロの立場が逆転していたという話です。

数週間後に、この箇所から御言葉を聴く機会がありますから、今日はあまり深入りしませんけれども、金持ちが持っていた金がどのような金かは分かりませんけれども、不正な富というわけではなかったでしょう。けれども、家の門前には貧しいラザロがいたのです。ラザロのために富を使うチャンスはいくらでもあったはずです。「不正にまみれた富で友達を作りなさい」(九節)と主イエスは言われていますが、金持ちにとって、そのような道はなかったのでしょうか。

第一九章には徴税人ザアカイの話があります。この人は徴税人の頭でありました。当時の徴税人は、必要以上の税金を取り立てて私腹を肥やしているような人たちで、ザアカイはその頭でありましたから、まさに不正な富にまみれていたような人でありました。ところが主イエスと出会い、自分の罪を悔い改めて、このように言います。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」(一九・八)。不正にまみれた富から、不正の臭いが消えていきます。ザアカイは、今度はいわば友達を作るためにと言ってもよいかもしれませんが、そのように富を用いるようになったのです。

その他にも、たくさんの例を挙げることができると思います。先週、先々週と耳を傾けました放蕩息子の譬え話の中に出て来る、放蕩の限りを尽くした弟息子もそうでしょう。正当な財産の分け前をもらっておきながら、自分のためだけにそれを使い尽くしてしまった。弟息子は不正な管理人とは違い、もともとは正当なお金だったかもしれませんが、友達を一人も作らなかったのです。

このように考えますと、このお金が正当な富、あのお金が不正にまみれた富という分類は単純にはできません。同じお金でも、正当が不当になることもあれば、不当が正当になることもあるからです。私たちに求められているのは、いつでも不正の臭いがつく可能性のある富で「友達を作りなさい」と主イエスが言われたように、富を隣人のために用いることであります。

このことを考慮に入れつつ、本日、私たちに与えられました箇所の前半部分の譬え話に耳を傾けたいと思います。この譬え話は「不正な管理人」の譬えです。聖書の中でも最も理解が難しい譬え話の一つであると言われています。しかし譬え話自体には難しいところはありません。話としては何が起こったのかはすぐにお分かりいただけるでしょう。

けれども一体なぜ主イエスがこんな話をされたのか、理解に苦しむと思います。第一五章のように美しい譬え話ならばともかく、不正を働いた管理人の譬えが語られているのです。しかも主イエスはこの管理人をほめているようなところがあります。それならば、一体どのようなところが、ほめられる点なのでありましょうか。

この管理人は不正をしていたので、不正を告げ口されてしまったときに、窮地に陥ることになりました。当然の結果です。そうなってしまったからには、会計の報告が求められます。時間の猶予は少ししかなかったでしょう。管理人はここで様々な選択肢があったはずです。不正を認めて、主人に赦しを請う、もう二度とそのような不正をしないという誓いをすることだってできたはずです。あるいは方々から借金をして、無駄遣いしてしまった財産をなんとか返却する道も考えられたはずです。あるいは不正をしていないと言い張って、何とかその場をしのぐという道もあったかもしれません。

たくさんの選択肢があったはずですが、この管理人が取ったのは、管理人の仕事を辞めさせられたときのために、残されたわずかな時間で、友達を作っておくことでした。しかも、主人の金をさらに不正に扱ってのことであります。不正に不正を重ねたのです。

ある意味では、これは徹底的に富に仕えた姿であると思います。神か富かという中で、中途半端に揺れ動いたのではない。徹底的に富の力を信じて、富をもって生きるということを貫いた。その結果が友達を作ることにつながったのです。今までは友達を作るなどということは考えたこともなかったかもしれません。主人の財産を自分が無駄遣いすることで頭の中は一杯だったからです。裁きの危機に立たされたときに初めて、管理人の目に隣人の姿が映ったのであります。

もちろん、この管理人は不正な管理人でありますから、私たちが同じようにすべきではありません。しかし主イエスはこの管理人にほめるべき点があるとされましたから、私たちも倣うべきところがあると思います。一体どんな点を倣うべきなのでしょうか。それは、この管理人が、神ではなく富に対してでしたが、徹底的に仕えたというという点であります。弟子たちのように中途半端であったのではない。最期まで徹底的に仕えた点が、ほめられるべきところなのであります。

この不正な管理人が「富に」忠実で「富に」徹底的に仕えたように、私たちが「神に」忠実で「神に」徹底的に仕える道はないのでしょうか。どうしたら弟子たちのように中途半端にならず、最後まで徹底的に神に仕えることができるのでしょうか。

このことを考えるのに大きな助けとなる話が、マタイによる福音書の第二五章の三一節以下にあります。不正な管理人の裁きのときのように、すべての者が裁かれるときの話であります。王の裁きの座の前に、右に羊が、左に山羊が分けられます。そして右側の人に向かって王が言います。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」(マタイ二五・三四~三六)。

すると右側の人たちは答えます。「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。」(マタイ二五・三七~三八)。右側の人たちは、自分たちが王に対して何かをしたということは、身に覚えのないことだったのです。そこで王は答えます。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(四〇節)。

この最後の王の言葉が、今日の聖書箇所にぴたりと当てはまると思います。最も小さいと思われていた者にしてやったことが、実は王、つまり神に対してしていたことであったというのです。隣人に対して行ったことが、実は神に対して行っていたことに等しいというのです。

ルカによる福音書に戻りますが、一〇節のところに「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。」(一〇節)とあります。今日の説教の説教題にもなっている言葉ですが、「ごく小さな事」というのは、文法で言いますと最上級であります。つまり、「最も小さな事」という意味です。一番小さいと思われるようなことに忠実であることが、実は大きなことに忠実であるというのです。

主イエスがお語りになられた今日の話は、弟子たちに対して語られた話でありました。どうしたら神と富との間で中途半端にならず、徹底的に神に仕えることができるかということを考えてきました。それは、最も小さなことに忠実になることです。不正の臭いがこびりついている富で友人を作るように、隣人に対して忠実であることです。それが神に忠実であるという大きなことにつながっているのです。私たちが行っているごく小さなことであっても、悲観する必要はまったくありません。それは神の国である永遠の住まいにつながっていることなのであります。

説教の冒頭でも申し上げましたように、今週から受難週を迎えています。弟子たちにとって、受難週が裁きになってしまいました。ふるいにかけられた結果、全員が脱落してしまったのであります。その弟子たちの姿は、私たちの姿でもあります。

しかし主イエスは、すべての人から見捨てられて、最終的には神にも見捨てられて、十字架での死を遂げてくださいました。決定的な裁きがそこで起こったのです。神の独り子が私たちの代わりに裁かれることによって、私たちが赦されたのです。私たちはふるいにかけられて、その結果、ふるい落とされてしまったかもしれませんが、もう一度、新たに始めることができるようになりました。赦された私たちに、最後まで神に徹底的に仕える道が拓かれたのであります。