松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2012年3月11日(日)
説教題「一緒に喜んでください」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第15章8節〜10節

「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

旧約聖書: イザヤ書 第53章11〜12節

東日本大震災から今日でちょうど一年になりました。三月一一日がちょうど日曜日になったわけです。全国各地の教会で、震災を覚えて礼拝が献げられ、祈りもまた献げられるであろうと思います。私たちも、いつも通り礼拝を行っていますが、この礼拝で献げられた献金の全額を、被災地を覚えての献金にいたします。また、礼拝が終わって昼食をいただいた後にノアの会という集会をしますが、被災地の現状を報告し、ここでも祈りを合わせたいと思っています。

三月一一日を迎えるにあたって、私たちの周りも震災から一年という話題が多くなっています。昨日も新聞を読んでいましたら、ある作家の論評の記事が載せられていました(『朝日新聞』、一三面)。この論評全体にタイトルが付けられていまして、「言葉もまた壊された」というタイトルでありました。東日本大震災や原子力発電所の事故によって、本当に多くのものが壊されました。人の命も奪われました。住んでいた家が流されました。避難を余儀なくされた人は故郷を失いました。いろいろなものが壊されたわけですが、この作家は言葉も壊されたのではないかと言うのです。

どういうふうに壊されたのかと言うと、言葉に対する不信感が募ったからです。その作家の言葉によれば「言葉という情報の機能不全」が起こったのです。特に原発の事故が大きかったと思います。原発の事故が起こってから、「大丈夫だ、安全だ」という言葉を発する人もいれば、「大丈夫ではない、危険だ」という言葉を発した人もいました。まったく別の言葉を私たちは同時に聞かされたわけですが、一体どちらの言葉を信じればよかったのでしょうか。

ここではこの問題には深入りしませんけれども、結果として、多くの人たちは不信感を抱きました。政府の公式な見解といえども、簡単に信じることができなくなってしまったのです。この作家はこのように言っています。「震災と原発事故への対応をめぐる…一連の不祥事が国中に撒き散らしたのは、ひとえに疑いの種だ」。この作家が言うように、疑いの種が撒き散らされてしまった。その種が実を結んでしまった結果、人々は簡単に言葉を信じることができなくなってしまった。言葉まで壊れてしまったのであります。

神を信じて生きる信仰者にとりまして、言葉はとても大事であります。信仰者は神の言葉を聞いています。今、説教が語られていますが、これを神から与えられた言葉であると信じて聴いています。また聖書を読む際にも、これは神が自分に与えてくださった言葉だと信じて読んでいます。このように言葉を大切にする私たちにとって、言葉が破壊されてしまったのではないかという問題提起は、とても深刻な問題だと思います。神の言葉も破壊されてしまうようなことがあるのでしょうか。

先ほどの作家の論評に、一つ付け加えることが許されるならば、私は言葉と存在は切り離せないということを付け加えたいと思います。言葉は一人歩きすることもありますが、言葉には言葉を発した人が必ずいます。その言葉を発した人の存在を抜きにすることはできないと思います。例えば、政府が「大丈夫だ、安全だ」と言ったのに、実際には大丈夫でも安全でもなかった場合、次に政府がまた「大丈夫だ、安全だ」と言っても、信用されないと思います。なぜかと言うと、その言葉を発したのが同じ政府だからです。一回目の言葉によって、政府という存在を信頼できなくなってしまった。ですからその後、その存在から発せられた言葉は、もはや信頼を失ってしまうのです。

言葉と存在をめぐって、もう一つの例を付け加えたいと思います。私が神学生だった頃、私の知り合いの神学生が説教をしました。その神学生はある有名な牧師が語った説教の言葉を引用しました。この牧師は、その説教の中で、少し大胆な発言をしたのだそうです。けれどもこの牧師の語る説教には定評がありました。少し大胆な発言に対しても、聴いている方々はすんなりとその言葉を聴くことができたのだと思います。

ところが、その神学生はまったく同じ言葉を引用して語ったのですが、聴いている方々が躓いてしまったのだそうです。神学生があんな大胆な発言をしてもよいのかと、多くの人が感じてしまったようです。語られた言葉としてはまったく同じでした。しかし同じようには聞かれなかった。有名な牧師が語っても大丈夫だったのに、神学生が語ったらうまくいかなかった。なぜかと言うと、同じ言葉でも語った存在が違うからです。このように、言葉と存在は切っても切り離すことができない関係にあるのです。

東日本大震災のことに関連して、言葉と存在の話をしてきました。本日、私たちに与えられましたルカによる福音書の箇所もまた、このことと大いにかかわっていると思います。今日の聖書箇所には、一つの譬え話が記されています。「無くした銀貨」の譬えです。先週、私たちに与えられた聖書箇所は、この一つ前の箇所になりますが、「見失った羊」の譬えが記されています。どちらも似たような譬え話であると言えます。今日のこの説教では、二つの譬え話を視野に入れて、先週語られた御言葉とは少し角度を変えて、御言葉を聴きたいと思っています。

今日の聖書箇所の八節のところに「一緒に喜んでください」(九節)という言葉があります。これは先週の聖書箇所である六節のところにも同じ言葉があります。無くした一枚の銀貨が見つかったときに、見失った一匹の羊が見つかったときに、喜びのあまり「一緒に喜んでください」と友達に対して、近所の人たちに対して、呼びかけている言葉です。

「見失った羊」の譬え話では、この言葉を言っている人は百匹の羊を飼っていた羊飼いであります。この羊飼いは、元の言葉では男性形で書かれていますから、男性の羊飼いということになります。そして「一緒に喜んでください」と呼びかけている相手は「友達や近所の人々」(六節)と記されていますが、これも男性形です。つまり男性の羊飼いが男性の友人や男性の近所の人たちを呼び集めて、一緒に喜んでいるわけです。

「無くした銀貨」の譬え話では、銀貨十枚を持っていたのは「女」(八節)と書かれていますから、女性であります。そして「一緒に喜んでください」と呼びかけている相手は「友達や近所の女たち」(九節)と記されていますが、これは女性形です。つまり女性の人が女性の友人や女性の近所の人たちを呼び集めて、一緒に喜んでいるわけです。

男性になぞらえて語られた譬え話と女性になぞらえて語られた譬え話であると言えるかもしれませんが、いずれの譬え話でも問われているのは、「一緒に喜んでください」という言葉を言われて、私たちが一緒に喜べるかどうかということです。これらの譬え話が語られたきっかけがありました。第一五章の一節と二節にこうあります。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。」(一五・一~二)。そこで語られたのが、これらの譬え話だったのです。状況としては、徴税人や罪人たちが主イエスと一緒に食事をしていた。それをファリサイ派の人々や律法学者たちは快く思わなかったのです。

聖書には「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマ一二・一五)とあります。私たち人間はどういうわけか、人と一緒に喜ぶことが苦手です。もちろん心から一緒に喜べるようなときもあるでしょう。しかし場合によっては、相手と同じ喜びに浸れないときもあります。あの人は喜びに包まれるような出来事が起こったけれども、自分にはそれが起こっていない。一緒に喜んでくれと言われても、心がついていかない場合も多いと思います。そして人が喜んでいて自分が喜べない状況が続くと、私たちは次第に不平不満を募らせてしまうのです。あの人はなぜあんなにも喜んでいるのか、そもそも喜ぶ資格などあるのか、人の喜びが気に入らなくなってしまうのであります。

ファリサイ派の人々や律法学者たちもまったくこれと同じでありました。なぜ徴税人や罪人たちが主イエスと一緒に食事をしているのか。しかもあの人たちは主イエスの話を聞いて喜んでいる。本来ならば、あの人たちはこの食事の席にはふさわしくないはずだ。そのふさわしくない人たちが喜んでいる。その喜びが気に入らず、不平を言うのであります。

そのような一緒に喜べない人たちに対して、主イエスは「一緒に喜んでください」と言われるのです。「さあ、あなたも一緒に喜びの中へ」、主イエスは喜びへと私たちを招いていてくださるのです。私たちも自分の問題として考える必要があります。私たちはこのお招きに、お応えすることができるでしょうか。

自分は人と一緒に喜ぶことは苦手だと思っておられる方もあるかもしれません。もしかしたら、自分もお応えできていないのではないかと思っておられる方もあると思います。しかしそのようなときに、私たちが思い起こすべきなのは、この言葉を発している存在であります。この言葉は主イエスがお語りになられた喜びへの招きの言葉です。主イエスの存在を切り離してしまうと、一緒に喜ぶことはできなくなってしまうと思います。逆に主イエスの存在と結び付ければ、必ず一緒に喜ぶことができるようになります。

聖書には、主イエスがお語りになられた言葉がたくさん記されています。それらすべての言葉に主イエスの存在が込められています。主イエスの存在を抜きにしてしまうと、それらの言葉は骨抜きの言葉になってしまうと思います。例えば、有名な言葉の中に、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ五・四三)という言葉があります。また「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(マタイ五・三九)という言葉もあります。

とても印象深い言葉かもしれませんが、口先だけの言葉ではありませんでした。実際に主イエスはその通りにしてくださった。あるときには「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ一五・一三)と言われました。これも口先だけではなく、実際に主イエスは命を捨ててくださった。最大の自己犠牲の愛を行ってくださった。主イエスの存在を抜きにしては、これらの言葉は絶対に理解することができないのです。

今日、私たちに与えられています二つの譬え話の中でも、一匹を見失った羊飼いが必死になって羊を捜し、一枚の銀貨を無くした女が必死になって銀貨を捜す様子が描かれています。この女は「ともし火をつけ、家を掃き、見つめるまで念を入れて」(八節)捜しました。おそらく当時の家は窓がないか、あってもかなり小さく、昼間でも暗かったようです。自分の家の中とはいえ、必死になって捜したのです。そして見つけたら、大喜びをする。友達や近所の人たちを呼んでまで喜ぶのであります。

これらの譬え話が表しているのは、私たち人間が見失われたものであり、神が必死になって捜して下さるということです。本来ならば神のものであった私たちが、見失われてしまった。神はそれをよしとはされない。必死になって捜してくださる。そして見つけたら、私たちが戻ってくることを大喜びで迎えてくださるのであります。

ある人が神の喜びに関連して、このように言っています。「神はここで喜んでおられるけれども、裏を返せば、神は悲しむこともあるということだ」。一匹の羊を失う、一枚の銀貨を失う、私たち一人の人間を失う。それは確かに損失であるかもしれません。しかし百匹の羊のうち残りの九十九匹は無事なのだから、十枚の銀貨のうち九枚は手許にあるのだから、大した損失ではないと考えることもできるかもしれません。

同じように、私一人くらいが神を信じなかったところで、神にとっては痛くも痒くもないのではないか、そのように思ってしまう私たちであるかもしれません。しかしこの譬え話が告げているのは、決してそうではないということです。私たち一人が神のところに戻らないことが、神にとっては大きな損失なのです。失われたままであるということは、神が喜んでおられるのとは正反対、つまり神が悲しんでおられるということです。是が非でも私たちを取り戻そうとされる。徹底的に捜してくださる。命を懸けてまでも取り戻してくださる。そして見つかったときには、大喜びで迎えてくださる。これらの譬え話を語ってくださった神は、このような存在なのであります。

このような存在であるお方である神が、私たちを喜びへと招いておられます。神は決してこの喜びを独占されないお方です。「見失った羊」の譬えでも、「無くした銀貨」の譬えでも、必死になって捜したのは、一人の羊飼いであり、一人の女であります。神お一人で私たちを捜してくださったことになります。本来ならば、自分の見失っていたものを見つけたのですから、自分一人で喜べばよかったはずです。あなたは私と一緒に捜してくれなかったね、だからあなたは私と一緒に喜んではいけないとは決して言われません。喜びを独占されずに、私たちもその喜びの中に招き入れてくださるのであります。

来月、イースターを迎えます。主イエスが十字架にお架かりになり、三日目にお甦りになられたことを記念する日です。このイースターの礼拝で、一人の姉妹が洗礼を受けられます。ご本人にとっても、教会にとっても、これ以上の大きな喜びはありません。私の体験からすると、洗礼を受けられる本人よりも、周りの人の方が喜びが大きいものです。私のときもそうでした。周りの人たちがなぜか喜んでいる。わが事のように大喜びをしている。なぜこの人たちはこんなに喜んでいるのだろうと不思議に思いました。

しかしその喜びが私にも分かる日が来ました。自分と親しくしていた人が洗礼を受けたのです。自分が洗礼を受けたとき以上の喜びがありました。見失った一匹の羊が戻ってきた。無くした一枚の銀貨が戻ってきた。あなたも私と同じように、神のもとに帰ってきたのだ。その喜びを一緒に喜ぶことができる。ファリサイ派の人々や律法学者たちのように、あれこれと考える必要もない。無条件に誰もが喜ぶことができる。何よりも神が喜んでいられる。私たちも一緒に喜ぶことができる。神がその喜びへと私たちを「わたしと一緒に喜んでください」と、私たちを招いてくださるのです。私たちの人生において、この喜び以上に大きな喜びはないのであります。