松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2012年3月25日(日)
説教題「神と一緒に喜ぼう」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第15章25節〜32節

 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

旧約聖書: エゼキエル書 第18章30〜32節







レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
両親の家を出る放蕩息子(The Departure of the Prodigal Son) / レンブラント・ファン・レイン(Rembrandt Harmensz. van Rijn)

両親の家を出る放蕩息子(The Departure of the Prodigal Son) / レンブラント・ファン・レイン(Rembrandt Harmensz. van Rijn)
国立素描版画館 蔵
(ドイツ/ドレスデン)

クリックすると作品のある「pubhist.com」のページにリンクします。

教会の暦によりますと、今日の日曜日は「受難節第五主日」となります。主イエスのご受難を覚える季節における五番目の日曜日ということです。そして来週の日曜日は教会の暦では「受難週」と呼ばれます。来週の日曜日から始まる一週間が、主イエスが十字架にお架かりになられた一週間だからです。受難週はいつも行われている祈りの会が休会になりまして、代わりに木曜日の夜に「洗足木曜日礼拝」が行われます。金曜日の午前中には「受難日祈祷会」が行われます。受難週を過ごすにあたり、これらの特別な礼拝や祈祷会に、努めて参加をしていただければと思います。

教会の暦で言いますと、今日の日曜日はますます主イエスの十字架が色濃くなっていると言えるわけですけれども、そもそもなぜ主イエスは十字架にお架かりになられたのでしょうか。主イエスは神の子です。なぜ神の子ほどのお方が、十字架の上で苦しまれて、死ななければならなかったのでしょうか。この問いを言い換えますと、なぜ人間は神の子を十字架に架けて殺してしまったのでしょうか。

いろいろな答え方をすることができるかもしれませんが、本日、私たちに与えられましたルカによる福音書の箇所から、答えることができると思います。それは、神の愛があまりにも大きすぎて、私たち人間には理解できなかったからです。神の愛の深さは、私たち人間がねたんでしまうほど大きなものです。そのねたみのあまり、主イエスを十字架に架けて殺してしまったのであります。

今日の聖書箇所には兄が登場いたします。父親から相続することになっている財産を先に分けてもらい、全部をお金に換えて、家を飛び出し、放蕩の限りを尽くし、全財産を使い果たした挙句、家に帰ってきた弟の兄であります。その弟が帰ってきて、父親が喜びのあまり祝宴を催します。兄は怒りのあまり、家に入ることすらできませんでした。弟を受け入れる父の愛が理解できなかったからです。あまりにも大きな父の愛のゆえに、兄はねたみを覚えてしまったのです。

この譬え話の中の兄とよく似た話が、マタイによる福音書にあります。「ぶどう園の労働者の譬え」であります。この譬え話の中にも、兄と同じような登場人物の姿を見出すことができると思います。

この譬え話は、ぶどう園を所有している人の話です。収穫の時期を迎えていました。ぶどうの実を摘まなければなりません。けれども一人ではもちろんできない。ですから日雇いの労働者を雇うために、広場に出かけて行きました。最初に出かけて行った時刻は夜明け前です。一日一デナリオンという賃金の約束で、契約を交わしました。九時ごろにも出かけて行って、同じように労働者を雇いました。一二時にも、三時にも、そして日が傾きかけている五時にも同じようにしました。

やがて夕暮れ時を迎えます。一日が終わり、賃金を支払います。夕方の五時に雇われた人が、一デナリオンを受け取りました。朝から働いている人が、もっと多くを貰えるだろうと期待しましたが、約束通り、一デナリオンしかもらえませんでした。そこで、ぶどう園の主人に腹を立てたのです。主人はこの人にこう言いました。「あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」(マタイ二〇・一三~一五)。

主人がここで言っているように、主人に不正なところは何一つありません。一日一デナリオンの約束を事前にしていたのです。むしろ、一日一デナリオンに満たない働きしかできなかった者たちを、一デナリオンにしてやった愛の方が優っているはずです。しかし朝から暑い中、辛抱して働いた人たちは、このことが気に食わないのです。夕方からわずかの時間しか働かなかった労働者たちに怒りの矛先が向けられるのではないのです。怒りの矛先が主人に向けられます。主人の気前のよさをねたんだのです。つまり主人の愛の深さを理解し損なってしまったのです。

朝から働いていた人たちの思いと、放蕩息子の兄の思いが重なり合っていると思います。夕方からしか働いていない者たちに対する主人の愛をねたんだように、兄も父親の弟に対する愛の深さをねたんでしまったのであります。自分勝手に家を飛び出し、勝手気ままに放蕩の限りを尽くした挙句、帰ってきたのに、息子のまま受け入れるなんて虫がよすぎるにもほどがある。せめて雇い人の一人から始めて、十分な期間が経った後に息子として復帰させる。そのような手順を踏むべきだ。兄の思いとしてはこうだったのであります。

兄はなぜこのようになってしまったのでしょうか。なぜ父と思いを一つにすることができなかったのでしょうか。しかも不思議なことに、この兄はずっと父の家にいたのです。家にいながら、こうなってしまった。多くの説教者たちは、兄のことをこのように評価をして説教をしています。「この兄は、家にいながら、放蕩をしていたのだ」、と。

先週の説教で、画家のレンブラントの絵をご紹介いたしました。レンブラントは、この放蕩息子の譬え話のいろいろなシーンを絵画で表現しました。今日の説教でも、レンブラントの絵画を一枚ご紹介したいと思います。絵と言っても、これはエッチングの絵でありまして、白黒の絵であります。場面は、弟息子が放蕩の旅にこれから出かけるシーンです。

描かれているのは、弟息子がこれから旅に出ようとして、馬に乗ろうとしているところです。母親らしき人物が、旅に必要となるであろう水の入った容器を弟息子に持たせています。父親は少し距離を置いて、その様子を見守っています。そして兄ですけれども、聖書には弟息子が出発する際に、兄がその場面に居合わせたことなどは記されていません。しかしレンブラントはこの絵の中に、兄の姿を描くのであります。弟が出発するのは家の玄関のところでありますが、家の窓のところから、兄が恨めしそうに顔を出しているのです。

私は恨めしそうにという表現を用いましたが、これはエッチングの絵でありまして、兄の表情がはっきりと描写されているわけではありません。しかし恨めしそうに見えるのです。兄の思いとしてはこうだったのでしょう。この弟は財産を分けてくれだなんて勝手な申し出をして、家を飛び出そうとしている。弟も弟で勝手だが、なぜ父はそのことをお許しになるのだろうか。ぶつぶつと心の中でつぶやいている声が聞こえてくるかのような表情をしているのであります。

結局のところ、兄は最初から父に対して、言葉には出さないものの、心の中では不平不満があったのであります。一見すると、兄は理想的な父の息子のようです。しかし家にいながらも、父の本当の子とはなれていなかった。多くの説教者たちが言うように「兄は、家にいながら、放蕩をしていたのだ」ということになるのです。

聖書の言葉からも、そのことが言えると思います。私はこの説教の準備をするにあたって、何度もこの聖書箇所の朗読の音声を聴きました。目で文字を追う形で聖書を読んだのではなく、耳で聖書を聴いたのであります。その際に、何度聴いても、私の耳に違和感を覚えた言葉がありました。それは「あなたのあの息子」(三〇節)という言葉です。

「あなたのあの息子」というのはつまり自分の弟のことです。本来ならば、「わたしの弟」とか「お父さんの弟息子」と言うべきです。ところが、兄は「あなたのあの息子」と言いました。とても遠回しな言い方です。弟のことをもはや弟と思っていないのはもちろんですけれども、父のことも「あなた」と表現する。兄と弟との間の関係が切れていたことは言うまでもありませんが、父と兄との間の関係も切れてしまっていたのであります。

もう一つ、聖書の言葉から分かってくることがあります。それは兄の最初の言葉である「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。」(二九節)という言葉です。ここで取り上げたいのは「仕えている」という言葉です。ついでに付け加えておきますが、ここで「お父さん」と訳されている言葉も、元の言葉では「あなた」であります。

「あなたに仕えている」と兄は言っていますが、この仕えるという言葉は、奴隷として仕えるという言葉です。親子の関係で仕えるというのではなく、奴隷のように仕えているという言葉なのです。奴隷でも喜んで仕えている場合もあるでしょうけれども、兄の仕え方は奴隷としての報いを期待する仕え方でありました。朝早くから働いているのだから、夕方から働いている人よりも報酬が多くて当たり前だと思うように、自分は弟より報いが多くて当たり前だと思って仕えているのであります。

このように聖書の言葉を突き詰めて考えてみただけでも、父と兄との関係が切れていたということも分かってきます。兄が弟の帰りを喜ぶことができなかったのは、結局のところ、父との関係が切れていたからであります。だから一緒に喜べなかったのです。父の喜びを理解できなかった。父の愛を理解できなかった。父そのものを理解できなかったのです。

この譬え話は言うまでもなく、神が父に譬えられているわけですが、私たち人間が兄であり、弟であります。今日は兄の立場から、この譬え話を味わっているわけですが、信仰者にとりまして大切なのは、いかに兄から脱却するかということだと思います。兄は父の気前のよすぎる愛をねたみました。私たちも神の愛が気前よすぎると思っているところがないでしょうか。

洗礼を受けようかどうしようかと迷っておられる方にとって、果たして私は信仰者にふさわしいかどうかということを考えると思います。洗礼を受ける資格が自分にはあるのかどうかを吟味します。自分を吟味すれば吟味するほど、自分はふさわしくないと、たいていの人は思うでしょう。

しかし教会の礼拝に出席して説教を聴いたときも、あるいは自分で聖書を開いて読んでみたときも、私たちが出会う言葉は、ただ神が私たちを愛してくださったから、私たちは救われたのだという言葉です。あなたは努力をして立派な信仰者になりなさい、その結果、あなたの努力を神が認めて、救ってあげようという言葉ではないのです。そうではなく、私たちはただ恵みによってのみ救われたのだという言葉に出会います。

本当だろうかと最初は思うでしょう。そんな虫のいい話があるものかと思うかもしれません。しかしそう思うとしたら、どこか兄とそっくりになっているところがあると思います。気前のよすぎる神の愛を受け入れることができていないからです。弟が許されるような気前のよすぎる愛よりも、父に仕えた報いによって愛してもらう愛の方が、兄にとってよっぽど受け入れやすいのです。

しかしここでよく考えてみたいと思うのです。兄は父の気前のよすぎる愛に反発しましたけれども、兄と同じ道をたどるとすれば、その愛を拒否することになります。拒否したからには、その愛なしで生きなければなりません。私たちが気前のよすぎる愛なしで生きるとしたらどうなるでしょうか。もしもこの愛がなければ、私たちは兄と同じく、奴隷のように仕えて努力する以外にはありません。自分の正しさを示さなければならないからです。神に認めていただくだけの成果を挙げなければならないからです。

しかも悲しいことに、私たちが自分の正しさを示すためには、相手を裁くことによってしかそれができないのです。「お父さん、弟に比べれば、兄の私はずっとましでしょう」というのがせいぜいのところです。人と比べて、自分の正しさを示すことが私たちの限界なのであります。そして行き着く先は、兄のように喜べない人間になってしまいます。もしも自分よりも弟が重んじられたり、夕方から少しの時間しか働いていない人が重んじられるとしたら、それは我慢のならないことになってしまいます。神に対して怒る以外に道はないのです。

このような兄の人生は、本当につまらない人生になってしまいます。何しろ喜びがありません。父の家にいるにもかかわらず、喜ぶことができない。父の家で開催されているはずの祝宴に、入っていくことができないのです。兄は父の家にいながら、父にとって失われた人になってしまったのです。

この父親は兄も取り戻そうとしておられます。本日は合わせて旧約聖書の箇所をお読みしました。そこにはこうあります。「どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」(エゼキエル一八・三一~三二)。弟息子が父の家を飛び出し、放蕩の限りを尽くしていたとき、父にとって弟息子は死んだも同然になっていましたけれども、兄も父の家にいながらそうでありました。

父は弟の死も、兄の死も喜ばない。立ち帰って生きることを心から願っておられます。もう一度、父と子の関係を新たに結ぼうとされているのです。その証拠に父は兄に対して「子よ」(三一節)と呼びかけておられます。兄は「あなたのあの息子」(三〇節)と言いましたが、父はそれを言い直し「お前のあの弟」(三二節)と言っています。父と子の関係をもう一度、結び直し、そして兄と弟との関係も、もう一度、結び直そうとしておられるのです。兄はそのなるようにと父から招かれているのです。

この譬え話は招きで終わっています。「祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」(三二節)。「さあ、あなたも一緒に」という形で終わっているのです。ルカによる福音書第一五章には三つの譬え話がありましたが、最初と二番目の譬え話の後には、主イエスがひと言、解説のような言葉を加えてくださっています。「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(一五・七)。

ところが三番目のこの譬え話には何の解説もなければ、その後、兄がどうしたということも語られません。「兄はその後、悔い改めて一緒に喜びました」とか、「兄はやはり怒ったままで、家の中に入ることすらできませんでした」という記述がないのです。いわゆるオープンな形で終わっているのです。さあ、あなたはどうしますかと問われているかのように終わっているのです。

私たちに問われているのは、父の気前のよすぎる愛の中に飛び込むのか、それとも、その話は虫がよすぎる、そんな気前のよい愛など理解できない、自分は兄の道を貫くと考えて飛び込まないかのどちらかです。兄から脱却できるかどうかの分かれ道に立たされているのです。

先ほどから私は「虫のいい話」という表現を何度も用いています。たしかに神の愛は私たちにとって虫のいい話かもしれませんが、実は虫のいい話ではないのです。私たちが何の代価もなしに救われると聞くと、確かに虫のいい話なのですが、代価はきちんと支払われたのです。その代価が、神の独り子の命だったのです。

その代価が支払われたからこそ、弟息子は赦されて父の家に戻り、雇い人ではなく息子のまま受け入れてもらうことができました。兄も、この代価が支払われたからこそ、父は喜びへと招いていてくださるのです。気前がよすぎると思われるような愛の話が成り立っているのも、虫がよすぎると思われるような話が成り立っているのも、私の救いの出来事が成り立つのも、イエス・キリストの十字架があるからなのであります。