松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2012年3月4日(日)
説教題「あなたを捜し出した神の喜び」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第15章1節〜7節

徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

旧約聖書: エゼキエル書 第34章11〜16節

ルカによる福音書の第一五章に入りました。松本東教会では二年ほど前より、ルカによる福音書から御言葉を聴き続けています。第一五章には三つの譬え話が記されています。聖書の中でもよく知られた譬え話です。ルカによる福音書の一つの山であると言ってもよいかもしれません。先日、ある方から、第一五章にたどり着くのを楽しみにしていると言われました。私も、一体いつ頃、第一五章にたどり着けるのか、そのことを視野に入れて御言葉を語ってきたと言っても過言ではありません。

そのようなこともあって、今日はルカによる福音書の旅路を歩んできた私たちにとって、一つの山を迎えます。この山の上に登ってみたときに、一体何が見えるでしょうか。山の上に登ったからには、今までは全部を見渡すことができなかったものを、見出すことができるかもしれません。私たちは一体これらの譬え話から、どのようなメッセージを聴くことができるのでしょうか。

三つの譬え話は、まったく別のことを語っている譬え話ではありません。共通に語られていることがあるからこそ、三つが並べられているのです。特に、最初の二つの譬え話は、かなり似ているように思えます。本日は最初の譬え話の箇所だけを朗読いたしましたが、この説教では二つの譬え話を視野に入れて、御言葉を語りたいと思います。来週は二番目の譬え話の箇所をお読みしますが、最初の譬え話のことも含めて、別角度から味わっていきたいと思っています。

いずれの譬え話も、とても分かりやすい譬え話であると言えるかもしれません。私も、例えば子どもたちに、この話を語ったことがありますが、あまりごちゃごちゃと解説を加える必要がないと思わされます。下手な解説を加えるよりも、この物語を聖書の話に則して、主イエスがお語りになった通りに語れば、よいと思うのです。

しかし分かりやすいと思うことによって、譬え話の力を損なってしまうこともあると思います。この譬え話は昔からよく聴いてきた。何度も礼拝の説教で聴いてきた。教会に初めて来られた方にとっても分かりやすい話だ。だからもう自分はこの話を卒業した。よく分かっていると考えてしまうならば、この譬え話の深さを味わいきれていないことになってしまうかもしれません。

先週、私たちに与えられました聖書の箇所は、この一つ前の箇所でありました。第一四章の最後にこうありました。「聞く耳のある者は聞きなさい。」(一四・三五)。主イエスのこの招きの言葉に応えるようにして、「徴税人や罪人」(一節)が主イエスのところにやってきました。主イエスの「話を聞こうとして」(一節)、やって来たであります。ですから、もしも私たちが、自分はもうこの譬え話をよく知っているのだから、改めて聴く必要がないと思うのならば、主イエスのお招き自体を断ってしまうことになるのです。

私もこの説教の準備をするにあたって、そのようなことにならないように、何度もこの譬え話に耳を傾けました。そして聴けば聴くほど、この譬え話は、私たちが知っている常識では計りきれないものがあると感じました。これは普通に考えるならば、あり得ない話であると思います。

譬え話に出てくる人は百匹の羊を持っていました。この人は、原文では単数形ですから一人の人です。一人で百匹も持っていた。ところが理由は記されていませんが、そのうちの一匹を見失ってしまいました。百匹のうちの一匹です。羊を一匹失うのは痛手であるかもしれませんが、九十九匹は無事です。一匹のことを捜しに行ったところで、見つかる保証はありません。一匹は仕方がないと思うかもしれません。しかも、捜しに行く際に、九十九匹は「野原」(四節)に残したままにしました。

原文ではこれは「荒れ野」という言葉です。羊たちを残しておくには危険な場所です。想像力を膨らませて考える人は、一匹を捜しに行った間、九十九匹はどうしていたのだろうと考えます。百匹の羊ですから、一人で飼えなかったかもしれません。複数人の羊飼いがいて、自分一人は捜しに行くかもしれないけれども、残りの人に九十九匹を託したのではないかと考えます。

しかし譬え話にそんなことは書かれてありません。余計な心配なのかもしれません。そのことに深入りするよりも、この譬え話が強調している点に目を留めたいと思います。強調されているのは、一匹の羊に対する異常とも言えるほどの愛です。一匹でも失うことをよしとしない。どんな犠牲を払ってでも、一匹を見つけ出すのです。

そして見つけ出したときの異常とも言える喜びが語られています。五節から六節にかけてこうあります。「そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」(五~六節)。

この喜びはいくら強調しても強調しすぎることがないと思います。こどもさんびかに「ちいさいひつじが」という讃美歌があります。実は松本東教会のこどもの教会で、二月はたまたまこの讃美歌を歌っていました。この譬え話をそのまま讃美歌の歌詞にしたようなところがありますが、四番はこのように歌います。「とうとうやさしい羊飼いは、迷子の羊を見つけました。抱かれて帰るこの羊は、喜ばしさに踊りました」。この讃美歌の歌詞が歌っているのは、見つけてもらった羊の喜びです。たしかに羊は嬉しかったと思います。この讃美歌の歌詞の通りであると思います。

しかし聖書に語られている喜びは、羊の喜びではありません。この羊飼いの喜びです。異常なまでの喜びです。私たちはうっかりすると、見つけ出された羊が喜んでいるのかと思ってしまいますが、異常なまでに喜んでいるのは、この羊飼いなのです。

異常という言葉をたくさん使いましたが、この羊飼いは私たちの常識に照らし合わせて考えるならば、一匹の羊に対して異常なまでの愛を注ぎ、見つかったら異常なまでに喜んでくれる羊飼いなのであります。ですから、これは普通に考えるならば、あり得ない譬え話なのです。この譬え話は、あり得ないほどのことをしてくれる羊飼いの姿を伝えています。羊飼いは言うまでもなく主イエスご自身の姿です。私たちの救い主がこういうお方であると、主イエスは譬え話で語ってくださったのです。

このように、この譬え話を正確に聴き取ることが重要なわけですが、聴き取って私たちは一体どうすればよいのでしょうか。主イエスが語られた譬え話は六節のところまでです。七節のところで、主イエスは譬え話を総括するようにして、このように言われています。「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(七節)。

私がとても不思議に思いましたのは、この話が悔い改めの話であるということです。一人の罪人が悔い改める話だと主イエスは言われたのです。一人の罪人とは譬え話の中ではもちろん一匹の羊のことです。羊は何もしていないかのように思えます。何もしていないどころか、迷い出てしまいました。羊は群れからはぐれ、帰る道を失うと、その場にうずくまって動かなくなってしまうそうです。この羊は迷い出てしまった以外は何もしなかったのです。

こどもさんびかの四番の歌詞では「抱かれて帰るこの羊は、喜ばしさに踊りました」とありますが、これは見つけ出してもらって、抱かれて帰るときの話です。それまでは本当に何もしていなかったのです。それなのに主イエスは、この譬え話が悔い改めの話であると言われるのです。

このことから、悔い改めとは一体どういうことなのか、考えることができると思います。私は以前、もう何十年も牧師として働いてこられた方から、こんな話を聞いたことがあります。

その方は、少し古いネクタイピンをしておられました。そのネクタイピンは、その牧師がまだ若く、牧師になったばかりの頃に、教会員の方にプレゼントされたものでありました。教会員からの思わぬプレゼントにしばらく喜んでいた。しかしあるときにハッと気付いた。実はそのネクタイピンのプレゼントには、メッセージが込められていたのです。「先生、もう少しネクタイをしたらいかがですか」というメッセージです。その牧師はそれに気づいたときに、深く悔い改めて、今でもそのネクタイピンを愛用しておられるとのことでした。

また別のときに、同じ教会員の方からボールペンをいただいた。最初はそのボールペンを喜んでいたけれども、あるときにハッと気付いた。そのボールペンにも実はメッセージが込められていて、「先生、もっとたくさん手紙を書いてはいかがですか」というメッセージです。このときも深く悔い改めて、まめに手紙を書くようになったそうです。

私もこの話を聞いて、身の引き締まる思いがいたしますけれども、それと同時に、私たち人間が本当の意味で悔い改めるのは、なかなか一筋縄ではいかないと思わされました。この牧師もプレゼントを貰った教会員から直接、「先生、もっとネクタイをしてください、もっとまめに手紙を書いてください」と言われれば、それはそれで悔い改めて、その忠告に従ったと思います。しかしプレゼントの本当に意味にハッと気付いたという強烈な体験をしたことによって、深く悔い改めさせられたのも事実です。この牧師は、そのことにハッと気付くことによって深く悔い改め、違う自分になることができたのです。

私たちの悔い改めも、本当に遠く長い道のりであると言えるかもしれません。ルカによる福音書第一五章の譬え話を読みますときに、こんな問いが浮かんでくるかもしれません。なぜ羊は迷い出てしまったのか。羊飼いが注意を払って、迷い出ないようにすればよいではないか。三番目の譬え話では放蕩息子が登場します。父親から財産を分けてもらって、家を飛び出し、放蕩の限りを尽くした末に悔い改めて帰ってくるわけですが、なぜ父親はそんなことを許したのか。最初から財産を分けずに、家から飛び出すことを許さなければよかったではないかと思うかもしれません。

これらの問いは、たしかにそうと言えるかもしれませんが、結局のところ、私たちの責任を神に押し付けることになってしまいます。なぜ私には、神に対しても人に対しても見せたくないような部分があるのだろうかと誰でも思います。なぜ自分はこうなのだろうかと思う。その思いが転じて、なぜ神は私をこんなふうに造ってしまったのかと思ってしまうのです。自分の責任を神に転嫁してしまうのです。

しかしその責任は残念ながら私たちにあります。私たちには究極の自由が与えられました。私たちは神によって造られたのですから、最も自然であるべき私たちの姿は神と向き合うことです。私たちに与えられている自由の中で、神は私たちにそのようにすることを選び取ってもらいたかったのです。神に従うのか、神に従わないのか、そのような究極の自由の中で、私たちは神に従うほうを選択すべきであったのに、残念ながらそれができなかった。譬え話に沿って言うならば、羊飼いのもとから迷い出てしまったのです。

そんな羊のことはもう知らん、私たちの常識に照らし合わせて考えるならば、そうなってしまうかもしれません。しかしこの羊飼いは異常なまでの愛を示してくださる羊飼いです。羊が見つかれば、異常なまでに喜んでくださる羊飼いです。神は最後まで羊飼いとしての責任を負ってくださいます。私たちをご自分の羊としてくださいます。どこまでも捜し求めてくださいます。見つけたら大喜びをしてくださいます。この私のためにです。

先ほどからご紹介しておりますように、こどもさんびかの四番では「抱かれて帰るこの羊は、喜ばしさに踊りました」と歌います。この羊は抱かれて帰るときになって初めて、ハッと気づくことでしょう。羊飼いの深い愛に気づきます。羊飼いが私のためにここまでしてくださったことに気づきます。

こどもさんびかの三番ではこのように歌います。「情けの深い羊飼いは、この子羊の後をたずね、遠くの山々、谷底まで、迷子の羊を捜しました」。「遠くの山々、谷底まで」というのは想像力を膨らませた表現になっています。簡単に歩けるところばかりではない。羊もぼろぼろになっていたかもしれませんが、羊飼いも山や谷まで、ぼろぼろになりながら迷子の羊を捜してくださった。見つけ出してくださった。痛みを伴ったのです。

主イエスは言われます。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハネ一〇・一一)。よい羊飼いが痛みを伴いながら、それこそ山々、谷底まで迷子の羊を捜してくださったように、主イエスは私たちに罪のために、十字架にお架かりになってくださいました。神に従い得ずに、神のもとから迷い出てしまった私たちの罪が赦されたのです。その罪が赦されて、私たちはこの羊飼いに抱かれて、神のもとに帰ることができるようになりました。

遅ればせながら、私たちはそのことに気づかされるのです。主イエスの背に背負われて、ハッと気づかされるのであります。私たちの悔い改めは、主イエスに背負われて初めて起こるのであります。私たちは深い悔い改めをしつつ、神が大喜びをしておられるところに帰ることができるのであります。