松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2012年2月26日(日)
説教題「最後まで神に従うために」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第14章25節〜35節

大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」

旧約聖書: 詩編 第119編33〜40節

松本東教会では平日にいくつかの集会を行っていますが、木曜日にはオリーブの会という集会を行っています。信仰の初歩的なことを学ぶことができる会です。以前から、この会はありましたけれども、最近、リニューアルをいたしました。以前は出版された本を用いていましたけれども、その本を読み終えてしまいました。今後、どのように会を行っていくのか、何度か話し合いをいたしました。その結果、自分たちが学びたいテーマを自分たちで設定し、そのテーマを学んでいこうということになりました。

毎週の週報に、テーマの予告を載せることにしています。今週のテーマは「世界も人間も神によって創造されたのですか?」というテーマです。興味のあるテーマがあり、平日にお時間が許すならば、ぜひ参加をしていただきたいと思いますが、先週のテーマは「神とはどのような存在ですか?」というテーマでありました。

先週の木曜日は、初めて参加をされる方や久しぶりに参加をされる方がありましたので、たくさんの方の話を聞くことができました。それぞれの方が、神の存在を身近に感じた経験を語ってくださいました。

ある方は、昨年末から二つのことを祈ってきた。本当に熱心に毎日、祈り続けて来られたのだそうです。最近になって、そのうちの一つの願いはかなえられたけれども、もう一つの願いはかなえられなかったそうです。かなえられなかった願いを思い出すと、どうしてだろうと思ったそうですけれども、最近はこれでよかったと思うようになったということでした。神が最善の答えを出してくださったということを、受け入れることができたのです。

また別の方は、小さい頃から教会に連れて来られ、昔は教会に対して反発を覚えた。神に対しても反発した。けれども親戚の葬儀をきっかけにして、また教会に行こうと思った。礼拝に来られ、オリーブの会にも時々、出席されるようになった。そんな話を伺いました。その方も、だんだんと神の存在を感じるようになってきたのだと思います。

このほかにもたくさんの例を挙げることができると思います。皆さまご自身もいろいろな経験がおありだと思います。私たちが信仰を持って、神を信じて歩んでいきますと、だんだんと神の存在が大きくなっていくことを経験します。最初は祈りが聞かれなくて苦しい思いをしたけれども、祈りが聞かれないことが却ってよかったことを経験する。神がそうしてくださったことを知る。そうすると、神が自分にとってますます大きな存在になっていきます。最初は教会に反発した。神に反発した。しかしだんだとその反発が和らいで、教会に行くようになる。この場合もやはり、ますます神が大きな存在になっていくのです。

信仰者にとって、神にすっぽり包まれてしまうのが、あるべき姿でありましょう。自分のある部分だけは神の介入は許すけれども、別の部分には決して介入させないというのは、あるべき姿ではありません。それはどこかおかしな信仰になってしまいます。一部だけを神に委ねるのではなく、全部を神に委ねる。大きな存在である神にすっぽりと自分を包んでもらう。これが信仰者としてのあるべき姿であります。

本日、私たちに与えられたルカによる福音書の箇所は、小見出しのところにありますように「弟子の条件」という内容になっています。弟子とは主イエスの弟子のことですけれども、主イエスの弟子になるためにはどうしたらよいのかということです。言い換えますと、洗礼を受けてキリストのものになる、キリスト者になるためにはどうしたらよいのかということであります。

今日の箇所には主イエスのお言葉が記されているわけですが、主イエスが三回にわたって「わたしの弟子ではありえない」(二六、二七、三三節)という言葉を使われています。最初の二六節では「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」(二六節)と言われています。続く二七節では、「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」(二七節)と言われています。

そして少し間が空きますが、三三節では「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」(三三節)と言われています。いずれも私たちにとって、とても厳しい言葉です。一体誰がこの条件に当てはまるだろうかと思わずにはいられないような言葉だと思います。

最初の条件は、家族を憎むことだと言われています。憎むという表現は、かなりきつい表現であると昔から言われてきました。憎むというこの言葉は、比較を表す言葉であり、「より少なく愛する」という意味があるのだそうです。マタイによる福音書に並行記事がありますが、マタイによる福音書では「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにはふさわしくない。」(マタイ一〇・三七)と記されています。この理解に従って言うならば、自分の家族よりも、神を愛することを第一にせよ、家族は二番目ということになります。

二番目の条件は、自分の十字架を背負うということです。ある聖書学者がこの表現を評価してこのように言っています。「十字架を背負うとは、刑場に赴く死刑囚の描写である。主イエスの弟子たる者にとっては、自分の命はもはや自分のものではないのである」。

また、別の聖書学者がこのように言っています。「ルカによる福音書が書かれた時代、中途半端な弟子が多かったのではないか」。ルカによる福音書が書かれたのは、主イエスを直接知る第一世代の人たちがいなくなってしまってからと言われています。西暦で言いますと七〇年代とか八〇年代のことと言われています。この時代になりますと、だんだんと迫害の手が伸びるようになってきます。あからさまに命が取られるような状況ではなかったようですが、命を取られてしまう者がだんだんと出始めた頃でありました。信仰を持つことが、命にかかわる問題であったのです。

そのような迫害の状況が、中途半端な弟子を作り出していたのではないかと、ある聖書学者は言うのです。主イエスにとりあえず従ってみる。弟子になってみる。けれども命を取られるような迫害のみならず、キリスト者ということで非難の声を浴びただけでも、主イエスの弟子をやめてしまう。そんな中途半端な弟子が多かったのではないかと言うのであります。

中途半端な弟子は、何もルカによる福音書が書かれた時代だけの問題ではありません。今日の聖書箇所の最初のところに、「大勢の群衆が一緒について来た」(二五節)と記されています。つまり、主イエスのすでに弟子となっている人たちに語られたのではなく、これから弟子になろうとしている人たちに対して語られたのです。中には、本気で主イエスに従いたいと思っていた人もいたかもしれません。家族を捨てるようにして、自分の命を投げ出すようにして、従う決意をしていた人もいたかもしれない。けれども、主イエスがこのところで非常に厳しいことを言われたのは、おそらくこの群衆たちの中に、中途半端な面を見ておられたからだと思います。

そしてこのことは、主イエスの時代だけの話ではなく、ルカによる福音書が書かれた時代だけの話ではなく、いつの時代でも当てはまる話です。私たちの時代ももちろんであります。私たちの中に、中途半端な面はないと言えるだろうか。私たちの問題として、考えなければなりません。

主イエスに従うために、どのようにせよと主イエスが言われているのかと言いますと、腰を据えて考えてみるということであります。先ほど、飛ばしました二八節から三二節までの箇所には、二つの譬えが語られています。一つ目の譬えは、塔を建てる譬えであります。腰を据えてじっくり考えることをせずに、建設を始めてみたものの、土台だけで資金が底をついてしまった。人々から笑われてしまう譬えであります。もう一つの譬えは、ある王様の譬えです。自分の一万人の兵隊で、敵の二万人の兵隊を打ち破ることができるかどうかという譬えです。どちらも似たような譬えであるかもしれません。

しかし似ているようで、まったく違うところがあると思います。それは三二節の箇所です。「もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。」(三二節)。最初の譬えは、塔を完成させることができずに笑われてしまった話です。ところが二番目の譬えは、じっくり腰を据えて、できないと分かった場合にどのようにすべきかが語られています。和を求めよ、と言われています。戦争ですから講和を求めるわけです。自分の立場が上というわけではない。どうか攻め込まないでくれと懇願するわけです。ある聖書学者は「無条件降伏をすることだ」とさえ言っています。

無条件降伏をするというのは、恥ずかしいことであるかもしれません。この譬え話の中に出てくる王様は、無条件降伏の結果、敵の王様からひどい要求を突き付けられるかもしれません。それくらいならば、無条件降伏などはせずに、自分の力を押し通して、最後は潔く散るということも考えられるかもしれません。

しかし主イエスはそのようにすることを求めてはおられません。主イエスがこの譬えを語られたのは、弟子になることに関してです。主イエスの弟子になるために、腰を据えてじっくり考えることをまずはお求めになられています。そしてできないと分かったならば、無条件降伏せよと言われる。神に対して無条件降伏せよと言われているのです。譬え話の敵の王様はひどい扱いをするかもしれませんけれども、神は決してそんなことはなさいません。無条件降伏した私たちを、ご自分のものとして受け入れてくださいます。私たちが主イエスに従うためになすべきことは、無条件降伏することであります。これが信仰の秘訣です。

以前、説教でこんな話をしたことがありました。私たちにとって「第一に神、第二に家族、第三にミッション」という話です。この言葉は、私が神学生だった頃に、先輩の伝道者から言われた言葉です。今日の説教に関連しますので、もう一度お話いたしますが、ミッションというのはその人に与えられている務めのことです。牧師ならば牧師としての務め。皆さまですと、それぞれに与えられている務めのことです。ミッションよりも上に来るのは、家族であります。場合によっては家族の事情で仕事を辞めざるを得ないときもあります。そういうときは家族を大事にせよということです。そして家族よりも上に来るのは神です。ミッションよりも、家族よりも、神が第一なのであります。

先ほど、二六節の憎むという言葉が、より少なく愛することだと申し上げました。「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹」「自分の命」(二六節)をより少なく愛するわけですけれども、言うまでもなく神よりも少なく愛するのです。そんなことを主イエスがお求めになられていると考えただけで、気が重くなってしまうという方もおられるかもしれません。

けれども、立ち止まってよく考えてみたいと思います。仮に順番を入れ替えて、自分の家族を第一にして、神のことは第二にしてみる。そうなりますと、「神さま、いくらあなたといえども、私の家族の領域には立ち入らないでください」ということになってしまいます。私は主イエスの弟子になったけれども、「神さま、あなたは私の家族に指一本触れてはならない」と言っているようなことかもしれません。家族を大切にする思いから、このようになっているのかもしれませんが、これは本当の愛ではないと思います。

そうではなくて、自分の妻、自分の夫は神から与えられたものであるとわきまえる。結婚する男女が結婚に向けて学びますのは、まずこのことです。この人は自分が努力して獲得した人ではない。自分のものではない。神から私のパートナーとして与えられた人。そのことを知って初めて本当の夫婦の愛が分かってくるものであります。

やがて子どもが与えられたときもそうでしょう。この子どもは自分たち夫婦で設けたもの。「神さま、あなたはこの子に指一本触れないでください。わたしのものです」というのは、歪んだ愛になっているかもしれません。そうではなくて、この子は神が私たち夫婦に与えてくださった子ども。それをわきまえたときに、初めて子どもへの本物の愛が見えてくるようになります。

自分の両親の場合でも、また家族に限らず、すべてのことに関して、同じであります。すべてが神から与えられたものであるとわきまえる。すべてのことにおいて、神を第一に考える。そうすると、不思議なことかもしれませんが、第二、あるいは第三だと思っていたものを、真実に愛することができるようになるのであります。より少なく愛せよと命じられたものに対して、愛がかえって深まるのであります。

三三節に「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」(三三節)とあります。「同じように」という言葉が出てきます。何と「同じように」なのかと言うと、その直前の三二節の「和を求める」(三二節)ことと同じなのです。無条件降伏することです。神に無条件降伏することが、自分の持ち物を一切捨てることです。家族と縁を切ったり、縁は切らなくても憎しみ合ったりするようなことを主イエスは求めておられるのではなく、神に無条件降伏すること、神を第一にすること、そのことを求めておられるのです。そのようにして初めて、私たちは本当の愛を知る。神を通して、隣人を愛することができるようになる。本物の弟子としての、あるべき私たちの姿が見えてくるのであります。

最後の三四節、三五節のところに、塩の話が出てきます。この話は、マタイによる福音書にもマルコによる福音書にも記されている話です。主イエスの弟子は、塩味のよく効いた塩であると譬えられます。特に、マタイによる福音書の箇所では「あなたがたは地の塩である。」(マタイ五・一三)と主イエスがお語りになられています。

この地上の大きさに比べれば、主イエスの弟子は少ないかもしれません。同じように、料理全体の中の塩の分量は少量かもしれません。しかし塩気がしっかりとしている塩ならば、その料理全体を引き立たせることができます。主イエスの弟子は、この世に愛の塩味を味付けすることができる、真実の愛に生きている者なのであります。

主イエスが今日の話をお語りになられたこのとき、エルサレムに向けての旅の途上でありました。来週から第一五章に入ります。見失ったものを見出す三つの譬え話を主イエスはお語りになられます。見失ったものを見つけ出し、神が大喜びをする譬え話です。なぜ神が大喜びをされているのか。それは、今日の聖書箇所に沿って言うならば、ご自分の失った弟子を再獲得したからであります。私たちを弟子にするために、主イエスはエルサレムに向かってくださる。ご自分の命を懸けて、ご自分の十字架を背負って、ご自分の持ち物を一切捨てて、私たちを愛し、私たちを弟子にしてくださるのであります。