松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2012年2月12日(日)
説教題「神の食卓でのテーブルマナー」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第14章1節〜14節

安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」 彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。 そして、言われた。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」 彼らは、これに対して答えることができなかった。

イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。 招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

旧約聖書: 箴言 第25章6〜7a節

先週、私はいろいろな方と個人的にお話をする機会が与えられました。直接、ご本人と顔を合わせてお話をすることもあれば、パソコンや携帯電話のメールでお話をすることもありました。そのようにお話をしていく中で、この方がこんな経験をされていたとか、こんな苦労をかつてされていたとか、あるいはこれから歩むべき道に不安を抱いておられるとか、様々なことを知ることができました。

このようにして、いろいろなことを知ることができると、私の祈りも新たにされるものです。その場ですぐにその方と祈りをすることもありました。あるいは私が自宅に戻ってから一人で祈りをすることもありました。聖書には「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマ一二・一五)とあります。

私たちが問われているのは、どれほどその人の近くに立つことができるかということだと思います。人が喜んでいれば、その人と一緒になって喜ぶことができる。悲しんでいればその人と一緒に悲しむことができる。その場で一緒に祈りをすることもそうだと思います。その場で一緒に祈りをしないで、一人で祈るときもそうだと思います。私たちがその人とどの程度にまで隣人になることができるのかが問われているのです。

本日、私たちに与えられたルカによる福音書の箇所は、食事の席での話です。食事の席というのは、隣人になるために絶好の機会です。あの人と話をしたい、親しくなりたいと思うならば、一つの方法は一緒に食事をすることです。

ところが、今日の聖書箇所ではあまりそのような雰囲気は感じられません。人と親しくなるような、和やかな食卓ではどうもなかったようです。最初の一節のところですが、主イエスが食事の招待を受けて、食事の席につかれたわけですが、「人々はイエスの様子をうかがっていた。」(一節)とあります。主イエスを試してやろうというような、不穏な空気を感じる言葉です。

ファリサイ派の人たちは、神から与えられた律法を厳格に守ろうとした人たちです。自他ともに立派な生活をしていると認められていた人たちでありました。特に今日の聖書箇所に出て来るファリサイ派の人は「議員」(一節)でありました。有力者であったと思われます。それなのになぜ「水腫を患っている人」(二節)がこの場所にいたのでしょうか。

ファリサイ派の人たちは潔癖であることを重んじましたから、食事の席にこのような人を招くことはほとんどなかったと思います。実際に、主イエスがこの人を癒されますけれども、癒しが終わると、主イエスはこの人をお帰しになられました(四節)。食事に招かれた客ではない。それではなぜこのようなところにいたのでしょうか。

一つの可能性は、当時の食事の席には誰でも比較的、自由に出入りができたということが考えられます。主イエスは以前にもファリサイ派の人と一緒に食事をされたことがありました。その時には、聖書のそのままの表現で言えば「罪深い女」(七・三七)が食事の席にやってきました。当然、食事に招かれた客ではありません。香油の入った壺を持ってきて、その香油で主イエスの足を洗ったのであります。見ている人たちは唖然としたことでしょう。

しかしファリサイ派の人たちも、その女が家の中に入ってきたこと自体は咎めませんでした。だからこの水腫を患っている人がその場にいたとしても、問題ではなかったのです。主イエスにお会いしたいという一心で、この人はこの場にやってきたのかもしれません。

しかし別の可能性もあります。それは、ファリサイ派の人たちがわざと、意図的にこの人をこの場所に連れてきたのではないかということです。人々は主イエスの様子をうかがっていたのです。主イエスを試そうとして、何か訴える口実を得ようと、じっと主イエスの様子をうかがっていた。しかし何もせずにただ待っていただけでは、ボロは出さないかもしれない。そこで、わざわざこの水腫を患って人を連れてきたかもしれないのです。

この日は安息日でした。安息日に病人を癒すことに関しては、すでに同じような出来事が起こっていました。聖書のページを一ページ前に戻していただくと、第一三章一〇節のところから、安息日に腰の曲がった女性を癒す話が記されています。主イエスはこの女性を癒してやるわけですが、そこにいた会堂長は腹を立てました。安息日は文字通り休まなければならず、癒しが労働にあたると考えたからです。つまり会堂長の主張としては、主イエスは安息日を守らないといけないという掟を破ったということになります。

そのときと同じように、今度もまた癒しをするのではないか、つまり労働をするのではないか、それをもとに訴える口実を得ようではないかと考えたのかもしれません。実際にファリサイ派の人たちがここで何を考えていたのかは分かりませんけれども、もしそうだとすれば、これはとても悲しいことです。主イエスを訴えようとしたこと自体もそうですが、訴えるために水腫を患っている人を、まるで道具のように扱っていたからです。親しくなるはずの食事の席で、隣人を軽んじるようなことが行われていたのであります。

このようなファリサイ派の人たちの態度に対して、主イエスは言われます。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」(四節)。この問いに対して、ファリサイ派の人たちは黙っていました。先ほどの会堂長の考えとしては「安息日はいけない。」(一三・一四)でありましたから、ファリサイ派の人たちも同じように答えればよかったのかもしれません。

しかし主イエスを訴える口実を得ようと思って、ここは黙っていたのかもしれません。主イエスはその答えを待たずに、実際に癒しをされた上で、さらに言われます。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」(五節)。

私はこの聖書箇所を読んだときに、五節の主イエスの言葉にぎくりとさせられました。特に「自分の」という言葉に関してそう思わされました。水腫を患っている人は二千年前の人ですし、聖書のこの箇所にしか出てこない一人の人間にすぎません。この人の身になって考えるには、少し遠すぎる人かもしれません。少なくともその場にいたファリサイ派の人たちにとっては、水腫を患っていた人の痛みなど、まったく感じることはなかったと思います。しかし主イエスは、その人の痛みを「自分の」ことであると言われた。目の前にいる水腫を患っている人の痛みを、「自分の」子どもや家畜が井戸に落ちたようなものだと言われるのです。

説教の冒頭のところで、先週、様々な方とお話をする機会があり、その方々を覚えて祈りをしたと申し上げました。私たちも人の痛みを「自分の」痛みとして覚えることができるのかが問われています。少しでも相手に寄り添って話を聞き、祈りに覚えたいと思います。そのように祈りをするときに、私たちが心に刻まなければならないことは、主イエスがご自分の痛みとして覚えてくださったことです。水腫を患っている人の痛みをご自分の痛みであるとして癒しをしてくださったように、私たちの痛みも覚えてくださり、私たちの隣人になってくださっているのです。この食事の席でまず起こったのは、そういう出来事でありました。

本日、私たちに与えられた聖書箇所は、六節までだけではなく、七節以降も続けられています。多くの説教者たちも六節までで切らずに、七節以降も一緒に説教を行っています。同じ食事の席での話はまだまだ続くのです。主イエスがなおも言葉を語り、その食卓を正さないといけないような状態にあったからです。七節のところには「招待を受けた客」(七節)という言葉があります。そして一二節のところには「招いてくれた人」という言葉があります。つまり、招待を受けたゲストと、招待をしたホストの人に対して、主イエスが言葉を語られているわけです。

私は以前、アメリカの家庭で何度か食事に招いて頂いたことがあります。中でもよく覚えているのは、日曜日に教会の礼拝に行った後に、突然、私を招いてくださった家庭です。日曜日の午前中、私が一人で教会に出かけて行きました。礼拝が終わり、教会の玄関付近でコーヒーのサービスがありまして、コーヒーを飲みながら立ち話をしていましたら、ある方がお昼をうちに食べに来ないかと私を誘ってくださったのです。私が一人でお昼を食べることになると気を遣ってくれたのかもしれませんが、せっかくお招きを受けたのだから、食事をいただくことにしました。私がゲストになり、その方がホストになってくださったということになります。

そのご家庭は家族が多く、子どももたくさんおりました。日曜日ということで、親戚の人も集まっていました。食卓から人があふれて、子どもたちがソファーのところで食事をすることになりました。突然その家の昼食にあずかることになった私は恐縮していたわけですが、どうぞどうぞと言って私を食卓の席に導いてくださいました。家族みんなで祈りをしてから、昼食をいただきます。招いてくれた方は、私のことはもちろん、子どもたちのことも、きちんと食事は行き渡っているだろうかというような具合で、常に気遣っておられました。食事が終わると、食後の祈りもします。その祈りをして、食事が終了ということになりました。

このような食事の経験は一度や二度ではありませんでした。何度もアメリカの家庭での食事を経験しましたが、どの家庭でもここには愛があるというような食卓でありました。もちろん、このような食卓はアメリカだけの話ではないでしょう。日本においても、私たちの間にも、この教会でもこのような愛のある食卓を見出すことができるでしょう。

ルカによる福音書に戻りますが、食事の席に招待を受けたゲストの人に対しても、招待したホストの人に対しても、主イエスは言わなければならないことを見出されて、口を開かれました。一節から六節のファリサイ派の人たちに見られたのと同様、やはり愛の欠けている食事の席だったからであります。

まずは招かれた人たちに対してですが、上席につかずに末席につきなさいと主イエスは言われます。招待を受けた客の人たちが上席に座ろうとしていたから、主イエスはこう言われたわけですが、私たち日本人は状況にもよりますけれども、どちからというと末席に座りたがると思います。人を押しのけて上席に座るようなことはない、だから自分は主イエスの言葉に反していない、大丈夫だと思うかもしれません。しかし日本人は過度に末席に座りたがるようなところがあります。場合によっては人を押しのけてでも末席に座りたがるようなところもある。主イエスは末席に座ってさえいれば大丈夫ということを語られたのではないと思います。

主イエスが語られたのと同じようなことが、本日合わせて与えられました旧約聖書の箴言にありました。「王の前でうぬぼれるな。身分の高い人々の場に立とうとするな。高貴な人の前で下座に落とされるよりも、上座に着くようにと言われる方がよい。」(箴言二五・六~七)。

箴言には多くの知恵が書かれています。しかしこの知恵をどのように活用していくかが問題となってきます。主イエスはここで、世間を上手にやりくりしていくための知恵を語っておられるのでしょうか。上席について後で恥をかくくらいなら、最初から末席に座っておいた方が身のためだ。誰にでも語り得るような、その程度のことを言われているのでしょうか。

一二節以降も同じようなことが言えると思います。主イエスはここで食事の席に招いてくれた人たちに対して語られています。お返しを期待できないような人を招きなさいと言われているわけですが、一体、主イエスが語ろうとされている意図は何でしょうか。要するに、この人を招いたからお返しを期待できる、あの人を招いたからお返しを期待できないというようなことは考えるな、ということでしょうか。主イエスでなくても、誰にでも語り得るような、食事のホスト役としての心構えを言われているのでしょうか。

主イエスがここで語られているのはそのようなことではないわけですが、私たちが主イエスの本当の意図を理解するためには、どうすればよいでしょうか。今日の聖書箇所は食事の席での話であります。たしかに一般的な食事の話をされているのかと思われるかもしれません。

しかし、来週の聖書箇所に踏み込むことになりますが、一五節のところにはこうあります。「食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。」(一五節)。この発言をした人がどういう人だったのかは分かりませんが、主イエスの言葉に神の国での食卓を感じ取ったのかもしれません。主イエスのここでの言葉を理解するためには、神の国での食卓を考えないわけにはいきません。

神の国での食卓は、一五節以下の箇所にもありますように、当然のことながら神が私たちを招いていくださいます。神がホストであり、私たちがゲストになります。そのような席に、病を患っているゆえに虐げられている人がいるはずがありません。上席だ、末席だなどとこだわっている人もいるはずがありません。神がお返しを私たちに期待されているはずがありません。神が期待されたところで、私たちに神にお返しができるはずもありません。

だからこそ、私たちは神の食卓ではへりくだる以外にありません。末席こそが自分にふさわしいと思うでしょう。しかし神が私たちを招いてくださり、「さあ、もっと上席に進んでください」(一〇節)と言ってくださいます。私たちは畏れながらも、神が私たちを食卓につかせてくださることを喜ぶのではないでしょうか。

神が私たちにこのようにまでしてくださるのですから、私たちが同じようにしないわけにはいきません。自分がホスト側になるとしても、ゲスト側になるとしても、主イエスの言葉が身に染みてよく分かってくるのではないかと思います。それが分かったときに、私たちがつく食事の席は愛に満たされた食卓になるでしょう。神がまず愛を示して下さり、私たちがその愛を知り、食事の席に愛が満たされるからであります。

神の国での食事の話は来週にもまた話をいたしますが、神の国の食卓は、私たちにとってもはや遠いものではなくなりました。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」(一五節)というように呑気に話すようなことではありません。

私たちの間にもうすでにその食事の前触れが表れています。神が愛を示してくださったからです。何のお返しもできない私たちを招いてくださった愛がある。その愛を知っている私たちがつく食事のテーブルは変わっていくのです。愛のある食卓が表れてくる。私たちがつく食卓は神の国の食卓につながっていくのであります。