松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2012年2月5日(日)
説教題「それでも神の計画は進行する」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第13章31節〜35節

ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」 イエスは言われた。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。 だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。 エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。 見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」

旧約聖書: イザヤ書 第55章8〜11節

一年前に召された方の記念会が、昨日、この礼拝堂で行われました。ご家族の方に加え、教会員の方も多くここに参加をしてくださいました。葬儀のときはもちろんですが、記念会ときも礼拝を行います。折がよくても悪くても、私たちは神を礼拝するのです。召された方を神が私たちの間に与えてくださったことを感謝し、そして残された私たちの導きを祈る。そのために私たちは御言葉を聴き、礼拝を行うのです。

昨日の記念会の礼拝の説教をして思わされたことですが、信仰者として召された方の生涯を振り返ってみるときに、その方の支えになったのはやはり信仰であります。昨日、記念会を行った方もそうでありました。この方は、もともと東京におられましたが、戦火を避けて松本に来られた方です。戦争が終わり、そのまま松本に住まわれましたが、多くの苦労をされた方です。

その方もご家族も、もともと信仰者だったというわけではない。あるときにお母様がキリスト者の方と知り合い、その方が頻繁に家を訪ねて、お母様に向かって聖書の話を熱心に何時間もしてくださったそうです。一間しかない家だったようで、子どもである自分も家にいるときは、その方の聖書の話を聴かないわけにはいかなかった。何度も何度も、その方の話を聴いているうちに、ついてお母様が「イエス様を信じます」と言われたそうです。

お母様が言われるには、「イエス様を信じます」と言ったのと同時に、世の中がパッと明るくなったそうです。別に困難な状況が少しもよくなるわけではない。折がよくなるわけでもない。相変わらず苦労の多い生活は続いたようですけれども、お母様は強くなり、明るくなられた。母の後を追うようにして、その方も神を信じるようになり、実際に信じてみると、何か大きなよりどころが与えられたような思いがしたそうです。

信じることができる、これはとても幸いないことだと思います。人を疑ってばかりいて、なかなか信じることができないのは辛いことです。まして神に対してはなおさらです。たとえ私たちが神を信じている時でも、信じることができなかった時でも、神が神であられることに変わりはありません。私たちが信じた瞬間に神が神になるというわけではない。神はいつでも神であられます。神を信じるということは、今までずっと変わることのなかった神を私が受け入れること、私が信じることであります。

そのような意味で、私たちが持つ信仰はいつの時代にも変わることはありません。教会の歩みは二千年前から始まっています。教会が記してきた古い文章を読んでも、今の私たちの信仰と変わるところがないと思わされることがしばしばあります。そもそも、聖書は二千年前に書かれて今でも信仰の書として読まれているわけですから、神はずっと変わることのなかったのであります。

私たちが問われるのは、その神を信じるのかどうかということです。もしも神が永遠不変のお方で、私たちのためにすでに救いの出来事を成し遂げてくださっているのなら、その神を信じることができないのは辛いことです。そうではなくて、神を信じる。イエス・キリストを信じる。このお方が私の救い主であると信じる。この信仰から、私たちの目が開かれる。世界の見え方が変わってくるのであります。

本日、私たちに与えられましたルカによる福音書の箇所を先ほど朗読いたしました。この聖書朗読をお聴きになられた感想を皆様に伺いたいというような思いもいたします。目の曇りがなかなか晴れないという思いを抱いておられる方もあると思います。一体、主イエスはここで何を言われているのだろうかと思われている方も多いと思います。

そのような私たちの曇った目が晴れるためにも、イエス・キリストというお方が私たちの救い主であることから始めなければなりません。言い換えますと「イエス様を信じます」というところから始めなければ、この箇所は絶対に理解することができないと思います。

この聖書箇所にはエルサレムという地名が何度か出てきます。旧約聖書に限らず、新約聖書にもエルサレムという言葉はたくさん出て来るわけですが、とりわけルカによる福音書と、同じルカが書きました使徒言行録には、エルサレムという言葉がたくさん出てきます。つまり、ルカはこの福音書を書くにあたり、エルサレムを大事にしました。主イエスは初め、エルサレムから遠い地方で伝道を始められ、そしてだんだんとエルサレムに近づかれ、そしてエルサレムでクライマックスを迎える。ルカの福音書の書き方はそうでありまして、今日の箇所ではエルサレムに向かっての旅の途上であります。

しかしそうは言っても、主イエスがエルサレムでなさったクライマックスのことを抜きにしては、この聖書箇所は意味を持たないものになってしまいます。「ヘロデがあなたを殺そうとしています」(三一節)という言葉が始まっていますけれども、やはりここでの話の中核となるのは死です。主イエスがどのような形で死を迎えるかということです。

主イエスはこのときすでに、ご自分のクライマックスをご存じでした。すでにエルサレムに向かう決意も固められ、死と復活の予告もされています。主イエスのここでの言葉もそのことに基づいています。自分が救い主として何をしなければならないのか、すでに神の御心を悟り、そのことが心の中にあったのです。

これに対し、主イエスの周りにいた者たちは、当然のことかもしれませんけれども、主イエスの心の内を誰も悟っていませんでした。ファリサイ派の人々がここで現れ、「ヘロデがあなたを殺そうとしています」(三一節)と告げています。ヘロデというのは、ガリラヤ地方の領主です。主イエスはこのときガリラヤ地方からエルサレムに向けての旅をされています。主イエスがこのときにおられた地域は、まだヘロデの力が及ぶ範囲だったのかもしれません。自分の領地を去る前に、このイエスという男をなんとかしたいと思ったのかもしれません。

特に主イエスは、自分が殺した洗礼者ヨハネが生き返ったのではないかと人々が噂をされるくらいの人物でした。だからこの男も殺しておかなければならないと考えたのかもしれません。主イエスが心の中で抱いていた思いなど、知る由もなかったのです。

ヘロデが主イエスを殺そうとしていると伝えてくれたのは、ファリサイ派の人たちでした。聖書の中にはしばしば主イエスとファリサイ派の人たちが対立したことが記されています。ファリサイ派の人たちは律法を厳格に守ることを主張して、実際にそれを実践していましたが、形ばかりのものになることも多かった。主イエスはそういうファリサイ派の人たちを批判しました。しかし常にやりあっていたわけではなく、時には一緒に食事をされたりもしています。来週、私たちが御言葉を聴こうとしている箇所も(一四・一)、ファリサイ派の人との食事の席でのことであります。

ファリサイ派の人々はこのとき主イエスが殺されてしまうと本気で心配したのかもしれません。しかし別の解釈もあります。ファリサイ派の人たちにとって、主イエスは自分たちを批判してくるわけですから、いわば邪魔者でした。ですので、主イエスを追い出すためのうってつけの理由を見つけたと思ったのかもしれません。主イエスのことを心配するように見せかけて、実は主イエスにここから出て行ってほしいと思って、このように言ったのかもしれません。

ファリサイ派の人たちの真意は分かりませんが、いずれにせよ、主イエスの心の内はまったく知る由もありませんでした。ヘロデも自分の勝手な思いで主イエスを始末しようと思っている。そのヘロデのことを、主イエスは「あの狐」(三二節)と呼ばわれます。狐という表現は、ずる賢いものという意味があったのだそうです。ヘロデもずる賢く自分のことばかり考えていたのから、主イエスがこのように言われたのかもしれません。主イエスのことを追い出したい、自分のことばかりを考えていたのはファリサイ派の人たちも同じでした。

このように考えますと、主イエスはすでに心を定めておられ、その道をまっすぐに進もうとされていたにもかかわらず、ヘロデやファリサイ派の人々をはじめ周りの人たちは、主イエスの心の内をまったく悟らず、主イエスを違う方向へと追いやろうとしていました。

これに対して主イエスは言われます。「わたしは今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える」(三二節)。「三日目に」という言葉に、主イエスが十字架にお架かりになり、三日目に復活されたということを読み取ることもできるかもしれません。しかし続く三三節に「今日も明日も、その次の日も」(三三節)とありますから、今日も明日も明後日も、私は自分のなすべきことを行うのだ、あなたがたがどう言おうと、どう計画しようと、私は私の道を行くという主イエスの決意を読み取ることができます。

主イエスと周りの人たちとの思いにかなりのずれが生じていたわけです。そしてこの聖書箇所を理解するためには、主イエスの思いを理解することが鍵になります。私たちも主イエスと心を合わせて、聖書の言葉を聴きたい。聖書の言葉を聴くだけでなくて、主イエスと心を合わせて生きていきたいと思います。なぜなら、しばしば私たちは主イエスに心を合わせることができなくなるからです。

私たちはしばしば自分たちの思い通りに神が動いてくださらないことを経験します。ヘロデやファリサイ派の人々たちがそうだったように、主イエスが思い通りに動いてくれないことを経験する。私は今日も明日も明後日も自分の道を行くと主イエスに言われてしまう。そういうときには、私たちの心の内と、神の心の内がずれているのであります。

神は何度も何度も、私たちの心を整えようとしてくださいました。三四節にこうあります。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ」(三四節)。預言者というのは、神から言葉を預かって、神の言葉を人々に語る務めを与えられた人のことです。神が預言者をたくさん人々のところにお遣わしになったけれども、人々はその言葉を聴くどころか、逆に預言者たちを殺してしまった。激しい言葉ですけれども、人間は神からの語りかけに耳を貸さず、神に心を合わせようとしなかったのです。

そしてついに、預言者どころではない、神の独り子が人々のところに遣わされました。私たち人間の対応は、預言者のときと同じでした。神の独り子に心を合わせようとしない。ヘロデやファリサイ派の人々のように、自分の思いで主イエスを扱ってしまおうとするのです。

最後の三五節にこうあります。「言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」(三五節)。「主の名によって来られる方に、祝福があるように」という言葉は、主イエスがエルサレムの町の中に入られたときに、人々が主イエスに声を掛けたときの言葉であります。つまり主イエスがエルサレムに入る時まで、私のことをもはや見ないであろうという意味です。

実際にヘロデも主イエスが十字架にお架かりになる直前、主イエスに会うことができました。ここでのファリサイ派の人々もそうだったのかもしれません。しばらく主イエスのことは見なくなるが、次に会ったときには主イエスはやはりご自分の道を着実に進まれていた。私たちが知らないところでも、着実に神はご自分の計画を進めておられるのであります。

そのようにして十字架の出来事が起こりました。私たちが予想もしなかった神の御計画でありました。誰一人その計画に気が付くことがなく、主イエスを嘆かせてしまったほどでありました。私たちにとって、気が付いてみたら、すでに主イエスが十字架にお架かりになっていた。もはやこれは過去の出来事です。私たちが信じようと、信じまいと、この出来事は変わらないのです。着実に神はご自分の計画を実行してくださったのであります。

神はそのご計画に従って、今度こそ、「めん鳥が雛を羽の下に集めるように」(三四節)、私たちのことを集めたいと願っておられます。私たちの人生において、今までに何度も神の語りかけがあり、何度も神の導きがあったか分かりません。預言者を殺すようにして、私たちは何度もそれを拒否していたかもしれません。しかしそのようなときも、主イエスは決してご自分の歩みからぶれることなく、私たちの罪を赦し、救うというご計画をやめられることはありませんでした。

神を信じる信仰者は、いつでも人生をやり直すことができます。今まで神のご計画を知らず、神の語りかけを無視し、神の導きに背を向けていたとしても、神は私たちの救いのご計画を練っていてくださり、着実にそれを実行してくださったからです。私たちは本当に遅ればせながら、そのことに気付かされるのです。そのことに気が付いたときから、人生をやり直すことができます。「イエス様を信じます」、「私のために、私の知らないところで、救いのご計画を練っていてくださった、イエス様を信じます」と言って、人生を新たに始めればよいのであります。