松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2012年1月22日(日)
説教題「救いの扉がここにある」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第13章22節〜30節

イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。 すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。 そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。 しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。 あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。 そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」

旧約聖書: 詩編24編

本日、私たちに与えられた聖書箇所の最初のところにこうあります。「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。」(二二節)。この福音書を書いたルカが、このような説明を挟んでくれました。私たちは忘れっぽいところがあります。主イエスはこのとき旅をされていて、たくさんの人に出会ってくださり、いろいろなことをしてくださり、様々なことを語って下さいました。そのような一つ一つの出会い、一つ一つの言葉ばかりに心を奪われてしまい、主イエスの本来の目的は何だったのか、忘れてしまう私たちです。

主イエスの旅の目的は、第九章五一節に記されていました。「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」(九・五一)。以前、このところの説教でも申し上げましたが、ルカによる福音書は第九章五一節を境に、新たな区分に入ります。それまではガリラヤ湖という湖を中心とする地で活動をされていた主イエスが、エルサレムという目標を明確に定められる。そしてエルサレムに向けての旅を始められます。

ルカによる福音書のもう一つの区分は、第一九章二八節のところから新たに始まります。「イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。」(一九・二八)。エルサレムに向けての旅をついに終えられ、エルサレムの町の中に入っていく。ここからが新たな第三区分になります。

このように考えますと、主イエスは第九章の終わりから第十九章にかけて、ずっと旅をされている。しかもその旅の目的地はエルサレムだ。ルカはそのことを改めて思い起こさせるために、忘れっぽい私たちのために、主イエスは「エルサレムへ向かって進んでおられた。」(二二節)と記すのであります。

この旅の出発地であったガリラヤ湖周辺から旅の目的地であるエルサレムまでは、百キロちょっとというところでしょうか。当然、歩くわけですが、まっすぐ目的地に向かえば、ほとんど誰とも会わずに、ほとんど言葉を語らずに、一直線に黙って旅をすれば、数日で着いたと思います。ところが、主イエスはそうなさならなった。ルカは第九章から第一九章まで、ほぼ十章にわたって、主イエスの旅を記していくのであります。他の福音書よりもずっと詳しく、主イエスのエルサレムに向けての旅の様子を記してくれました。第九章から第十九章まで、ルカによる福音書独自の物語もたくさんあります。主イエスはゆっくりと旅をされたのです。たくさんの人に出会い、いろいろなことを語って下さったのであります。

主イエスは、今日の聖書箇所のところで、村や町を巡られていろいろなことを語っておられたわけですが、そこで出会った一人の人から、こんな質問を受けました。「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」(二三節)。主イエスはこのときばかりでなく、いろいろな質問を受けました。そしてそれに答えてくださっているのですが、たいていの場合、私たちは主イエスの質問の答え方に驚かされます。こちらが聞きたいと思っていた答えとは少しずれた答えをされるからです。

このときの質問は「救われる者は少ないのでしょうか」(二三節)ということでありました。まともにこの質問に答えるならば、「その通り、救われる者は少ない」と答えるか、それとも「いや、救われる者は多い」と答えるかのどちらかです。ところが主イエスはそうは答えられません。この人が気付かなかったような、もっと深いところを突いた答えを用意されたのです。

そもそも、救われる人は多いのか少ないのかと論じることはおかしなことかもしれません。神の国に住むことができる住居の数に制限があるのかと聞いているようなものだからです。たくさんの人が住むことができるくらい、住居数は多いのか少ないのか、一体どちらなのか。あるいは、神の国の食事のテーブルにつくことができる椅子の数は多いのか少ないのか、一体どちらかと聞いているようなものです。

神の国の容量がどのくらいなのかという問いの答えになるような言葉を、あるとき主イエスはこう言われています。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。」(ヨハネ一四・二)。容量はたくさんある。もしも不足しているとすれば、主イエスご自身が場所を用意してくださる。そして用意してくださった後、私たちを迎えに戻って来てくださるとまで言われます。私たちは神の国が大きいのか小さいのか、つまり救われる人が多いのか少ないのか、このことはあまり問う必要がないのです。

むしろ、それはあなたの問題だと主イエスは言われます。「救われる者は少ないのでしょうか」という問いは、客観的な問いです。この人は救われるけれども、あの人が救われないというように、自分だけは一歩身を引いて、救いの事柄を外から見ているような感じがします。ところが主イエスは救いをそのように見ることをお許しにならない。二五節以降、「あなたがた」という言葉が何度か出てきます。質問をした人を含めた「あなたがた」です。多いのか少ないのかと客観的に問うのではなくて、その問いに自分も飛び込まなければならないのです。

私たちも、自分のことはさておいて、客観的にいろいろなことを考えてしまうところがあります。例えば「罪とは何か」という問いを考えるとします。もちろん、このことを考えることは、私たち信仰者にとって大切なことです。「罪とは何か」を客観的に考えてみる。罪とは、神を愛せないこと、隣人を自分のように愛することができないことだと説明されます。隣人を愛することができない罪の中に、人を殺してしまうことがあります。神も明確に「殺してはならない」(出エジプト二〇・一三)と言われています。

こういうふうに客観的に罪を考えているようでも、自分は大丈夫だろうかと考えざるを得なくなります。自分は人を殺したことなどない、だから大丈夫だと安心する。ところが「殺してはならない」ということは、実際に人殺しをすることだけでなくて、心の中であの人などいなければよいのにと思うことも含まれるということを聞く。そうすると、ああ、自分も「殺してはならない」という戒めを守れていないというようになる。さらに「殺してはならない」ということは、人を殺すどころか、自分の隣人を生かさなければならないことだと聞く。果たして、自分の妻は生き生きとしているだろうか。自分はそのためにどれほどのことを妻にしているのかと問わざるを得なくなる。

このように私たちは一歩身を引いて、客観的に様々な問いを考えているようでも、次第にその問いの中に引きこまれてしまうのです。「あなたは一体どうなのか」と言われてします。問わざるを得なくなってしまうのです。

このときの主イエスもそうでした。「あなたの問題ですよ」と主イエスは言われるのです。あなたの問題だと言われて、私たちはどうすればよいでしょうか。狭い戸口から入るように努めなければなりません。しかもこの扉は開いているうちに入らなければなりません。自分の力で開けるのではなくて、扉を開いてもらう。主イエスもあるとき言われました。「門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(一一・九)。「門をあなたの力で開けなさい」と言われたのではなく、たたいて開いていただきなさいと言われた。主イエスの話によれば、門あるいは扉から神の国の内部に入ることが、救いになると言うのです。

そうすると、一体誰が入ることができるのかという問いになってきます。客観的に問うのではなく、主観的に問うとすれば「私は中に入れるのか」という問いになります。この問いは、本日私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所に記されていました。「どのような人が、主の山に上り、聖所に立つことができるのか。」(詩編二四・三)。答えは続く四節にあります。「それは、潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく、欺くものによって誓うことをしない人。」(詩編二四・四)。

これも客観的に書かれていますが、自分はどうなのかということを考えてみる。私は潔白な手を持っているだろうか。その手で正しいことをしているだろうか。私は清い心を持っているだろうか。その心で隣人を愛しているだろうか。私はむなしいものに心を奪われていないだろうか。そんなことを考えてみる。そうすると多くの人は、自分は入れないのではないかと思うでしょう。門が固く閉ざされていて、中に入れないのではないかと思わされます。

ところが、この詩編第二四編はとても興味深い終わり方をしています。「城門よ、頭を上げよ。とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる。栄光に輝く王とは誰か。強く雄々しい主、雄々しく戦われる主。城門よ、頭を上げよ。とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる。栄光に輝く王とは誰か。万軍の主、主こそ栄光に輝く王。」(詩編二四・七~一〇)。「とこしえの門」とまで表現されています。固く閉ざされていた門であるのかもしれません。今まではびくともしなかった。私たちが入りたくても入ることができなかった。しかし今や「栄光に輝く王」「万軍の主」が来られると言う。そうすると、今まで閉ざされていた門が開かれる。中に入ることができるようになるのです。

主イエスが、このときエルサレムに向けての旅をされていたことを、思い起こすことにいたしましょう。ルカによる福音書のクライマックスは、エルサレムでの主イエスの十字架の出来事です。何のために十字架に架かって下さったのか。私たちの罪が赦されるため、私たちの代わりに裁きを受けて下さるため、主イエスは十字架にお架かりになって下さいました。私たちの罪が赦されて、神の国への門が開かれた。中に入ることができるようになったのです。

そのようにして入ることができるようになった神の国とは一体どのようなところでしょうか。神の国には神がおられます。主イエスがおられます。私たちのために食卓が用意されています。椅子が用意されています。そこで食事に与ることができます。そのようなところに入りたいでしょうか? 入りたいと思うでしょうが、躊躇してしまう思いもあるかもしれません。自分は相応しいだろうか? 明らかに相応しくない。だから入ることに躊躇をしてしまうのです。

神の国に限らず、教会に入るか入らないかということでも、躊躇することがあると思います。洗礼を受けようかどうか、教会員になろうかどうか、躊躇することもあるものです。躊躇する理由としては、教会の人たちの誰もが立派に見える。色で言えばみんなが白く見える。それに比べて自分には黒い部分が多い。こんな自分は相応しくないのではないか。教会に入れないのではないか。洗礼を受けることができないのではないか。教会になれないのではないかと思ってしまう。

ところが白く見えていた教会員の方は、しばしばこのような祈りをしています。「こんな罪人の私を愛してくださり感謝します」。自分が白ではなく、黒であることをよく知っている。もし白く見えたとすれば、それは白くしていただいたから白く見えるのであります。この人は黒から白にされたのです。

神の国に入るために、私たちは白くあらねばなりません。二七節のところで「不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」と神は言われています。不義とは正しくないこと、罪があることです。黒いことです。このままでは神の国に入ることができません。だから私たちに必要なのは、黒を白にしていただくことです。

主イエスはあるとき言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない。」(ヨハネ一四・六)。主イエスがこのように言ってくださったのは、実は先ほど引用しました箇所、「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。」(ヨハネ一四・二)という箇所の直後です。つまり主イエスこそが唯一の道です。父なる神に至るための唯一の道なのです。主イエスがこの道を切り拓いてくださり、狭い戸口を示してくださいました。私たちをそこへ導き入れるためです。主イエスの十字架によって黒から白へとされた私たちは、この道を通ることができます。救いの扉から入っていくことができます。神の国に至ることができるのです。

私たちを神の国に導き入れる旅を主イエスはされています。その目的地はエルサレム。十字架がますます色濃くなってきます。しかもこの旅はゆっくりと歩んでくださった旅でした。いろいろな人に主イエスが出会ってくださる。私たちもまたその一人です。もはやこの旅を客観的に見ることはできません。もはや客観的に十字架とは何かと問うことはできません。私のために主イエスが旅をされた。私に出会ってくださった。私のために十字架にお架かりになってくださった。私が神の国に入る出来事を、主イエスはすでに始めて下さっているのであります。