松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2012年1月15日(日)
説教題「小さいものを大きくする神の力」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第13章18節〜21節

そこで、イエスは言われた。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」また言われた。「神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。

旧約聖書: 申命記 第7章6〜8節

『ローズンゲン』という小さな書物があります。表紙のところに「日々の聖句」と印刷されていますが、文字通り、一日ごとに短い聖書の言葉が記されている書物です。お使いになられている方も多いと思います。その日ごとに、旧約聖書から一カ所、新約聖書から一カ所の聖書の言葉が印刷されています。ローズンゲンを開いて読むのに、時間は一分も必要ありません。私の家でも食卓のすぐ手が届くところにローズンゲンが置かれていて、食事前にローズンゲンに記されている聖書の言葉を読み、祈りをして、食事をいただいています。ローズンゲンはとても手軽に用いることができ、祈りの生活を整えることができるものであります。

このローズンゲンは、たいてい日々の聖句だけが注目されるでしょうけれども、日々の聖句だけでなく、月ごとの聖書の言葉、またその年全体の聖書の言葉もあります。今年の聖句はローズンゲンのしおりにも印刷されていますが、「わたしの力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(Ⅱコリント一二・九)という言葉です。この言葉は、使徒パウロが書いたコリントの信徒への手紙二の中に記されている言葉ですが、パウロはここで主イエスの言葉を引用しました。パウロが弱さを覚えていたときに、主イエスの声が聞こえてきた。あなたは弱さを克服しようと思っているけれども、私の恵みはあなたに十分ではないか。むしろあなたが弱いと思っているところに、私の力が働くのだと主イエスは言われたのです。

ローズンゲンは最初のところを開いてみると、序文が記されています。これは出版者が記したものですけれども、ローズンゲンはヘルンフート兄弟団というところが出版しています。ヘルンフート兄弟団というのは一つの共同体ですけれども、もともとこの人たちはチェコの人だったようです。けれども迫害にさらされて、チェコを追われてドイツにやってきた。ドイツのその地方はツィンツェンドルフ伯爵という人が治めていましたけれども、ツィンツェンドルフはその人たちを保護しました。そしてその人たちはヘルンフート、すなわちドイツ語で「主の守り」という意味ですけれども、兄弟団を作りました。一七二二年のことであります。

教会の歴史を学んでいても、この出来事は他の出来事に比べると小さな出来事であるかもしれません。分厚い教会史の本を読んでいても、このヘルンフート兄弟団のために割かれているページ数は、一ページか二ページ程度でしょう。今でも大きな共同体というわけではありません。けれどもそんな小さな団体、二八二年もの間ローズンゲンを発行し続け、今では五〇を超える言語に翻訳されて、世界各国で用いられているのも驚くべきことでしょう。

そんなローズンゲンの今年の聖句は、先ほどお話したとおりでありますが、今年の序文のところで、この聖書の言葉を解説してこう記されています。「この一年間、わたしたちと共にある御言葉は刺激的です。この世に御力は、メディアに出没する権力者や有名人を通してではなく、わたしたちが見逃しやすい弱者、病者、障がい者などを通して現されるというのです。…弱い人間が御名によって驚くべき業を成し遂げたことをわたしたちは知っています。…今年も全世界で多くの人々がローズンゲンの聖句を読み、毎日の生活の中で、その聖句を考えることでしょう。その人々は、あなたや私と同様に平凡な、多くの場合、弱い人間ですが、日々の聖句で神の御力の働きと出会うのです。この御言葉に御力が力強く働くのを改めて知るのです」。

本日私たちに与えられたルカによる福音書の聖書の箇所もまた、ローズンゲンの序文と同じことが言えると思います。神の力が小さいところに働く。その小さいものが用いられて、大きな御業になっていくのです。

本日の聖書箇所の最初の言葉は「そこで」という言葉です。「そこで」とは一体何か。先週、私たちに与えられた箇所は、この直前の箇所になります。一人の女が登場します。十八年もの間、腰の病に縛られていた人です。主イエスがその病の癒しなされ、束縛から解放してくださいました。この人は自由を得て、神を讃美しました。一人で讃美し始めたのかもしれませんが、次第に人々がこれに加わっていきました。群衆たちはこぞって、神の御業を喜び讃えたのです。

これも小さな出来事であるかもしれません。聖書に記されなければ、忘れ去らせてしまった出来事です。この癒された人が特別な人だったわけではない。むしろ誰からも目を留められないような人でありました。けれども一人の人の救いの出来事は、決して小さな出来事ではなく、しかもそれが神の国の出来事である。そのことを今日の聖書箇所は私たちに教えてくれます。

二つの譬えが語られています。一つはからし種の譬えです。皆様はこの種を実際に目にしたことはあるでしょうか。私も見たことがあります。手のひらに乗せられていても、小さすぎて顔を近づけないと見ることができないくらいの大きさです。そして実際に蒔かれた種が成長していく様子を見たこともあります。種を蒔いてしばらくしたら、あっという間に背丈を超えるほどの木に成長しました。残念ながら、空の鳥が来て巣を作るほどまでにはなりませんでしたけれども、あの小さな種があんなに大きな木になった驚きはよく覚えています。

もう一つの譬えはパン種の譬えです。パンを作るためには小麦や大麦といった粉が必要です。粉の量からすると、パン種はわずかです。三サトンという粉の分量が出ています。一サトンというのはおよそ十三リットルですので、三サトンというのは四十リットル弱になります。かなりの分量です。ある聖書学者が教えてくれましたが、これはおよそ一六〇人分のパンの分量なのだそうです。粉の量に対してパン種はわずかかもしれませんけれども、焼いていくうちに全体が膨らんで、一六〇人を養うことができるパンへと成長するのです。

二つの譬えは、当時の人にとって、日常と深いかかわりがあったでしょう。からし種の生命力も人々はよく知っていたでしょうし、パンを作るのはもっと日常的なこと、毎日のことだったと思います。主イエスが神の国を譬えで語って下さるのに、いろいろな方法があったかもしれません。どこかの国の話で譬えたり、政治や経済的な話で譬えたり、軍事的な事柄で譬えることもできたかもしれません。けれども主イエスはこのとき、私たちの日常的な事柄から、神の国とはこういうものだと語って下さいました。私たちにとって、神の国は本当に日常的な事柄だからです。

しかも神の国は私たちが気付かないようなところで成長していくと言われます。からし種に限らず、植物の成長していく過程は断片的に観るものです。膨らんだつぼみの花が開く瞬間をなかなか観ることは、テレビの映像などで観ることはできるでしょうが、なかなか観ることはできないと思います。朝起きたら、いつの間にか花が咲いていたということに、たいていの場合はなると思います。からし種も、今の瞬間に一センチ伸びたとか、そういう様子はなかなか見ることはできませんけれども、気付いたときには、ああ、こんなに成長したと驚かされます。

パン種の譬えもそうです。パンを焼くのには時間がかかります。ある人が解説してくれていますが、当時の人の多くは夜のうちに火をかけておき、朝、起きるとパンが出来上がっているという生活パターンだったそうです。仮にそうではなく、昼間にパンを焼いていたとしても、じっとパンの焼ける様子を見ている人はいないでしょう。他にも食事を作ったり、洗濯をしたり、掃除をしたり、やることはたくさんあったでしょう。いつの間にかパンが膨らんでいたということになるのです。

聖書のある箇所に「成長させてくださったのは神です。」(Ⅰコリント三・六)という言葉があります。人間が種を蒔いたり、水を注いだりするかもしれません。パン種を入れて火をかけたりするかもしれません。けれども成長させてくださるのは神であり、私たちが気付かないようなところで神が成長させてくださいます。私たちはその成長の結果を、いつも遅ればせながら気づかされるのです。

そういう意味で、主イエスがこの譬え話を語って下さらなければ、十八年間の病を患っていた人の癒しもまた、神の国の出来事だとは誰も気付かなかったでしょう。この人は毎週の安息日ごとに礼拝に来ていたと思います。この人にとっては日常の生活でした。しかし思いがけずに主イエスに出会い、癒しがなされた。救いがなされた。束縛から解かれた。そして一人だけではない、みんなが讃美の声を挙げている。神の国が日常の中の小さなところから始まったのであります。

このように神の国の出来事はいつも小さなところから始まります。私たちが始めるのではない。神が始めてくださいます。私たちが小さい、弱い、少ないと思っているところで、神の力が働いて、思いがけない結果につながってくるのです。

私たちがこの世界を生きている間に、どうしても直面しなければならない問題は、自分の小ささであります。また、自分一人の小ささだけでなく、自分たちの小ささであります。この世界があまりにも大きい。そんな中で自分はこんなにもちっぽけではないか。大きな組織の中に身を置いていると、自分はその組織のたった一つの歯車ではないか。いや、自分のこの歯車がなかったとしても、組織全体は動いていくし、自分いなくなったとしても、すぐに代わりの歯車がやってくるのだと思わされます。私たちはこういう問題と直面しなければなりません。

教会もまたこの問いをきちんと考えておかなければなりません。私たち数十人が毎週集まって礼拝している。この小さい群れが礼拝をしているのに何の意味があるのか。私一人がこの日曜日に教会に来て礼拝をしている。これは一体何の意味があるのか。あまりに小さな出来事ではないかと思わされるかもしれません。

この問いの答えの一つが、本日私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所に記されています。「宝の民」という印象深い言葉が記されています。この文脈ではイスラエルの民のことを指しているわけですが、私たちの教会のことであると考えても差し支えないわけです。宝の民というからには私たちに何らかの価値があるのではないか、小さな存在ではなく、特別に大きな存在なのかと思ってしまうかもしれませんけれども、そうではありません。むしろ反対のことが言われています。

「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。」(申命記七・七)。そして続けてこう言われます。「ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」(申命記七・八)。

私たちは自分のことを、自分たちのことを小さいと思っているかもしれません。それは確かにその通りです。申命記の言葉では「どの民よりも貧弱であった」と言われているくらいですから。けれども、神があなたを選んでくださった、愛してくださあった。だからこそ、私たちは宝の民になるのです。自分が大きいから価値があるのではなく、神が愛してくださったから価値があるのです。私たちも、私たちの教会もそうです。神が宝の民としてくださらなければ、私たちは自分たちの小ささに押しつぶされてしまうでしょう。

神の御業はいつも小さなところから始まります。イスラエルという大きな民族も、一人のアブラハムという人から始まりました。全世界の救いも、マリアとヨセフという一組の夫婦が用いられました。そしてその家族にお生まれになった主イエス・キリストも、最初はまったくの幼子でありました。やがて主イエスが成長され、やがては十字架にお架かりになられました。十字架の出来事も、一人の男が処刑されたという世界の歴史から見れば、どこにも記されないような小さな出来事だったかもしれません。けれども、神はいつも神の国の出来事を、小さなところから始めてくださるのです。そしてからし種のように、パン種のように、大きく成長させてくださるのです。

この説教の冒頭のところで、ヘルンフート兄弟団の話をしました。最後に、このヘルンフート兄弟団にかかわる話を一つしたいと思います。ヘルンフート兄弟団を有名にした一つの要因は、ジョン・ウェスレーという人に影響を与えたからでした。ウェスレーという人は、十八世紀にイギリスから新世界であったアメリカに渡り、そこでメソジストと呼ばれる教会のグループの形成を中心的に行った人です。今でもメソジスト教会というのは大きなグループでありまして、日本にもたくさんのメソジストの流れをくむ教会があります。

ウェスレーがアメリカに渡ったとき、もちろん船での旅をするわけですが、最初のうち、航海は順調でした。ところが嵐に襲われる。ウェスレーは若い聖職者でした。しかし他の人々のことよりも、自分の身の安全に気を取られてしまった。その船にはヘルンフート兄弟団の人たちが乗っていました。嵐の中、人々がパニックになる中で、彼らだけは讃美歌を歌い、信じられないほど平穏であったようです。

幸い、嵐が収まって、無事にアメリカに着いたウェスレーは、ヘルンフート兄弟団の牧師に訪ねます。その際、ウェスレーとこの牧師の間に、このような対話があったようで。牧師が問います。「君はイエス・キリストを知っているか」。ウェスレーは少しためらって答えます。「世界の救い主であると知っています」。そうすると牧師は続けて言います。「そう。しかし、キリストが君を救ってくださったことを知っているか」。

なんでもないような問いかもしれません。しかしウェスレーはこの問いに衝撃を受けました。イエス・キリストは世界の救い主、そのことは頭で分かっていたかもしれません。聖職者として、それを伝える思いもあったと思います。しかしイエス・キリストが世界の救い主であることは同時に、この小さな私の救い主でもあるということなのです。ウェスレーもこのとき初めてこのことに目を開かれたのでしょう。

私たちも世界の救い主から比べると、本当に小さい存在です。様々な問題を抱えて日常を生きています。自分の小さな力ではどうすることもできないような問題に押しつぶされそうになっています。けれども、私たちの日常に神の力が入り込んでくる。それは私たちが目を留めないような小さなところからかもしれません。しかし世界を救う、その救いの力が私たちにも働くのです。だからこそ、私たちは小ささを嘆く必要はない。むしろ小ささを神の大きな力に委ね、大きな御業にしてくださることを信じることができるのです。