松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2012年1月8日(日)
説教題「まことの自由への解放」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第13章10節〜17節

安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。 イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、 その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。 ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」 しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。 この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」 こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。

旧約聖書: 出エジプト記 第20章8〜11節

本日の説教の説教題を「まことの自由への解放」と付けました。ですから今日のテーマは「自由」ということになりますが、自由という言葉を定義するのは非常に難しいことです。ためしに『広辞苑』で自由という言葉を調べてみますと、二つの意味が載せられています。一つは「心のままであること。思う通り。自在」とありました。なんでもできる自由ということになるでしょうか。そしてもう一つはこうでありました。「責任をもって何かをすることに障害がないこと。自由は一定の前提条件の上で成立しているから、無条件的な絶対の自由は人間にはない」。

二つの意味があるようですが、これら二つはまるで正反対であるかのようです。一つはまったく何をするのも自由。もう一つはある制限のもとで何かをできるという自由です。事典にこのような正反対の定義を付けなければならないくらい、自由というのは定義が難しい言葉です。一筋縄ではいかないのです。なんでもできることが自由かと思って、実際になんでもやってみる。そうすると、こんなはずではなかった。一体、自分は何をやっているのだろうか。なんでもやってみたけれども、実際には何かに束縛されていると思うのです。

私たちは生きている以上、必ず何かに束縛されて生きています。その束縛が、何らかの規則であったりします。社会に生きていれば社会の規則があり、会社で働いていれば会社の規則があり、学校で学んでいる者は学校の校則があります。家で生活していても、家での規則のようなものがあるものです。

中学生や高校生くらいになると、家や学校での規則に縛られていることに閉塞感を感じるものです。家や学校の規則に縛られずに自由に生きたいと思うものです。そのときは、それらの規則から解放されることが自由だと思っています。実際にその規則を破ってみたり、あるいは学校を卒業するなり、家を出るなりして、念願の自由を獲得する。

けれども、どうもその望んでいたはずの自由がしっくりと来ない。確かに今までの制約は少なくなったように思えますけれども、別の制約がまた生じてしまう。なんでも自由に決められると思っても、周りの流行に流されてしまって、自分の考えを貫けないこともあります。あるいは自分がこれまで経験してきたことが土台になりますので、どうしても自分の経験をもとに考えて行動します。あるいは今まで自分が受けてきた教育による影響も大きいものです。もちろん教育だけでなく、文化や風習にも縛られたりするものです。

私たちはこういう中で生きているのです。一方では自由を望み、実際に自由だと思いながらも、何らかの形で制約を受けています。かつてのギリシア哲学などでは、人間は生きている限り、肉体という牢獄のようなものに閉じ込められて束縛されているので、なかなか自由になれないと論じていました。たしかにそうかもしれません。誰もが何らかのことに束縛されている。だからこそ、何が本当の自由なのかということが絶えず論じられてきたのであります。

本日、私たちに与えられました聖書の箇所には、十八年も「病の霊に取りつかれている女」(一一節)が登場します。この人もまた病に束縛されていた人です。一六節の主イエスの言葉によれば「十八年もの間サタンに縛られていた」(一六節)と表現されています。病なのか、サタンなのかという議論はありましょうけれども、いずれにしてもこれは大きな束縛でありました。主イエスによって、この束縛から解放された。自由を得た。

しかしこの人が束縛から解放されて、まったく束縛なく自由気ままの状態になったかと言うと、そうではありません。この人は病から、サタンから解放されて何をしたのかと言いますと、「神を賛美した」(一三節)のであります。腰がまっすぐになって、まったくの自由だ、何をしてもよいと思って、自由奔放にふるまったわけではない。束縛から解放されて自由を手に入れて、何をしたのかと言うと、神を讃美したのであります。自分の上に神を置いた。いわば自分は神に束縛されている。神のものであることを喜び、神をほめたたえて讃美をしたのであります。

もちろん、この人はそれまでも神を自分の上に位置づけていたでありましょう。この人は「会堂」にいた人であります。神を礼拝するためにそこにいたのです。けれども腰に病を抱えていた。礼拝に行くのも、そこから帰るのも、不自由を感じていたでありましょう。礼拝を休まなければならないこともあったかもしれません。あるいは神を讃美するのに、腰が曲がったままで讃美するのにも支障があったかもしれません。ときには腰が曲がったままであることによって、心までもが萎えてしまい、神を讃美する気持ちにもなれなかったかもしれません。

こう考えますと、この人は神を讃美するためにいろいろな障害を抱えていました。腰の病で生活ももちろん大変だったでしょうけれども、それ以上に神のものとして生きるための障害を抱えていたのであります。この人は主イエスに出会いました。そして「婦人よ、病気は治った」(一二節)との宣言を受けました。主イエスと出会って、まだ手を置いて病を癒していただく前に、この宣言を受けたのです。ですからこの人の真の幸いは病の癒しそのものではなく、主イエスとの出会いです。病やサタンの束縛から解放され、まことの自由を得たことです。その自由によって、心から神を讃美する幸いを得たのであります。

今までにお話をしてきただけでこの出来事が終わればよかったのかもしれません。しかし、今日の聖書箇所の内容はそれだけでは終わっていません。一四節の「ところが」という言葉を先頭にして、病の癒しを快く思わない人たちがいたことが記されています。なぜなら、この日は安息日だったからです。

一四節以下の話に入る前に、安息日とは一体どういう日かを考えたいと思います。安息日が明確に定められたときのことが、本日私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所に記されています。この出エジプト記第二〇章の箇所は十戒の箇所です。イスラエルの民がエジプトでの奴隷生活から脱出し、モーセというリーダーに引き連れられて旅をしている最中、十戒が与えられました。

十戒は文字通り、十の戒めです。出エジプト記第二〇章の節の区切りで言いますと、三節「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出エジプト二〇・三)というのが第一の戒めになります。四節からが第二の戒め、七節からが第三の戒め、そして八節からが第四の戒めになります。

このような形で第十の戒めまで続くわけですけれども、最初の二節のところがとても重要になります。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」(出エジプト二〇・二)。この箇所は十戒の前文と呼ばれている箇所です。神が十の戒めを語り始められるにあたり、まず語って下さった言葉です。神から私たちへの自己紹介とも言われています。私があなたがたにとってどういう神であるかを教えてくださっているわけですが、私はあなたを奴隷から解放した神なのだよ、と自己紹介をしてくださっているわけです。私はそういう神なのだから、あなたがたはこれから語る十の戒めを守りなさいと言われるわけです。

「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」(出エジプト二〇・八)という戒めも、十戒のこの前文と切り離すわけにはいきません。週の七日のうち六日は忙しく働くかもしれない。けれども安息日だけはすべての手の働きを止めなさい。止めて何をするのかと言うと、神があなたがたに何をなさったかを思い起こしなさい。安息日は何よりもそのための日であります。

しかもこれに付け加えられて神が語られています。「あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。」(出エジプト二〇・九)。あなた一人が安息日を守るのではない。あなたの家族もそうである。息子や娘はもちろん、あなたの家にいる家族でないもの、奴隷も、家畜さえも、家の外にいる寄留者も同様だと言われるのです。

このことがもっとはっきり記されているのが、出エジプト記第二三章一二節です。「あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである。」(出エジプト二三・一二)。

この箇所から分かるように、安息日は隣人に最も配慮するための日と言えるでしょう。たしかに安息日は自分が神の御業を心に留めて聖別するための日でもあります。しかし自分が安息日を守るために、他人を働かせるというのは間違っているのであります。一緒に休むのです。もし安息日をきちんと守れない隣人がいるならば、最大限の配慮をしてやる。隣人への愛が最も深まるのが、安息日なのであります。

このような考えを、本日私たちに与えられましたルカによる福音書の箇所に当てはめてみたいと思います。会堂長は主イエスが安息日に癒しをされたことに腹を立てました。癒しが労働にあたると考えたからです。安息日は駄目で、他の日にせよと群衆に命じます。

ところが主イエスの反応はまったく違いました。「アブラハムの娘」(一六節)という言葉に、主イエスの意図がよく表れていると思います。イスラエルの人たちが、自分たちが同胞であることを表現する言葉に、自分たちはアブラハムの子孫であると言う言葉がありました。つまり自分たちはアブラハムの息子であり娘であるわけです。

十戒の安息日の戒めによれば、奴隷も他国の人も家畜さえも安息日が守れるように配慮をしなければならないわけですが、自分たちの同胞の者はなおさらでしょう。「この女はアブラハムの娘なのに」(一六節)と主イエスは言われます。もしかしたらこの会堂に十八年も安息日ごとに通い続けたかもしれません。それにもかかわらず、隅のほうに押しやられて、まったく省みられることもありませんでした。隣人に対して最大限の愛が注がれるべき日なのに、それが行われていなかったのです。反対者たちが皆恥じ入ったのも、そういうことが理由なのだと思います。

教会もこういうことがないように、最大限の配慮をしています。今日の礼拝後、長老会がもたれます。長老会では様々なことが報告され、また話し合われますが、教会員の消息を大切にしています。あの方は最近、礼拝に来ることがお出来にならなくなっているけれども、訪問をする必要があるかどうか。この方が教会に来るためにどんな配慮をしたらよいだろうか。様々な方々を覚えているわけですけれども、いわばこれはその方々が安息日をきちんと守ることができるように、教会として配慮をしているわけです。自分一人が礼拝に来ることができればよいというわけではない。誰もがアブラハムの息子、娘なのだということをわきまえる。神が私たちをあらゆる束縛から解放してくださったことを、自分一人だけでなく、みんなで喜び祝い、讃美をする。そういうところが、教会なのであります。

教会では今日でも十戒を大切にしています。「エジプトの国、奴隷の家から」(出エジプト二〇・二)などという言葉があると、イスラエル限定かと思ってしまいますけれども、決してそうではありません。私たちもかつては神ならぬものの奴隷でありました。その束縛を解かれて神の民の一員にされました。主イエスがこのことをはっきりと言われている箇所が、ヨハネによる福音書にあります。

ヨハネによる福音書第八章三一節以下に、自由をめぐる論争が記されています。まず主イエスがユダヤ人たちに言われます。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ八・三一~三二)。そうするとユダヤ人たちが反論します。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」(ヨハネ八・三三)。

これに対して主イエスが再び言われます。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」(ヨハネ八・三四~三六)。主イエスの言葉はさらに続きますが、ここまでにしたいと思います。私たちがたとえ自由だと思っていても、罪に束縛されている限り、罪の奴隷である限り、本当の自由はないと言われます。

罪とは、いろいろな定義をすることができるかもしれませんが、十戒を守ることができないことです。神を愛して、隣人を自分のように愛することができないことです。この束縛から解放していただくことが、ヨハネによる福音書の言葉では「子があなたたちを自由にする」(ヨハネ八・三六)という言葉です。ルカによる福音書の箇所の言葉では、病の霊から、サタンの束縛から解いてもらうということです。罪の奴隷から解放されて、初めて人は自由を得るのであります。

私たちにまことの自由を得させるために、主イエスは十字架にお架かりになってくださいました。罪の奴隷であった私たちを解放するために神が取ってくださった手段は、ご自分の独り子を十字架につけて、私たちの罪を赦すというものでした。私たちの唯一の罪の赦しの方法はそこにあります。十字架にお架かりになって、命を投げ出してまで私たちに自由を与えてくださったこのお方を救い主と信じるのです。

教会にとって、とても大きな喜びは洗礼を受ける者が与えられることです。腰の病を抱えたアブラハムの娘が癒され、救いの出来事が起こった。「群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。」(一七節)と最後に書かれています。本日与えられた聖書箇所で記されている出来事は、今日でも起こる教会での出来事です。一人の方の救いが起こり、教会全体で喜ぶ。讃美の声があがる。これ以上の安息日はありません。安息日は神の御業に心を留め、隣人と共にその御業を喜び祝う日だからであります。