松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2012年1月1日(日)
説教題「今年こそ」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第13章1節〜9節

ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。 イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。 そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

旧約聖書: イザヤ書 第5章1〜6節

主の年二〇一二年を迎えました。新しい年を、新たな気持ちで迎えている方も多いと思います。今日の説教題を「今年こそ」と付けました。先週の日曜日、クリスマスの日の礼拝が終わってから、教会の前にあります看板にも「今年こそ」という説教題を掲げました。先週一週間はまだ二〇一一年でありましたから、「来年こそ」という説教題を掲げておいた方がよかったのかもしれませんが、二〇一二年一月一日の説教の説教題でありますから、「今年こそ」という説教題にいたしました。

「今年こそ」、この言葉は誰の心の中にもある思いだと思います。昨年は様々なことが起こりました。個人としても、家族としても、国としても、世界としても、様々なことを経験しました。特に昨年三月には東日本大震災を経験しました。年末に被災地に里帰りした家族のインタビューがニュースに流れていましたが、みんなが口々に「来年こそは良い年でありますように」と言っていました。

今年こそは良い年になって欲しいというのは、去年よりも今年の方がより良い年になって欲しいということです。つまり同じ年が変化なく続くのではなく、変わって欲しいのです。私たちは無責任に「良い年になって欲しい」と言うかもしれませんが、本当は心の中で、自分が変わりたいと思っているのです。

昨年はこういうことを目指したけれども挫折してしまった。今年こそは自分が変わりたいと思っておられる方もあると思います。昨年は健康上の不安を抱えてしまったけれども、今年こそは健康な自分でいたい。昨年は礼拝生活をきちんとすることができなかったけれども、今年こそはきちんとしたい。祈ることが少なかったけれども、今年こそは祈りの生活を整えたい。様々な思いがあると思います。その思いを実現するためには、やはり自分が変わらなくてはなりません。

新たな年を迎え、何もかもが新しくなったような気分にさせられます。後ろのことを忘れることは簡単です。すべてをきれいに水に流す。そしてリセットされた自分に新たなものを積み上げていく。新年はそういうことができるような気分にさせられます。

しかし後ろをきちんと振り返ることなしには、やはり自分は変わることができないと思います。「反省」という言葉があります。自分の行いを省みること、という意味です。いわば後ろを振り返るわけですが、振り返り方にもいろいろとあると思います。チラッと後ろを振り返っただけで、後ろのことは忘れてしまうならば、本当に反省したことにはならないでしょう。その人はまた同じことを繰り返すに違いありません。本当に真剣に「反省」をするならば、後ろのことを省みるだけでは済まないと思うのです。

主イエスが私たちに求めておられることは、「反省」ではありません。本日、私たちに与えられた聖書箇所で主イエスは「悔い改め」という言葉を二度にわたって使われています。聖書の中で反省という言葉は、新共同訳聖書によれば、四度しか出てきません。旧約聖書で三回、新約聖書では一回だけです。反省という言葉の代わりに、新約聖書では「悔い改め」という言葉が用いられ、旧約聖書では「立ち返る」という言葉が使われることが多くなっています。聖書が私たちに求めているのは、反省することではなく、反省する以上のことです。悔い改めること、立ち返ることを求めているのです。

本日の聖書箇所で、主イエスが二度にわたって悔い改めよと言われましたが、きっかけとなった出来事がありました。それは、「ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。」(一節)という出来事が起こったのです。

「ちょうどそのとき」とはどういう時か。先々週、私たちに与えられた聖書箇所は、ルカによる福音書第一二章五四~五九節でありました。主イエスが群衆に対して語られた言葉が記されています。「どうして今の時を見わけることを知らないのか。」(一二・五六)。「あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。」(一二・五八)。第一三章の悔い改めよという言葉とかかわりの深いメッセージであると思います。今こそあなたが仲直りをするとき、悔い改めるとき、変わらなければならない時であるということです。

主イエスがそのような話をされている「ちょうどそのとき」、福音書を記したルカも、ちょうどタイミングよくと考えたのかもしれません。何人かの人たちがやってきて、ガリラヤ人が被った事件についての話がなされます。彼らの話によれば、「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」(一節)ということです。

血を混ぜるという表現は、ユダヤ人たちがよく用いていた言い回しなのだそうです。神殿で動物の犠牲が献げられるときに、当然、動物の血が流されます。そのことを血を混ぜると表現していたようです。つまり、このガリラヤ人は神殿で血を流すことになった。礼拝をしている最中だったのかもしれません。主イエスを十字架に架けるという最終決定を下した総督であるピラトが、軍隊を派遣して、礼拝の最中にガリラヤ人を殺してしまった。

ピラトという人は、あまり評判の良い政治家ではありません。このときとは別の事件ですが、ガリラヤ人を虐殺する事件も起こしてしまい、ローマに呼び出されてしまうということもあったようです。ですから今回の事件は、悲惨な事件ではありますが、歴史に記されるような大事件というわけではなく、ピラトが起こしてしまった数ある事件のうちの一つ、歴史にも残されないような事件であったのです。

このような悲惨の事件の話に引き続いて、今度は悲惨な事故について、言及されます。今度は人々からではなく、主イエスがこの話を持ち出しました。「また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。」(四節)。シロアムというのは、エルサレムの南東の角にある場所のようです。

ヨハネによる福音書によると、シロアムというところには池がありました。つまり、水があったのです。水はもちろんのこと、生活上とても重要なものです。当時のローマ社会では水道を引くための建築物が造られました。それがシロアムの塔だったのかもしれませんし、大事な水源地を見張るための塔であったのかもしれません。いずれにせよ、シロアムの塔が倒れて、十八人もの命が奪われてしまった。悲惨な事故が起こったのであります。

このような悲惨な事件や事故は、時代を問わずに起こるものです。これらの事件や事故が起こったときに、私たちはどうするでしょうか。事件や事故の当事者になった場合と、外側から客観的に見る場合とでは違うかもしれませんが、私たちは事件や事故がなぜ起こったのかを問うことになります。まあ、いいやということでは済まさないと思います。

ピラトが起こした事件の場合はどうでしょうか。ピラトが悪い、この事件の責任をピラトに帰すことはすぐに思い浮かぶことです。けれどもピラトは先ほども申し上げましたように、数々の悲惨な事件を引き起こしています。人々の心には、またピラトが事件を起こしてしまったのか、という思いもあったでしょう。

また、ピラトに責任を問いたくても、イスラエルはローマに支配されていましたから、自分たちにはそれをするだけの力がありません。そうなってくると、人々の心の中に、こんな思いが浮かんでくるのです。悲惨な事件に巻き込まれたあのガリラヤ人たちは、確かに可哀想な目にあったかもしれないが、彼らにも非があったのではないか。彼らが特別な罪人だったのではないか。

シロアムの塔の場合でもそうです。四節には「シロアムの塔が倒れて死んだ」と記されています。元の言葉では「塔が殺した」となっています。けれども、そんな無生物主語では誰も納得しないと思います。現代ですと、塔の建設作業をしていた人とか、建設作業の責任者に責任が帰されることになるでしょうけれども、当時はあまりそういうようには考えなかったのかもしれません。そうすると、人々の心の中に思い浮かんでくるのは、あの十八人がほかの人たちよりも、特別に罪深かったのではないかということです。

悲惨な事件や事故が起こったときに、人は必ずその原因を問おうとします。別の言葉で言い換えると、因果を問う。こういうことが引き金になって、ああいう悲惨な事件や事故が起こったのだという因果関係を問うのです。この因果がはっきりしないと、人はなかなか納得しないものです。

昨年の三月に震災が起こりました。津波が町を襲いました。原発事故が発生しました。原発事故に関しては、なぜこの事故が起こったのか、ある程度解明できているかもしれませんが、地震や津波はそういうわけにはいきません。もちろん、科学的には十分解明されていると言えるでしょう。プレートに力がたまって、その力が一気に発散された。地面を揺らし、海底を揺らしたので、津波が起こり、町を襲い、人の命が奪われた。このように科学的なことは考えることができるかもしれませんが、私たちは納得できないものです。なぜ、地震や津波が起こったのか。なぜ多くの人の命が奪われたのか。今日の聖書箇所に出て来ているように、命を失った方々が、他の人よりも罪深かったからだと答えるのは誤りです。なぜ東北が、なぜ福島が、なぜ自分たちがという問いは、未だに答えることができません。

主イエスはこのような問いに一体どうお答えになられているでしょうか。今日の聖書箇所では、悲惨な事件と悲惨な事故が起こったことをめぐる話です。主イエスは何とお答えになられているのかと言うと、いずれにも「決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(三節、五節)とお答えになられています。

なぜそんな悲惨な事件や事故が起こったのか、主イエスはそのことにはまったく答えられません。もちろん、事件や事故に遭った人たちが他の人たちよりも罪深いとも答えられません。もっとはっきりこのことを主イエスが言われている箇所もあります。ヨハネによる福音書にシロアムの池が出てくると先ほど申し上げましたが、主イエスはこの池の近くで盲人に出会われます。盲人の目に泥を塗られ、シロアムの池で洗いなさいと命じられます。その通りにすると、盲人は見えるようになったという奇跡が記されています。

主イエスが盲人に出会われた際に、弟子たちが主イエスにこのように問いました。「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」(ヨハネ九・二)。弟子たちも、この人が盲人であるのは、本人か家族が罪深いからだと考えていたわけですが、主イエスははっきりとこう言われます。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(ヨハネ九・三)。

主イエスは悲惨な事件や事故や出来事を、因果では答えられません。私たちは何が何でも因果を探ろうとします。因果がないと納得できないからです。けれども主イエスは、因果などはまったくないのだと言われるのです。悲惨な事件や事故や出来事に対しては、なぜそれが起こったのかという答えを、主イエスは一切語られません。今日の聖書箇所でもそうですし、東日本大震災の意味もまたそうです。神は一切お語りにならない。そのような因果を探ったところで、行き着く先には何もないからです。因果を探っても、結局それは不毛な結果で終わるからです。

旧約聖書にヨブ記という箇所があります。ヨブという人をめぐる話が書かれていますが、ヨブは神の前に正しい人で、たくさんの財産を持っていました。息子も娘もたくさん与えられていて、これ以上はないというような人です。けれども、あるときヨブに不幸が襲い掛かる。財産をすべて失い、息子も娘も全員失ってしまう。最も恵まれた人から最も不幸な人に、突如としてなってしまうのです。

ヨブは問います。自分は正しい人のはずだ。罪など犯していないはずだ。なぜこんなことが起こるのか。なぜ神は何もしてくださらないのか。ヨブを慰めようと、友人たちがやってきます。慰めようと思ってきたはずの友人たちでありましたが、ヨブと議論を始めます。ヨブよ、お前がこんな目に遭っているのは、何か罪を犯したからではないか。いいや、そんなはずはない、私は何も罪がない。何も罪がないなどと言ってのけるところが傲慢なのだ。そんな感じで長い議論が続いていきます。

ヨブの友人たちは、ヨブがこのようなひどい目にあっている因果を探ろうとします。果たしてヨブは友人たちの言葉に納得したでしょうか。ヨブは納得できませんでした。それどころか、ヨブはますます悪くなってしまいます。最初、ヨブは神に対して祈っていました。ところがだんだんと神に祈らなくなってしまう。因果を探ろうとしても、結局のところ不毛な議論で終わってしまうのです。

ヨブ記の最後では、ずっと沈黙を続けられていた神が登場します。けれども、神は因果をもって答えられません。ヨブがなぜこのような悲惨な目に遭ったのか、その答えは与えられないのです。ヨブに対して、神は言われます。「私が大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。」(ヨブ三八・四)、「お前はまた、大地の広がりを、隅々まで調べたことがあるか。そのすべてを知っているなら言ってみよ。」(ヨブ三八・一八)。ヨブがずっと問い続けてきた問いに神はついに答えてくださいませんでしたが、最後にヨブはこう言います。「自分を退け、悔い改めます。」(ヨブ四二・六)。

悲惨な事故や事件や出来事に直面した際に、主イエスはヨブと同じような道をたどることを求めておられます。因果を探るような、不毛な議論をするのではない。そうではなく、「あなたがたも悔い改めよ」と言われるのです。

悔い改めるという言葉は、反省することとは違うと先ほど申し上げました。反省するというのは、自分の後ろを省みることです。反省は自己完結しています。神がおられなくても、自分でできることかもしれません。しかし自分が反省したことを忘れてしまったら、それでおしまいです。去年のことを反省する。反省したはいいけれども、反省したことを忘れてしまったら、また今年も同じことを繰り返してしまうでしょう。

このように反省は自己完結するのに対して、悔い改めというのは神がおられなければ絶対に成立しないことです。悔い改めというのは「向きを変える」という意味があります。神に背中を向けていた、その自分の向きを変えて神の方向に向くことが、悔い改めるということです。旧約聖書では「立ち返る」という言葉がたくさん用いられていますが、神に立ち返るわけですから、神がおられないと成り立たないことです。主イエスは私たちに、神なしでの反省を求めておられるのではなく、神に悔い改めること、神に立ち返ることを求めておられます。

そのことを伝えるために、私たちに一つの譬えをお語りになられました。六~九節にかけての譬え話は非常に分かりやすい譬え話です。ぶどう園の所有者が父なる神で、園庭が主イエスです。そしてぶどう園のぶどうの木が、本日私たちに与えられた旧約聖書の箇所のように、私たち人間であると考えることができましょうけれども、私たちがいちじくの木であると考える方が自然だと思います。

ぶどう園に植えられたいちじくの木は、場違いな場所に植えられたかもしれません。このいちじくの木は、日本語でははっきりしませんが、単数形です。つまり複数のぶどうの木がある中で、一本だけ植えられたいちじくの木です。なぜ自分だけがこんな場違いなところに植えられているのかという思いもあるでしょう。また、ぶどう園というのは、太陽がよく当たる場所であり、ぶどうの木にしてもいちじくの木にしても、条件のよい場所です。周りのぶどうの木はたくさんの実を実らせている中で、なぜかこのいちじくの木は、三年も実を実らせることができなかった。

そろそろ我慢の限界を迎えたようです。切り倒せ、とぶどう園の主人は園庭に命じます。ところが、待ってくれと園庭は言います。このいちじくの木のために、周りを掘って、肥料をやると言ってくれます。いろいろとお世話をしてくれます。いちじくの木としては、園庭が自分の身近にいて、いろいろと世話をしてくれて、多くのよいものに囲まれることになります。

先週の日曜日、クリスマスの礼拝と祝会が行われました。本当にたくさんの方がこの教会に来られました。祝会が終わって、後片付けがあらかた終わったところで、残っていた数人でコーヒーを淹れて飲んでいたときのことです。クリスマスのときにたくさんの方がお見えになったから、そういう話になったのだと思いますが、自分の友人に、信じるものを模索している方がある。その方を信仰に導きたいけれども、どうしたらよいかという話になりました。

私がそのときに申し上げたのは、その方に教会に身を置いていただくこと、聖書の言葉の中に身を置いていただくということです。教会というところは、神を信じてから初めて、来ることができるというはわけではありません。信じるべきものを模索しておられる方も、もちろん来ることができます。そして教会にいるということは、よいものの中に身を置いているということになります。まさに今日の譬え話に出てきたいちじくの木のようになるということです。自分自身をよいもので囲んでいただく。自分自身はすぐには変わらないかもしれません。けれども、園庭が一生懸命お世話をしてくれて、肥料を与えてくれるのですから、必ず次の年は実を結ぶことができるいちじくの木に変わるはずです。

主イエスは私たちにこのようになることを求めておられます。軽く反省をしてちっとも変わらないというのではない。神に悔い改めて、神に立ち返ることを求めておられます。そのことはいちじくの木のように、神が私たちに与えてくださるよいものに取り囲まれるときに初めてできることです。そのようにして、私たちは初めて変わることができるのです。悔い改めることができる。実を結ぶことができるのです。

新たな年になりました。今年こそと思われている方も多いでしょう。昨年はいろいろなことが起こりました。今年もいろいろなことが起こるかもしれません。神さまなぜ、と問いたくなるようなことも起こるかもしれません。けれども、たとえどのようなことが起こっても、神が私たちをよきもので取り囲んでくださいますから、私たちは今年も豊かに実を結ぶことができるのであります。