松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


HOME > 礼拝説教集 > 20111218

2011年12月18日(日)
説教題「今、なすべきことをしよう」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第12章54節〜59節

イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。 また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。 あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。 言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない。」

旧約聖書: エレミヤ書 第31章31〜34節

来週の日曜日、いよいよクリスマスを迎えます。昨日はこどもクリスマスが行われました。礼拝堂の中にあった椅子の多くを外に運び出し、広いスペースを作りました。そこでゲームをしたり、讃美歌を歌ったり、クリスマスの劇をしたり、たくさんの子どもたちが集まって、クリスマスの祝いをいたしました。今週の土曜日にはクリスマスキャンドル礼拝が行われます。そして日曜日はクリスマス礼拝、そのあとに祝会が行われます。たくさんのクリスマスの祝いが、この一週間になされます。

今年のクリスマスの季節に、松本東教会として、教会からたくさんのものを地域の方々に発信しました。いつものように、インターネットで発信したのはもちろんであります。ただしそれだけではありません。クリスマスの礼拝や集会が書かれたチラシをたくさん作りました。チラシには礼拝や集会の予定のほかに、クリスマスの短いメッセージも添えられています。そのチラシを用いて、ご家族や友人、知人をお誘いになった方もあると思います。

また、先々週の土曜日には、新聞の折込チラシを入れました。全世帯に入れられたわけではありませんが、かなりの枚数を折込チラシとして入れ、クリスマスのメッセージを発信しました。その他にも、今年は松本東教会オリジナルのクリスマスのトラクトを作成しました。

トラクトというのは、伝道のために用いられる小さな印刷物であります。先週、皆様のメールボックスに入れておきましたので、すでにお手に取って、ご覧いただけたと思います。教会員の方が書いてくださった文章と、私が書いた文章が載せられて、きれいにデザインをされているものです。早速このトラクトを、ご家族や職場の方々に配布してくださった方もあります。

このように今年のクリスマスには、たくさんのメッセージを教会から発したことになります。クリスマスキャンドル礼拝やクリスマス礼拝・祝会まで、まだあと一週間ありますから、チラシやトラクトをぜひ用いていただければと思います。

教会というところは、皆が集まって礼拝をして、御言葉を聴くところでもありますが、教会に集められた者は御言葉を携えて派遣される者でもあります。聖書の中のある箇所に「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」(ローマ一〇・一五)という言葉があります。当時はチラシやトラクトなどなかったわけですから、本当に足で歩いて、御言葉を携えて伝えていきました。文字通り、御言葉を運ぶメッセンジャーになったわけです。

現在は当時と状況は少し変わったかもしれませんが、本質的には同じです。チラシやトラクトを用いるかもしれません。インターネットや新聞の折込というシステムを用いるかもしれません。しかしチラシやトラクトを届けるという行為は、教会がメッセージを届けるということです。届ける皆様がメッセンジャーになるわけです。教会は二千年前以来、そのことを続けてきたのであります。

なぜ教会は二千年にわたって、このことを続けてきたのか。そのヒントとなるようなことが、本日私たちに与えられた聖書箇所に記されていると思います。五六節のところで、主イエスはこう言われています。「偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」(五六節)。教会の人たちが伝え続けてメッセージは、実はこの時と非常に深いかかわりがあります。

ここでの「時」という言葉ですが、とても深い意味のある言葉です。時は時でも、ある特定の時を表すこともあれば、時間の流れを表すこともあります。例えば、「礼拝開始はいつですか?」というのと「礼拝の長さはどれくらいですか?」と聞かれることがあります。礼拝開始の時というのは、礼拝を開始する時のことです。また、礼拝の長さというのは時間の流れの時のことです。同じ時は時でも、少し意味合いが変わってきます。

聖書の元の言葉であるギリシア語でも、時という言葉は一つではなく、複数あるのですが、ここでの主イエスが用いられた「時」という言葉は、決定的な時、決断の時を意味する言葉です。例えば「今は救いの時」という言い方があります。ここで用いられている「時」も、決定的な時、決断の時です。ほら、もう救いがやってきた!決定的なことが起こっている時だ!あなたにとって決断の時だ!という意味が込められているのです。

けれども、群衆はどうもそのことが分かっていない。いや、主イエスの弟子たちもこのときは分かっていなかったでありましょう。主イエスが五四節から五五節にかけて、天候を見分け方のことを言われています。雲が西に出る、そうすると「にわか雨になる」(五四節)。

パレスチナの地域の西には地中海があります。西というのは海の方角になります。西の方角で生じる雲は、湿気を含んだ雲です。雲が生じると、にわか雨になるわけです。また、主イエスは、南風が吹く、そうすると「暑くなる」(五五節)と言われます。パレスチナの南には砂漠があります。その砂漠のある方角から風が吹いてくる。そうすると一気に暑くなります。場合によっては、肌寒かったのに、一気に三〇度も気温が上昇することもあったようです。

これらの天候のことは、みんながよく知っていたことのようです。もちろん、当時は私たちが毎日チェックしている天気予報のようなものはありません。しかし天気を予測することは大切なことでした。実際に畑で農作物を作る、家畜を飼育する、魚を獲る、これらのことをするために、当時の人なりの天気を予測することは、生活に欠かせないことだったでしょう。群衆たちは「空や地の模様を見分けること」(五六節)はよく知っていたのであります。けれども、主イエスが言われるように「今の時を見分けること」(五六節)にはまったく無頓着だったのであります。

今の時を見分けるというのは、どういうことでしょうか。天気予報というのは、この先の天気がどうなるかを予め知っておくことです。予め正確に知ることができれば、実際にその後の行動が変わってきます。晴れになることを予め知っていれば洗濯物が干せます。雨が降るのであれば傘を用意します。雪が降るならば車のタイヤを冬用のタイヤに変えておきます。その行動が変わってくるのです。

本日、ルカによる福音書と合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、エレミヤ書の箇所になります。実を言いますと、この聖書箇所は旧約聖書の中でも有名な箇所の一つであります。なぜ有名なのかと言いますと、新しい契約のことがはっきりと言われているからです。

聖書は二つに分けることができます。言うまでもありませんが、旧約聖書と新約聖書であります。旧約、新約という字に注目すると、約の字は約束という字になっています。少しかしこまって言えば、契約ということになります。三二節のところに「エジプトの地から導き出したときに結んだもの」(エレミヤ三二・三二)という言葉がありますが、これが神からイスラエルに与えられた古い契約になります。神と人との間で結ばれた契約がずっと有効だったらよかったのですが、残念ながら私たち人間がこの契約を守ることができませんでした。

そこで、神は新しい契約を結ぼうとされました。三三節の後半にありますように、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(エレミヤ三二・三三)という契約を、もう一度、結び直そうとしてくださったのであります。これが新しい契約、つまり新約聖書のことになりますが、エレミヤの時代はその予告があるだけで、まだ具体的にどういうことか分かりませんでした。天気予報はあったのです。新しい契約が、救いがやってくるという予報はあった。けれども、誰もこの予報をわきまえて、しっかりと行動できる者はいなかったのです。だから主イエスは「どうして今の時を見分けることを知らないのか」(五六節)と言われたのです。

主イエスが救い主として来られ、時代が変わりました。もはや救いを待っている時代ではありません。天気予報がなされ、明日、「にわか雨になる」「暑くなる」ということではないのです。もうすでに今日「にわか雨になっている」「暑くなっている」のであります。主イエスがすでに来られて時代が変わり、新しい救いを待っているのではない。もう目の前に救いが来ているのであります。

ここに、私たちの教会がメッセージを発している答えにたどり着くことができます。教会が二千年にわたって救いのメッセージを発してきたのは、時代が変わったからであります。私たちは今の時をわきまえている者です。天気予報が実現していることを知っている者です。今年のクリスマスにはいろいろなメッセージを発信してきましたけれども、たくさんのメッセージを一つに集約することができます。それは「今やもう、救いの時がやってきた」というメッセージであります。

さらに主イエスは、今の時が具体的にどんな時なのか、説明を加えてくださっています。五八節には、一つの譬え話が語られています。「あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。」(五八節)。

この譬えは少し皮肉な譬えであるかもしれません。譬え話の中のこの人は、自分を訴える人と一緒に歩いていると言うのです。行先は「役人」のところです。さらにその後、「裁判官」という言葉も出てきています。「役人」と「裁判官」という言葉はもちろん違う言葉ですが、当時は三権分立などまだなかったわけで、役人は政治を行うだけでなくて、裁判も行ったようです。ある聖書学者はここでの「役人」と「裁判官」は同一人物ではないかと考えています。

つまり、この人は自分が裁かれる法廷の場に向かっていたのです。その目的地がはっきりとしていた。けれども、この人はまるでそのことをわきまえていなかったようです。しかも自分を訴える人と一緒にのんきに歩いていた。今の時がどういう時かをまったくわきまえていなかったのであります。

今の時をわきまえないままで歩き続けると、とんでもないことになってしまうと主イエスは言われます。裁判官から看守に引き渡され、牢の中に投げ込まれてしまいます。どうやら裁判には有罪の判決が下ってしまったようです。それもそのはず、この人には負債があったからです。この負債のゆえに、有罪となってしまいました。

レプトンというのは、当時の通貨の最小単位でした。今の私たちで言うと、一円ということになるでしょうか。ほんのわずかな負債でも、完全に払い終わるまでは牢から出られません。もちろんこれは譬え話でありまして、この世の中で借金がある人の話だけというわけではありません。この借金は、私たちが神の前に生きていく上での負い目のことです。

先ほど、古い約束の話をいたしました。この古い約束は、十戒のことであると考えることができます。神から人間に守るべきこととして与えられた十の戒め、約束のことです。「父母を敬え」「殺すな」「盗むな」などという戒めがあります。私は父母も敬っている、殺していない、盗んでいないと言えるかもしれませんが、例えば「殺すな」という戒めは、実際に人を殺していなくても、あの人がいなければよいのにな、と思っただけでも、この戒めを破ったことになります。「盗むな」にしても、実際に盗まなくても、人の物を羨んだだけでも、この戒めを破ったことになります。十戒の十の戒めのうち、九つを守っていても、一つの点で落ち度があれば、やはり神に対して負債を負っていることになります。

主イエスは五六節のところで「偽善者よ」(五六節)と言われました。厳しい言葉です。偽善者というのは、本当は善人でないにもかかわらず、善人ぶることです。一レプトンであろうが、十レプトンであろうが、百レプトンであろうが、本来ならば負い目があるにもかかわらず、まるでまったく負い目がないかのようにふるまってしまう。主イエスはそのことで「偽善者よ」と言われているわけです。

こう考えますと、すべての者の裁判の行方は有罪であります。偽りの善人であることはできるかもしれませんが、この裁判では偽善のまま通すことはできません。そうなると私たちはどうすればよいのでしょうか。このまま何もできないのでしょうか。そんな私たちのために、主イエスは大切なことを教えてくださいました。「途中でその人と仲直りするように努めなさい。」(五八節)。

私たちが用いている新共同訳聖書では「仲直り」という言葉になっています。けれども、他の翻訳の聖書ではたいてい「和解」という言葉になっています。「仲直り」を少しかしこまって言うと「和解」になるのかもしれませんが、聖書の中で和解という言葉は特別な意味を持ちます。神と人とが仲直りすることだからです。

最近ではなんでも裁判沙汰になります。誰かが誰かを訴えている。そんなことは日常茶飯事です。嫌というほど耳にします。私たちがそのようなことを耳にしたときに嫌気がさすのは、そこには和解がないからかもしれません。訴えた方と訴えられた方が、本当の意味で和解して、その後の両者の関係が健全になるなどという話はほとんど聞いたことがありません。私たちの世界で起こる裁判は、ほとんどの場合が嫌気を指すような裁判であると言えるでしょう。

けれども、主イエスの語られた譬え話の中では、この裁判の判決はまだ出ていません。あなたがたは今、裁判所に向かっている最中なのだから、まだチャンスはあると言われました。和解するチャンスが残されているのです。主イエスは私たちになんとかしてそのことを気付かせようと思っておられます。

そのことに気付かされたならば、和解しなければならないわけですが、果たして私たちに和解することができるでしょうか。結論から先に申し上げますと、私たちには和解することができます。いや、もっと正確に言うならば、和解させていただくことができるのです。

ルカによる福音書の第一二章は、今日の聖書箇所で閉じられていますが、多くの聖書学者が指摘していることは、第一二章までで完結するのではなく、第一三章の九節までひとまとまりになっているということです。確かに第一三章の一節を見ますと、「ちょうどそのとき」(一三・一)という言葉で第一三章が始まっています。同じ日の同じ時の出来事です。そして一〇節は「安息日に」(一三・一〇)という言葉で始まっています。一〇節から別の日付になります。時間的に考えても、第一三章九節まで一区切りと考えることができますが、内容的にもそうです。

第一三章一~九節までの箇所は、二週間後の元日の日曜日の礼拝で御言葉を聴きたいと思っています。今日は踏み込むことはできませんが、少しだけ先取りをしたいと思います。一節のところに「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」(一三・一)とあります。目を覆いたくなるような、悲惨の事件が起こったようです。四節のところには「シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人」(一三・四)とあります。目を覆いたくなるような、悲惨の事故が起こったようです。

このような悲惨な事件や事故が起こったとき、主イエスはどう言われたのか。「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(一三・五)と言われました。裁判所に向かっている切迫した状況であると考えることができるでしょう。今のこの時、何をすべきか。主イエスは悔い改めよと言われる。

そして全体の締めくくりとして、六節からの譬えを語られたのです。ぶどう園を所有している主人がいて、そこには園庭、つまり庭師がいたようです。三年間、まったく実をつけないいちじくの木があった。主人は「切り倒せ」(一三・七)と言います。ところが園庭は待ってくれと言います。いちじくの木がどうにかして実を実らせることができるように、木の周りを掘って、肥やしをやって、いろいろと世話をしてくれます。もうお分かりかもしれませんが、この譬え話の中の園庭こそ、主イエスであります。

こう考えますと、主イエスは実に様々なことを私たちのためにしてくださいました。私たちに今の時を教えてくださいました。私たちが裁判に向かっている途上であることを教えてくださいました。神と和解せよということを言われ、和解するチャンスを与えてくださいました。私たちの負っている負債をすべて代わりに支払ってくださいました。実を実らせることができない私たちのために、なんとかその実を結ぶように、いろいろとお世話をしてくださいました。

クリスマスの出来事が起こり、時代が変わりました。もはや救いを待っている時代ではない。救いがすでに来ている時代です。主イエスと一緒に歩む時代になりました。主イエスは私たちの手を取ってくださり、足を取ってくださり、一緒に歩んでくださいます。今、私たちがなすべきことは、私たちが救いの時に置かれていることをしっかりと知り、そして主イエスと一緒に歩み、神と和解させていただくことであります。