松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2011年12月11日(日)
説教題「今は待つ時」

説教者 本城仰太 伝道師

新約聖書: ルカによる福音書 第12章35節〜53節

 「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。 主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。 主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。 あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」 そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、 主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。 主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。 確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。 しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。 しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。 しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。 今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。 父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。」

旧約聖書: コヘレトの言葉 第3章1〜17節










The Good Shepherd(良き羊飼い)

The Good Shepherd(良き羊飼い)
ヴァチカン(Vatican)

一一月から一二月にかけて、松本東教会ではルカによる福音書第一二章の聖書箇所から御言葉を聴いています。言うまでもないことかもしれませんが、第一二章の言葉のほとんどは主イエスがお語りになった言葉です。私が持っている聖書で、主イエスの言葉が赤い文字で印刷されている聖書がありますが、この聖書で第一二章を開いてみますと、ほとんどの文字が赤くなっています。主イエスのお言葉ですから、私たちはこの言葉を重んじないわけにはいきません。

そして圧倒的に赤い文字が目立つ中に、ところどころ黒い文字がある。いわゆる地の文であったり、主イエス以外の誰かの言葉であったりします。この黒い文字の部分には何が書かれているのかと言いますと、主イエスが誰に対して、言葉を語っておられるのかということが、丁寧に書かれています。つまり、主イエスの言葉が言葉集や語録のように寄せ集められているというわけではなく、誰に向けて語られたのかがはっきりとしているわけです。

例えば、第一二章の最初のところにはこうあります。「とかくするうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスは、まず弟子たちに話し始められた。」(一二・一)。大勢の人たちが主イエスの周りに集まってきたようですが、主イエスが口を開いてまず語りかけられたのは弟子たちに対してでありました。主イエスの言葉は一節から一二節までずっと続いていきます。私たちが用いている新共同訳聖書では、例えば三節から四節にかけて、途中が区切られているように見えますけれども、実際の主イエスの言葉は一続きです。一二節まで一気に語られた。

そうすると、群衆の一人が声をあげます。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」(一二・一三)。これに対して主イエスは「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」(一二・一四)と言われますが、この言葉は群衆の一人に向けられた言葉です。これに引き続いて「そして、一同に言われた。」(一二・一五)と地の文で書かれています。一五節以降、主イエスが語られたのは一同に対して、つまり弟子たちだけではなくて、周りに集まっていた人全員に対して語られたのです。全員に対する語りかけが二一節まで続きます。

そして二二節には「それから、イエスは弟子たちに言われた。」(一二・二二)とありますように、今度はまた弟子たちだけに語り始められます。この言葉は、先週、私たちに与えられた箇所であります。弟子たちだけに語られた言葉は今週の聖書箇所にも続いていきます。先週と今週で箇所を区切っていますけれども、実際の主イエスの言葉は一続きでありました。

このように、ルカによる福音書第一二章には主イエスの言葉がたくさん詰まっていますけれども、この福音書を書いたルカは、かなり誰に対してこの言葉が語られているのかを意識したようです。私たちが聖書を読む際にも、これはとても重要なことだと思います。聖書以外の本を読む際にも、この言葉は誰に宛てられているのか、その文脈を考えるものですけれども、聖書もやはり同じであります。そして特にこれを意識して読んだときに、さらに聖書の言葉が鮮やかになってくるのであります。

本日、私たちに与えられました聖書の箇所は、先ほども申し上げましたように、主イエスが弟子たちにお語りになった言葉であります。先週の言葉に引き続く、主イエスのお言葉です。ところが四一節のところで、主イエスの一番弟子とも言えるペトロが口を挟みます。「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」(四一節)。主イエスは弟子に対して、群衆に対して、交互に語る対象を変えてお語りになっていましたから、ペトロとしてもごちゃごちゃになってしまい、よく分からなくなってしまったのかもしれません。

ペトロがよく分からなくなってしまったのは、このたとえが誰に語られたのかということでした。「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。」(三五~三六節)と主イエスが譬え話を語り始められます。待っていないといけないのは、主イエスの弟子たちだけなのか。それとも群衆の一人に至るまですべての人に対してなのか。どちらなのかを聞きたかったのでしょう。

腰に帯を締めるというのは、給仕をする人の格好です。つまりいつでも給仕ができる服装でいなさいということです。なぜなら主人が今にも帰ってくるかもしれないからです。その主人のために、ともし火をともしていなさいと言われる。しかも主人が帰ってきて、すぐに戸を開けられるようにしているわけですから、玄関のところで、腰に帯を締めて、ともし火をともして、主人の帰りを待っているわけです。

この人の主人は婚宴に出かけているようです。結婚の祝いです。現代の私たちの感覚からすると、結婚式が行われるのは半日、長くてもせいぜい一日です。何時から始まるのかはもちろん、だいたい何時頃に終わるのかも分かっている。ですからその時間に合わせて待っていればよいというわけになりますが、実は当時の婚宴は、いつ終わるのか、はっきりしていなかったようです。主イエスが譬え話の中で「婚宴」に出かけたと言われていますが、聴いている人は婚宴と言えばいつ帰ってくるか分かったものではないと思ったと思います。三八節のところに「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても」(三八節)という言葉がありますが、本当にいつ帰ってくるか分からなかった。けれどもいつ帰ってきてもいいように、備えをして待っていなさいと主イエスはお語りになられます。

ペトロはこの譬え話が誰に対して語られているのか、よく分からなくなってしまいましたけれども、先週の箇所から続けて語られたことを考えるならば、主イエスのこの言葉が向けられているのは、弟子たちに対してであります。つまり、主イエスを信じ、主イエスに従って歩んでいる私たちに対してであります。譬え話の中のこの人のように、あなたの主人を待ちなさいと言われるのです。

信仰者の歩みは、主人の帰りを待つ歩みでもあります。もちろん、主イエスが一緒におられ、主イエスと共に歩いていくというのが基本かもしれません。主イエスはたびたび「わたしに従いなさい」と言われました。聖書に載せられている話ではありませんが、ある譬え話では、私たちが最も厳しいときには主イエスが私たちを背負っていてくださるという話もあるくらいです。確かに主イエスと歩みを共にするというのが信仰者の歩み方でありますが、主イエスを心して待つというのも大切です。車の運転手の仕事をしている人は、主人を車に乗せて目的地まで運ぶことが仕事ですが、主人の用事が終わって車まで戻ってくるのを待つのも仕事です。信仰者もこれと同じで、どのようにして主人の帰りを待つかが問われているわけです。

今日の聖書箇所は、主イエスの再臨のことが語られていると言われています。主イエスがクリスマスのときに一度、地上に来てくださいました。地上を歩まれ、十字架にお架かりになり、復活されて、天に挙げられました。天に挙げられる直前に、主イエスは再び来てくださるとの約束をしてくださいました。ですから私たちは主が再び来てくださる、その再臨の時を待っているわけです。

聖書の最後にもそのことが書かれています。聖書の最初に何が書かれているのかということは、言うまでもないことかもしれませんが、天地創造の出来事、私たち人間が造られた出来事が記されています。けれども最後には何が書かれているのでしょうか。最後はヨハネの黙示録です。最後の最後の言葉は「主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。」(黙示録二二・二一)という祝福の言葉で終わっていますが、その直前にはこうあります。「以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。」(黙示録二二・二〇)。聖書の最後がこういう終わり方をしているのは、とても意味のあることだと思います。

「わたしはすぐに来る」という言葉から分かるように、主イエスが天に挙げられた直後の人たちにとっては、本当に主イエスが今すぐにでも来られると考えていたようです。例えば、使徒パウロによる手紙が新約聖書の中にたくさん残されていますが、奴隷の人は身分をこだわらずにそのままでいなさい、結婚していない人は結婚しないままでいなさい、と記しています。なぜなら、主イエスが今すぐにでも来られるのだから、そのような地上のことにあまり心を奪われるなと言っているわけです。

けれども、主イエスがなかなか再臨されない。考え直さざるを得なくなってしまった。そして二千年という時が経ち、現在に至っています。現代の人は、信仰者であったとしても、再臨のことをなかなか信じることができなくなっていたり、あるいは再臨の信仰が薄くなっていたりします。そんなこともあって、再臨のことが書かれている聖書箇所をそのまま受け取らずに考える傾向が出てきます。再臨というのは要するに主イエスにお会いすることである。私たちが死んだ後に主イエスにお会いする。だから、私たちが生きている間に主イエスが再臨されなければ、結局のところ同じことなのだと考えてしまうのであります。

これも一つの考え方かもしれませんが、主イエスはやはりここで、主人の帰りを心して待つことを私たちに求めておられます。私たちにその心がなくなってしまうとどうなってしまうのでしょうか。それは主イエスがきちんとお語りになってくださっています。「しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば」(四五節)と主イエスは言われています。

主人の帰りが遅い、それまでは自分が主人だと思ってしまう。そう思ってしまいますと、この人は自分の主人を忘れてしまうのはもちろんですが、隣人に対しても暴力的な振る舞いをしてしまいます。主人の帰りが遅いと思った人でさえ、このような振る舞いですから、まして、主人が帰って来ないなどと考えてしまえば、さらにひどいことをしてしまうのではないかと思わされます。

私たちに人間の間違いは、自分が主人になってしまうことです。「下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり」というようなことばかりではありません。ルカによる福音書第一二章にありました「愚かな金持ち」の譬え話のように、自分で自分の命を養うのに必死になってしまう人もいます。神が養ってくださることは忘れて、自分の力で自分自身を養おうとするわけですから、そういう人も自分が主人になってしまう人であります。

自分が主人になるのではなく、ヨハネの黙示録の最後の言葉のように「主イエスよ、来てください」と言うことが信仰者の立場ですが、なぜ信仰者は心して待つことができるのでしょうか。それは、この主人のことが心待ちにするのに値する主人だからです。なんだかよく分からない主人を待つのではなくて、私たちに最も大きな恵みを与えてくださる主人であるからです。

今日の聖書箇所からも、そのことを読み取ることができます。三七節のところにこうあります。「はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。」(三七節)。腰に帯を締めて、ともし火をともして待っていたわけです。主人が帰ってきた。さあ、これから主人のお世話をしなくてはならないと思っていたら、なんと主人の方が帯を締めて、自分のことを食事の席に着かせてくれるのです。さあ、あなたはよく私の帰りを待っていてくれた、主人がそのように言って、私たちのために食事の給仕をしてくれると、主イエスは言われるのです。驚くべきことが主人の帰ってきたときに起こるのです。

さらにもう一つの箇所を挙げたいと思いますが、四九節から五〇節にかけてこうあります。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」(四九~五〇節)。この箇所は主イエスの再臨ではなく、主イエスが二千年前に来られたときのことを、それも十字架の出来事を意味しているのですが、ここでも主イエスは驚くべきことを言われています。「わたしが来たのは、地上に火を投じるため」だとまず言われる。けれども、あなたがたはその火によってどんなに苦しむことかと言われたのではない。そうではなくて、「わたしがどんなに苦しむことだろう」(五〇節)と言われています。

ここでの火は、金を精錬していくときの火を考えるとよいと思います。その火によって不純物は溶け去り、本物の金のみが残される。火が投じられる前は、金と不純物の違いがはっきりしなかったかもしれませんが、投じられた後は、その違いがはっきりするのです。

このことは、当時の最小単位であった家族の中でもはっきり表れると言われています。現代では家族の絆が薄くなったと言われますが、当時の家族の絆は深いものでありました。例えば、一家のあるじである主人が洗礼を受ければ、その家族みんなが洗礼を受ける、使徒言行録の中にはそのような出来事も記されています。けれども、その絆が深いと思われていた家族でさえも、違いがはっきりしてしまうこともあると主イエスは言われる。主イエスを信じてその帰りを待つのか、それとも主人の帰りが遅いとか帰って来ないと思ってしまう不忠実な僕となるのか、その区別がはっきり表れるのです。

クリスマスが近づき、アドヴェントの歩みを私たちは送っています。アドヴェントという言葉ですが、日本語では待降節と言います。クリスマスを待つという期間という意味ですが、もともとアドヴェントというラテン語は「到来」という意味があります。向こうからやってくるわけですから、私たちはそれを待つわけです。救い主イエス・キリストが来られる、それを待つ私たちです。

四八節にこんな言葉があります。「しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」(四八節)。

神を信じて、神の御心をさらに知った者は、さらに多くを求められると読むことができますが、この言葉を主イエスご自身に当てはめるとどうでしょうか。主イエスは父なる神の御心を知っておられました。その御心とは、ご自分の独り子である主イエスを十字架につけて、私たちに罪を赦すというものです。主イエスはそのことをご存じであり、エルサレムに向けての旅をこのとき続けておれました。この四八節の言葉を一番よく受け止めて、その通りに実行してくださったのが主イエスというお方なのです。

主イエスは私たちに仕えるために来てくださいました。救い主として、私たちを上から力でもって支配されるのではない。そうではなくて、食事の給仕をするようにして、私たちの下に立ってくださる。クリスマスはこういうお方が来てくださったことを覚えるときです。そしてクリスマス後、二千年の時代を過ごしている私たちは、今なお主イエスが再び来てくださることを待ち臨んでいるのです。二千年の時が経とうが、もしかすると三千年も待たなければならないかもしれませんが、それでも私たちが首を長くして待ち臨むことができるのは、私たちの救い主がこういうお方であるからなのです。