松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2011年12月4日(日)
説教題「尽きることのない富を天に積みなさい」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第12章22節〜34節

それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。 命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。 あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。 こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。 野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。 あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。 それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。 ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」

旧約聖書: イザヤ書 43節1〜7節

私たちは神を信じています。けれども信じるということはどういうことでしょうか。教会の外では、しばしば神が本当にいるのか、それともいないのかということが問われることがあります。神の存在を証明しようとする試みがなされることがあります。神が存在しないという証明の試みもなされることがあります。どちらもうまくいきません。神がいるのか、いないのか、わからない中で、神の存在を信じる、これも一つの神の信じ方なのかもしれません。

けれども、教会の信じ方はこれとは違います。聖書は実際のところ、神の存在を前提にして書かれています。神の存在を一生懸命、証明しようとしている書物ではないのです。以前、キリスト者でない方からこんなふうに言われたのを覚えています。「神がいるのか、いないのか。その答えを聖書から探そうと思って、聖書を読んでみたけれども、その答えが得られませんでした。なぜなら聖書は神がいることを前提にして書かれているからです」。この人が言われたように、確かにその通りです。聖書はそういう目的で書かれたのではありませんから、この人が求めるような答えが得られなかったのです。

では聖書には何が書いてあるのでしょうか。それは神が私たちにとってどういうお方であるのかということです。神は存在する、それが大前提となった上で、その神がどういうお方なのかを聖書は私たちに教えてくれるのです。私たちの信仰は神がそういうお方であると信じることです。神が存在する、そのことをただ単に信じるのではありません。神は存在するらしいけれども、自分にとって神は関係ないということでは、本当に信仰を持ったということにはならないのです。私たちの信仰はただ単に神の存在を信じればよいのではなく、神がどういうお方であるか、このことを信じるのであります。

本日、私たちに与えられたルカによる福音書の聖書箇所も、神が私たちにとってどういうお方であるか、はっきりと示されている箇所です。私たちが信じているのは、こういう神だ、今日の箇所を引用して、ずばりと言うことができるのです。私たちの神は、私たちに思い悩むなと言ってくださる神! 空の鳥さえ養い、野の花さえも美しく装ってくださる、ましてあなたがたにはなおさらだと言ってくださる神! 私たちに必要なものをご存じでいてくださる神! 喜んで神の国を与えてくださる神! いろいろな神のお姿が主イエスの言葉からはっきりと示されていると思います。私たちが信じているのは、こういう神であるのです。

まず私たちが考えたいのは、神が思い悩むなと言ってくださることです。私はしばしば悩みを伺うことがあります。自分のこと、家族のこと、職場のこと、学校のこと、人間関係やこれから歩むべき道についてなど、いろいろな思い悩みの相談を受けることがあります。そのようなときに、私がとても言いたい言葉は「思い悩むな」という言葉であります。主イエスのように、「思い悩むな」とひと言だけ言って、その人の心を強くしてすべてが解決されればと思うことがあります。

しかし主イエスは決して「思い悩むな」とひと言の魔法の言葉を言って、すべてを解決されたのではありません。思い悩むなという言葉は最初の二二節に出てきます。そして次に出てくるのは二九節のところですが、実に数節にわたって、どうして思い悩まなくてよいのか、思い悩んでしまう私たちのために、懇切丁寧に説明してくださっています。

ご自分のことで思い浮かべていただくとよいと思いますが、思い悩んでしまったときは、狭い範囲のことにしか目が行かないものです。家族の人間関係で悩んでしまったら、そのことばかりに心を奪われてしまって、ほかのことは見えなくなってしまいます。先週、私たちに与えられた聖書の箇所は、この一つ前の箇所であります。主イエスが譬え話を語ってくださいました。金持ちがいて、運のよいことに畑が豊作だった。今ある倉では足りないから、新たな倉を建てて、穀物や財産をすべてそこにしまおうと考えた。自分で自分を養うのに精いっぱいだったのです。譬え話の中のこの人は、おそらく見えていたのはそれだけです。神のことも、一緒に生きていた隣人のこともまったく見えてない。狭いところにしか目をやることができなかったのです。

私たちも思い悩んだ時にはそうなりますが、そんな私たちのために、主イエスはたくさんの言葉を費やしてくださる。空の鳥を見てごらんよ、野の花を見てごらんよと、私たちの目を、違うところに向けさせてくださる言葉を言ってくださるのです。

空の鳥と申しましたが、ルカによる福音書では「烏」となっています。烏というと、どのようなイメージを抱かれるでしょうか。あまりよいイメージではないと思います。松本ではあまり心配がありませんが、東京などでは生ごみをビニール袋のまま出しますと、たいてい烏にやられてしまいます。烏除けのネットなどの対策もうまくいかず、最近ではポリバケツに入れて、ごみを出すようになっています。ごみ出しが烏との戦いになっているのです。

現代でも烏は悪いイメージなのですが、当時もそうでありました。旧約聖書には、烏が汚れたもののリストの中に、リストアップされています(申命記一一・一五)。当然、食べることも禁じられています。主イエスが言われたのは、誰からも嫌われているような烏のことです。烏を見てごらん。みんなから嫌われて、その存在も疎ましく思われているかもしれない烏だって、神が養っていてくださるではないか、そう言われるのです。

続いて主イエスが目を留めてごらんなさいと言われるのは、野の花です。聖書の翻訳によっては、ゆりと訳されています。聖書の元の言葉であるギリシア語が、ゆりを表す言葉だからです。しかし主イエスがこのときおられたところでよく見られる花は、アネモネという種類の花なのだそうです。実際のところ、主イエスが見てごらんなさいと言われた花が、どんな花なのかは分かりません。分からない方が私たちにとって却ってよいのかもしれません。

松本東教会の礼拝堂にも、毎週、美しい花が飾られています。季節ごとに、いろいろな花が飾られます。世界的に見れば、花が飾られているのは、珍しいことなのだそうです。また、葬儀の最後に献花をすることもあります。礼拝で花を飾らなくてもよいのではないか、また葬儀で献花をしなくてもよいのではないか、神の言葉さえ聴けば、それでよいのではないかという意見が出されることがあります。その意見は一理あるかもしれませんが、主イエスの今日の言葉をもとに考えることができると思います。美しく飾られた花がある、私たちはこの花以上に美しく装われている存在だ、その思いをもって、礼拝を献げればよいし、献花の花も献げればよいのです。

このように主イエスは、思い悩んでしまい、狭い範囲しか見られなくなってしまう私たちのために、もっと広いところをごらんなさいと言われます。ふと目を留めてみると、そこには神が造られた世界があり、神が養い、装ってくださっている事実があることが分かります。

私が毎日の祈りの生活の中で用いている本があります。私はもちろん自分の言葉で祈ることもありますが、祈りの本も用いています。いくつかある本の中で『朝の祈り、夜の祈り』という本があります。この本はジョン・ベイリーという人が一九三六年に書いた祈りの本で、日本語に訳されて、何回も何回も版を重ねて出版されています。ひと月ごとに一サイクルとなっていて、それぞれの日の朝と夜の祈りが載せられています。

先週もこの祈りの本を用いていたのですが、三〇日の朝にこのような祈りの言葉がありました。「どうか、今日、あなたのお造りになった世界を喜ぶ心を私にお与えください。あなたの美しい世界に目を閉じて歩くことがありませんように。商店のにぎわいに気をうばわれて、ひろやかな野や、みどりの木々を忘れることがありませんように。工場や、事務所や、書斎の低い屋根の下にいて、あなたの造られた大空を忘れることがありませんように」。私が先週、この祈りの本を読んで、主イエスがここで言われたかったのも、このことだなと思わされました。

たとえどんなに深い思い悩みであっても、主イエスのこの言葉は有効です。主イエスがここで、「何を食べようか、何を飲もうか」(三〇節)、「何を着ようか」(二二節)と思い悩むなと言われていますが、主イエスの周りに集まっていた人たちは、本当に深刻にこの問題に直面していたと思われます。私たちが今日のお昼に何を食べようか、今日の晩御飯のおかずは何にしようかという呑気なことではなく、生きるか死ぬかというところにあったような人たちに、思い悩むなと言われたのです。

その上で、主イエスは本当に言いたかったことを言われるのです。「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。」(三一節)。神の国は神がおられ、神が支配なさるところです。三三節に「富を天に積みなさい」という言葉がありますが、天の国と言っても神の国と言っても同じことです。神の国、あるいは天の国が視野に入ってくると、私たちの物事の考え方が変わってきます。主イエスはまさに私たちをそちらの方向に導いておられるわけです。生き方を変えよと言われているのです。

神の国と地上の国に関して、ある古書を紹介したいと思います。以前の説教でも紹介したことがありますが、四世紀から五世紀にかけて、アウグスティヌスという人がいました。ローマ・カトリック教会で、特に学識に優れ、信仰の理解において偉大な業績を残した人に教会博士という称号が送られていますが、アウグスティヌスもその一人です。最も学識が深かった人で、信仰の礎を築いた人と言っても過言ではありません。

このアウグスティヌスがたくさんの本を執筆していますが、その中でも最も有名な大著に『神の国』と呼ばれる本があります。アウグスティヌスがこの本を執筆するきっかけとなった歴史的な出来事がありました。それは四一〇年、ローマの町がゲルマン民族の一つであるゴート族という集団に侵入をされてしまったという出来事です。ローマの町が略奪されてローマ市民はひどい目にあったと言われることもありますが、ある史料によりますと、それほど略奪はひどいものではなかったという話もあります。けれどもいずれにせよ、ローマの人にとってはショックを隠すことができませんでした。ローマは侵入されることもない、破壊されることもない、滅びることがない、ローマは永遠の都だと、ローマの人たちの多くは考えていたからです。

そしてローマがこのようなひどい目にあったのは、キリスト教のせいだと少なからぬ人々が考えるようになってしまったのです。ローマのかつての神々の信仰を捨てて、キリスト教が公認されて、国教にまでなってしまった。それが今回の事態を招いた原因だと考える人が出てきたのです。

もちろん何の根拠もないことです。ローマの政治的、あるいは経済的な衰退がこのような事態を招いたのですが、アウグスティヌスとしてもそれに反論する必要がありました。アウグスティヌスの考えはこうです。二つの国がある。一つは地上の国で、もう一つは神の国。地上の国が神の計画のために用いられることもあれば、もはや必要もなくなることもある。地上の国としていくら栄えようとも、結局のところ不完全な国で、必ず終わりがやってくる。けれども神の国は完全な国で、決して滅びることがなく、信仰者はそこを目指して歩んでいる。

アウグスティヌスの考えによれば、ローマ帝国が繁栄したのは、神の国のためでした。事実、キリストに遣わされたペトロやパウロといった使徒たちが伝道したのは、ローマの絶頂期と言ってもよいでしょう。ローマ帝国内は平和であって、市民権さえあればどこでも自由に行き来ができる。パウロは市民権を持ち、ギリシア語を自由に操れたわけですから、教会が各地に建てられ、信仰が広まっていくのに、ローマ帝国という地上の国が十分に用いられたのです。けれどもその役割が今や終わろうとしていた。ローマが衰退し始めると、ゲルマン民族を無視することができなくなりますから、教会はゲルマン民族にも伝道を始めるようになります。ローマ帝国という地上の国が終焉を迎える中で、教会は新たな歩みを始めていくのです。

アウグスティヌスの話はそこまでにしたいと思いますが、私たちは地上の国、つまりこの世界の中に身を置きながらも、神の国とかかわりを持つ者にされています。主イエスは「小さな群れよ、恐れるな」(三二節)と言われます。ルカによる福音書が最初に読まれた頃の教会も本当に小さな群れだったのだと思います。ローマ帝国という地上の国に比べれば、吹けば飛んで行ってしまうような小さな群れだったのだと思います。けれども、決して終わることも滅びることもない神の国とかかわりを持っている群れだからこそ、恐れるな、思い悩むなという言葉が通用するのです。

私たち松本東教会も小さな群れかもしれません。先週からアドヴェントに入っています。今日はろうそく一本に火を灯しての礼拝になりました。吹けば消えてしまうような火かもしれません。だからこそ、「小さな群れよ、恐れるな」という言葉を、しっかり受け止めたいと思います。主イエスがこの地上に来られるのです。一体何のためでしょうか。立派な地上の国を実現するためでしょうか。当時のユダヤ人たちも、自分たちのイスラエル国を立派な国にしてくれるような救い主を求めて、今か今かと救い主の到来を待っていました。「栄華を極めたソロモンでさえ」(二七節)という言葉がありますが、イスラエルの絶頂期の王様はソロモンという王様でした。その一人前の王様がダビデです。イスラエルの人たちはダビデやソロモンのときのように、イスラエルという地上の国を立派に繁栄させてくる救い主を求めていたのです。

しかしこれは思い違いでした。その思い違いが分かったときに、人々は主イエスを十字架に架けて殺してしまいました。地上の国と神の国の思い違いが、主イエスを十字架に架けてしまったのです。なんということでしょうか。けれども人間のこの思い違いを超えて、神の計画は着実に進行していました。神の独り子である主イエスに私たちの罪をすべて背負わせて、十字架に架ける。そして私たちの罪を赦す。これこそが神の御計画でした。神の国を実現するために、神の国へ私たちを招き入れるために、どうしても必要なことだったのです。

スイスのことわざで「神は人間の混乱と神の摂理によってスイスを統治される」ということわざがあるのだそうです。このことわざはスイスに限ったことではありません。私たちの世界もそうです。地上の国は混乱しているかもしれない。私たち人間も混乱しているかもしれない。栄えたり滅びたりを繰り返しているかもしれない。けれどもその中に一筋の決して変わることも揺らぐこともない線が存在する。それが神の摂理であり、神の支配であり、神の国であるのです。

私たちの神は神の国を用意してくださっています。私たちを招きたいと思っておられます。喜んで神の国を与えてくださるお方です。私たちはこのような神を信じているのです。この神を信じるとき、私たちの考え方も生き方も変わってきます。地上にありながらも、地上のことばかりに目を留める必要もなくなる。天の国が視野に入ってきます。神を見つめて生きることができるようになります。隣人を顧みて生きることができるようになります。そのような生き方こそが、天に富を積む生き方なのであります。