松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2011年11月27日(日)
説教題「豊かな人生を送ろう」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第12章13節〜21節

 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」 イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。

旧約聖書: 出エジプト 第16編13〜20節







レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
愚かな金持ちのたとえ ( Parable of the Rich Fool ) / レンブラント・ファン・レイン (Rembrandt Harmenszoon van Rijn)

愚かな金持ちのたとえ ( Parable of the Rich Fool ) / レンブラント・ファン・レイン (Rembrandt Harmenszoon van Rijn)
ベルリン絵画館 (Gemäldegalerie der Staatlichen Museen)
ベルリン(Berlin)/ドイツ

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先週の水曜日、この礼拝堂にて記念会が行われました。教会員で十年前に召された方の記念会であります。私が松本東教会に赴任してから、何度か葬儀の司式もしてきましたが、記念会も何度か担ってきました。葬儀の場合ですと、生前に召された方とお会いしたことがあるわけですが、記念会となると、そういうわけにはいかない場合がほとんどです。一度もお会いしたことのない方の記念会の司式をしなければならない。最初のときは、果たして務まるのだろうかと思ったこともありました。

けれども、不思議なことかもしれませんが、それが務まるのです。先週の水曜日、記念会の礼拝が終わってすぐに、出席されていた何人かの方と話をする機会がありました。そうすると皆様、口を揃えて記念会での説教の話がとてもよかったと言われました。もちろん私の話が上手だったとか、そういうわけではありません。当たり前のことですが、ご本人がどういう方だったのかということは、私よりもご家族の方がよくご存知です。水曜日の記念会の後にみんなでお茶を飲んでいたときに、ご家族の方が、「優しい人だった」とか、「兄弟げんかなどしたことがない」などと言われていましたが、私にはそのようなことは分かりませんし、そのような話をすることもできません。けれども、その方の信仰のことならばよく分かってくるのであります。

今回もそうだったのですが、私が一度もお会いしたことのない方の記念会を行うときには、その方が書かれた文章をたくさん読みます。教会がときどき発行している『おとずれ』などを読みます。そのような文章を読んでいますと、ご本人の信仰が分かってくるのです。文章の中で、ご本人が聖書の言葉を引用していることもありますし、引用されていなくても、ああ、こういう聖書の言葉に基づいて、この方は生きて来られたのだということが伝わってきます。私が記念会で語ることもそのことです。その方がどういう聖書の言葉に基づいて生きて来られたのか。その方の信仰に触れることができ、とてもよい話を聞くことができたということになるのであります。

このように、聖書の言葉それ自体ももちろん力ある言葉でありますが、人と結びつくと、さらに輝きを増すのであります。この人がこんな生き方をしていたけれども、その土台となっていたのがこういう聖書の言葉だった、そのことを知ると、その聖書の言葉がさらに輝いてくるのです。あるいは自分が聖書の言葉を読んでいて、感銘を受ける聖書の言葉に出会うとする。感銘を受けているのは自分という人間であります。自分の中に聖書の言葉が入り込んで、聖書の言葉が輝く。そう考えますと、聖書の言葉は人間の中に入り込んで、その人を輝かせる力があるのであります。

信仰を持って生きるということは、言い換えれば、聖書の言葉や信仰の言葉を土台にして生きるということです。普段、あまり意識されていないかもしれませんが、皆様の生き方や『おとずれ』などに書かれている文章にも、自然とそのことが表れてくるものです。皆様ご自身の葬儀や記念会のときに、皆様が何気なく書かれている文章が、信仰が表れている言葉として引用されることもあるかもしれません。

本日、私たちに与えられたルカによる福音書の箇所の中に、主イエスがお語りになった譬え話が出てきます。ある金持ちの人の譬えですが、譬え話の中にはこの人しか出てきません。強いて言うならば、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」(二〇節)と語られた神が出てきますが、神を除けばこの人だけしか出てきません。

この人は今夜、命が取り上げられるわけですから、この譬え話に出てきていない家族が牧師に連絡をして、何日かの間に葬儀がなされることでしょう。牧師は一体、葬儀の説教でどんなことを語ればよいのか。この人が松本東教会の教会員だったとして、私がどんな説教を語ればよいのか、ちょっと困ったことになると思います。

譬え話の限られた内容からも、分かってくることはあります。この人がどんな性格の持ち主だったかということは、いくつか見えてきます。この人はおそらく思慮深い人だったのでしょう。現実で起こっていることを見極めて、将来のためにどうすればよいのか、人一倍じっくりと考えた人ではないかと思います。今年は豊作だったけれども、決して浮かれることはない。来年や再来年はどうなるか分からない。凶作かもしれない。その備えのためにも倉を建てなければならない。そんな先を見通す洞察力もあったと思います。さらにこの人は行動力もありました。今ある倉では小さすぎる。それを壊して、もっと大きな新しい倉を建てるのですから、優柔不断ではいけません。それなりの行動力と、計画通りに行っていく実行力があったのだと思います。

こう考えてみますと、この人はなかなかの人物であります。神に「愚かな者よ」と言われてしまいましたが、本当の愚か者なのでしょうか。この人の葬儀のときに、この人はとても優れた人物だったという話をすることもできるかもしれませんが、教会の信仰に従ってなされる葬儀としては、それはふさわしくないでしょう。ああ、この人は優れた人だったということを聞いても、あまり感銘を受けないのではないかと思います。

譬え話の限られた内容から、この人がどんなに優れた人だったのかということは分かるかもしれませんが、残念ながらこの人がどんな信仰に生きてきたのか、そのことはまったく見えてきません。ある聖書学者が、譬え話の中で語られているこの人の言葉を分析しています。アメリカ人の学者でありますから、聖書の元の言葉であるギリシア語でしたのか、それとも英語でしたのかは分かりませんが、譬え話に出てくるこの人が発している言葉(単語)は全部で六〇ほどあるのだそうです。そしてそのうちの四分の一にあたる一五ほどの言葉が、「私」に関連する言葉なのだそうです。日本語では隠れているかもしれませんが、「私は」とか「私の」というような言葉がたくさんここには表れているのです。

ある説教者は、「この人は独り言をつぶやいている」と言いましたが、それは当たっていると思います。誰に語りかけるわけでもない、ただ自分自身につぶやいている。この人自身は優れた人だったかもしれませんが、一緒に暮らしていたであろう家族に目を留めることはなく、また神にも目を留めることもなかった。畑が豊作だったのも神からの賜物でありますし、大きな倉を建てるという大仕事も隣人の助けを借りてのことだったと思います。しかしこの人は神も隣人も排除して生きていた。そんな生き方が「愚かな者よ」という神の言葉になってしまったのであります。

主イエスはこの人の生き方が愚かだ、問題があると言われたわけですが、一体何が問題なのでしょうか。そもそもこの譬え話が語られたのは、あるきっかけがありました。主イエスの周りにいた群衆の中の一人が、遺産問題の調停をしてくれるように主イエスに求めたのです。当時はもめごとがあると、律法学者のような権威ある人に出て来てもらい、調停をしてもらったようであります。そう考えると、この群衆の一人は主イエスのことを頼りにして、主イエスにお願いをしたのであります。

けれども主イエスはこれを拒否されます。なぜ拒否をなさったのかはこの説教の中でじっくりと考えることにしますが、まず言えるのは、主イエスはこの群衆の一人の中に貪欲があったと見ておられることです。それがあなたの問題点だと主イエスは指摘されます。そこで語られたのが、この譬え話になります。

貪欲という心は、その言葉からすると、もっと欲しいと思う心です。誰でも思い当たる心だと思います。これだけでは足りないのではないか、もっと集めなければならない、もっと欲しいと思う心です。このことが、本日私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所に表れています。お読みしたのは出エジプト記の箇所です。出エジプトとは文字通り、エジプトを脱出したときの話であり、モーセという人によってイスラエルの民がエジプトでの奴隷生活から逃れ、自分たちの故郷に戻るという話です。

イスラエルの人たちがエジプトに移り住んだ時には、まだ一つの大家族にすぎませんでした。アブラハムの曾孫にあたるヨセフという人物が先にエジプトに行っていましたが、自分の家族を招き入れて、エジプトに住み始めたのがエジプトでの生活の始まりでした。イスラエルの人たちの人口がどんどんと増加してくる。エジプトは危機感を覚えました。そこでイスラエルの人たちを奴隷にして、虐げてきたのであります。その奴隷生活から抜け出すために、モーセというリーダーが立てられて、エジプトを脱出し、四十年にわたって荒れ野を旅しながら、故郷に戻っていきます。

四十年にわたる旅は、苦難の連続だったでしょう。少人数でも旅は大変なのに、かなりの人数での旅はもっと大変です。一体、旅の食料はどうしていたのかというのが素朴な疑問です。聖書はその問いにきちんと答えています。それがマナという食べ物であります。一五節のところに「イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろう」(出一六・一五)と言っていますが、イスラエルの人たちが使っていた言葉で「これは一体何だろう」という言葉を発音すると「マナ」という言葉になります。それこそ、イスラエルの人々が食べ続けた食料なのです。この箇所は、その食べ物が最初に与えられたときの話になります。

イスラエルの人たちは空腹だったでしょう。エジプトでは奴隷だったけれども、たくさん食べることができた、そっちの方がましだったと、不平不満まで言っていたのです。そのようなときに、初めてマナが与えられた。そうすると人間の貪欲な心が表れてきます。その日に必要な分だけを集めなさい、と言われたのにもかかわらず、次の日の分まで集めてしまった。もっと欲しいと思ってしまったのであります。

主イエスがルカによる福音書に出てくる群衆の一人に言ったのも、このことです。あなたの心もこの貪欲のとりこになっていないか。貪欲に支配されていないかと言われたのです。この群衆の一人は、自分には遺産を受け取る正当な権利があると思っていたのでしょう。おそらくこの人は長男ではなく、二男以降に生まれた人だと思います。当時は長男がかなり多くを相続しましたので、それは仕方ないと思ったのかもしれませんが、正当な取り分までも分けてくれない。そこで主イエスに助けを求めてみようと思ったのでしょう。

けれども主イエスは取り合ってくれませんでした。その人の心のもっと深いところにある問題点を見抜かれていたからです。正当な主張だったにもかかわらず、退けられてしまったのです。一体なぜでしょうか。今の時代でも貪欲なことはいけないことでしょうか。最近の若者はハングリー精神が足りないなどとも言われる時代です。最近の男子に至っては草食系だとまで言われます。もっと肉食系、つまり貪欲にいろいろと求めてもよいのではないかとまで言われます。主イエスは貪欲の何が問題であると言われるのでしょうか。

新約聖書のある箇所にこんな言葉があります。「貪欲は偶像礼拝にほかならない。」(コロサイ三・五)。貪欲の心がある人は、生ける神ではなくて偶像を礼拝してしまっていると、この聖書箇所は告げます。どういうことでしょうか。

松本東教会の礼拝堂はかなり簡素な造りになっています。礼拝堂の中に十字架もありません。他の教会の教会員の方から「なぜ松本東教会の礼拝堂には十字架がないのですか」と聞かれたことがありますが、私はこう答えました。「御言葉に集中するためです」。そのときはもちろんもっと丁寧に言葉を費やして答えたわけですが、一言で言えばそういうことです。

宗教改革のときにまで遡りますが、スイスのジュネーブの教会を改革した改革者にジャン・カルヴァンという人がいます。この人によって改革された教会は礼拝堂を簡素にしました。当時はカトリック教会から分離をして改革がなされましたが、カトリック教会の礼拝堂には聖人の像があったり、大きな絵画が壁にかけられていたりします。カルヴァンはこれをすべて礼拝堂から取り除きました。御言葉を聴くことに集中するためです。いわば本物の神を拝むため、偶像礼拝の過ちに陥らないように、細心の注意を払って、礼拝堂を極力、簡素にしたのであります。

私たちの教会もそのような思いをもって礼拝しています。目に見えるものも、もちろん偶像になり得ます。しかしそれだけではなく、様々なものが偶像になり得るものです。聖人像とか絵画の中に描かれている人間だけではない。お金であったり、地位や名誉であったり、譬え話の中の人のように食料であったり、いろいろなものが偶像になります。そのような偶像をもっと欲しい、もっと欲しいと貪欲に思ってしまいます。このようになってしまうと、生けるまことの神ではなく、様々な偶像をまるで礼拝してしまうようになってしまうのです。

これに付け加えて、偶像礼拝の過ちがほかにもあります。今日与えられたルカによる福音書の箇所に出てくる群衆の一人は、主イエスにこのように求めました。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」(一三節)。この人は主イエスのことを、遺産を分けてくれるように兄弟に言ってくれる、いわば自分にとって役立つ人として見ていました。

先ほどから申し上げていますように、主イエスは生ける神です。生ける神を、自分にとってこうあるべき人だと固定化してしまうこと、これも立派な偶像礼拝であります。生ける神は私たちの思いを超えて働かれるお方です。そのお方を、私たちのもっと欲しいという思いで縛り付けてしまう。神は自分のもっと欲しいという貪欲の心のためにこうしてくださるはずだ、いや、こうしなければならない。生ける神を自分の願いをかなえるための便利な道具にしてしまうことも偶像礼拝なのであります。

主イエスは偶像礼拝のもとになっている貪欲の心を厳しく戒められます。貪欲の結果がどうなってしまうのかということが、最後の二一節にあります。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」(二一節)。

自分の豊かさを求めて生きていた人が、人生の最後の夜に実は豊かではなかったことが分かってしまったのであります。この人は死の宣告をされて、この夜をどう過ごしたのでしょうか。譬え話が死の宣告で終わっていますし、これは譬え話でありますから、あまりその先は考えない方がよいのかもしれません。けれども、おそらくこの人は後悔したと思います。その夜、初めて神の声を意識的に聴いて、悔い改めて、赦しを求めたかもしれません。

私たちにもその道が残されています。この説教をお聴きになられている皆様の中に、自分はこの人とは関係がない、自分はこの人のような生き方にはなっていない、大丈夫だと思われている方は、おそらくおられないと思います。皆様の誰もが多かれ少なかれ、思い当たるところがあったと思います。ああ、自分もこの人のようである、あるいは自分はこの人とそっくりだ、かつてはそっくりだったと思われた方もあるかもしれません。私たちも主イエスの厳しいとも思われる言葉を聴いて初めてそのことに気付き、赦しを求める者であります。

新約聖書のある箇所にこのような言葉があります。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(Ⅱコリント八・九)。この手紙の文脈からすると、あなたがたが行おうとしている奉仕を実行しなさい、やり遂げなさいということが語られています。この言葉はその中に埋め込まれている言葉なのであります。明らかに、主イエスの十字架が意識されています。

主イエスは本来ならばその必要もなかったのに、私たちの罪を担い、もっとも低いところまで降ってくださった。貧しくなってくださった。このことによって私たちの罪が赦され、私たちが豊かに命を受けることができるようになったではないか。私たちはすでに豊かなのだから、惜しみなく奉仕をしなさい、やり遂げなさいと語られるわけです。

ここに神の前に豊かになる道が開かれています。譬え話のこの人のように、独り言をつぶやくのではない。群衆の一人のように貪欲に心を支配され、偶像を礼拝するのでもない。私たちはかつてそういう人でありましたし、今でもそのような部分が残っています。そんな私たちであるからこそ、生ける神と向き合い、神を信じ、自分の罪を悔い改め、赦していただく。その道こそ、私たちが神の前に豊かになる道なのであります。