松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2011年11月20日(日)
説教題「神を信じて恐れを捨てよう」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第12章1節〜12節

とかくするうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスは、まず弟子たちに話し始められた。「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。」 「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。 だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。 五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。 それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」 「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる。 人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。 会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」

旧約聖書: 詩編 第139編

松本東教会にはノアの会という集会があります。第二日曜日のお昼過ぎにもたれている集会で、老若男女、誰でも参加することができる会です。毎回のテーマも定まっているわけではなく、その都度、いろいろなテーマを設定して会がもたれています。今年度は教会員の証しを聴く機会が何度かありましたが、昨年度は三回にわたって、みんなで死について話し合ってきました。そして今年の三月には死と葬儀について、私がまとめの話をいたしました。

三月のそのとき、私の話が終わって、みんなでお茶を飲みながら懇談をしていたときにも、様々な質問や意見が出ました。そのときに、自分の死について備えをする用紙を作ってもいいのではないかという意見が出ました。具体的に言いますと、生前に自分の葬儀の際の希望を書いておく紙になります。葬儀のときにどのような形で行ってほしいのか、読んでほしい聖書箇所や歌ってほしい讃美歌など、あらかじめ書いておいて牧師に提出しておく用紙であります。

その意見を受けて、早速そのような用紙を作成し、皆様にお配りいたしました。おそらくかなり多くの方がその用紙をお取りになり、ご自宅に持って帰られたのではないかと思います。最初に用紙を皆様に配布したときには、どれくらいの方が提出されるだろうかと思いましたけれども、たくさん持って行っていただいた割には、それほどまだ多くの用紙が提出されているわけではありません。

確かにこの用紙は気軽に書いて、簡単に提出できるような用紙ではありません。もしもこの用紙が気軽に、どしどしと皆様から提出されたとすれば、おそらく私は皆様に申し上げなければならなったでしょう。「そんなに簡単に死を考えないでください!もっと死を深刻にとらえてください!」と。

この用紙を提出するためには覚悟が必要です。本当に真剣に自分の死をごまかさずに見つめなければならない。家族とも相談しなければならないかもしれない。もしも死が自分の遠くにあると思うならば、このような用紙の必要性は感じないでしょう。死が自分に迫ってきている、真剣に受け止めなくてはならない、そのときに初めてこの用紙の必要性に気づかされるのかもしれません。

けれどもこれは何もお年を召された方だけの用紙ではありません。若いときには死が遠くにあって、やがて年をとるにつれて死が迫っている、そういうわけにはいきません。ある日突然、死が迫ってくるということもあります。私たちは死に対してぼんやりしているところがあるかもしれませんが、いつだって死は私たちと隣り合わせなのです。待ったなしで死は迫ってきます。

本日、私たちに与えられたルカによる福音書の箇所は、死のことを抜きにして語るとすれば、味気ないメッセージになってしまうでしょう。四節にこうあります。「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。」(四節)。また、一一節にもこうあります。「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。」(一一節)。これらの箇所から、明らかにここで主イエスが語っておられることが、殉教に関連していることが分かります。信仰を持っていることによって、命の危険にさらされる、そのことが語られているのです。つまり、この箇所で主イエスが語っておられることは、死と隣り合わせで過ごしている者たちへのメッセージになります。

先週の説教の中で語ったことですが、ルカによる福音書は紀元七〇年以降に書かれたと言われています。エルサレムの神殿が破壊され、今までのユダヤ人の信仰のあり方では通用しなくなってしまった。そこで力を持ち始めたのがファリサイ派と呼ばれる人たちです。このファリサイ派の人たちは神殿を離れた日常生活の中でも律法をきちんと守ろうとした人たちです。神殿が崩壊した後、ファリサイ派の人たちは力を持ち始めます。そしてキリスト教会としばしば衝突することになりました。

教会は最初、ユダヤ教の一派だと考えられていました。主イエスの弟子たちはユダヤ人です。同じユダヤ人たちが、何か新しいことを始めたらしい。ユダヤ人以外の目にもそのように映りました。当時のローマ帝国における社会では、ユダヤ人が自分たち独自の信仰を持つことを許されていました。ローマの社会はユダヤ人の信仰に対しては寛容だったのです。教会も最初はユダヤ人の一つのグループにすぎないと考えられていました。

ところが実際にはそうではないということがだんだんとはっきりしてきた。十字架に架けられたイエスという男を救い主だと信じている。その違いが明らかになってくるにつれて、ファリサイ派との衝突も激しくなりましたし、ローマ社会の中でも迫害されるようになってきたのです。

ルカによる福音書を最初に読んだ教会の人たちも、このような状況の中に置かれていました。衝突や迫害が厳しくなってきた。もしかすると体を殺されてしまうことがあるかもしれない。権力者のところに連れて行かれて、弁明をしなければならなくなるかもしれない。当時の教会の人たちにとって、遠い話ではなかったのです。

私たちの場合ではどうでしょうか。たしかに私たちが信仰を持っているゆえに、殉教してしまう、命の危険にさらされてしまうということは、今日ではなくなったと言えるかもしれません。しかしこのメッセージは、私たちのとって遠いメッセージというわけではありません。当時の殉教という形ではないにせよ、死はいつだって私たちと隣り合わせです。距離にしてほんの一メートルが、時間にしてほんの一秒が、私たちの生死を分けることだってあるのです。

信仰を持つことは、こういうところで問われることなのです。私たちの信仰は、私たちが安穏としている中でのみ通用する信仰なのではありません。むしろこのような厳しい状況の中でこそ救いになる、そのような信仰が本物の信仰です。死を乗り越えられない信仰は、信仰ではないと言わなければならないと思います。

それでは本物の信仰とはどういう信仰なのか。八節のところに「人の子」という表現があります。これを九節では言い換えて「わたし」と言われています。もちろん、主イエスがご自身のことを指して言われている言葉です。つまり、信仰とは人の子、主イエスのことを言い表すことなのであります。心の中に宿るような信仰というのも考えられるのかもしれませんが、教会が信じている信仰は、心の中だけではなくて、口にも出てくるというのが信仰なのであります。

もうだいぶ前のことのように思えますが、今年の夏、こどもの教会で一泊二日の夏期キャンプを行いました。夏期キャンプでは主題となる聖書箇所が与えられていて、今年のテーマはパウロの回心でした。最初はキリスト者を迫害していたパウロが、主イエスと出会い回心をして伝道者になる。三つのグループに分かれて、劇を演じてパウロの回心をみんなで学びました。

三つのグループとも、とても素晴らしい劇を演じてくれました。どのグループの劇も、最初はパウロが教会の人たちを迫害している場面から始まりました。パウロが登場して、パウロの手下の人たちにキリスト者を捕えさせる場面です。そのときに、つかまってしまうキリスト者たちが口にしていた言葉が「イエス様は神の子だ」という言葉でした。三つのグループのうち二つのグループか、三つすべてだったかもしれませんが、「イエス様は神の子だ」と口にしたキリスト者をパウロたちが捕まえているのです。劇の中で演じられたように、実際にパウロがしていたのも同じことです。なぜパウロがキリスト者を迫害していたのかと言うと、十字架で殺された人を救い主であるなどと口にする者はとんでもないと思ったからでしょう。

パウロに捕えられたキリスト者が「イエス様は神の子だ」と言っていましたが、この言葉は、私たちの信仰を最も短い言葉で言い表したものです。八節のところで「言い表す」という言葉が二度にわたって出てきますが、これは元の言葉では「告白する」という言葉です。信仰の告白のことです。

私たちはこの礼拝で使徒信条を告白しています。私が礼拝の司式者としてこだわっているのは、使徒信条を「告白する」ということです。単に使徒信条の言葉を口にする以上のことがここでは起こっています。この八節で言われているように、主イエスは自分の仲間だ、私は主イエスとかかわりがあると、毎週毎週、告白しているようなものです。

使徒信条の言葉は、最も短い信仰告白の言葉である「イエス様は神の子だ」という言葉よりも、もっと多くの言葉が含まれています。「イエス様は神の子だ」ということを、もう少し具体的に表すとどうなるのか。主イエスはどんなお方なのか。それは、主イエスが処女マリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、三日目に死人のうちより甦り…、というような言葉が必要になってきます。最も短い信仰告白に少し肉づけされていった結果、成立したのが使徒信条であります。主イエスばかりでなくて、父なる神、聖霊なる神に対する信仰も含まれていますが、私たちが心で信じ、口で言い表す信仰がこれなのであります。

一二節のところで、主イエスは「言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」(一二節)と言われていますが、結局のところ、私たちが言うべき言葉は、この信仰の言葉なのであります。私たちがこの言葉を自分で考え出したのではなく、ただ聖霊に導かれて言うことができるようになった言葉なのであります。

一〇節のところには、私たちをドキリとさせるような言葉があります。「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。」(一〇節)。私たちの力ではなく聖霊の力によって私たちが信仰の告白をすることができるわけですが、その聖霊を冒涜する者は赦されないと主イエスは言われるのです。この言葉を一体どのように考えればよいでしょうか。どうやら赦される罪と赦されない罪があるようです。赦されない罪とは何か。まずはそのことをはっきりさせて、その上で果たして自分はその赦されない罪を犯してしまってはいないか、そのことを私たちは確認したくなります。私たちが最も気になるのは、そのことだと思います。

この説教の準備をするにあたって、私が一週間、悩み続けたのもこのことであります。一体、主イエスはここで何を言おうとされているのか。聖書のこの箇所やあの箇所を開いて読んでみたり、あるいはたくさんの注解書を開いて読み、考えてみました。注解書にも実に様々な意見が書かれています。

例えばこんな意見です。主イエスの十字架と復活の前は、人々は主イエスが救い主であることを本当の意味で分からなかったので、十字架の前は赦される。ところが本当の救いが示された復活後、しかも聖霊が与えられた後に、その聖霊を冒涜するようなことは赦されない、という意見です。また、こんな意見もありました。洗礼を受ける前は、主イエスのことをよく知らないので、主イエスの悪口を言っても赦される。しかし聖霊に導かれて洗礼を受けた後、聖霊を冒涜するようなこと、つまり信仰を捨ててしまうようなことは赦されない、そんな意見もありました。さらには、こんな意見もありました。神の救いが目の前に示されていて、それがよく分かっていながら、故意に、悪意をもって、それに反抗してしまうことは赦されない。そんな意見もありました。実にたくさんの意見があるようです。

私がそれらを読んでいて、なるほどと思わされることもありましたけれども、どうもしっくりしないというのが正直なところです。どうも決定打が出てこないような気がしました。そんな中で、ある注解者がこんなことを言っていました。一〇節に「赦される」「赦されない」という言葉が出てきます。これはいずれも文法的に言えば、受け身の形です。神が私たちを赦したり赦さなかったりされるのであって、私たちがそれをするのではない。だから私たちでは何が赦される罪で何が赦されない罪なのかを決めない方がよいと、その注解者は言うのです。

確かにその通りだと思います。私たちでそのことを決定してしまいますと、ああ、自分は大丈夫、あの人は駄目、というような律法主義になってしまいかねません。この注解者が言うように、私たちの側で決定すべきことではないでしょう。神のみがその基準をお持ちなのです。

そのような決定ができない中で、私たちに響いてくるのが、主イエスの「恐れるな」(七節)という言葉であります。赦される罪と赦されない罪が分からないゆえに、私たちは安心することができないかもしれませんが、そのような私たちに向かって、「恐れるな」と言われるのであります。

私たちが恐れていることは、死であります。殉教という状況が後退している今日でも、私たちは死を恐れざるを得ないことには変わりません。死が迫ってくる。それも突然、迫ってくることがあるのです。私たちのその恐れを主イエスもよくご存じです。けれども、主イエスは何を本当に恐れるべきかを教えてくださいます。「だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。」(五節)。

「地獄」という言葉が出てきました。少し注釈が必要でしょう。主イエスがここで言われている地獄とは何でしょうか。聖書の中にも何度か、地獄という言葉が出てきます。聖書の地獄は、私たち日本人が抱くイメージとは違うかもしれません。私たちが用いている新共同訳聖書では地獄と訳されています。地獄と訳されている翻訳の聖書がある一方で、「ゲヘナ」と訳されている翻訳もあります。翻訳としてはその二つに二分されています。ゲヘナというのは、もとのギリシア語の言葉そのままです。ゲヘナという翻訳をした聖書はどうしてそういう訳をしたのかというと、地獄と訳してしまうと、違ったイメージを抱かせてしまうことを心配したからです。

ゲヘナはもともと地名でした。旧約聖書に書かれていますが、エルサレムの南にヒノムの谷と呼ばれるところがありました。一説によると、ここはゴミ捨て場のようなところだったと言われていますが、あるときに子どもたちがそこに投げ込まれるという事件が起こりました。「殺戮の谷」(エレミヤ一九・六)とも呼ばれています。イスラエルの共同体から見放されて切り捨てられてしまうような場所でありました。このようなもともとは地名だった言葉が、やがてギリシア語化されてゲヘナになり、新約聖書に用いられるようになりました。

ゲヘナは聖書特有の言葉です。新約聖書以外の文献でゲヘナという言葉を探しても見当たらないのだそうです。もちろんギリシア語にはもともと地獄に相当する言葉が昔からありました。この言葉は地下の世界を意味するのだそうです。私たちの日本的な地獄のイメージに近いかもしれません。しかし新約聖書はその言葉を使わずに、あえてゲヘナという言葉を使いました。

幸か不幸か、新約聖書はゲヘナとはどのようなところなのか、あまりはっきりとは説明してくれません。ですからゲヘナに関しても、私たちの側で詳細を定義することはできませんが、神から切り離されてしまうところ、つまり滅びを意味するところと考えることができるでしょう。

そのようなところに投げ込む権威をお持ちである唯一のお方が父なる神であると主イエスは言われます。悪魔や悪霊がその権威を持っているわけではない。人間がその権威を持っているわけではない。もちろん死やあらゆる災いがその権威を持っているわけでもありません。それらのものが私たちにできるのは、せいぜい体を殺すところまでです。その先は何もできません。地獄、すなわちゲヘナに投げ込むことができる権威をお持ちなのは、唯一、神だけであられるのです。

その上で、主イエスは言われます。「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」(六~七節)。雀一羽にすれば、ほんのわずかな金額です。その雀さえも神に覚えられている。それどころか、私たちの髪の毛一本までも神は覚えていてくださる。神は私たちを悪いようにされるはずがないではないか、地獄に投げ込むなどということをされるはずがないではないかと主イエスは言われるのです。

髪の毛一本までも数えられていることは、恐ろしいことであるかもしれません。神に隠せる部分が私たちにはまったく残されていないからです。二節から三節の言葉もそうでしょう。「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。」(二~三節)。私たちの見せたくない部分も神はご存じで、その部分を指摘して、地獄に投げ込むことだって可能でしょう。

しかし神はそうはなさいません。神を信頼し、信仰を告白している私たちのことを、神もご自分の仲間であると言い表してくださいます。私たちは信仰告白の中で、こう告白しています。主イエスが苦しみを受け、十字架に架かり、三日目に甦られた。人間は人の子の悪口を言いました。散々、言いました。そしてついに十字架につけてしまいました。しかし驚くべきことに、神は人間を赦してくださった。人の子を十字架に架けてしまったことも、私たちの罪もすべて赦してくださった。そのことを私たちは聖霊に導かれて、信仰告白をしています。これが唯一の救いです。ほかに道はありません。聖霊を冒涜して、この道を否定するとすれば、どこに救いがあるというのでしょうか。

神は救いの唯一の道を用意してくださいました。神がこのような救いを用意してくださったお方だからこそ、私たちは信仰を言い表し、神を信頼し、恐れを捨て去ることができるのです。