松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


HOME > 礼拝説教集 > 20111113

2011年11月13日(日)
説教題「本当の不幸と真の幸い」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第11章37節〜54節

イエスはこのように話しておられたとき、ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた。 ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った。 主は言われた。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。 愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。 ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。 あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ。 あなたたちは不幸だ。人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない。」 そこで、律法の専門家の一人が、「先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります」と言った。 イエスは言われた。「あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。 あなたたちは不幸だ。自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているからだ。 こうして、あなたたちは先祖の仕業の証人となり、それに賛成している。先祖は殺し、あなたたちは墓を建てているからである。 だから、神の知恵もこう言っている。『わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する。』こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。 それは、アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ。そうだ。言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる。 あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ。」 イエスがそこを出て行かれると、律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き、いろいろの問題でイエスに質問を浴びせ始め、何か言葉じりをとらえようとねらっていた。

旧約聖書: 詩編 第1編

この説教を始めるにあたって、一つの簡単な問題を考えてみたいと思います。皆様があるグループに属しているとします。そのグループの中で一番になるためにはどうすればよいでしょうか? 学校のクラスでも、会社の部署でも構いません。学校ですと、テストで一番の成績をとるためにはどうすればよいでしょうか? 会社の部署ですと、営業成績が一番となるためにはどうすればよいでしょうか?

すぐに思い浮かぶ答えは、一生懸命、努力をして、自分の能力を高めていくということです。一生懸命、勉強をする。一生懸命、営業努力をする。そうすれば、一番が見えてくるかもしれません。

けれども、方法はそれだけではありません。一番になるのが目的ですから、自分を高める以外にも方法はあります。人を蹴落としてしまえばよいわけです。恐ろしいことですが、人間はこういう方法を思いつくこともできます。学校のクラスが一〇人のクラスであるならば、他の九人を何らかの方法で蹴落としてしまえば、自分がめでたく一番になります。他の人を蹴落とすのはもちろん簡単な話ではありませんが、時に自分が努力するよりもこれが有効な場合もあります。このようにして、自分が一番になる。一番とまでは言わなくとも、他の人を自分より下に仕立て上げることによって、自分がその上になる。恐ろしいことですが、人間はその能力に長けているところがあります。

この説教を始めるにあたって、なぜこのような話から始めたのか。それは、本日私たちに与えられているルカによる福音書の箇所の最後に、こう記されているからです。「イエスがそこを出て行かれると、律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き、いろいろの問題でイエスに質問を浴びせ始め、何か言葉じりをとらえようとねらっていた。」(五三~五四節)。

私がとても不思議だと思うのは、なぜファリサイ派と律法学者の人たちは、主イエスに真っ向から反論しなかったのかということです。主イエスはこのときファリサイ派と律法学者の人たちを非難しました。主イエスの非難の言葉は後で少し考えていくことにしますが、この非難に対して、反論してもよかったはずです。

たとえば最初のところで、あなたがたは外側ばかりきれいにしていると、主イエスから言われています。しかし、いや、そんなことはない、内側だってきれいだと反論してもよかったはずです。最後のところで、知識の鍵を取り上げ、自分も入らないし、人も入らせないとの非難を受けていますが、いや、そんなことはない。自分も入っているし、人も入らせてやっていると反論してもよかったはずです。しかしファリサイ派と律法学者の人たちは不思議なことに、そうはしていません。おそらく真実をはっきりと言われてしまい、反論することができなかったのでしょう。

そこで、彼らがとった方法は、主イエスをなんとか蹴落とそうとする方法でした。あなたはそう言うかもしれない。そして確かに私たちはそのことを否定できないかもしれない。けれども、そう言うあなただって、良からぬところがあるのではないか。あらさがしをして、なんとかこの男をおとしめてやろう。そのようにして、この男を自分よりも下に持っていってやろう。自分たちの方を上に持っていこうとしたのであります。

このようなことが行われたのは、ここだけではありません。福音書全体にわたって書かれていることでもあります。なんとか主イエスを陥れよう、引きずり落とそうとした。けれどもそれらは成功することはありませんでした。その都度、主イエスにやり込められてしまった。主イエスには真理があったからです。そこで主イエスを黙らせるためにとられた最終的な方法が十字架でありました。ですから、主イエスを十字架につけてしまった最大の原因が、人間の上になりたい、そのために人を下にしてしまうという心でありました。その心が、主イエスを十字架につけてしまったと言っても過言ではないと思います。

ファリサイ派や律法学者と呼ばれる人たちは、福音書の中にしばしば登場していますが、一体どのような人たちだったのでしょうか。律法学者はその名の通り、律法の専門家でありました。当時はかなりきめ細かくいろいろな規定が定められていて、一般人ではなかなかすべてを理解し得ることはできなかったようです。必要なときに、このような専門家のところに行って、お伺いを立てていたようです。

ファリサイ派というのは一つのグループの名前で、律法学者もそうだったと思いますが、律法を忠実に守ろうと努力した人たちです。イスラエルの人たちにとって、もちろん律法はとても重要なものでありましたが、エルサレムの神殿も極めて大切なものでありました。年に数度、エルサレムの神殿に宮もうでをするのも大切なことでした。ファリサイ派の人たちも、もちろんエルサレムの神殿を大切にしたでしょうけれども、神殿だけでなく、普段の生活の中にも律法に基づく生活を貫こうと考えた人たちでした。たとえば、今日の聖書箇所にもありましたが、十分の一税をしっかりと献げるというようなことです。ほかにも食物の規定を遵守するとか、安息日をきっちりと守るとか、そのような律法に基づく生活を大切にしていた人たちでありました。

主イエスが地上を歩まれた時代にも、ファリサイ派がそこそこ力を持っていたのだと思いますが、特にファリサイ派が力を持ち始めたのは、紀元七〇年以降のことだと言われています。紀元七〇年、ローマ帝国軍によって、エルサレムの神殿が破壊されました。イスラエルはローマ帝国に支配されていたのですが、反乱を起こしてしまい、結果的にはその反乱は失敗に終わってしまいました。エルサレムの神殿は徹底的に破壊されてしまい、今では嘆きの壁と呼ばれる壁の一部が残っているだけです。

こうしてイスラエルの人たちは神殿を失ってしまったわけですが、多くの人にとってこれは危機でありました。どうしてかと言うと、今まではエルサレム神殿が中心だったのです。生活のよりどころとさえ言ってもよかった。ところがそれがなくなってしまった。神殿なしで、どうにかやっていかなくてはならない。そこで台頭してきたのがファリサイ派であったのです。

先にも申し上げた通り、ファリサイ派は律法に基づく生活が大事でありましたから、エルサレムの神殿がなくても、どうにかやっていくことができたのです。ファリサイ派以外にも、サドカイ派とかエッセネ派と呼ばれる人たちが知られていますが、それらのグループはやがて消滅してしまいました。ファリサイ派だけは生き残ったのであります。今のユダヤ教は、ファリサイ派からの影響を大いに受けていると言う人もいるくらいです。

このことと関連することですが、ルカによる福音書が書かれたのは、エルサレムの神殿が崩壊をした後のことであると言われています。エルサレムの神殿が破壊された七〇年の直後か、少なくとも一〇年は経っていない頃ではないかと言われています。そうなってくると、ルカによる福音書を読んでいた各地の教会が、ファリサイ派との戦いに直面していたことになります。新約聖書には、教会がユダヤ人たちとの戦いに直面していた記述が多くみられます。ユダヤ人から迫害されることも多かった。そのユダヤ人のグループの一つがファリサイ派だったのだと思います。同じ町に、教会があり、またファリサイ派のグループがある。そんな状況も多々あったと思います。場合によっては集会をしている隣の家同士だったということもあったかもしれない。

そのようなときに、教会の人たちは、今日の聖書箇所をどのような気持ちで読んだでしょうか。主イエスがかつてファリサイ派の人たちを厳しい言葉で非難しました。ああ、いい気分だ、胸がすっきりするような思いだ、そんな気持ちになれたでしょうか。あのファリサイ派の人たちは主イエスが言われたように、外側ばかりをきれいにしていて内側をちっともきれいにしない。どうしようもない人たちだ。そのように思っていたでしょうか。

もしも教会の人たちがそう思って、人を非難するけれども、自分をまったく吟味しなかったのであれば、教会の人たちもまたファリサイ派の人たちと同じになってしまうでしょう。あの人たちは自分たちの下だ。あの人たちが下なので、自分たちは上だ。そういうふうに思っていたのであれば、これは主イエスが批判したファリサイ派とまったく同じことになってしまいます。そうすると教会の人たちも主イエスから言われてしまうでしょう、「あなたたちは不幸だ」、と。人より上、人より下、そのようなことをやっているところに、真の幸いなどないのであります。そこにあるのは、主イエスが言われるように、不幸だけであります。

本日の説教の説教題を「本当の不幸と真の幸い」と付けました。このような説教題を付けたからには、何が不幸で何が幸いなのか、きちんと語らなくてはなりません。私が先週一週間、悩みながら考えてきたことであります。そんな悩みの中にあった私が、妻に尋ねてみました。「幸せな人、不幸な人とは、どんな人だと思う?」、と。

妻の答えによれば、この世の幸せ、不幸というのは、人と比べることによって量られるものであるということです。幸せな人は、人と比べてこれを持っているから幸せ、人と比べてこれをできるから幸せ、ということになります。逆に不幸な人というのは、人と比べてこれを持っていないから不幸、人と比べてこれができないから不幸、ということになります。なるほど、と思わされました。確かに本日の聖書箇所でのファリサイ派がしていることと同じであります。律法を守る生活をする上で自分たちは上、だから幸せで、あの人たちは律法を守らない生活をしている、だから不幸と考えていたかもしれません。

しかし主イエスの目から見れば、皮肉なことに、律法学者やファリサイ派の人たちの考え方が極めて不幸だったのです。人と比べることによってしか幸い、不幸を量ることができない。なんと不幸なことではないか。主イエスの言葉もだからこそ、激しくなっているのだと思います。真の幸いからは程遠い、なんとか目を覚ましてもらいたい、なんとかここから脱却させたいという思いがあったのだと思います。

聖書が言う、幸い、不幸とは、極めてはっきりしています。聖書のいろいろなところに何が幸いで何が不幸なのかということが記されていますけれども、数ある箇所の中から、いくつかを取り上げて考えたいと思います。まずは先週、私たちに与えられた聖書箇所にはこうありました。「イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」」(一一・二七~二八)。幸いは人と比べることによってではなく、神の言葉とかかわりがあると主イエスは言われます。

また本日、合わせてお読みした旧約聖書の箇所であります詩編第一編にはこうありました。「いかに幸いなことか…主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」(詩編一・一~三)。幸いな人は主の教えとかかわりがあり、流れのほとりに植えられた木にたとえられています。

これと同じようなたとえが、エレミヤ書にあります。「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り/暑さが襲うのを見ることなく/その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく/実を結ぶことをやめない。」(エレミヤ一七・七~八)。幸いではなく祝福という言葉でありますが、同じ意味に考えることができるでしょう。幸いなのは主に信頼する人であります。そしてその人が木にたとえられ、水の流れがすぐ近くにあります。神の言葉、神の教えをほとりの水から得ることができる人こそ幸いなのであります。

いくつかの聖書の言葉から、どういう人が幸いであるかを確認してきましたけれども、共通しているのは、神と向かい合っている人が幸いなのであります。人と向かい合い、人と比べて幸いが量られるなどとは一言も書かれていないのです。そうすることは、主イエスによれば、かえって不幸になってしまうのであります。

四七節からのところは、先祖たちが預言者を殺してしまったことが言われています。流された血の責任を問われることになると言われるわけですが、五一節のところではこう言われています。「それは、アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ。そうだ。言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる。」(五一節)。アベルというのは、旧約聖書の創世記の最初のところに出てくるアベルであります。カインという兄がいましたが、神への献げ物を目に留めてもらえず、怒ったカインが弟のアベルを殺してしまいました。その殺されたアベルのことです。

ゼカルヤというのは、いろいろな説があるようですが、おそらく旧約聖書の歴代誌下に出てくる人ではないかと言われています。旧約聖書はユダヤ人にとっては古い約束の聖書ではなく、旧約聖書だけで聖書なのですが、ユダヤ人が用いている聖書は私たちが用いている旧約聖書と並び順が同じではありません。最初は創世記で一緒ですが、最後が違います。ユダヤ人が用いている聖書の最後が歴代誌下になります。その歴代誌下の中でも最後の方に出てくるのがこのゼカルヤという人です。ここにありますように殺された人であります。つまり、最初から最後まで、すべての殺された人の責任が問われると主イエスは言われるのです。

人を殺すというのは恐ろしいことですが、その引き金となる心は、誰の心の中にもあります。この説教においてここまでに考えてきたように、人よりも上になりたい、邪魔な者は蹴落とすという心であります。その心が極まって、主イエスの十字架が起こってしまいました。私たちもその責任から逃れることはできません。もしも主イエスの十字架を、ファリサイ派や律法学者、ユダヤ人たちだけにその責任を押し付けてしまい、自分ならば主イエスを十字架につけなかっただろう、あの人たちが十字架につけてしまったのだと考えるならば、私たちはまたファリサイ派と同じ考え方になってしまいます。

時間的にも地理的にも、主イエスの十字架とは隔てられている私たちかもしれませんが、その隔てに安心して自分には責任はないと言うわけにはいきません。私たちが主イエスを十字架につけてしまったのです。そのような心が私たちの中にもあるのです。神の独り子を十字架につけてしまう、これほどの罪はありません。私たちの罪が極まって十字架の出来事が起こったのです。けれどもその罪が極まったところで、罪の赦しが起こりました。主イエスが私たちの罪をその身に負って、十字架にお架かりになってくださった。そのことによって、私たちの罪が赦されたのです。使徒パウロもこう言いました。「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」(ローマ五・二〇)。

この赦しの中で、本日の箇所を読むときに、新たな光が射してきます。たしかに主イエスのお言葉は厳しい。それは否定のしようがありません。ファリサイ派と律法学者の人たちが非難されているような心が、私たちの心の中にもあります。けれども、私たちは赦されているのです。主イエスのお言葉を恐ろしい言葉としてではなく、自分自身を本当によく吟味する言葉として、聞くことができます。

本当に自分はうわべだけを繕って、内側が汚れていやしないか。知識の鍵を独占して、信仰を自分だけのものにしてはいないか。そのように吟味をすることができる。そして私たちの心のうちに、主イエスが言われるような不幸な面があるならば、赦していただきましょう。そして聖書が私たちに告げている真の幸いに立ち返りましょう。私たちがもう一度、幸いな者として歩むことができるのは、この赦しがあるからです。神の赦しを知り、神のこの大きな恵みを知って生きるところに、真の幸いがあるのであります。