松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2011年11月6日(日)
説教題「救いのしるしを見よう」

説教者 本城仰太 伝道師

新約聖書: ルカによる福音書 第11章27節〜36節

 イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」 しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」 群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。 つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる。 南の国の女王は、裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。 また、ニネベの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。」 「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。 あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」

旧約聖書: 列王記 第10編1〜13節









ヨナ(イオナ)のイコン(18世紀ロシア正教会、キジ島にある修道院のイコノスタスから)

ヨナ(イオナ)のイコン(18世紀ロシア正教会、キジ島にある修道院のイコノスタスから)
Prophet Jonah, Russian Orthodox icon from first quarter of 18-th cen.

先週の木曜日のことになりますが、教会員のカレン・リックスさんによるゴスペルコンサートが開催されました。今年で三回目のコンサートであります。たくさんの人でこの礼拝堂がいっぱいになり、またたくさんの奉仕者が与えられて、とても恵まれたコンサートとなったことを感謝しております。

このゴスペルコンサートをカレンさんに依頼したのは、今から半年ほど前のことになります。今年も昨年と同じようにコンサートを行いたいのだが、どうだろうかとお伺いを立てました。コンサートの中でカレンさんも言われていましたが、私からの最初の依頼を受けたとき、カレンさんはとても多忙でありましたので、少々迷いがあったようです。

そのようなときに、カレンさんから「コンサートのコンセプトはあるか」と聞かれましたので、私はこう答えました。「東日本大震災を私たちは経験し、私たちの心も揺れ動いている。コンサートを通じて、神こそが揺るがないお方であることをぜひ伝えたい」、と。このやりとりはメールで行いましたけれども、すぐにカレンさんから返信がありました。「それはとてもいい考えですね。ぜひやりましょう。今度の日曜日に、詳しいことを話し合いましょう」という返事をいただきました。

次の日曜日、早速、コンサートの詳細を話し合ったわけですが、そのときに、コンサートの主題となる曲をもう決めたと嬉しそうにカレンさんが言われました。”Jesus is a Rock”(主イエスは〔揺るがぬ〕岩である)という曲です。この曲は今回のコンサートの主題曲になったばかりではなく、コンサート全体が伝えているメッセージにもなったと思います。震災が起こって地面が揺れました。私たちの心も揺れました。私たちの世界も心も揺らぎやすいかもしれませんが、そんな中で、主イエスこそが揺らがない方、岩でいてくださる方。そんなメッセージをコンサートに来られた方は受け取ったのではないかと思います。

このことを同じことを、本日私たちに与えられた聖書の箇所の表現で言うならば、「人の子も今の時代の者たちに対するしるしとなる。」(三〇節)という言葉がぴったりと当てはまると思います。「人の子」というのは、主イエスがご自分を指して使われている言葉です。主イエスは今の時代の私たちにしるしとなる。つまり、主イエスを見れば、私たちは救いが分かるということになります。

今日の説教のテーマは「しるし」ということになりますが、先週の聖書箇所にもしるしという言葉が出てきました。先週の説教が終わって感想を言ってくださる方がありましたが、その方が言われたのは、今日の聖書箇所と一六節がつながっているのではないかという指摘でありました。なかなか鋭い指摘だと思います。「イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。」(一一・一六)。

このとき主イエスは悪霊を追い出されました。人々はそのことに驚いたわけですが、純粋に驚いた人ばかりではありませんでした。悪霊の頭ベルゼブルの力で追い出している、つまり主イエスが悪霊を追い出すことができたのは、もっと強い悪霊の力を持っているからだと主張した者たちがいました。一六節のこの言葉も、これと同じ考えだと言えるかもしれません。あなたの力が悪霊による力なのではなく、天からの力だというしるしを見せてごらんなさい、証拠を見せてごらんなさいと言った人たちもいたのです。

今日の聖書箇所もしるしを求める人たちがたくさん出てくるわけですが、まず初めの二七節、二八節もそのように考えることができます。「イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」」(二七~二八節)。

一人の女性が出てきます。この女性としては、何気なく主イエスのことを褒めたのかもしれません。あなたはすごい力をお持ちですね、と言いたかったのでしょうけれども、同じ女性として、同じ母としての言葉でしょうか。「あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」幸いだと言ったのです。つまり主イエスの母、マリアを羨ましいと思ったのです。

この女性にとって、何よりのしるしは家族としてのつながりでありました。母と子の絆は深いものです。母と子でありますから同じ家族です。家族としてのしるし、これ以上のしるしはないとこの女性は思ったのでしょう。けれども主イエスは言われます。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」(二八節)。たとえ家族としてのしるしがなかったとしても、もっと大きなしるしがあるではないかと主イエスは言われるのです。主イエスが以前、言われた言葉を思い起こしてもよいと思います。「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである。」(八・二一)。

二九節以下もしるしの話が続いていくわけですが、主イエスはここで二つの話を持ち出されます。群衆はイスラエルの人たちでありましたから、これら二つの話は群衆たちもよく知っている話でありました。

一つ目の話はヨナの話です。旧約聖書にヨナ書があります。そこに書かれている話です。今日の旧約聖書の箇所としてヨナ書を読んでもよかったのですが、ヨナ書は九月にも旧約聖書の箇所として読まれましたので、今日はもう一つの話の方をお読みいたしました。ヨナというのは人の名前でありまして、この人は預言者でありました。神から言葉を預かって、それを人々に伝える務めをしていた人です。ヨナはこのときニネベという町の人々に、神の言葉を伝える役割が与えられていましたが、伝えるべきことはこういうことでありました。「あと四十日もすれば、ニネベの都は滅びる。」(ヨナ三・四)。

ヨナは町中を回ってそのことを伝えたわけですけれども、ニネベの町の人たちはヨナの言葉を聞いて、本当に悔い改めた。神を信じ、断食をして、粗布をまとい、悪の道を離れ、不法を捨て、ひたすら神に祈り求めるようになった。その悔い改めの様子は見事なものだったのでしょう。神が下そうとしていた災いをやめられたのです。ヨナは「ニネベの都は滅びる」と人々に言っていましたので、自分の言った言葉が実現しないことになります。嘘つきではないかと言われかねない状況になってしまいました。ヨナは神が思いとどまられたことを不満に思ってしまいましたが、それほどニネベの町の人たちの悔い改めの様子はすばらしかったのでしょう。

もう一つの話は、本日の旧約聖書の箇所としてお読みしましたが、イスラエルの王様であったソロモンに、シェバという遠い国から会いにやってきた女王の話であります。ソロモンはダビデの後を継いで王様となった人です。イスラエルを王様として治めなくてはなりません。ソロモンが王様になった直後に、ソロモンはイスラエルをよく治められるように神に知恵を求め、そしてその知恵が神から与えられたと列王記上の第三章に書かれています。

そんな知恵の豊かなソロモンでありましたから、遠くの国にまで評判が広まっていたのだと思います。シェバの女王もやってきた。この女王はソロモンの知恵に感服します。しかしただ感服しただけではありませんでした。「あなたをイスラエルの王位につけることをお望みになったあなたの神、主はたたえられますように。主はとこしえにイスラエルを愛し、あなたを王とし、公正と正義を行わせられるからです。」(列上一〇・九)。このシェバの女王は、ソロモンに与えられた神の知恵を通して、神をほめたたえたのです。ニネベの町の人たちの悔い改めとは少し様子が違うかもしれませんが、シェバの女王もある意味では、悔い改めたのであります。

二つの話の共通点を探ることができるでしょう。主イエスが持ち出した二つの話とも、異邦人の話であります。異邦人とはイスラエルにとっての外国人のことですが、イスラエルの人々は神に救われるのは自分たちだけという考えがありました。ところが主イエスが持ち出した二つの話は、異邦人たちが立派に悔い改めてしまった話です。ヨナの説教を聞いて悔い改めてしまった。ソロモンの知恵の言葉を聞いて、これまた悔い改めてしまった。ヨナやソロモンがしるしになったのであります。

本日の聖書箇所の中には、たくさんのしるしがあるように思われるかもしれません。実際、主イエスもいくつかのしるしを挙げておられます。けれども、主イエスは言われるのです。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」(二九節)。かつてのヨナのしるしと同じしるしが今の時代の者たちにも与えられているかのように思えますけれども、主イエスは三〇節のところでこのように言い換えておられます。

「つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる。」(三〇節)。さらに主イエスは言われます。「ここに、ソロモンにまさるものがある。」(三一節)。「ここに、ヨナにまさるものがある。」(三二節)。言うまでもなく、ソロモンにもヨナにもまさるしるし、それは主イエスご自身のことであります。

この唯一にして最大のしるしが目の前に現れている。しかも主イエスがそのしるし以外に本当のしるしはないと言われる。私たちはそのしるしだけで満足するでありましょうか。今日の聖書箇所の記述によれば「今の時代の者たちはよこしまだ」(二九節)と主イエスから言われています。いわば怒られています。よこしまというのは邪悪の邪の字を書きますが、別の聖書の訳では「邪悪」とか「悪い」などと訳されています。なぜ主イエスがこんなに厳しい言葉を言われているのか、その答えは明らかでありまして、唯一にして最大のしるしが現れているのに、あなたがたはそれを見ても、まだ信じられないのか。なおもしるしを欲しがるのか。だから邪悪だ、よこしまだと言われるのです。

今を生きる私たちにも同じ言葉が向けられていないでしょうか。主イエスという唯一にして最大のしるしのことはわきに置いてしまう。このしるし以外に、こんなしるしやあんなしるしがあるように思える。そちらばかりに目が行ってしまって、肝心のしるしが分からなくなってしまう。あるいは、自分にはまだまだしるしが足りないのではないかと思ってしまう。別のしるしを求めてしまう。そんなふうになってしまったならば、主イエスは私たちに対しても言われるでしょう。「今の時代の者たちはよこしまだ。」(二九節)。

たくさんのしるしが私たちの周りにあるように思えます。けれども、信仰を持って生きているキリスト者は、それらを見分けることができる目を持つことができます。そして最終的には一つのしるし、唯一にして最大のしるしに集中することができるようになるのです。

夏が終わり、秋から冬にかけての歩みをしていますけれども、この季節、教会内外でたくさんの行事が行われました。教会の中だけではなくて、教会の外へ出かけて行った方もあると思います。それらの行事の中で、皆様は遠くてとても行かれませんでしたけれども、九月に東海教区の教育部が主催する講演会が、静岡県の三島教会で行われました。遠かったのですが、私は委員の一人でありますから、三島まで出掛けて講演会に出席をしてきました。

講演をしてくださったのは、大阪の方でキリスト教教育主事という立場におられる方です。日本基督教団には牧師とか伝道師とか、その他にもキリスト教主義の学校の先生である教務教師という立場がありますが、キリスト教教育主事というのは教会教育の務めにあたっておられる方です。その方も教会学校や青年たちへの伝道の働きを熱心にされていますが、そのような講演を聞くことができました。

その先生がお話されたエピソードの中から、二つのエピソードをお話ししたいと思います。先ほども言いましたように、その方は大阪で教会教育にあたっておられます。しかもかかわっておられる教会は商人の町の中にあります。ですから、教会にやってくる子どもたちも、商人の息子、娘ということになります。そういう特殊な状況でありますので、教会に集ってくる子どもたちは教会学校の先生に、ときどきこのように尋ねるのだそうです。「先生、教会学校の先生って時給いくら?」。もちろん、教会学校の先生たちは奉仕なので、お金をもらっていないと答えると、その教会の子どもたちはとても不思議に思うのだそうです。なぜ、この人たちは無償で働くのか、そのような謎を抱くことになります。

もう一つのエピソードは、今度は子どもたちの話ではありませんが、やはりお金にかかわる話です。初めて教会に来た人が、礼拝で献金を献げる。そして直後に献金感謝の祈りがあります。司式者が「これから献金感謝の祈りをします」と言ったので、初めて来られた方は、てっきり献金をした自分に対して感謝の言葉を述べてくれるのだと思った。ところが、献金感謝の祈りを聞いて驚くことになった。「献金をさせてくださってありがとうございます」との祈りをしていたからです。この方もまた、不思議な謎を抱くことになりました。

講演をしてくださった先生は、教会の務めはこの謎解きをすることだと言われました。教会で行われていることは、この世の常識は通用しません。不思議なこと、謎がいっぱいあると思います。なぜこの人は無償で働くことができるのだろう。なぜ献金をして損をしているはずなのに、感謝しますと言えるのだろうか。なぜこの人はこんなにも笑顔で喜んでいられるのだろうか。そんなたくさんの謎があると思います。

その謎を解いていくことが教会の務めなのです。そしてその謎が解けたときに見えてくるのは、主イエスが救い主だったということです。唯一にして最大のしるしである主イエスが見えてくるのです。主イエスに救われて、謎のような不思議なことができた。主イエスがその人にとっての原動力となっていたのです。

カレンさんのコンサートでのメッセージもそうでありましょう。カレンさんの歌を通して、また曲と曲の合間で語られた言葉を通して伝わってきたのは、主イエスこそ唯一にして最大のしるしだというメッセージです。結局はそのメッセージに行き着いた。主イエスこそが揺るがぬ岩。それこそ私たちが聞くべき、見るべき、唯一にして最大の救いのしるしなのです。

カレンさんのコンサートが終わり、間もなくクリスマスのときを迎えます。コンサートが終わるまでは、なかなかクリスマスを迎えるという気持ちになれなかったかもしれません。しかし子どもたちのクリスマスの準備はすでに始まっています。今年もクリスマスページェント劇を行う予定です。もう配役のほとんどが決まって、歌の練習をして、動きの確認などもしています。

先月のこどもの教会教師会での話し合われたことですが、劇が終わった直後に、劇をやりっ放しではなく、ちょっとした話があると良いのではないかという意見が出されました。クリスマスの劇のクライマックスは、救い主としてお生まれになった主イエスのところに、羊飼いや博士たちがやってきて、主イエスを讃美します。そして歌が終わると、最後にナレーターが「これが本当のクリスマスです」と言って終わりになります。去年はそのようにして終わったわけですが、今年は先月の教師会の意見を採用し、劇の終わったところで、私が少し話をすることになりました。どのような話をしようかと思案しているところですが、本物の救いのしるしを伝えることのできる話をしたいと思っています。

子どもたちが演じてくれるクリスマスの物語は、本物の救いのしるしを見に行く物語です。実際にクリスマスの出来事が記されている聖書の箇所を見ると、このように記されています。「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(マタイ二・一〇~一一)。博士たちは本物の救いのしるしを見て、全身が輝くような喜びにあふれたのであります。

本日与えられた聖書箇所の最後のところに、ともし火に譬えての話があります。もうこの聖書箇所に解説を加える必要はないでしょう。「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るい」(三四節)と主イエスが言われています。私たちが本物の光を見ると、私たちの全身も明るく輝くのです。あの博士たちがそうだったように、また大阪の教会学校の先生たちがそうだったように、献金感謝の祈りを献げた方がそうだったように、またコンサートでのカレンさんがそうだったように、本物を見ている人の全身は輝いているのです。それは何も特定の人だけではありません。唯一にして最大のしるしである主イエスを見る者は誰でも、その目だけではなく全身が輝くことができる。まばゆいばかりの光を放って、生きることができるようになるのであります。