松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2011年10月30日(日)
説教題「心の掃除は神にお任せしよう」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第11章14節〜26節

 イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。 しかし、中には、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者や、 イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。 しかし、イエスは彼らの心を見抜いて言われた。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。 あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。 わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。 しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。 強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」 「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。 そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。 そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」

旧約聖書: イザヤ書 第49章22〜26節

一〇月も残すところあと二日になりました。今日が一〇月三〇日で、明日が一〇月最後の日、一〇月三一日であります。私が使っています手帳は、日本基督教団が発行している「牧会手帳」と呼ばれている手帳です。普通の手帳と言ってしまえば普通の手帳なのですが、日本基督教団の信仰告白の言葉が印刷されていたり、日本基督教団の歴史を綴った年表が印刷されていたり、普通の手帳とは少し違う面があります。私がこの手帳を重宝していますのは、教会の暦が印刷されているからです。

例えば、来年のイースターはいつになるのかということが知りたければ、手帳を開くとすぐに分かります。その他にも、教会の様々な行事が知りたければ、その手帳をもとに調べれば、たいていのことは分かります。そんな手帳なのでありますが、この手帳の明日の日付の一〇月三一日のところには、「宗教改革記念日」と記されています。社会の歴史の授業でも習うであろう、宗教改革の記念日であります。

一体どんな日だったのでしょうか。一五一七年にまで遡りますが、この年の一〇月三一日、ドイツのヴィッテンベルクという町の中に、マルティン・ルターという人が九五箇条の提題を掲げた日と言われています。九五箇条の提題は、当時のカトリック教会の在り方に疑問を持ったルターが、まずはみんなで議論をしたいと思って、掲げた文章であります。しかしこの九五箇条の提題は思わぬ反響を呼びました。好意的に受け止められればよかったのですが、必ずしもそうではありませんでした。特にカトリック教会を批判しましたので、ルターの身が危険にさらされるようになることもありました。命からがら逃げ回らなければならないこともあったようです。

ルターはこのような経験したくもないことを経験しながら、教会を徐々に改革していき、結果としてカトリック教会とは違う、プロテスタント教会が誕生しました。順風満帆というわけにはいかなったでしょう。険しい道のりだったと言わざるを得ません。しばしば、ルターはサタンとの戦いにも直面したようです。自分の命が危険にさらされるわけですから、教会の改革を途中で投げ出したいという誘惑にも駆られたでしょう。改革を道半ばで、途中で妥協させてしまおうという誘惑もあったかもしれません。そのような誘惑の中で、最も大きな誘惑は、ルターが聖書をドイツ語に翻訳していたときの誘惑であると言われています。

これは伝説にすぎないとも言われていることです。当時の聖書は、今では信じられないかもしれませんが、自国語の言葉で読むことはできませんでした。教会の礼拝はラテン語で行われていたのです。一般の人にとっては、聖書を読むことすらできない。そんなこともあって、改革の一つは、通じる言葉で礼拝をすることでありました。

そこでルターは、聖書の元の言葉でありますギリシア語とヘブライ語から、ドイツ語に聖書を翻訳しました。このとき、ルターの身の危険を感じた仲間たちが、ルターのことを半ば強引に拉致して、ヴァルトブルグ城というところに幽閉していました。思いがけない時間が与えられたルターは、城の一室にこもって、聖書をドイツ語に翻訳をしたと言われています。その翻訳をしていたときに、サタンが現れた。サタンとしては、ドイツ語に翻訳されてしまい、誰もが聖書を読めるようになって神のことを知られてしまったら困るわけです。ルターを誘惑して、その翻訳を止めさせようとします。けれども、ルターが自分の手元にあったインク瓶を投げつけて、サタンを退散させたと言われています。

ヴァルトブルグ城はこんな伝説もあって、観光の名所になっているようです。今でもルターが翻訳をした部屋が残されています。しかも壁にはインク瓶を投げつけた跡が残されているそうです。本当にその染みなのかは定かではありませんし、伝説にすぎないのかもしれません。しかし今から五百年前、ルターがサタンとの戦いを経験しながら改革を行ったように、私たちの信仰生活もサタンとの戦いを避けられるわけではありません。サタンとの戦いは決して昔話や迷信なのではありません。

先々週のことになりますが、信仰の初歩的なことを学ぶことができる、木曜日のオリーブの会でこんなテーマを取り上げました。信仰を持つことで私たちの人生がどう変わるのか、というテーマです。このテーマをもとに、参加者でいろいろと考えて話し合ったわけですが、合わせて聖書の言葉も読みました。旧約聖書のヨブ記の第一章と第二章の箇所であります。

ヨブ記に関する長い話は、ここではできません。簡単に言いますと、ヨブ記はこんな話であります。この話の主人公でありますヨブは信仰の篤い人で、息子や娘もたくさんいて、たくさんの財産を持っていました。ところがサタンがヨブの財産をみんな奪ってしまった。息子と娘をすべて失い、財産もすべて失ってしまった。それでもヨブは、最初は神を非難することなく、神に対する信仰を持ち続けたと記されています。

そのことが第二章までのところですが、第三章以降、ヨブは自分のことを嘆き、そして第四章からは友達との議論を始めます。そうするとヨブは、だんだんと神から離れてしまう。神に対して祈らなくなる。自分の正しさを主張して、神に文句を言うようになる。しかし神はずっと沈黙をしたまま。そんな状態が最後まで続くのですが、最後の最後で神が登場する。ヨブは神の声を聴き、悔い改める。そんな話がヨブ記に記されています。

ヨブ記に記されているヨブは実在の人ではないと言われています。神話にすぎないと言う人もいます。けれども、ヨブ記を昔話や神話として片付けることはできないと思います。ヨブほどの悲劇ではないかもしれませんが、いつの時代だってこのような出来事は起こります。ヨブ記に出てくるサタンの魂胆は、神から人を離れさせることでありました。サタンは財産さえ奪ってしまえば、ヨブは神を呪うに違いない、神から離れるに違いないと思ってそうしたのです。サタンはいつの時代でも、そんな攻撃を私たちに仕掛けて来ます。私たちも多かれ少なかれ、必ずそのような経験をすることになります。そのようなとき、私たちも小さなヨブになるのであります。

本日、私たちに与えられた聖書の箇所は、いかに私たちがサタン、あるいは悪霊と戦うべきなのか、ということが記されています。言い換えますと、オリーブの会のテーマにありましたように、信仰を持つことでどのように人生が変わってくるのか、戦いの結果がどう変わってくるのかということであります。
事の発端は、主イエスが悪霊を追い出されたことにありました。人々がそのことに驚くわけです。ただし誰もが純粋に驚いたわけではありませんでした。悪霊を追い出した、その事実は認めなければならない。目の前の口の利けなかった人がものを言い始めたのです。

けれども二〇節で主イエスが言われているように考えることがなかなかできない人たちがいた。主イエスが悪霊を追い出すというのは「神の指」つまり神の力で追い出しているのではなく、より強い悪霊の力で追い出しているだけだと考えたのです。「ベルゼブル」というのは、悪霊の親分のような存在です。つまり、神の力ではなく、悪霊の親分が子分を追い出しているだけだと言うのです。

ここで私たちがわきまえなければならないのは、どのようにして悪霊が追い出されるのかということです。最初の一四節にはっきり記されていますが、主イエスが悪霊を追い出しておられます。二〇節も同じです。「わたしが神の指で悪霊を追い出している」(二〇節)と言われています。私たちが悪霊を追い出すのではない。信仰の戦いをするということは、自分が武装をして、自分の力で悪霊を追い出すのではない。そうではなくて、主イエスを自分の家に迎え入れ、主イエスに追い出していただくことなのであります。

主イエスはこのとき、家に譬えて、話をしてくださいました。「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。」(二一~二二節)。自分が武装をするのか、あるいは誰か強い人に頼むのかは分かりませんが、とにかく一生懸命に武装をして、敵の来襲に備える。けれどももっと強い者が来たら、その家はおしまいだと言われるのです。

二四~二六節の譬えも、同じことが言えるでしょう。汚れた霊を一度、追い出すことに成功したかもしれない。もう二度と入って来ないように、自分の家を整える。掃除をしてきれいにする。汚れた霊が戻ってくるけれども、掃除がされていて、そう簡単に入ることができない。そこで、もっと悪い七つの悪霊を連れて来て、その家の中にあがりこんで、住みこんでしまう。掃除をして整えてはみたけれども、もっと悪いものに対してはどうすることもできなかった。かえって悪くなってしまったということであります。

本日の説教の説教題を「心の掃除は神にお任せしよう」と付けました。神にお任せする、お委ねするのでなければ、私たちは自分で自分を掃除するか、あるいは神以外の誰かにお願いするか、それしか道はありません。けれども、神にお任せせずに、自分や他人の力でそうするのであれば、それは結局、成功することはないと主イエスは言われるのです。

主イエスは決して悪霊、サタンの力を見くびってはおられません。私たち以上に、悪霊、サタンの恐ろしさをわきまえておられます。サタンは強いのです。私たちが武装して備えるよりも強いのです。私たちのところへやってくれば、必ず私たちを打ち負かしてしまいます。悪霊も自分ではかなわないと思ったら、より強い悪霊を連れてくることができるのです。そしてその家に住まうことができるのです。

そのようなことにはならずに、私たちの掃除を神にお任せするためには、具体的にどうしたらよいのでしょうか。ここで、オリーブの会での話をもう一つ付け加えたいと思います。先ほどお話ししたのは、先々週の話でありましたけれども、これからお話するのは先週の話です。先週のテーマは、悔い改めに関してでありました。

私たちが学びましたのは、悔い改めというのは、方向を変えるということです。悔い改めると言いますと、心を入れ替えて、自分が劇的に変わるようなイメージがあると思います。たしかにそのような人もいるでしょう。すごく大きな経験をして、まるで人が入れ替わったかのように心を入れ替え、悔い改めをする人もいるでしょう。そのような姿に誰もが憧れます。しかし劇的に変わることがなかったとしても、悔い改めによって誰もが変えられているところがあります。悔い改めという言葉は、聖書の元の言葉であるギリシア語では「メタノイア」と言いますが、元の言葉の本来の意味は、向きを変えるという意味であります。

キリスト者になるということは、洗礼を受けることですけれども、悔い改めて洗礼を受ける、というように、悔い改めと洗礼がセットになって語られることがよくあります。実際にそれはその通りなのでありまして、悔い改めのない洗礼というのは考えられません。洗礼を受けることは、悔い改めること、向きを変えることです。今までは神に背を向けて生きてきたかもしれない。それが一八〇度、正反対を向く。そうすると目の前に神がおられるわけで、神の方を向く。これが悔い改めることであり、洗礼を受けることなのです。

以前の説教でも紹介したことがありますが、教会が始まって間もなくの頃、洗礼を受ける際に行われていた儀式がありました。それはまず洗礼堂に入る前のところで、西の方角を向いて、サタンに対して決別の誓いをするということでありました。西は光とは反対の方角です。そのようにしてサタンと決別をして、今度は光の方角である東を向く。そして信仰の告白をして、洗礼を受ける。二世紀や三世紀の記録には、そのような洗礼式の記録が残されています。

このように考えますと、洗礼を受けても自分がそんなに劇的に変わらないという説明がつくかもしれません。自分がすっかり変わってしまうのではなく、自分の向いている方向が変わるだけなのです。ある人が洗礼を受けることをこのように表現しました。「洗礼を受けるということは、自分の主人が変わることだ。今までは罪の奴隷であったが、自分の主人として神を迎え入れる。だから自分はそれほど変わらないのだ」。たしかに、それはその通りだと思います。先週のオリーブの会では、このような話題をみんなで話し合いました。

洗礼を受けても、自分は劇的に変わらない。たしかにそれはその通りかもしれません。けれども、悔い改めて洗礼を受け、私たちの向きを変えていますと、必ず私たちは変わってきます。劇的には変わらないかもしれません。自分でも分からないほどゆっくりと変わっていくかもしれません。けれども、神と向き合い、神からよきものをいただいていれば、必ず私たちは変わることができるのです。

今日の聖書箇所を選ぶ際に、一体どこまでで区切ればよいのか、今日の聖書箇所は相当迷いました。一四節から二六節まで、これは一つのまとまりであることに、ほとんどの人は異論がありません。ところが、二七節と二八節を今日の箇所にくっつけるべきか、あるいは来週の箇所である二九節以降につけるか、これは人によって異なります。けれども二七節と二八節は前後のどちらとも密接に結びついていると言えるでしょう。

二七節から二八節にかけて、こうあります。「イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」」(二七~二八節)。主イエスが真の幸いを教えてくださっていますが、その幸い人とは、「神の言葉を聞き、それを守る人」と言われています。

神の言葉を聞くために、まず私たちは神に向き合うところから始めます。人から話を聞くときに、人に背中を向けて聞く人はいないわけで、神の場合でも同じです。神の方を向いて、神の言葉をいただく。それを自分の内に取り入れる。取り入れていますと、自分が必ず変わっていくのです。神の言葉にはそのような力があります。

この説教の冒頭のところで、改革者ルターの聖書翻訳の話をしました。ルターの宗教改革の歴史は、いろいろな本に書かれていますから様々な形で読むことができますが、私が持っている本の中に、ルターがサタンにインク瓶を投げつけたことに関して、このように書かれていました。

「仮にこれが伝説であっても、この偉業は悪魔の心を冷やすのに十分だった。ギリシア語原典から直接翻訳された新約聖書、そしてヘブライ語から翻訳された旧約聖書が、誰の手にも入るようになったからである。自国語訳の聖書と母国語による讃美歌が、宗教改革進展の原動力となることは言うまでもない。」(『総説キリスト教史2 宗教改革篇』、五九頁)。

改革の原動力のなったのは、やはり神の言葉だったのです。誰もが神の言葉に触れることができる。これこそサタンが最も恐れていることで、私たちにとっては最も幸いなことなのです。私たちが少しずつかもしれませんが、着実に変わっていくことができるからです。私たちが向きを変え、神の方を向き直る。本日の聖書箇所の表現で言うならば、私たちの家に、神を迎え入れる。家の安全を神に保証していただく。家の掃除を神にお任せする。私たちにできることは、神の方を常に向き続け、神の言葉を聞き続けることなのであります。