松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

facebook.png


HOME > 礼拝説教集 > 20111016

2011年10月16日(日)
説教題「祈りは聞かれるのではなく応えられる」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第11章1節〜13節

 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

旧約聖書: イザヤ書 第55章6〜10節

松本東教会ではルカによる福音書から御言葉を聴き続けています。先々週、与えられた聖書の箇所には、善いサマリア人の譬え話が記されていました。また先週、与えられた聖書の箇所には、マルタとマリアの話が記されていました。先々週と先週はそれぞれの聖書箇所から御言葉を聴いたわけですが、ルカによる福音書の中でも、比較的よく知られている箇所でしょう。

本日、私たちに与えられた聖書の箇所もまた、比較的よく知られている箇所です。多くの説教者も盛んに説教をしている箇所でしょう。いつも私が説教をする際に、他の説教者の説教をいくつか読んでいますが、本日の箇所をどのように区切って説教をするのかということも、一つの大きな問題です。

今回のように、第一一章の一節から一三節までひとまとめにして説教をするのも一つの方法です。説教者によっては、もっと細かく区切ります。大まかに言って、本日の聖書箇所は三つに分かれるでしょう。

主イエスが主の祈りを教えてくださったところまでが第一部になります。第二部は真夜中にパン三つを求める譬え話。そして第三部が九節のところからの「求めなさい。そうすれば、与えられる。」(九節)という箇所であります。これらの三つに区切って説教をすることも可能でしょうし、さらには、第一部の主の祈りのそれぞれの言葉で区切って、もっと多くの説教をすることも可能でしょう。本日のこの説教でも、三節のところを後で詳しく取り上げたいと思っていますけれども、この三節の言葉だけでも一つの説教をすることも可能なのです。

しかし、三つ、あるいはそれ以上に区切ることができるかもしれない箇所を、本日は一度で説教いたします。三つの箇所のうち、最初と最後の部分は、マタイによる福音書にも記されています。真ん中の部分はルカによる福音書だけにしかありません。マタイによる福音書でも、最初と最後の部分が連続して並べられているわけではありません。それぞれが別のところにあります。つまり、この福音書を記したルカは、この三つの話を一つにまとめて記したことになります。三つに分けてじっくりと味わうのも味わい深いかもしれませんが、三つを同時に味わうのも、それならではの味わいがあると思います。そのようにして、本日は共に御言葉に聴いてまいりたいと思います。

この聖書箇所が比較的よく知られていることは先ほども申し上げた通りですが、私も何度もこの箇所を味わったことがあります。子どもたちに対して説教をしたこともあります。今回の説教の準備にあたって、そのときのことも思い出しました。そのとき子どもたちにどう説教を語ったのかと言うと、自動販売機のたとえをしました。自動販売機は便利なものです。人がいなくても、自動販売機という機械から飲み物を買うことができます。例えば缶コーヒーが飲みたいとする。そうすれば一二〇円を用意して、コインを投入口から入れて、適切なボタンを押せば、取りだし口から缶コーヒーが出てきます。ペットボトルのお茶が飲みたいとすれば、一五〇円を用意して、同じように操作をすれば、ペットボトルのお茶が出てきます。お金さえ持っていれば、すぐに欲しいものが得られる。それが自動販売機という機械です。

けれども私たちの祈りはそうではありません。神は自動販売機ではありません。私たちが欲しいものを願って祈りをすれば、たちまち与えられるというわけではない。なかなか祈りが聞かれないという経験をする。ある人が、こういうふうに言っています。「祈りが聞かれないということこそ、神が生きておられる証拠だ」。もしも私たちの祈りがすぐに聞かれてしまったら、すぐに欲しいものが与えられてしまったら、それは嬉しいことかもしれませんけれども、神が自動販売機のようになってしまいます。「神さまありがとう」と言うかもしれませんが、欲しいものが得られたわけですから、もう神のことなど必要なくなってしまいます。神が便利な道具、願いを叶えてくれる機械ということになってしまうでしょう。そうではなくて、神が生きておられる証拠が、祈りがなかなか聞かれないというとろにあると、その人は言うのであります。

本日、与えられた聖書に一貫しているのは、神が自動販売機のように祈りを聞いてくださるお方なのではなく、私たちにとって本当に必要なものを与えてくださるお方であるということです。そのことを聖書の言葉から確認したいと思います。

主イエスがお語りになった譬え話が五節のところから記されています。真夜中に旅行中の友のためにパンを求めた人がいます。この人が求めたのは「パンを三つ」(五節)でありました。この人は実際にパンを三つ得られたでしょうか。この人が与えられたのは「必要なもの」(八節)でありました。パン三つがそっくりそのまま与えられたかもしれませんし、パン三つでは多すぎるから二つだけだったかもしれませんし、パン三つだけでなく加えて水も与えられたかもしれません。とにかく「必要なもの」(八節)が与えられたのです。

さらに最後の箇所は主イエスのこういう言葉で結ばれています。「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(一三節)。ここでは何を求めたのか、具体的なものは記されていませんけれども、主イエスのお言葉を聴いていた弟子たちにとって、「聖霊」というのは思いがけない言葉だったでしょう。聖霊のことに関しては、最後に触れたいと思いますが、私たちが思ってもみなかった「聖霊」を与えてくださると主イエスは言われる。

さらに言えることは、弟子たちはこのとき、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」(一節)と求めていました。弟子たちがここで求めていたのは祈りの言葉でありました。祈りの言葉さえ教えてくれればよかったと思っていた。しかし主イエスは「主の祈り」の言葉も教えてくださいましたが、それだけではなく、五節以下の話を続けて語ってくださいました。ただ祈りの言葉を教えてくださっただけではない。私たちが祈りを向けている父なる神がどういうお方であるか、また私たちがどのような心構えで祈るべきか、それらのことを加えて主イエスは教えてくださったのです。

このように、私たちにはいろいろな願いがあり、それを神に祈り求めますけれども、この聖書箇所がまず私たちに告げているのは、祈りに応えてくださる父なる神のお姿です。私たちの願い通りに何でも叶えてくださるわけではない。ときには願い以上のものが与えられます。ときには願ったのとは違うものが与えられます。ときにはすぐに欲しいものがなかなか与えられなかったりします。けれども、神が父であり、私たちが子でありますから、私たちの成長のために本当に必要なものを、必要なタイミングで与えてくださるのであります。

私たちはこのようなお方に対して祈りをしているのです。ですから、祈るときの心を整えなければならないでしょう。父なる神がこういうお方である。その上で、本日の聖書箇所の言葉にあるように、「しつように頼む」(八節)、また「求める」(九節)、「探す」(九節)、「門をたたく」(九節)。こういう心構えで祈りをしなさいと主イエスは言われるのです。

私たちの祈りの心構えを整えるためにも、譬え話をもう少し深く味わうことにいたしましょう。ある人のところに旅行中の友がやってきます。しかも真夜中にやってくる。非常識のように感じるかもしれませんが、当時は暑い日中を避けて、夜に歩くということもあったようです。そんな友が立ち寄った。友のために、次の日の食糧であるパン三つを持たせてやりたいと思ったのでしょう。ところが悪いことに、パンを切らしてしまっていたのです。

今回、この説教のために準備をしていて、改めて気付かされたことがあります。もう何度も味わっていた聖書の箇所でありましたけれども、今回初めて気付かされたことがあった。この譬え話は真夜中の話でありましたけれども、この家には本当に何も食糧がなかったのです。今で言うと、冷蔵庫の中身が何もなくて一晩を過ごすということになるでしょうか。旅行中の友にパンを与えるどころではない。翌日の朝一番でパンを調達するつもりだったのかもしれませんが、そうでなければ自分たちの家族が食べる食糧さえなかったのであります。

この譬え話に先立ち、主イエスは主の祈りを教えてくださいました。その祈りの中に「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。」(三節)という祈りの言葉があります。「我らの日用の糧を今日与えたまえ」と主の祈りでは祈っていますが、それに相当するのが三節の箇所です。マタイによる福音書では「毎日」ではなく「今日」という言葉になっていますが、大きな意味の違いはないでしょう。数日分とか一カ月分の食糧をまとめて与えてくださいと願っているのではなく、日ごとの糧が与えられるように祈っているのです。

これよりも問題となってくるのは「必要な」と訳されている言葉です。たしかに「必要な」と訳すこともできる言葉ですが、「来る日の」と訳すこともできる言葉だそうです。つまり「明日の」と訳すことができる。そうだとすれば、「明日の糧を今日与えてください」という祈りにもなります。私が読みました注解書に、興味深いことを書いている聖書学者がいます。主の祈りのこの箇所を、朝に祈れば今日の糧を、夜に祈れば明日の糧を願う祈りになると、その人は言うのです。たしかにその通りだと思います。主の祈りは朝も昼も夜も祈ることのできる祈りです。夜に祈る場合は、その日の食事がすべて終わっているとすれば、その日の食事の感謝と共に、明日の日に食べ物が与えられますようにという祈りになるでしょう。

こう考えていきますと、真夜中に友人に訪ねられたこの人にとって、明日の糧を今日与えたまえという祈りは切実なものでありました。自分の家族が食べる糧すらなく、その日が終わってしまった。明日のパンを求める祈りを、この人はしていたでしょう。しかし明日のパンが今日のうちに与えられることはなかった。そのような状況の中で友がやってきて、この人は別の友人の家に、真夜中にもかかわらず走りに行かざるを得なくなったのです。

「友よ、パンを三つ貸してください。」(五節)。この人が真夜中に友人の家の扉を叩きながら言った言葉です。こんなにも困っているのだから、助けてやってもよさそうなものなのに、薄情な友人だと思われる方もあるでしょう。しかし当時の常識から言えば、真夜中に戸を叩く方が非常識でありました。当時の習慣では、昼間のあいだ、戸は開け放たれていて、誰でも自由に出入りをすることができました。しかし夜は固く戸を閉ざす。ちょっとやそっとのことで開けることはない。「子供たちはわたしのそばで寝ています」(七節)と言っていますが、当時の家はたくさんの部屋があるわけではなく、本当に子どもたちがそばで寝ていたのだそうです。断られるのは当然でした。それにもかかわらず、この人は非常識なことをしているわけです。

しかし主イエスは続けて言われます。「その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」(八節)。いくら友達でも許される範囲があるものです。友達だから、ただそれだけの理由ではうまくいかないこともあるかもしれない。しかし「しつように頼めば」(八節)、起きて、戸を開け、パン三つかどうかは分かりませんが「必要なもの」が与えられると主イエスは言われるのです。

「しつように頼む」という言葉はここでのキーワードとなる言葉です。もともとこの言葉は、「恥」という言葉に由来します。もとのニュアンスを生かして訳すならば「恥をも顧みずに」「恥を忍んで」という意味になります。つまり、しつこくお願いするということは、恥を忍んでお願いするということになるのです。それもそのはず、この人は非常識なことをしていました。真夜中に友人の家の戸を、恥を忍んで叩きました。しかもそんなことをすれば、明日の朝にはあの家にはパンの備えがなかったということも明るみにされてしまいます。文字通り、この人の行動は恥を忍んでお願いするということであったのです。

しかし立ち止まって考えてみますと、私たちの祈りも、こういう面があると思います。パンがなくて自分の力ではどうしようもなかったこの人と同じように、自分の力ではどうすることもできなくて、恥を忍んで神に祈り求めることがあるでしょう。みんなの前で一緒にお祈りすることができる祈りもありますけれども、一人だけで、あるいはごく小さな交わりで祈る祈りもあるでしょう。

松本東教会では数カ月前から一穂の会という集会が始まりました。心に重荷を負っておられる方の集会であります。この集会は自由に個人的なことを何でも発言することができる会ですが、守るべきルールがあります。それは、この会で語られたことは口外しないこと、自分の家族にさえも言わないことであります。それから誰が参加したかも言わない。集会の記録として、参加人数だけを記録するだけです。誰が参加したまでは公表しないことになっています。こういうルールがありますと、参加者は人に言えないようなことも、心おきなく語ることができます。そしていつも最後に、聖書を読み、祈りをしますが、当然、個人的な祈りもそこには含まれてきます。この集会は数人での小さな集まりですが、誰にも言えないようなことも口に出して、祈ることができる場であります。

また、この礼拝でも説教に先立ち祈りをしています。ここではあまり個人的なことを祈ることはできません。けれども私がいつもしています祈りは、悔い改めの祈りです。先週一週間の生活を顧みる。そこで見えてくるのは私たちの見たくはない姿でありましょう。神に従い得なかった、罪多き自分の姿が見えてくる。いわばそれは恥ずかしい姿であるかもしれません。あまり人には見せたくない姿です。そのような姿を、それぞれが心の中で思い起こす。人に隠すことはできても、神には隠せない姿ですから、私たちは恥を忍んで自分の姿を神の御前にさらすことになります。そして赦されるようにと祈り求める。悔い改めの祈りをしているのです。

このように、「しつように頼む」つまり「恥を忍んで」という言葉に、私たちの祈りの姿を重ねることができますが、この言葉をめぐって、ある人が興味深い解釈をしています。私たちの祈りが恥をもいとわない祈りであることは、今申し上げた通りですけれども、この人はこういうふうに続けます。「私たちが恥をも顧みずに祈りをする。神がその祈りに応えてやらなければ、神の方が恥知らずになってしまう」。つまり、もしも神が私たちを恥のままに放置されるとしたら、放置した神こそが恥知らずになってしまうではないか。しかしそうではなくて、恥知らずに祈り求めた私たちを恥知らずのままに神はしておかれない。父としての責任を必ず果たすと、その人は言うのです。

そう考えますと、九節以降の箇所とつながってきます。父なる神がそういう方であるのだから、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(九~一三節)。

聖霊は言うまでもなく神であります。神が私たちと共にいてくださる約束を主イエスはここでしてくださっている。神が私たちと共にいてくださり、私たちの祈りに耳を傾けていてくださり、そして祈りに応えてくださる。その約束をしてくださっているのです。私たちはいろいろなものを祈り求めるかもしれませんけれども、私たちが一番欲しているのは聖霊なのであります。神が共にいてくださり、私たちを最もふさわしい形で導いてくださる神を私たちは何よりも欲しているのではないでしょうか。

本日の聖書箇所から御言葉を聴いて、神は様々なことを私たちに教えてくださいました。私たちの願いも、弟子たちの願いと同じく、祈りを教えてください、それだけだったかもしれません。しかし主イエスは私たちの願い以上のことを、しかも本当に必要なことを教えてくださいました。主の祈りという祈りの言葉を教えてくださいました。父なる神がどういうお方であるかを教えてくださいました。私たちの祈りの心構えを教えてくださいました。神が共にいてくださる、これ以上はない賜物である聖霊が与えられることを教えてくださいました。私たちの願い以上の本当に必要なものが与えられたのであります。