松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2011年10月09日(日)
説教題「なくてはならぬ一つのこと」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第10章38節〜42節

 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

旧約聖書: 詩編 第86編11節



レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
出血の止まらない女を癒すキリスト (Jesus healing the woman with a flow of blood ) / パオロ・ヴェロネーゼ (Paolo Veronese)

マルタとマリアの家のキリスト ( Christ in the House of Martha and Mary ) / ディエゴ・ベラスケス (Diego Velázquez)
ロンドン ナショナル・ギャラリー (National Gallery)
ロンドン(London)/イギリス

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先週の日曜日は、今日お読みした聖書箇所の一つ前のところから、御言葉を聴きました。律法の専門家に対して、主イエスがお語りになった善いサマリア人の譬え話がこの聖書箇所にはありました。先週の説教をここで繰り返すことはできませんが、主イエスのお語りになられたことは、あなたは隣人になりなさいということです。

律法の専門家は、「わたしの隣人とはだれですか」(一〇・二九)という問いを持っていました。隣人を愛することをする前に、誰が隣人であるかの線引きをしなければならない。その枠内の人を愛すればよい。まずは隣人とは誰かという議論を、座って論じる傾向があったと言ってもよいでしょう。

私たちもそんなところがあるかもしれません。聖書の中に、愛という言葉がある。しかも聖書の元の言葉では、愛という言葉がいくつもある。そういうことを知りますと、愛についてよく学んでみたくなります。神の愛と人間の愛とはどこが違うのか。自己犠牲の愛と打算的な愛とどこが違うのか。そんなこと座りながら学ぶばかりで、ちっとも立ち上がって隣人になることをしない。そんなところがある私たちかもしれませんが、主イエスはそんな私たちに対して、「行って、あなたも同じようにしなさい」(一〇・三七)、つまり、あなたも行って、どんな人に出会うかは分からないけれども、その人の隣人になりなさいと言われました。

先週はそのような御言葉が与えられて、その御言葉と共に、私たちは一週間を過ごしてまいりました。私もそうです。そんな歩みをしている中で、先週の火曜日でありましたが、私の住まいであります教会の別館の電話がなりました。電話がかかってくるのは日常茶飯事ですが、電話をかけてきたのは、珍しく葬儀社の方でありました。話を聴いてみますと、キリスト者の方で、亡くなられた方があるのだけれども、今は教会とのかかわりがない。しかし教会での葬儀を望んでおられる。葬儀をしてもらえないかということでありました。

教会員でない方からこのような依頼がある場合、かなり困っている状況である場合が多いと思います。愛する家族がなくなって悲しみのうちにあるにもかかわらず、葬儀をお願いできるところが決まっていない。葬儀の手配をいろいろとしなければならず、悲しいけれども悲しんでもいらない状況にあると思います。葬儀を依頼されて、断ることは簡単でしたけれども、そのような事情を考えると、やはり断るわけにはいかない。葬儀を引き受けることにしました。ちょうど日曜日に隣人になりなさいという主イエスのお言葉を聴いたばかりでありましたので、ああ、隣人になるということはこういうことかと思いながらの葬儀でありました。

そんなふうにして先週を過ごしましたが、今日のこの日のための説教の備えもしなければなりません。一方ではこの前の日曜日の御言葉が心にあり、他方では次の日曜日の御言葉を心に入れながら過ごす。これが私の一週間の過ごし方でありますが、先週と今週の御言葉を同時に味わっていたときに、おやっと思うことがありました。先週の話では、律法の専門家に、あなたも立ち上がって隣人になりなさいと主イエスは言われています。ところが、今週の話では、座って御言葉を聴きなさいと言われているのです。立ち上がることよりも、座ることに力点が置かれている。ちょっと矛盾しているのではないか。だから、おやっと思ってしまったのであります。

本日、私たちに与えられた聖書箇所には、マルタとマリアの姉妹が出て来ます。どちらが姉でどちらが妹なのか、この箇所からは判断することができません。伝統的には、マルタが姉でマリアが妹であると考えられてきました。姉がいろいろとお世話をして立ち働いているけれども、妹はそういうことはまったくせずに、主イエスの足もとに座り込んで話に聞き入っていたということになります。

この二人の行動は正反対でありましたけれども、この二人に対する主イエスの評価はどうだったでしょうか。明らかに妹のマリアに対する評価が高く、姉のマルタに対する評価は低いものであります。ここで主イエスは、立ち上がっていろいろと働くよりは、座って話を聴きなさいと言われているのです。善いサマリア人の譬えでは、立ちあがって隣人になれと言われている。それでは立ちあがっていろいろと行おうとすると、主イエスは座りなさいと言われる。一体どっちなのだ、どうすればよいのかという疑問が沸いてくると思います。

実はこの二つの話は、かなり関連が深いと多くの人は考えています。聖書のことをいろいろと解説してくれる注解書を開いてみても、ほとんどの注解書で、善いサマリア人の譬えとマルタとマリアの物語には深い関連があるということが書かれています。しかも、この二つの話は、ルカによる福音書だけに記されている話です。他の福音書を書いた者たちは、この二つの話を知らなかったか、あるいは知っていたけれども、この話を記しませんでした。ところがルカはこの二つの話を、しかも続けて記した。やはり何らかの意図があってのことだと思います。その意図とは何でしょうか。

先週の聖書箇所でありますが、二七節のところに、律法の専門家が律法全体を一言で言っている言葉があります。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい。」(一〇・二七)。一言と申し上げましたが、律法の専門家は二つのことを言っています。神を愛することと、隣人を自分のように愛することの二つです。たくさんの律法、戒めがあるかもしれないけれども、一言で言うならば、二つに凝縮される。律法の専門家はそれを正しく知っていて、神を愛することと隣人を愛することであると答えているのです。

律法の専門家がそのように答えた直後に、「では、わたしの隣人とはだれですか」(二九節)という問題提起がなされ、隣人愛の話になっています。主イエスも隣人愛の譬え話として、善いサマリア人の譬え話を語ってくださいました。なるほど、隣人を自分のように愛することが先週の箇所であったことは分かる。それでは、神を愛することはどこへ行ってしまったのか。その答えが、本日の箇所にあるのです。それが多くの人たちの考えであります。つまり、マルタとマリアの話の隠れたテーマが、神を愛するとはどういうことかというテーマになるのです。

神を愛しなさい、と言われて皆さまはどうお思いになるでしょうか。隣人を愛することならば分かる。そんなことは言われるまでもない。しかし神を愛するということは、どうすればよいのか。漠然としていて、どうすればよいのかよく分からないとお思いの方も多いと思います。

私たちが神を愛するためにも、マルタとマリアの話にしっかりと耳を傾けたいと思います。マルタは主イエスの一行の「いろいろのもてなしのためせわしなく立ち働いていた」(四〇節)とあります。もてなすというのは奉仕をすることであります。もともとこの言葉は、マルタがここでしている通り、食事の給仕をするという意味でした。けれども今では、一般的な奉仕を表す言葉になりました。マルタはみんなのために奉仕をしていた。それ自体はまったく問題のないことであります。

しかし問題となってしまったことがマルタにはありました。主イエスの言われた言葉の中に、それがよく表れています。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」(四一節)。奉仕をしながらも、マルタは多くのことに思い悩み、心を乱してしまった。そのことを主イエスに指摘されているのであります。

一体何に思い悩んでしまったのでしょうか。何に心を乱してしまったのでしょうか。いろいろなことが考えられると思います。マルタはこのとき給仕をしていました。主イエスの一行をもてなさなければならない。何を食べていただこうか。飲んでいただこうか。どれくらいの分量が必要だろうか。いつまでに作ればよいのか。いろいろな思い悩みがあったと思います。聖書の別の箇所では「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな」(マタイ六・三一)という主イエスのお言葉もあります。マルタが思い悩んでいたのは、まずこのことだったと思います。

しかしそれだけではありません。マルタを思い悩ませたのは、姉妹マリアの行動でもありました。自分はこんなに忙しくお世話をしている。同じ姉妹としての立場にあるはずのマリアはと言えば、何も手伝いをしてくれない。私の手伝いをするのが当然なのに、主イエスの足もとに座り込んで話に聞き入っている。許せないことだとマルタは思ったのであります。これも心を乱す原因の一つでありました。

さらに、怒りの矛先が主イエスにも向けられることになりました。マリアの行動に腹が立ったのですから、マリアに対して怒ればよさそうなものですが、マルタが実際に不満をぶつけたのは主イエスに対してでありました。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」(四〇節)。

本来ならば、マルタの怒りの矛先が向けられるべき場所が違うことは分かると思いますが、私たちにもマルタのこの気持ちがよく分かると思います。私たちの周りの誰かの行動が気に入らない。なぜあの人は私の思い通りに振舞ってくれないのか、なぜ正しく振舞ってくれないのかと思う。最初はそう思っているのですが、いつの間に、その矛先が神に向かってしまう。神よ、なぜあなたはあの人があのように振舞うことを黙って見ておられるのか。何ともお思いにならないのですか。なんとかおっしゃってください。いつの間にか、神を非難することになってしまうのです。

マリアも最初は主イエスに喜んでお仕えしようと思ったはずです。喜んで奉仕をしよう、喜んで隣人愛に生きようと思ったはずですけれども、いつの間にか、神を愛するどころではなくなってしまった。奉仕をしているうちに、神に怒りの矛先を向けてしまうことになったのであります。

私たちの誰もがマルタのようになってしまうところがあります。そうならないためにはどうすればよいでしょうか。この話では、マルタがせわしく奉仕をしていて、マリアがまったく奉仕をしていないように思えます。しかし、ここで考えなくてはならないのは、この話において、誰が一番の奉仕者であるかということです。マルタでしょうか。そうではありません。

ある説教者が、ここでの一番の奉仕者は主イエスであると言っています。福音書を読むことは、同時に主イエスのお姿を想像することでもあります。例えば来週、御言葉を聴こうとしているのは次の第一一章の冒頭の箇所でありますけれども、主イエスの祈る姿が記されています。一体主イエスはどういう姿で祈られていたのか。いろいろと想像が膨らむと思います。

同じように、主イエスはマリアに対して、どんなお姿で話をされていたのだろうかと思います。マリアが足もとにすわって、上を見上げるように一心不乱に聞き入っている。主イエスもおそらく一生懸命、マリアに対して語りかけていたのだと思います。この主イエスのお姿こそ、最大の奉仕者の姿である。マルタが最大の奉仕者ではなく、主イエスである。この説教者はそう言うのであります。

奉仕という言葉は、英語で言いますとサービスという言葉になります。サービスという言葉を辞書で調べてみますと、実にたくさんの意味が載せられています。奉仕とか、給仕とか、そういう意味に加えて、礼拝という意味もあります。礼拝を英語で言いますと、ワーシップ(worship)とかミサ(mass)という言葉もありますが、サービス(service)という言葉もそうであります。ということは、礼拝が奉仕ということになります。一体誰から誰に対しての奉仕でありましょうか。

一つ考えられるのは、私たち礼拝者から神に対しての奉仕ということです。私たちが礼拝にやってくる。そして神を礼拝する。私たちが大切な時間を献げて、神を拝み、神を讃美し、神を神とする礼拝を行うわけですから、私たちが神に対して奉仕をしていることになります。これが一つの理解であります。

しかしこれだけでは不十分で、しかもこれだけでは礼拝が成り立ちません。神が私たちにしてくださることを考えなければなりません。神が礼拝に私たちを招いてくださいます。私たちを招き、私たちに御言葉を与え、必要な糧を与えてくださいます。礼拝は私たちが神に奉仕をしている一面もありますが、神も私たちのために奉仕をしてくださっています。

ですから礼拝は双方向で成り立つのです。いやむしろ、神から私たちへ向かう矢印の方がはるかに大きい。最大の奉仕者は神なのであります。このときもマリアに対して一生懸命、主イエスは御言葉を語ってくださいましたように、今このときも神は私たちを礼拝へ招き、一生懸命、私たちのために御言葉を語ってくださいます。

目が開かれたようにこのことが分かったとき、私たちがどのように神を愛すればよいのか、その道筋が見えてくると思います。神が私たちに奉仕をしてくださる、言い換えると神が私たちを愛してくださるのですから、私たちにできること、そしてすべきことは、神の愛に応えることです。これが神を愛することであります。

先週の木曜日、いつものようにオリーブの会が行われました。信仰の初歩的なことを学べる会であります。その日のテーマは聖書に関してでありまして、聖書のことをめぐって、みんなでワイワイガヤガヤと話し合っていました。そのとき、参加者のある方が、他の参加者の方に、皆さまの愛唱聖句を教えてほしいという話が出ました。一人ひとりが、ちょっとしたエピソードを交えながら、自分の愛唱聖句を紹介してくださいましたが、その中のお一人が、自分の愛唱聖句は「神は愛なり」であると言われました。

この「神は愛なり」という言葉は、古い訳の聖書の言葉で、今の新共同訳聖書では「神は愛です」(Ⅰヨハネ四・一六)と記されています。どこの箇所かと言いますと、ヨハネの手紙一にあります。その方は、ただ単にその聖書箇所だけを紹介してくださったのではなく、その前後も紹介してくださいました。特に私もいつも心に刻んでいる聖書箇所は、「神は愛なり」という箇所の数節後にある言葉です。こういう言葉です。

「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」(Ⅰヨハネ四・一九)。私たちが神を愛するにせよ、隣人を愛するにせよ、まず私たちが心に留めておかなければならないのは、神がまず私たちを愛してくださったということです。神の愛を注がれて初めて私たちは愛を知り、愛することができるようになったのであります。

特に主イエスはこのとき、すでにエルサレムに向けて旅を始めておられました。三八節のところに「一行が歩いて行くうちに」(三八節)という何気ない言葉があります。主イエスの行き先はもう決まっていた。決意を固められていた。エルサレムで十字架にお架かりになり、私たちの罪を赦すためにであります。私たちの代わりに、主イエスが十字架にお架かりになってくださったことこそ、私たちに対する主イエスの最大の奉仕であり、最大の愛であります。

マリアはその主イエスの足もとに座っているのです。一生懸命、主イエスがお語りになってくださっています。主イエスからの最大の奉仕を受け、その奉仕に応えて座っている。それがマリアの姿です。神の奉仕を受け入れ、注がれた愛に応えて、主イエスの足もとに座り、その話に聞き入る。このことこそ、私たちに必要なただ一つのことであります。教会の礼拝は、そういう場なのであります。

教会は、二千年前の出発のときから、主イエスの足もとに座り、御言葉を聴くことを大切にしてきました。このマルタとマリアの話は、少し型破りなところがあります。どういうところがそうなのかと言いますと、この話の登場人物が二人の女性であり、女性が中心になって話が進められている点であります。三八節に「マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。」(三八節)とあります。

この家に男性がいなかったのかもしれませんが、男性がいる場合、当時の常識から言えば、家に人を招き入れるのは男性であります。食事のための世話をするのは、当時の常識からすれば女性でありましたけれども、招き入れた客の相手をするのは男性でありました。マルタは主イエスの足もとに座って話を聞き入っていましたけれども、当時の常識からすれば、考えられないことでした。

なぜこのような型破りな話をルカが記したのか。それは当時の常識よりも、必要なただ一つのことの方がもっと重要だったからです。初代教会の人たちは、男も女もなく、誰もが主イエスの足もとに座った。それは今なお続いています。私たちも男も女も関係なく、すべての人が主イエスの足もとに座り、主イエスから御言葉をいただく。必要なただ一つのことに集中しているのであります。

私たちもここから出発します。それぞれの事情が違うかもしれない。奉仕する内容も違うかもしれない。男や女、大人と子供という違いもあるかもしれない。しかし誰もがここに座る。主イエスから御言葉をいただく。神の愛を知り、その愛に駆り立てられて、私たちは神を愛し、隣人を愛するのであります。