松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2011年10月2日(日)
説教題「愛に国境はない」

説教者 本城仰太 伝道師

新約聖書: ルカによる福音書 第10章25節〜37節

 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

旧約聖書: レビ記 第19編1〜18節









フランソワ=レオン・シカールによる傷ついた旅人に救いの手を差し伸べる『善きサマリア人』の彫像

フランソワ=レオン・シカールによる傷ついた旅人に救いの手を差し伸べる『善きサマリア人』の彫像
The Good Samaritan by François-Léon Sicard (French, 1862–1934). In the Tuileries Gardens, Paris.

主イエスがお語りなった譬え話のうち、最も有名な譬え話の一つが、善いサマリア人の譬え話であります。いろいろなことを考えさせられる譬え話で、一度聴いたら忘れることができない話だと思います。これは決して昔話などではありません。今を生きる私たちにとっても通用する譬え話であり、私たちも耳を傾けなければならない譬え話であります。

アメリカなどでは、この善いサマリア人の譬え話が社会の中でも活きています。アメリカでは”Good Samaritan Law”という法律があります。日本語にすると「善きサマリア人法」となります。これは善意で人を助けた場合、仮に助けることがうまくいなかったとしても、その責任を免れるという法律です。

例えば飛行機に乗っていたときに、ごく稀に急病人が出ます。そうすると機内アナウンスで「医者や看護師の方はいらっしゃいませんか」というアナウンスが流れます。皆さまが医者や看護師である場合、手を挙げるか挙げないか、そのことを決断しなければなりませんが、医者にアンケートを取った人があるようです。あなたはこういう場合に手を挙げますかと医者に尋ねてみた。そうすると、かなりの割合の人が、手を挙げないと答えたのだそうです。

なぜそうなのか。それはこういう懸念があるからです。医者として手を挙げて、急病人の処置をする。その処置をしても、うまくいかない場合がある。そうすると訴えられるケースがあるからです。実際に、医者として手を挙げて、そのときは一緒にいた家族の人からどうか助けてくれとしきりにお願いをされたのに、うまくいかなくて、急病人の家族から後で訴えられた事例もあるようです。そういうことを知っていると、手を挙げて助けたいのだけれども、やはりいろいろなことを考えて、手を挙げるのを思いとどまってしまう。

「善きサマリア人法」はそういうようにならないための法律です。まったくの善意で、できる限りのことをしたならば、仮にそれがうまくいかなかったとしても、その責任を問われることがないと定められているのです。

このような法律が作らなくてはならないということも、いろいろなことを考えさせられます。愛の業を行うために、法律による後押しをしてやらなければならないのです。「善きサマリア人法」という名前の法律になっていますけれども、主イエスがお語りになった譬え話の精神からは、だいぶかけ離れた現実に、私たちの社会がなっているのです。私たちの生かされているこの現実は、愛の業を行おうとしても、ずいぶんと不自由な社会になっています。手を挙げるにも勇気がいる。いろいろなリスクを考えなければならない。

愛に生きる不自由さを味わっているそんな私たちのために、主イエスはこの譬え話をお語りになってくださいました。この譬え話は私たちを束縛する話ではありません。私たちをこのような愛に生きなければならないという重荷を与える譬え話ではない。そうではなくて、私たちをまことの愛に生きるために、私たちを自由へと解き放つ話なのであります。

この譬え話が語られたのは、一つのきっかけがありました。律法の専門家が立ちあがったのです。そして主イエスを試そうとした。主イエスは評判になって、名が知れわたっていましたから、自分の律法の知識でもって、主イエスをテストしてやろうと思った。あわよくば主イエスを陥れようとしたのであります。

主イエスと律法の専門家とのやりとりは、二五節から二八節の通りです。二八節のところで主イエスは、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」(二八節)と言われていますが、話はこれだけでは終わりませんでした。律法の専門家は「はい、分かりました。そのようにします」とは言わなかったのです。引き下がることなく、「では、わたしの隣人とはだれですか」(二九節)と尋ねたのであります。

隣人という言葉は、とてもいい言葉だと私は思います。かつては「となりびと」と言いました。文字通り、隣にいる人という意味です。この隣人という言葉には、それなりの歴史があります。かつて用いられていた意味と、今日用いられている意味では少し変わってきているのです。広辞苑で隣人という言葉をひいてみますと、「となり近所に住む人」という意味が載せられていました。かつての日本ではそういう意味で使われていた言葉だったのだと思います。

しかし聖書の考え方が入ってきて、その意味も変わってきました。隣人愛という言葉が知られるようになりました。決してとなり近所の人だけが愛の対象というわけではないでしょう。となり近所だけではなく、もっと広い範囲の人が、隣人と考えられるようになったのです。

隣人という言葉は旧約聖書の時代にまで遡ることができます。私の書斎に、聖書に関する事典がありますが、何冊かの事典で隣人という言葉をひいて調べてみました。そうするといろいろなことが分かったのですが、隣人とは誰かという問いが、大昔から論じられてきたということです。ある時代においては、自分の家族とか、近隣の人が隣人であるという根強い考えがありました。

さらには、自分たちの同胞のユダヤ人が隣人であるとか、自分と同じ職業についている人が隣人だとか、様々な定義がその時代ごとに、その社会ごとになされたようです。興味深いことに、主イエスの時代にはさらに盛んに「隣人とは誰か」という問いが論じられたようです。ですから、この律法の専門家は突拍子にこの質問をしているわけではなく、当時よく論じられていた問題を主イエスにもぶつけてみたのであります。

このように考えますと、主イエスがお語りになられたこの譬え話を聴くまで、私たちは絶えず、隣人とは誰かということを問い続けてきたのであります。隣人を愛さなければならないことは分かる。けれどもその隣人とは誰か。誰を愛すればよいのか。逆に言いますと、誰を愛さなくてもよいのか。その線引きをまずする。その範囲をまず決める。そうしたら初めて隣人を愛することができる。これが当時の人の考え方であり、この譬え話を聴く前の私たちの考え方でありました。

このように考えてしまう原因は、自分を正当化することにあると思います。律法の専門家が「では、わたしの隣人とはだれですか」と主イエスに問いましたが、その本心は自分を正当化することでありました。正当化というのは自分を正しくすることです。もしも自分が完全に正しければ、正当化する必要はありません。多かれ少なかれ正しくないところがあるから、正当化しなければならないのです。

律法の専門家にも、隣人愛に生きなければならないことはよく分かっていたでしょう。しかし無制限の愛に生きることなどとてもできないということも、それ以上によく分かっていました。どんな人に対してでも愛の業を行うのは無理がある。そこでどうするか。あきらめるのか。そうではなく、愛の範囲を狭めることを思いつくのです。これだけの範囲なら自分ででもできそうだ、あの人に対してならできそうだ。だからその範囲を限定しましょうというのが人間の考え方です。

そしてこれが自分を正当化するということであります。私たちが生かされているこの世界は、正当化しようとすることに一生懸命になっている世界だと思います。ありのままの自分ならば、叩けば必ず埃が出てしまう。その埃が出ないように、なんとか取り繕おうとする。正当化しなければならない。そんな不自由な社会になっているのであります。

先週、車に乗っていたときに、ラジオをつけてみました。そうすると国会中継が放送されていましたので、しばらくそれを聴いていました。国会議員は言葉を交わし合って政治をします。私が聴いていた国会質問は野党の人が質問に立ち、総理大臣を始めとして、各大臣が質問に答えるという形でした。質問者がいろいろな質問をします。これをやってくれ、あれはやらないのか。やるとすればいつやるのだ。そういう質問に対して、総理大臣や各大臣が言葉でもって答えます。できる、できない、やるならばいつやる。あるいは曖昧な返事しかしない場合もあります。その答弁によって、政治が進んでいくことになります。言葉を明言したからにはやらなくてはいけなくなるのです。ですから、政治家たちはとても言葉に気を使います。慎重に答弁をします。ラジオを聴いていて、政治家たちはとても不自由になっていると思いました。

最近の政治の状況ではますますそうだと思います。政治家にとって、自分の言った言葉の揚げ足を取る人たちが待ち構えているのがその一因でしょう。少しでもおかしなことを言えば、即座に辞めなくてはならない状況が待っています。今の首相はぶら下がり取材というのをしないそうです。通常の記者会見とは違い、記者たちにぶら下がられるようにして囲まれて、その場で質問に答えるのがぶら下がり取材ですが、この取材に応じないのも、おかしなことを言ってしまわないようにという心配からだと思います。

言葉を語り、政治をしていく政治家たちが、言葉で不自由を強いられています。この範囲までの言葉はよくて、これを踏み越える言葉を語ってしまうと駄目である。その範囲をいつも考えていなければなりません。いつでも自分を正当化していなければ、政治家としてやっていけないのです。

政治の話をいたしましたが、不自由を強いられているのは何も政治家だけではないでしょう。これはほんの一例です。当時の律法の専門家がそうであったように、私たちも自分を正当化しなければならない。そのために範囲を定めようとして、いつもその範囲の内側で行動して、自分を守ろうとする。そのような束縛からなかなか自由になれないのです。

この譬え話の中の、祭司とレビ人も同じであります。この二人は、道の向こう側を通って行ってしまいました。本当は助けなければならないことは分かっていたはずです。しかし自分を正当化する理由をいくつも頭の中で考えていたと思います。三一節のところに「ある祭司がたまたまその道を下って来たが」(三一節)とあります。この祭司はおそらくエルサレムからエリコに向かっていたのだと思います。

エルサレムは標高で言いますと七六〇メートルほどのところにあり、エリコは海抜以下二五〇メートルほどのところにあります。二つの町の距離はおよそ三〇キロメートルでありますから、エルサレムからエリコまで、本当に文字通り下ったのだと思います。祭司はエルサレムの神殿での仕事を終えて、自分の家のあるエリコに帰る途中だったのでしょう。自分は疲れている、家族も待っている。人助けをできる状況にはない。そんな思いが頭をよぎったと思います。

さらには、自分は神殿で祭儀に仕えている祭司です。祭司には死体に触れてはいけないという規定がありました。半殺しの目にあったこの人を助けている間に、この人に死なれてしまうことがあったら、しばらくの間は仕事をすることができません。そんなことも頭をよぎったかもしれない。

さらには、ここは追いはぎが出現したところです。まごまごとこの人を助けていたら、今度は自分が襲われてしまうかもしれない。一刻も早くこの危険な場所を立ち去らなくてはと思ったのかもしれません。本当は助けなくてはいけないことは分かっているのだけれども、助けず見なかったふりをして通り過ぎてしまう言い訳を、いくつもこの祭司とレビ人は思い浮かべていたと思います。人間は自分を正当化するための理由を、不思議なもので、たくさん思い浮かべることに長けていると思います。

しかしながら、この善いサマリア人は違いました。この譬え話の助けた人が、サマリア人というのが大きな意味を持っています。ユダヤ人とサマリア人は仲が悪かった。一緒に暮らすことも、会話をすることも普段はありませんでした。隣人などとは考えられない間柄でありました。ところがサマリア人はそんなことをあれこれと考えていない。なぜこのサマリア人が助けたのか。聖書が記している唯一の理由は、追いはぎに襲われた人を憐れんだからであります。ただそれだけの理由で助けたのであります。

憐れむという言葉が出て来ました。聖書の中でもかなり重要な言葉の一つであります。憐れむという言葉はただ単に可哀想に思う感情とは少し違います。もっと激しいものです。もともとこの言葉は、人間の内臓を表す言葉でした。憐れむというのは、つまりはらわた痛いということになります。誰かを憐れむあまり、自分の胸が締め付けられるようにして痛くなってしまう。この人のために何かをせざるを得ない。それが憐れむということであります。

聖書の中に何度か憐れむという言葉が使われていますが、そのすべてが、神が憐れんで下さる、主イエスが憐れんで下さるという形で使われています。つまり憐れむという行為を行う主語が神なのです。私たち人間が憐れむというのは残念ながら聖書には見られません。唯一の例外がこの善いサマリア人の譬え話です。しかし譬え話でありますから、このサマリア人が誰かということを考えなければならないでしょう。

聖書の中の譬え話に出会いますと、すぐに考えたくなるのは、この譬え話に出てくる人や物が、一体何を表しているのかということです。例えば、この譬え話には、追いはぎに襲われた人、追いはぎ、祭司、レビ人、サマリア人、宿屋の主人という人が出て来ます。これらの人は一体何を指しているのか。様々な解釈がなされます。伝統的に考えられてきたのは、こういう解釈であります。追いはぎに襲われた人は、私たち人間。追いはぎとは、悪魔とか悪霊とかのことを指します。半殺しの状態とは、罪に陥っていて、自分ではどうしようもない状態のことを表します。

そこへ通りかかったのが祭司とレビ人でありますが、祭司とレビ人は旧約聖書の律法であると考える。私たちは律法を守ることができなかったわけで、律法は私たちを救うことができず、通り過ぎてしまった。そこへ善いサマリア人である主イエスがやってくる。罪に陥っていて自分で自分を救い得ない私たちを、主イエスが憐れんで下さる。傷に油とぶどう酒を注ぐことが洗礼、宿屋は教会、宿屋の主人が牧師、デナリオン銀貨二枚が御言葉の説教と聖餐の糧。そして帰りがけとは、主イエスが再び来てくださる再臨のとき。そんなふうに譬え話に出てくる人や物を、一対一で対応させて考えるのが、伝統的な解釈でありました。

たしかにこれはこれで、とても綺麗な対応関係になっていると思います。なるほどと思わされる。主イエスが善いサマリア人ならば、憐れんで下さるのは神のみということとも矛盾しない。しかしこのことだけで理解して、この譬え話を片付けてしまったら、主イエスの意図を十分に聴き取ったことにはならないでしょう。主イエスは最後に言われるのです。「行って、あなたも同じようにしなさい。」(三七節)。今度はあなたの番だと主イエスは言われるのです。

この譬え話を聴く際に、先ほどの伝統的な解釈のように、私たちを追いはぎに襲われた人として聴くのは正しいと私も思います。まずはそのように聴かねばならないでしょう。私たちは傷を負った存在でありました。この世の中を生き、追いはぎに襲われるようにして、罪に陥り、半殺しも同然である存在でした。自分で自分のことを救い得なかった。

そんなところに主イエスが来てくださり、主イエスが私たちを憐れんでくださった。私たちに憐れんでいただけるような理由があったからではなく、ただ主イエスが憐れんで下さり、私たちのために十字架にお架かりになってくださった。私たちは罪を赦されて、傷を癒された者として、宿屋を出ていくのであります。

「行って、あなたも同じようにしなさい。」(三七節)。主イエスはそう私たちに言われ、私たちを遣わされるのです。私があなたの隣人になったように、今度はあなたが誰かの隣人になってやりなさい、今度はあなたの番ですよと言われるのです。そうなってくると、譬え話に新しい光が射してきます。今度は私たちが善いサマリア人になるのです。

三六節のところで主イエスは「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」(三六節)と言われました。主イエスがここで言われているように、隣人とはなるものです。あの人が私の隣人か、この人は隣人でないか、そのように隣人の範囲を決めるものではありません。私たちの生活の中で出会う人の傍らに寄り添う。これが隣人になるということです。難しいことかもしれません。勇気のいることかもしれません。しかし無理だと言って、諦めないでいただきたいと思います。

諦めないためにも、この譬え話をしっかり心に刻む必要があります。この善いサマリア人は旅の途中でありました。その途中でたまたま追いはぎに襲われた人と出会ったのです。旅の歩みを少し止めて、憐れみのあまり隣人になってやりました。ごく自然な形で、できる範囲のことをしただけです。旅を完全に放棄したわけではない。少しだけ足を止めた。

そして世話を任せられる人にバトンタッチをして、その世話を任せた。二デナリオンというのは、二日分の給料です。全財産を投げ打ったわけではない。おそらく数日分の食糧と宿泊費と治療費です。数日後に同じ道を引き返してくるつもりだったのでしょう。すべてを投げ打ったわけではない。旅のすべてをキャンセルしたのではない。できることをできる形で自然に行ったのであります。

ある説教者がこのサマリア人がした愛の業は、ごく自然の形でなされたと言いました。確かにその通りでしょう。愛の業を行うのに、いろいろと考えていない。打算的なことも考えず、愛を注ぐべき範囲を考えることもせずに、まことに自由に、自然な形で愛の業を行っています。罪を赦され、新しい歩みに生かされている私たちは、この愛に生きることへと召されています。主イエスの憐れみによって、私たちがまことの愛を知ることができました。その愛を携えて、私たちも善いサマリア人として歩むのであります。