松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2011年9月25日(日)
説教題「あなたの名が天に刻まれる」

説教者 本城仰太 伝道師

新約聖書: ルカによる福音書 第10章17節〜24節

 七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」

旧約聖書: 詩編 第56編2〜14節









「羊飼いの野」記念聖堂祭壇画

松本東教会 墓地

本日の礼拝は、週報に記されておりますように、逝去者記念礼拝であります。逝去者を記念する礼拝、逝去者を覚える礼拝でありますが、間違ってはいけないと思います。葬儀を執り行う際にも、私が冒頭のところで申し上げますが、教会の葬儀は死者を拝んだり、祀ったりするのではありません。そうするのではなく、愛する者が召されたという状況の中にあっても、神を拝む礼拝をするということを申し上げています。

ですから今日は逝去者記念礼拝だからといって、いつもと少し礼拝のスタイルが変わってしまうのかと言うと、そんなことはありません。逝去者のことを覚えつつも、神が逝去者の方々を私たちの間に与えてくださったこと、そして生きるときも死ぬときも、折りが良くても悪くても、神が私たちの主でいてくださることを覚え、神を礼拝するのであります。

今年の逝去者記念礼拝を特別な思いで迎えられている方も多いと思います。昨年度、私たちの教会では五名の教会員が召されると悲しみを経験いたしました。昨年の四月、一一月、そして今年に入ってから一月、二月、三月と葬儀が続きました。そして今日の礼拝後、教会の墓地に移動して、そこで墓前礼拝を行います。その礼拝の中で、四名の埋葬(納骨)を行います。埋葬をされる方の名前は週報に印刷されている通りです。週報は私が作成していますが、パソコンで作成しています。埋葬される方のお名前を、パソコンで入力したわけですが、お名前を入力したときに、私の手が止まりました。四名の方のお名前を、久しぶりにパソコンに入力したわけですが、私にとって単なる名前ではなかった。名前とともに、その方のいろいろなことを思い起こしました。ああ、あの方とはこんなことがあった。あの方とはこんな話をした。葬儀の時はどういう葬儀だったとか、いろいろなことを思い起こして、手が止まったのです。

人の名前は記号ではありません。名前はたしかに人を識別するためのものでもあります。その人の名前を呼べば、名前を呼ばれた人が返事をすることになるでしょう。けれども名前は記号以上のものです。私が逝去者の方々の名前から、その存在を思い起こすことになったように、名前にはその人の存在が込められていると言えると思います。

本日、私たちに与えられたルカによる福音書の聖書箇所もまた、名前が一つのキーワードになっています。このとき主イエスの七十二人の弟子たちが伝道の旅に遣わされていましたが、この伝道の旅を終えて戻ってきています。そして主イエスにその報告をするのです。とても短い言葉で報告をしています。真っ先に報告をしたのは、こういうことでありました。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」(一七節)。

弟子たちは様々な指示を受けて、伝道の旅に遣わされていました。「財布も袋も履物も持って行くな」(一〇・四)ですとか、「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい」ですとか、「『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」ですとか、いろいろな指示を受けて、伝道の旅に遣わされました。ですから、「あなたは何も持って行くなとおっしゃいましたが、この通り、無事に戻ってきました」という報告や、「あなたの指示通りの言葉を人々に伝えてきました」という報告をしてもよさそうなものですが、弟子たちがまず行った報告は「悪霊さえもわたしたちに屈服します。」(一七節)という報告だったのです。よほど嬉しかったのでしょう。

悪霊というのは何でしょうか。悪霊という言葉以外にも「サタン」(一八節)という言葉も記されています。悪霊、サタン、あるいは悪魔と言ってもよいのですが、これらは単なる昔の迷信というわけではありません。現代においても、なお私たちはなお悪の力との戦いの最中におかれています。二一世紀になって、十年以上の歩みを経て来ました。二一世紀になったとき、テレビや新聞などでも盛んに報道されたのを覚えていますが、誰もが平和な二一世紀になることを願ったでしょう。二〇世紀には二度の大きな世界大戦を経験した。日本にも核兵器が用いられた。二〇世紀はそんな世紀だったけれども、二一世紀こそは平和の世紀になってほしい。愛と正義による支配がなされて欲しい、誰もがそう願って、二一世紀を迎えました。

ところが、そうはならなかった。テロが起こり、戦争がまたもや勃発した。二一世紀になって十年が過ぎましたけれども、少なくとも二一世紀のスタートは、私たちの願いどおりではなく、最悪のスタートになったと言えるでしょう。愛と正義による支配どころではない。この世界は、何か悪い者の虜にされてしまっているのではないかと思わざるを得ない世界になっています。

問題はこの世界ばかりではなく、私たち自身もそうです。愛と正義によって生きようと自分自身でも志す。志を立てたところまではよいけれども、なかなかその志通りに貫いて生きることができない。そのようなときに感じるのは、何か悪しからぬ言葉に、自分が惑わされてしまっているのではないかということです。愛と正義に生きなければいけないのは分かる。でも、そこで聞こえてくるのは、こんな声でしょう。「別にそんな窮屈に生きなくてもよいではないか」、「愛と正義に生きている人なんて少数派ではないか」、「そのように生きていると損ばかりをしてしまうよ」。私たちも絶えず、このような悪のささやきの声と戦っているのであります。

神を信じ、信仰を持って生きるということは、このような戦いをよりいっそう自覚して生きるということだと思います。先ほど、主の祈りをみんなで祈りました。「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈ります。神を信じると直ちに愛と正義に生きることができる、完全無欠の人間になれるというわけではない。なおも戦いは続いていく。主の祈りはそのような戦いの祈りです。今なお戦いの最中です。こう考えますと、弟子たちが「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」(一七節)という喜びの報告をまずした気持ちが分かると思います。

弟子たちがここで「お名前を使うと」と言っているのは、とても大切なことだと思います。他の誰でもない、主イエスの名前を使うことを、弟子たちは覚えたのであります。先ほどから申し上げておりますように、名前は存在そのものを表します。主イエスの名を口にするというのは、主イエスの存在そのものを頼りにするということです。信仰を持ち始ようと思う者が、少しずつ学び始めるのが、主イエスの名を呼ぶということです。

松本東教会では一〇時半からの礼拝に先立ちまして、こどもの教会が行われています。最近、とても嬉しいことに、たくさんのこどもたちが集っています。教会に来始めて間もないこどもたちも多い。こどもの教会の教師たちは、こどもたちにいろいろなことを教えることになります。礼拝のことや、聖書の開き方に始まって、いろいろなことを教えます。そしてとても大切なことですが、どのように祈りをするのかということも教えます。祈りは神に向かってなされます。ですから「神さま」と神に呼びかけることから始めます。二一節から、主イエスの祈りの言葉が記録されていますが、やはり「天地の主である父よ」(二一節)という呼びかけで祈りを始めています。私たちもこどもたちもこれと同じです。まずは神に呼びかける。

それからお祈りの内容を祈る。感謝や願いや執り成しが祈られます。そして最後に、「イエス様のお名前によって祈ります。アーメン」と言うことを教える。こどもたちがまず覚えるのは、主イエスの名前によって祈るということです。祈りが真実に神に届けられるように、主イエスの名前、つまり主イエスの存在を通して神に聞きあげられるようにと祈るわけです。このときの弟子たちも、こどもが覚えるのと同じことを、体験して帰ってきたのであります。

喜び勇んで戻ってくる弟子たちは喜んでいましたけれども、主イエスは本当の喜びがどこにあるのかを教えてくださいます。「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(二〇節)。あなたがたは悪霊を服従させたことを喜んでいるかもしれないけれども、本当に喜ぶべきことは、あなたがたの名前が天に刻まれたことであると主イエスは言われるのです。

教会では主イエスのお名前を大切にするのはもちろんですけれども、私たちの名前も大切にします。言い換えますと、教会では教会の名簿を大切にします。松本東教会では毎月の第一日曜日の午後に長老会(役員会)をもっております。教会の集会はすべて祈りでもって始められますが、長老会でもそうです。祈りがまずなされる。そして様々な報告がなされ、また協議がなされます。報告の最初に行われるのが、教勢報告という報告です。先月の時点で教会員が何名おられるのか、その報告がまずなされるのです。洗礼を受けられたり、他の教会から転入される方があれば、教会員の人数が増えますし、他の教会に転出したり、また逝去される方があった場合は減ることになります。そのように教会では毎月毎月、名簿をしっかりと管理して、お一人お一人のことを覚えています。

このことに関連して思い起こすことがあります。数年前に、ある雑誌で日本人の宗教人口が取り上げられていました。日本にもたくさんの宗教がありますが、それぞれの宗教の信者がどのくらいいるのか、多い順に並べた一覧表であります。その統計によりますと、第一位となったのは「神社本庁」と呼ばれる宗教で、宗教人口はおよそ六八〇〇万人です。つまり神社にまつわる神を信じておられる方が、日本人の二人に一人ということになります。仏教はだいぶ宗派によって細分化されていますから、それぞれの宗派ごとに人数が載せられることになります。

キリスト教も様々なグループに分かれていて、私たちが属しております日本基督教団以外にも、カトリックとかバプテストとか様々なグループがあるのですが、日本基督教団はこの一覧表で言いますと、第六六位。信者の数は一九〇七七四人であります。これは二〇〇七年のデータです。そして興味深いことに、一覧表に載せられているすべての宗教の信者数を合計すると、日本の総人口の約二倍にあたる人数になるのだそうです。つまり、単純に考えてしまいますと、日本人は一人の人が二つの宗教を持っているということになります。

もちろんそんなわけがないので、どこかこのデータにおかしなところがあるわけですが、教会のデータは正確です。神社ですと、神社の近隣に住んでいる方が信者であると見なされるようです。仏教のお寺であればお寺とのかかわりのある家の家族すべてが信者であると見なされるようです。それはそれで、それぞれの考え方があるわけですが、教会の場合は、やはり個々人ごとに名前が載せられている名簿を大切にします。神を信じ、洗礼を受けた者が教会員として名簿に加えられる。たとえ大きい教会であろうが、小さい教会であろうが、世界中の教会で名簿が大切にされてきているのです。

どうして教会ではそういうことになっているのでしょうか。それは本日、私たちに与えられた聖書箇所の言葉に、なぜこのようにするのかという理解が表れています。主イエスが言われます。「むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(二〇節)。この言葉が一つの根拠とされています。各地の教会で名簿がしっかりと管理してある。たしかにこれは地上での名簿かもしれない。しかし教会の名簿に名前が記されているということは、天の名簿に名前が書き記されていることである。天に名前が刻まれていることである。そのような理解が根本にはあるのです。聖書の他の箇所には「命の書」という表現もあります。天に名が記されるのと同じことです。こういう理解があるからこそ、教会は名簿を大切にする。それぞれのお名前を大切にするのであります。

主イエス・キリストは天と地のかけ橋となってくださいました。私たちの名前が天に刻まれることも教えてくださいました。その喜びも教えてくださった。私たちはそのことを知りませんでしたが、天におられた主イエスが私たちのいる地上に来てくださったことによって、天と地が結ばれ、つまり地上の名簿と天上の名簿がつながりを持ち、私たちは大切なことを知ることができたのです。

二三節から二四節にかけて、こうあります。「それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。『あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。』」(二三~二四節)。

預言者というのは、神から言葉を預かって、人々にそれを伝えることをしていた人です。王というのは、説明は要らないでしょう。いずれも旧約聖書、つまり主イエスが来られる前の時代を代表する者たちです。その者たちは、本当は救い主にお目にかかりたかった。救いを聞くことをしたかった。けれどもそれができなかった。あなたがたは今、目の前で直接、私から大切なことを見ることができている。聞くことができている。知ることができている。あなたがたは何と幸いなことかと言われているわけです。主イエスを知り、大切なことを教えていただいた、私たちのことでもあります。

私たちの名前が天に刻まれるということ、これほどの喜びはないと思います。天と言いますと、空の上のようなイメージを抱いてしまいますが、そうではありません。天とは神がおられるところです。神がおられ、神が支配してくださる。悪魔が支配するのではない。悪魔はすでに稲妻のように、一瞬にして天から落とされてしまいました。天では愛と正義による支配がなされています。その天に私たちの名前が確かに刻まれている。いくら悪魔ががんばろうとも、私たちの名前が消されることはない。ある聖書箇所はこう告げます。「尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。」(ルカ一二・三三)。天に刻まれた私たちの名前の心配をする必要はもはやない。私たちの名前は神がしっかりと管理してくださるのです。

本日は逝去者記念礼拝、私たちの間に生かされた逝去者を覚えての礼拝です。それぞれの方のことを思い起こします。それぞれの人生に戦いがありました。戦争を経験された方もいる。病を経験された方もいる。そして最後には等しく死を経験されました。信仰を持ったからといって、この戦いから解放されるわけではない。医学的には最後は死の戦いに敗れることになるのかもしれません。しかし私たちが今日、覚えている逝去者の方たちは、このような戦いの最中にあっても、もっと深いところに平安があった。なぜ苦しさの中にあっても、あのような笑顔でいられたのか、祈ることに熱心でいられたのか。それは自分の名が天に記されていることを知っていたからです。それだけは変わることがないと知っていたのであります。主イエスが教えてくださった最も深い喜びがここにあるのであります。