松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2011年4月17日(日)
説教題「赦された者が愛する者へ」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第7章36節〜50節

 さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。

旧約聖書: イザヤ書 第1章18節








レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
ファリサイ派シモンの家にいるキリスト(Christ at Simon the Pharisee) / ピーテル・パウル・ルーベンス(Peter Paul Rubens)

ファリサイ派シモンの家にいるキリスト(Christ at Simon the Pharisee) / ピーテル・パウル・ルーベンス(Peter Paul Rubens)
エルミタージュ美術館 蔵 (The State Hermitage Museum / Эрмитаж、Hermitage)
(サンクトペテルブルク/ロシア)
(Saint Petersburg , Rossiya )
(Санкт-Петербург, Российская Федерация)

クリックすると作品のある「Web Gallery of Art」のページにリンクします。

私は聖書を何冊も持っております。教会に持ってくる聖書もあれば、書斎の机に置いておくものもあります。車の中に置いておく聖書もあります。いろいろな聖書があるわけですが、用途に合わせて使い分けることもあります。勉強用の聖書は、たくさん書き込みをしています。辞書や注解書で調べた内容を書き留めておくこともあれば、以前に聞いた話で心に残ったことを書き残しておくこともあります。

たくさん書きこむ聖書がある一方で、まったく書き込みをしない聖書もあります。聖書の中に線を引いたり、書き込みがしてあると、どうしても何か書いてあるところにだけ目が行ってしまい、それ以外のところはあまり目が行かないということが起こってしまう。目が行かないところに、案外、重要なことが書かれていたりします。そういうことにならないように、私はたくさん書き込みをする勉強用の聖書と、まったく書き込みをしない聖書を使い分けています。

本日、私たちに与えられたルカによる福音書の箇所を、私の勉強用の聖書で開きましたら、小見出しの横にこのような内容が記されていました。「ルター、年に一度、この物語に立ち返らねばならない」。いつ書き込んだのか記憶にありません。自分で調べてそのように書き込んだのか、誰かからそういう話を聞いたのか、残念ながら記憶にはありません。

まずは私の持っているルターの本を調べてみましたが、よく分からない。先週の金曜日は神学校に行きましたので、神学校の図書館にたくさんあるルターの本からも調べましたが、残念ながらルターがどこで、どういう文脈でこの言葉を言ったのか、よく分かりませんでした。しかし「年に一度、この物語に立ち返らねばならない」と言ったのは、いかにもルターらしいと思います。

マルティン・ルターは今から五百年ほど前に、ドイツで活躍をした改革者です。ルターは最初から教会を改革したいと思っていたわけではありません。ルターが生きていた当時の時代、教会がしていることは本当に正しいのだろうか。ルターが疑問を持って、まずはみんなでそのことをめぐって議論をしたいと思ったのです。そこで、ルターは九五箇条の提題を掲げて、神学的な議論をしようと呼びかけました。結果的に、その提題を掲げたことが教会を改革するきっかけになり、一〇月三一日が九五箇条の提題を掲げた日として、宗教改革記念日となっています。

その九五カ条の提題の第一はこうであります。「私たちの主であり師であるイエス・キリストが「悔い改めなさい…」と言われたとき、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることをお望みになったのである」。つまり、宗教改革のきっかけとなった文章の最初が「全生涯が悔い改めである」という言葉だったのです。

全生涯が悔い改め。ただ一度だけ悔い改めればよいというわけではない。毎週日曜日、いやもっと言うならば毎日が悔い改めである。ルターはそう言ったのです。本日私たちに与えられたルカによる福音書の箇所は悔い改めの物語です。罪の赦しの物語です。本当は毎週、この物語を思い起こすのがよいのでしょうけれども、毎週同じ聖書の箇所を読み続けるわけにもいきません。ですから、「一年に一度、この物語に立ち返らねばならない」、この言葉はいかにもルターらしい言葉であると思うのです。

この物語は、悔い改めとはどういうことなのか、そのことを私たちに教えてくれる物語です。主イエスを食事の席に招いた人がいた。この人はファリサイ派と呼ばれるグループの人です。ファリサイ派は律法を厳格に守り、自分たちは正しいと考えていた人たちです。

主イエスを食事に招いたのはシモンという名の人でありました。当時のしきたりとして、会堂での礼拝が終わった後に、先生をお招きするという習慣があったのだそうです。シモンは主イエスのことを「先生」(四〇節)と呼んでいますので、もしかしたらその習慣に従って、主イエスをお招きしたのかもしれません。

当時の食事は、今のようにテーブルといすでの食事というわけではありませんでした。寝椅子のようなものがあって、体を横たえて、足を投げ出して食事をとっていたのだそうです。自分の顔の前には食卓があったのでしょう。足の方には何もないことになります。

主イエスが横になっておられる足のところに、後ろから一人の女性が近づいてきました。人の家の中に勝手に上がりこむなんて、と思われるかもあるかもしれませんが、当時は比較的自由に人の家を出入りできたようです。この女も招かれた客ではありませんでしたが、家の中にとがめられることなく、入り込むことができたのです。

この女は名もなき女です。他の福音書にも似たような物語が記されており、この女に名前が付けられている場合が多い。ところが、ルカによる福音書は名もなき女です。名前は分からないけれども、罪人として知られていた女であります。ファリサイ派の人々も、名前は知らないけれども罪人であることは知っていた、そんな女です。どんな罪を犯していたのか、それも福音書は沈黙しています。

とにかく名もなき罪人が主イエスの後ろから近づき、「香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」(七・三七~三八)のであります。一瞬で終わるようなことではありません。これらのことをやり遂げるまでに、おそらく何分もかかったと思います。何十分もかかったかもしれません。その間、主イエスはこの女に自由にさせていました。

もちろん、ファリサイ派の人たちも黙って見ていました。ファリサイ派の人たちはあっけにとられていたのかもしれません。そして口には出さずに、心の中でつぶやくのです。「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」(三九節)。

シモンをはじめとして、ファリサイ派の人たちは主イエスに躓いてしまったのです。当時は罪人と関わりを持つことを避けていました。この人はこの女が罪人であることを見抜けなかった。だから何も言わずに、拒むこともなく、そのままにさせているのだ。しかしファリサイ派の人たちよりも、主イエスの方が一枚も二枚も上手でありました。ファリサイ派の人たちは口には出さずに心の中でそう思っただけでしたが、主イエスは彼らの心の中のつぶやきの声さえ見抜かれていたのです。

主イエスの言動を見ておりますと、当たり前のことかもしれませんが、主イエスは本当に偉大な方だと思わされます。話される内容はもちろんですが、話し始めるタイミングもまた絶妙です。

先日、木曜日のオリーブの会で、人の話を聴くことの大切さが話題にあがりました。これは牧師にとって極めて重要なことであるかもしれません。人の話をちょっと聴いただけでは、本心を間違って把握するということが起こるかもしれない。途中で分かったつもりになって話を遮らない、最後まで人の話を聴く。このことを言い換えると、話し始めるタイミングをわきまえるということにもなると思います。

このときの主イエスの話を始めるタイミングも絶妙なものでありました。罪深い女がやってきて、主イエスの足を涙で濡らし始めたときに、いきなり口を開かれたのではない。いきなり主イエスが口を開かれていたとしたら、もしかするとこの物語はこれほど豊かな物語にはならなかったかもしれない。そうではなくて、主イエスはファリサイ派の人たちの心の中のつぶやきをしっかりと受け止めてくださいました。

そのつぶやきを十分に受け止めてから、初めて口を開かれました。「シモン、あなたに言いたいことがある」(四〇節)。「先生、おっしゃってください」(四〇節)。これでシモンの聴く体制が整いました。このあと語られる譬え話がとても効果的に働くことになったのです。

主イエスが話された譬え話の内容もまた絶妙なものがありますが、とても単純な譬え話です。デナリオンというのはお金の単位で、一デナリオンが一日分の賃金と言われています。五〇日分と五〇〇日分の賃金ですから、どちらも少額ではありません。二人は返すお金がありませんでしたが、一方的に金貸しの方から借金は帳消しにされました。二人が何かをしたからではありません。

借金が返せない場合、当時の習慣としては、金貸しの奴隷となって働いて返すか、あるいは牢屋の中に入れられることになります。牢屋に入れられると、家族や親戚が代わりに支払ってくれる場合もありますから、牢屋に入れられる場合もあったようです。奴隷になるにせよ、牢屋に入れられるにせよ、二人に自由はなくなります。いずれも不自由です。しかしこの二人は帳消しにしてもらったことによって、不自由からの赦しを得たのです。

私たちの信仰の中心点となるのは、罪の赦しです。イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にお架かりになった。そのことによって私たちの罪が赦された。これは私たちが繰り返し耳にすることであります。教会の暦で言えば、今日から受難週が始まりました。特に今日のこの日は、主イエスの十字架を覚えるにふさわしい日であります。主イエスがエルサレムに入られたのは日曜日です。その後、数日を過ごした後に、金曜日には十字架に架けられることになります。今週は主イエスの十字架への歩みを覚え、木曜日の夜と金曜日の朝に特別な礼拝と集会をもちます。

主イエスの十字架を思い起こす一週間の歩みを始めた私たちでありますが、主イエスの十字架による罪の赦しが、しばしば借金を帳消しにすることに置き換えられることがあります。一方的に借金が帳消しにされた。それと同じことが、主イエスの十字架による罪の赦しです。一方的に借金が帳消しにされたように、私たちの罪も一方的に、ただ恵みによって赦された。二つのことは大いに重なり合うのです。

ですから、ただ恵みによって赦された者の課題は、次のようになります。借金を帳消しにされ、罪を赦された私がいかに感謝を表すのかということであります。罪を赦されるために何をすべきなのかということではなく、罪を赦された者としていかに歩むかということが課題になってくるのであります。罪の赦しを得るために、あるいは借金を返すためにもう悩まなくてよい。罪からも借金からも自由なのであります。

この物語に登場した罪深い女がなしたことは、精一杯、主イエスにおもてなしをすることでありました。女は香油を持っていました。主イエスが自分の町に来られたと聞いてあわてて買いに行ったものではなかったでしょう。高価なものだったと思います。別の目的があったのかもしれません。その香油を用いて、主イエスを精一杯もてなしたのであります。

四七節から四八節にかけてこうあります。「「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた」(四七節)。この言葉を可能性としては二通りに解釈することができます。簡単に言いますと、赦しが先なのか、愛が先なのか、その二通りであります。赦されるためには先に愛さなければならないのか、それとも赦されたから愛することができるのか、一体どちらが先なのかという議論があります。

しかし、私はあまり気に留める必要のない議論であると思います。ここでも私たちが思い起こすべきなのは、ルターの言葉です。「私たちの全生涯が悔い改めである」。私たちの生涯の中でたった一度だけ悔い改めて、罪を赦していただければそれでよいというわけにはいかない。全生涯にわたって、毎週毎週、悔い改めて、赦される必要がある。そのようにして愛する者になる。私たちは弱いもので、また罪を犯す。そうするとまた悔い改めて、赦されて、愛する者になる。

悔い改め、赦し、愛、このことの繰り返しであります。だから、愛が先なのか、赦しが先なのかということは、鶏が卵を産むのが先なのか、卵が鶏になるのが先なのかという問いと同じ問いになってしまうと思うのです。

主イエスはこの女に罪の赦しの宣言をされました。「あなたの罪は赦された」(四八節)。そして最後にこう言われました。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(五〇節)。

「あなたの信仰があなたを救った」という言葉は驚くべき言葉です。私たちもそんな信仰を持ちたいと願う。「あなたの信仰」とは一体どんな信仰でしょうか。この言葉は、ルカによる福音書には四回出てきます。今回が初めての箇所であります。これから四つの言葉に出会っていけば、そのうちに明らかになってくるかもしれません。しかし少なくともこの女の場合は、主イエスのもとに赦しがあることを知っていた、その信仰であります。

「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」(四九節)と周りの人々は考え始めましたが、この女には分かっていた。このお方は罪を赦す権威をお持ちの方、私の救い主。この女が持っていたのは、その信仰であります。「香油の入った石膏の壺」(三七節)も持っていましたが、主イエスが見出してくださり、「あなたの信仰があなたを救った」と宣言までしてくださったのは、ただ主イエスに寄り頼む信仰でありました。

最後の最後に主イエスが言われた言葉、「安心して行きなさい」。元の言葉のニュアンスを生かすとすれば、「平和のうちに行きなさい」ということです。平和のうちに、一体どこに行けばよいのでしょうか。

クラドックというアメリカの神学者がいます。この人はルカによる福音書の聖書註解を書いている人ですが、説教者としても有名な人です。そんなわけで、この人が書いている注解書は説教にも通じるところがあるので、私も説教準備のために読んでおりますが、本日の物語のところの注解の文章の最後に、こう記されています。「キリストに平和のうちに行きなさいと言われて、一体どこに行くのか。彼女が必要としているのは、赦し、赦される共同体である。この物語は教会の必要性を叫んでいる物語である」。

とても心を惹かれる結びの言葉であります。私たちが赦しに生きることができる場所はどこか。愛に生きることのできる場所、悔い改めるに生きることのできる場所はどこか。それは教会であります。教会には罪の赦しの宣言がある。

私たちはよく説教を聴くことを、御言葉を聴く、神の言葉を聴くと言いますけれども、このことを罪の赦しの宣言を聴くというように置き換えてもよいのです。あなたはただ恵みによって、一方的に赦していただいた。そのような罪の赦しの宣言を聴き、罪赦された者になった。そして愛する者になる。教会から一週間の生活へと遣わされていく。その歩みの中で、また罪を犯すことも起ってくるかもしれない。そのつど、私たちは罪の赦しの宣言を聴き、赦され、愛する者になり、また一週間の歩みを始めるのであります。

ルターが「全生涯が悔い改め」と言いましたけれども、教会がその基盤となるのであります。「あなたの罪は赦された」、主イエスが言われたこの宣言が、教会にはあるのであります。