松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2011年4月3日(日)
説教題「来るべき方はあなたでしょうか」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第7章18節〜23節

 ヨハネの弟子たちが、これらすべてのことについてヨハネに知らせた。そこで、ヨハネは弟子の中から二人を呼んで、主のもとに送り、こう言わせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」二人はイエスのもとに来て言った。「わたしたちは洗礼者ヨハネからの使いの者ですが、『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか』とお尋ねするようにとのことです。」そのとき、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにしておられた。それで、二人にこうお答えになった。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」

旧約聖書: イザヤ書 第7章18〜23節





レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
イエス、病人をいやす(JESUS HEALING THE SICK.)/ギュスターヴ・ドレ(Gustave Doré)

洗礼者ヨハネとイエス(Jesus and John the Baptist) / アヤソフィア大聖堂(Ayasofya / Hagia Sophiā)
(イスタンブル/トルコ)
( Istanbul / Türkiye Cumhuriyeti)

「わたしにつまずかない人は幸いである。」(二三節)。本日、私たちに与えられた聖書の箇所の最後のところで、主イエスはこのように言われました。洗礼者ヨハネの使いの者たちに、主イエスは答えを与えておられるわけですが、使いの者たちが立ち去る前に、幸いについて語られたのです。

主イエスはしばしば幸いとはどういうことなのかを語っておられます。私たちが御言葉を聴き続けておりますルカによる福音書の中で、主イエスはこう言われています。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。」(六・二〇~二一)。

また別のところではこう言われています。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。」(一〇・二三)。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」(一一・二八)。このように、主イエスは繰り返して幸いとはどういうことなのかを語っておられます。私たちを不幸へと招くために、ましてや断罪するためではなく、ほら、ここに幸いがあるでしょう、こういうのが幸いなのですよというように、私たちを幸いへと招くために、繰り返し「幸いだ」と語ってくださるのです。

主イエスがお語りになった幸いが出てくる言葉の中でも、本日、私たちが聴こうとしている言葉は、私たちの信仰の歩みにおいて、最も重要な言葉であると思います。神を信じて歩む、その歩みの中で、私たちはつまずくことが多いからです。

教会生活をしておりますと、しばしば「つまづく」という言葉を耳にしますし、自分でもその言葉を使うことがあります。「初めて教会に来られた方をつまずかせてしまった」ですとか、「誰々さんの言葉につまずいてしまった」ですとか、「主イエスの復活を信じることができずに、つまずいてしまった」というように使います。あまりよい言葉ではないと思います。信仰の歩みをするのに、本来ならばまっすぐに歩みたい。よろけたり、倒れたりすることなく歩きたいと思っているのに、何らかのことにつまずいてしまう。そんな意味で用いられます。

聖書が記されたのは、今からおよそ二千年前のことでありますが、「つまずく」という言葉はさらにそれより前から使われていたようです。ただし少し意味が異なりました。聖書が記される以前の意味としては、「わなの中のえさをつける腕や棒の部分」という意味があったようです。動物が食べもの欲しさのあまりにわなの中に誘い込まれてしまう。そこには棒のようなものがあって、棒に触れてしまうと、その動物がわなの中に捕えられてしまう。

つまり、「つまずき」という言葉は、「わな」ですとか、「誘惑」という意味がもともとはあったのです。破滅へと誘い込む「わな」や「誘惑」と言ってよいでしょう。その意味がやがて発展して、「つまずく」という言葉になったようです。

この言葉の意味を知ると、とても厳しい言葉を主イエスがここで言われているように思えます。しかし私たちが決して誘惑やわなにはまりこむことにならないで欲しいと主イエスが思われているからこそ、私たちに警告をして、つまずくことのない道へと私たちを招いてくださっているのであります。

主イエスがここで言われているのは、つかずかない人の幸いでありますけれども、どういうことにつまずかないのかと申しますと、「わたしにつまずかない人」(二三節)であります。先ほど、「初めて教会に来られた方をつまずかせてしまった」「誰々さんの言葉につまずいてしまった」というような例を挙げましたけれども、主イエスが言われているのは、これとは少し違います。「わたしに」、つまり主イエスにつまずかない人が幸いであると言われているのです。

主イエスにつまずくということは、どういうことでしょうか。先月、私たちの国は大きな地震と津波に襲われました。原子力発電所の事故も解決の糸口が見えずにいます。私が最近感じていることですが、神を求めるようになった方が増えていると思います。教会に普段から来られている方も、なぜこのような災害が起こったのかと神に問う方が増えています。

また、教会に来られたことのない方から、「今回の災害を教会はどう受け止めておられるのですか」と尋ねられたこともあります。災害をめぐる問いを多くの人が問うていますが、このようにして神を求めていく中で、もしかするとつまずいてしまわれる方もあるかもしれません。なぜこんなひどいことが起こったのか、人間の力ではどうしようもない。ということは神よ、あなたが悪い。なぜあなたはこんなひどいことが起こるのをお許しになったのか。このように考えてしまうと、行き着いてしまったのは、神へのつまずきです。

大きな災害のことでなくても、「誰々さんのささいな言葉につまずいてしまった」というような小さなつまずきもあります。しかしこれは小さなつまずきであっても、結局のところ次のような結果になってしまう。「誰々さんのささいな言葉につまずいた、神よ、なぜあのような人を私の近くに置かれるのか、あなたが悪いではないか」、と。これもまた、結局のところは神へのつまずきになってしまうのです。

主イエスは「わたしにつまずかない人は幸いである」(二三節)と言われましたが、「わたしに」という言葉は、すべてのつまずきが最終的に行きついてしまうところを示しています。小さなつまずきであっても、それは最終的には神へのつまずき、主イエスへのつまずき、つまり「わたしへの」つまずきになってしまう。そうならないために、主イエスはヨハネの使いの者たちに、ご自分のことをしっかりと見よと言われます。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。」(二二節)。

この使いの者たちは、洗礼者ヨハネからの使いでした。洗礼者ヨハネというのは、主イエスに洗礼を授けた人です。ヨハネのことは、数ヶ月前の箇所に出て来ました。具体的な章と節で言いますと、第三章一九~二〇節にかけてこうあります。「ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じ込めた。」(三・一九~二〇)。

この記述から明らかなように、ヨハネはこのとき牢にいて、主イエスのところに直接行くことができなかった。そこでヨハネは二人の弟子を使いに出す。二人というのは、しばしば弟子たちは二人一組で遣わされましたし、一人の証言よりも二人の証言の方が確かであったからでしょうか。二人の弟子にこう尋ねて答えを得て来いと使いに出したのであります。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」(一九、二〇節)。

来るべき方というのは、お出でになることになっている方、救い主、メシアのことであります。あなたが救い主なのですか、それとも他の方を待たなければなりませんか、そう問うているわけです。不思議に思われる方もあるかもしれません。ヨハネのこの問いをどう考えればよいでしょうか。ヨハネは今までの記述を読む限りでは、信仰的にもかなり立派な人であったと思います。時の権力者のヘロデに対して、誤ったことを正そうとしました。

その結果、捕えられて牢に入れられました。間違ったことははっきりと言う、人間的にも立派な人でもあったのです。特に、捕えられて牢に入れられる前に、こんな言葉も言っています。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。」(三・一六)。ヨハネのこの言葉から、ヨハネは明らかに来るべき方のことを知っています。しかしヨハネの目が曇っていて主イエスのことが分からなかったのでしょうか。来るべき方のことを見分けることができずに、主イエスに疑いを抱いてしまったのでしょうか。

「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」(一九、二〇節)。このヨハネの言葉を合理的に解釈しようとする試みもあるようです。いやいや、ヨハネは信仰的にも立派な人だったから、このとき疑ったのではない。そうではなくて、自分は疑っていなかったけれども、疑う者たちの代表者になってくれて、この質問を言ってくれたのだと考える人もいます。

また別の合理的解釈では、「来るべき方はあなたなのです」という信仰告白の言葉として、この言葉を言ったのだと主張する人もいます。しかしこれらの合理的な解釈は少数意見です。圧倒的な意見としては、ヨハネが信仰的にも立派だったかもしれないけれども、このときは多かれ少なかれ、疑いを抱いていたのです。しかしヨハネでさえ疑ってしまったからと言って、私たちが心配する必要はありません。私たちはヨハネの確かさによって救われるのではないからです。たとえヨハネが疑いを抱いてしまったとしても、救い主である主イエスに確かさがあればよいのであります。

ヨハネからのこの問いは、イエスかノーかで答えられる問いになっています。イエス、私が来るべき方である。ノー、そうではなく別の人を待ちなさい。この二つの答えが考えられます。しかし主イエスの答え方は、そのいずれでもありませんでした。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」(二二~二三節)。

主イエスの周りではこのような出来事が実際に起こっていました。そもそもヨハネが主イエスのところに使いを出すきっかけのことが、一八節のところに記されています。「ヨハネの弟子たちが、これらすべてのことについてヨハネに知らせた。」(一八節)。「これらすべてのことについて」とは一体何のことでしょうか。この直前にやもめの独り息子を生き返らせるという奇跡がなされました。

それだけでなくて、瀕死の重病人が癒されたり、おびただしい病人が癒されたり、貧しい人が福音を告げ知らされたり、いろいろな出来事が主イエスによって引き起こされていました。「これらすべてのこと」とは、今申し上げたことすべてだったのでしょう。主イエスによって引き起こされていたのです。

本日、ルカによる福音書と合わせて、旧約聖書のイザヤ書の箇所をお読みいたしました。イザヤ書第三五章四節にはこうあります。「心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」」(イザヤ三五・四)。

神が来られて、救いがもたらされるわけですが、そのときにどういうことが起こるのかということも記されています。「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。」(イザヤ三五・五~六)。

主イエスがヨハネの問いに対する答えとして引用した聖書の箇所がここにあるわけですが、主イエスはヨハネの問いにイエスともノーとも答えずに、こうお答えになられたのです。主イエスの答えをひと言で言うならば、「私の周りに起こっている出来事を見よ」ということであります。それを見れば分かるだろうと言われたのです。実際にヨハネは見ることができないわけですから、それを伝えよ、ということになりました。

洗礼者ヨハネが直接主イエスのなさったことを見ることができなかったように、私たちも直接は見ることができません。ヨハネは牢に隔てられていたわけですが、私たちは二千年の時に隔てられています。直接は目にすることができない。ヨハネの場合は、二人の弟子たちから、主イエスがなさったことを聴いたわけですが、私たちも伝えられてきたことを聴かされ、知らされたのです。その意味で、私たちも洗礼者ヨハネと同じ立場にあると言えます。

ヨハネは主イエスと同じ時代に生きていたのですが、牢に閉じ込められていたわけですから、多少なりとも疑いを抱き、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」(一九、二〇節)と尋ねたのは無理もなかったのかもしれません。牢に閉じ込められて、明日はどうなるか分からない身です。実際にヨハネはこのあと、首をはねられて殺されてしまいます。そんなヨハネにとって、来るべき方があなたなのかという問いは、かなり切実なものがあったでしょう。

主イエスのことを直接見ることができないという意味でヨハネと同じ立場にある私たちも、この問いとは無関係ではいられません。ヨハネは私たちの代表者として、この問いを問うてくれていると言えるでしょう。私たちの周りではいろいろな出来事が起こります。地震や津波が起こる。原発の事故も起こる。私たちの身の回りに目を留めても、教会の中でさえも、小さなつまずきもたくさん起こります。どうしてこんなことが起こるのか、あなたは本当に救い主なのか、あなただけでは不足しているのではないか、来るべき方を待たなければならないのではないかという疑問を抱いてしまう私たちであるかもしれません。

しかし主イエスはそんな私たちに答えてくださるのです。私があなたのために何をなしたのか、その出来事をしっかりと受け止め直しなさい。他のどんなことでもなく、他の誰のことでもなく、私のことを見なさい、私の出来事を聴きなさい、私に集中しなさいと言われるのです。私たちは日曜日、礼拝に集ってきます。何のためにでしょうか。もちろん神を礼拝するためにです。礼拝の中では神の言葉が語られます。繰り返し、繰り返し、私たちは主イエスの話を聴くことになります。

その日に読まれる聖書の言葉や、説教の内容はもちろん毎週異なりますが、一貫して語られていることがあります。それは主イエスが私たちのためにしてくださったことであり、主イエスが私たちの救い主であるということです。説教はそこへ集中していくのです。ですから、日曜日毎の礼拝は主イエスが救い主であることを繰り返し、繰り返し確認する場であるのです。「来るべき方はあなたなのか」という疑いを抱きながら歩む私たちかもしれません。

しかし神は私たちに「来るべき方はあなたなのですね」「あなたが救い主なのですね」「ああ、そうです。あなたが救い主です」と、何度も何度も確認をさせてくださる。疑いを抱いても、繰り返し、繰り返し、私たちは救いの原点である主イエス・キリストに立ち返ることができるのです。

新約聖書のヘブライ人への手紙という箇所がありますが、そのなかにこんな言葉があります。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」(ヘブライ人への手紙一三・八)。

不確かなことばかりのこの世界にあって、私たち自身もまた不確かです。何をよりどころにすればよいのかと多くの人が問うています。神を求める方が増えています。つまずいてしまう方もあるかもしれない。しかし今日も私たちに再び示されたのは、唯一の確かな方のことです。きのうも今日も、永遠に変わることのないお方、イエス・キリストというお方が示されたのです。このお方こそ、来るべき方、私たちの救い主なのであります。