松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2011年3月20日(日)
説教題「葬列に命が宿る」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第7章11節〜17節

 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。

旧約聖書: 列王記 第17章17〜24節



レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
ナインの奇跡(Miracle at Nain/Miracolo della vedova di Naim) / マリオ・ミンニーティ(Mario Minniti)

ナインの奇跡(Miracle at Nain/Miracolo della vedova di Naim) / マリオ・ミンニーティ(Mario Minniti)
シチリア州 メッシーナ美術館 ( The Regional Museum of Messina, Sicily / Museo Regionale di Messina.)
(メッシーナ/シチリア州/イタリア)
(Messina, Sicily,Repubblica Italiana)

クリックすると作品のある「wikimedia」のページにリンクします。

先週の日曜日の午後、ノアの会がもたれました。老若男女、誰でも参加することができる会であります。毎月、いろいろなテーマで会を開催します。誰かのお話を聴くこともあれば、みんなで話し合いをすることもあります。料理や工作をしたこともあります。

いろいろなことをしているわけですが、今年度は特に「死について」というテーマで二度、会を開催し、みんなで死について考えてきました。先週はそのまとめとして「死と葬儀」についてというテーマでありました。まずは私が一時間ほど話をして、その後、みんなでお茶を飲みながら、懇談のときを持ちました。とても多くのことを学ぶことができ、恵まれた会でありました。

死と葬儀は私たちにとって大きな問題であります。今年度はこれまでに教会で四度の葬儀を行いました。愛するご家族や親しい者の死に直面せざるを得なかった私たちであります。また、先週、大きな災害に見舞われた私たちにとって、死を考えざるを得ない私たちであります。

このような状況の中に置かれている私たちにとって、私たちが生かされている信仰が、死に打ち勝つ信仰であることをはっきりわきまえておかなければなりません。死にばかり捉われてしまうと、私たちの心も萎えてしまうかもしれません。死で終わるとすると、そこには希望が何もないからです。

しかし死では終わらないことこそが、私たちの信じている信仰の大切なことなのであります。私たちの救い主である主イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架にお架かりになり、死なれましたが、復活をされたことを私たち信じています。その出来事によって、私たちは死では終わらない、復活の命が与えられることを知らされたのです。

本日、私たちに与えられたルカによる福音書の物語は、主イエスの十字架の前に起こった出来事です。ここに出てくる人々は、まだ主イエスの十字架と復活を知らなかった。しかしこの物語には、死では終わらない復活の希望があります。この救い主のところには復活の希望があると人々は悟ったのであります。

この物語はルカによる福音書だけに記されている物語です。多くの物語は、他の福音書とも共通している場合が多い。ところがナインの町での復活の物語はルカによる福音書だけです。しかしこの物語は、ルカによる福音書で極めて大切な役割を果たしています。どうしてかと言いますと、人々はこの復活物語によって、主イエスのことを救い主だと悟るようになったからです。

一七節のところにこうあります。「イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。」(一七節)。そして主イエスのこの話は、洗礼者ヨハネという人物のところにまで届きました。次回のところに入ってしまいますが、こう記されています。「ヨハネの弟子たちが、これらすべてのことについてヨハネに知らせた。そこで、ヨハネは弟子の中から二人を呼んで、主のもとに送り、こう言わせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。…」」(一八~一九節)。つまり、主イエスの復活の力を知り、来るべき方はあなたなのか、あなたが救い主なのかと尋ねたのであります。死に対する勝利がこのお方のところにある、この人が救い主かもしれないということになったのであります。

私たちはすでに主イエスが復活されたということを知っていますから、復活の光のもとでこの物語を味わうことができます。多くの死を経験せざるを得ない私たちにとって、今こそこの物語を深く味わうときなのであります。

先週のノアの会で、まず私が一時間ほど話をさせていただきました。第一部が死について、第二部が葬儀についてと分けていたしましたが、第二部の葬儀のところで、出棺のことを話しました。出棺とは、ご遺体を運び出すことであります。その日の葬儀・火葬のために、ご家族が中心となってお体を運び出します。

その出棺に先立って、私が聖書を読み、短く説教をし、祈りをいたします。そのときお読みする聖書の箇所として、ここの箇所を読むことにしています。ナインの町に葬儀の列、葬列があった。しかし主イエスが近づいて来てくださり、葬列を止めてくださり、若者を甦らせてくださった、この物語を読むのです。

その日の葬儀もまた、この出棺に始まり、葬列をなすことになります。出棺、葬儀、火葬と一日がかりで様々なところへ移動をし、葬りを行っていきます。朝から始まって夕方までかかる場合がほとんどです。もちろん車や葬儀社が手配したバスでの移動になりますが、葬列は葬列であります。愛する者の葬りの一日が始まるにあたって、主イエスがナインの町で行ってくださった復活の物語をまず読むのであります。

ナインの町の葬列は、本当に深い死の現実を突き付けられた葬列でありました。葬列の先頭を歩いていたのは、この葬儀の喪主である母親です。この母親は夫に先立たれたやもめでありました。このやもめには一人息子がいた。何歳だったのかは分かりません。しかしこの母親の唯一の希望はこの一人息子でありました。今日でも老いては子に従えと言いますが、当時の社会はなおさらでありました。この母親にとって、唯一の希望が失われ、これからどうして生きていけばよいのかというような状況でありました。

この葬列には多くの者たちが加わっていたようです。誰もがこの母親に同情を寄せる一人息子の死でありました。多くの者が母親の後ろに連なったのだと思います。墓地は町の外にありましたから、これから一人息子を町の外へ運び出し、葬りに行かなければなりません。町の外の墓を目指して、希望もなく、この葬列は町の門を出ようとしていたのであります。

そこへ、別の列が通りかかろうとしていました。この列は主イエスを先頭とする列であります。命の列とでも名付けておきましょう。この命の列には主イエスの弟子ばかりでなく、「大勢の群衆」(一一節)も一緒でありました。群衆はカファルナウムの町から加わっていたものと思われます。

先週、私たちに与えられました物語は、百人隊長の僕が癒された物語です。瀕死の重病人でありました。死んでしまうかもしれなかった。しかし主イエスの言葉によって癒された。群衆はその出来事を知っていたのです。そして主イエスの後について来ていたのです。

カファルナウムの町からナインの町までは四〇キロほどあります。今ではたいしたことないかもしれませんが、当時の人にとってはかなりの距離であります。中途半端な気持ちでついて行けるような距離ではありません。それだけに、人々の期待は大きかったのだと思います。次はどんな命の御業が見られるのだろうかと思っていたかもしれません。

主イエスを先頭とする命の列と、一人息子を失ったやもめを先頭とする葬列が、ナインの町のところで出会うことになります。命か死か。どちらが強いのか、力比べをするようにして、町の門のところでぶつかるのであります。

このとき主イエスがとることができる可能性としては三つありました。一つ目は葬列をやり過ごすことです。葬列の先頭を歩いていた母親に対して、ご愁傷様でしたというような言葉をかけて、脇へ退いて、葬列をやりすごす。これが第一の可能性です。第二は、葬列に加わるという方法です。母親に対する憐れみのあまり、自分たちの命の列を一時解散して、葬列に加わる。一緒に死を悼む。こういう方法もあったでしょう。

しかし主イエスがとられたのは、第一の方法でも第二の方法でもありませんでした。二つのいずれをとるにしても、主イエスが死の力に負けてしまうことになります。そうではなくて、主イエスがとられたのは、葬列を止めるという方法でありました。死の力に脅かされている葬列を、主イエスは放っておくことがおできにならなかったのです。

主イエスはまず母親を見て、憐れに思われました(一三節)。憐れむという感情がルカによる福音書では記されております。よく言われることかもしれませんが、「憐れむ」という言葉は、新約聖書ではとても大切なことであります。この言葉はギリシア語でありますが、もともとは「内臓」に関連する言葉でありました。ギリシア人たちは内臓に感情があると考えていました。やがてこの言葉が発展し、心、内臓が動かされるという意味から、最も深い同情、つまり憐れむという意味になったのです。

私たちも思い当たるところがあると思います。私たちも同情や憐れみの感情を抱きます。特に地震や津波によって被災された方のことを思うと、同情せざるを得ません。被災された方の痛みを感じ、自分の心までもが痛くなってしまうのです。単に可哀想だなと思う程度のことではなく、自分も痛み、何もしないならばかえって自分の方が苦しくなってしまう。何かせざるを得ないという思いにさせられるのです。ギリシア語の憐れむという言葉は、そのことをよく表していると思います。

先週、ある長老と話をしました。来年度の予算に関することです。すでに三月の長老会で来年度の予算案を検討しました。四月の長老会を経て、四月一七日の教会総会に案として提出して、承認を得ることになっています。三月の長老会のときはまだ震災が起こっていませんでしたが、震災がこの時期に起こりましたので、予算案を再検討する時間が残されています。すでに日本基督教団、東海教区、南信分区から被災された方や教会のための献金の呼びかけが来ています。

皆さま個人としても献金していただきたいと思いますが、教会としても献金をしなければなりません。そのときに問われるのが、この「憐れみ」という言葉であります。自分の痛みとして覚えることができるかどうか。松本東教会が傷まない範囲で献金をお献げするというわけにはいきません。自分が痛みに思うところまで行って初めて、本当に憐れむということになるのであります。

私たちもこのように憐れみの感情に駆り立てられることがありますけれども、神の憐れみはもっと深いものがあります。これは言うまでもないことかもしれません。神の憐れみは私たちの憐れみよりもずっと深い。その証拠に、新約聖書の中において、憐れむことをするのはすべて神であります。主語がすべて神になっているのです。

強いて例外を挙げるとすれば、よいサマリア人の譬え話です。瀕死になった人をよいサマリア人が憐れみのあまり助けてくれる話です。けれども譬え話でありますから、このよいサマリア人が主イエスのことを指していると考えれば、やはりこれも主語は神であります。本日の箇所でも主語は主イエスです。主イエスが憐れんで下さる。神が憐れんで下さる。これが新約聖書のメッセージです。

主イエスもこのとき、ご自分の痛みに思うほど、このやもめを憐れんで下さったのです。死の力に脅かされ、死の現実の中で、町の外の墓に向かって一直線に進まざるを得ない人たちをご覧になり、ご自分の痛みとして覚えてくださり、憐れんで下さったのであります。

主イエスが憐れみのあまりしてくださったことがたくさん記されています。一三節から一五節にかけて、主語はほとんどが主イエスになっています。憐れに思われた後、主イエスは「もう泣かなくともよい」と言われました。

そして近づいて行かれ、棺に手を触れられました。棺という言葉はもちろん棺桶のことでありますけれども、実は当時のユダヤ人は棺桶を使うことはなかったのだそうです。棺桶ではなく、担架のようなものを用いた。ルカによる福音書はユダヤ人というよりも、どちらかというとギリシア世界に住んでいる人たちが読むことを想定して書かれました。ギリシア世界での葬儀の際には棺桶が用いられますので、ルカも「棺」と記したのだと思います。

しかし実際に主イエスが手を触れられたのは、死者の体が直接、乗せられている担架でありました。当時のユダヤ人たちもどちらかと言えば、死者の体に触れることを控えていましたけれども、主イエスはこのとき体にまで触れたのかは分かりませんが、少なくともその担架には触れたのであります。このようにして葬列は町の門のところで止まりました。それ以上、この葬列が町の外に出ることを、墓に向かって進んで行くことをお許しにならなったのです。

さらに主イエスは決定的なことをしてくださいました。「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」(一四節)と言われたのです。主イエスが言われたこの言葉通りのことが起きました。主イエスが言われることは必ず実現するのであります。若者は起き上がりました。

先週のノアの会でも触れましたが、聖書では死ぬことを眠ることと表現することがあります。死者は眠っている。なぜかと言うと、起きるときがやってくるからです。死ぬ、復活するということを、眠る、起きると表現するわけです。聖書のもとの言葉のギリシア語も、同じ言葉でありまして、文脈に合わせて、起きると訳すこともあれば、復活すると訳すこともあります。

ちなみに一六節のところで、人々が「大預言者が我々の間に現れた」と言っていますが、「現れた」という言葉も、復活する、起きるという言葉と同じであります。大預言者とは、本日、合わせてお読みした旧約聖書に出てきたエリヤのことや、エリヤの後継者であるエリシャのことを指していると思われます。人々はこの出来事を見て、エリヤやエリシャを思い出した。エリヤもエリシャも、お読みした旧約聖書の物語にありますように、主イエスと同じようなことをしているのです。だから人々は、大預言者が我々の間に「復活した」と言っているわけです。

主イエスはやもめの一人息子を復活させた後、この息子を母親にお返しになりました。これもエリヤやエリシャの物語と同じであります。息子が生きている間は自分の手の内にあると思っていた命です。しかし死によってその命が自分の手から取りあげられた。私たちの命は私たちのものではなく、ただ神からいただくものなのです。このときのやもめも、一人息子の大切な命を再び神からいただいたのであります。

このようにして、主イエスが憐れみの心に駈り立たされて、いろいろなことをしてくださいました。死に支配されていた葬列に命が宿ったのです。今までは町の外の墓を目的地にして、死をまっすぐ見ざるを得ない人々でありました。しかし町の門のところで主イエスに出会い、主イエスによって命が吹き込まれ、葬列は解散させられました。

しかもそれだけではありません。解散させられた葬列に加わっていた人々は、主イエスを先頭とする命の列に加わることが許されたのです。ナインの町で若者が甦らされた後、人々は神を讃美することになりました。この命の列に加わり、命が与えられた喜びを感謝して、神を讃美する列に加えられたのです。この命の列は今なお続いています。多くの人がこの命の列に加わっていきました。先頭を歩く主イエスを信じ、続々とキリスト者が起こされた。この命の列こそ、今日の教会であります。

ナインの町で起こった出来事は、死者の復活という奇跡物語であります。聖書の中でも復活の出来事は、それほど数が多いわけではありません。やもめの一人息子の復活が起こったからと言って、やもめの夫も甦ったわけではありませんし、その後、続々と死者の復活が起こったわけではありません。

福音書が伝えることは、死者の復活をもたらしてくださった主イエスがその後、何をされたのかということです。死の力に脅かされている私たちのために十字架にお架かりになった。死の力に屈することなく、死の力を打ち破り、復活をされた。福音書が伝えることはこのことであります。死で終わらない新しい命がある。

主イエスが憐れみのあまり起こしてくださった復活の出来事は、神の復活の力を知るに十分な出来事です。私たちはこの出来事を知らされました。同時に、復活の希望を抱くことができるようになったのです。この救い主のところには、復活の希望があると私たちは信じることができるのです。

私たちの教会では愛する者の死の出来事が続きました。大きな地震、津波によって、多くの命が奪われました。死に直面せざるを得ない私たちです。しかし主イエスに出会う前のナインの町の葬列のように、墓に向かって一直線、死の力に脅かされる必要はもはやなくなりました。すでに復活に光が射し込んでいるのです。教会はこの光を道しるべとして歩む者たちの群れです。主イエスを先頭とする、命の列の歩みが、ここにあるのであります。