松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2011年3月13日(日)
説教題「神の言葉の威力」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第7章1節〜10節

 イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。

旧約聖書: 詩編 第33編1〜11節







レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
百人隊長の僕をいやす(Healing the Centurion's servant) / パオロ・ヴェロネーゼ(Paolo Veronese)

百人隊長の僕をいやす(Healing the Centurion's servant) / パオロ・ヴェロネーゼ(Paolo Veronese)
プラド美術館 (Museo Nacional del Prado)
(マドリード/スペイン)
(Madrid,Reino de España)

クリックすると作品のある「wikimedia」のページにリンクします。

おとといの金曜日、私たちの国はとても大きな災害に見舞われました。テレビの映像は現実に起こっていることなのかと目を疑うほどのものでした。多くの人の命が奪われ、多くの人が困難の中に置かれています。今なお不安や恐れを抱いておられる方も多いでしょう。大きな災害を前にして、私たちの力はほとんど役にたちません。

このようなときに、いやこのようなときだからこそ、私たちは神の言葉を聴きたいと思います。本日、私たちに与えられたルカによる福音書の物語が、人の力ではどうすることもできなかったときに、ただ神により頼んで救っていただいた物語だからです。

この物語には百人隊長が登場します。百人隊長のところに病気にかかった者がいた。しかしこの病気をどうすることもできなかった。百人隊長はユダヤ人の会堂を建てることができるくらいでしたから、力のある人でした。医者を呼んで、看てもらったでしょう。しかし手の施しようがなかった。もう取れる手段が何もなくなってしまったのです。

そんなときに、百人隊長の耳に入ってきたのは、主イエスであります。主イエスはすでに多くの癒しをされていた。そんな主イエスの噂を耳にしたのでしょう。あらゆる手を尽くしたけれども、うまくいかず、最後の手段として主イエスに望みをかけたのです。

この百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いに出したり(二節)、友達を使いにやったりしました(六節)。いろいろと心境の変化もあったのかもしれません。けれども最終的に、神の言葉を求める者になりました。「ひと言おっしゃってください。」(七節)、友達の口を通して、百人隊長は主イエスにこのように言っています。

主イエスにひと言を求める。かつての口語訳聖書では「ただ、お言葉を下さい」でした。さらに古い文語訳聖書では「ただ御言葉を賜ひて」です。神の言葉という語がはっきりと用いられている。百人隊長が求めたのは、神の言葉でありました。

私たちも百人隊長と同じことを口にしたいと思います。地震や津波によって、言葉を失ってしまうほどの被害が出てしまいました。しかしこのようなときにこそ、私たちは口を開いて言いたいのです。「御言葉をください」と。

この百人隊長はどんな人物だったのでしょうか。百人隊長は文字通り、百人の部隊の隊長でした。ローマの軍隊ですと、その上には千人隊長、軍団長と呼ばれる人がいます。さらにその上は皇帝です。

しかしこの百人隊長はローマ帝国の軍隊に属していたというわけではないようです。どうしてかと言いますと、この物語の舞台となったのはカファルナウム近郊ですが、カファルナウム周辺にはローマの軍隊が置かれていなかったからです。おそらくその地方を治めていたヘロデ・アンティパスという人の軍隊に属していたと思われます。つまり百人隊長の上司はヘロデ・アンティパスという王様になります。

この百人隊長には百名ほどの部下を抱えていたことになりますが、病気で死にそうになっていたのは、その部下なのでしょうか。二節の記述を見ますと、そう読みとることができます。「ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。」(二節)。部下という言葉が用いられています。病気で苦しんでいたのは、百人ほどいた部下の一人だったのでしょうか。

ところが他の聖書の訳を見ていますと、部下とは書かれていません。しもべ、奴隷となっている訳がほとんどです。どうしてかと言うと、もとの言葉がはっきりと僕、奴隷という言葉を使っているからです。

さらには、ヨハネによる福音書にも同じような物語があります。「役人の息子をいやす」という小見出しが付けられています。七節のところで百人隊長が「わたしの僕をいやしてください。」(七節)と言っていますが、この僕という言葉は息子と訳すこともできます。つまり、百人隊長の部下というわけではなく、息子だったのかもしれませんし、言葉をそのままとれば、僕、奴隷であったと考えるのが自然であります。

病になったのが息子だったら、当然、癒しを求めることになりますし、奴隷の場合でもそうだったのであります。この人は百人隊長に重んじられている者でありました。奴隷というとあまりよいイメージを抱かないかもしれませんが、この時代は同じ屋根の下で暮らす奴隷が多かったようです。主人のためにいろいろと働きますけれども、同じ屋根の下で、同じ食事の席に着くことも多かったのです。息子であろうと奴隷であろうと、いずれにしても、病気で死にかかっていたのは、百人隊長にとって大切な人でありました。

そんな百人隊長が最後の望みをかけたのが主イエスでありました。主イエスはユダヤ人でありますから、自分の知り合いのユダヤ人たちに執り成しをしてもらう方がよいと判断したのでしょう。ユダヤ人の長老たちを使いにやって、主イエスに助けを請うたのであります。

長老たちが言うには「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。」(四節)ということでした。百人隊長が癒すにふさわしい人だ、というわけです。長老たちはふさわしいと考えたわけですが、そのふさわしさとは何でしょうか。百人隊長はユダヤ人たちを愛して、ユダヤ人たちのために会堂を建ててやりました。おそらく人徳もある人だったのでしょう。あの人は立派だ、ふさわしい人だ。長老たちの評価はそうでありました。

ところが、同じふさわしいという言葉が七節にも出てきます。百人隊長の言葉です。今度は長老たちではなく、友達を使いにやって主イエスにこう言うのであります。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。」(六~七節)。ここでもふさわしいという言葉が出てきます。ただし、長老たちとは反対に、百人隊長は自分自身のことをふさわしくないと言っています。

友達を使いにやって自分のことをふさわしくないと言ったときの百人隊長の言葉を、不思議に思われる方もおられるかもしれません。長老たちが使いのときには、ぜひ主イエスよ、来てください、わたしの僕を癒してください、と言っていたのに、友達を使いにやったときには、御足労には及びません、つまり来ていただかなくて結構です、と言ったのです。この心境の変化はどうして起こったのでしょうか。

このことから、ふさわしさについて考えることができるかもしれません。主イエスの足音が近づいてくる。まもなく救い主がやってくる。しかし自分は救い主をお迎えするにふさわしいものではない。百人隊長は主イエスの足音が大きくなるにつれて、ますます自分のふさわしくなさを感じるようになったのです。主イエスの足音が近づいてくるにつれ、「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。」(六節)とますます思うのであります。そして実際、自分からは出向くことができず、友達を使いにやる。

よく考えてみますと、私たちも百人隊長の気持ちが分かると思います。私たちの誰もが胸をはって、わたしはふさわしい、救い主が来てくださるのは当然だと考えることはできません。自分から堂々と神の前に出向くことなどできません。神にもしお会いしたら、顔をあげることもできないかもしれません。長老たちはふさわしいと言ってくれたかもしれない。しかし自分自身のことを吟味すれば吟味するほど、自分のふさわしくなさが明らかになってくるのであります。

百人隊長が自分はふさわしくないと自覚したこともそうですが、主イエスが何よりも感心された言葉がありました。それが「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」(七節)であり、そのあとの軍隊における例えであります。「わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」(八節)。

百人隊長がここで例に挙げているのは、自分が属している軍隊の権威です。軍隊では上の命令は絶対です。上が命令すれば、下がその命令通りに動きます。そうでなければ軍隊の規律が取れません。「行け」といえば行くし、「来い」と言えば来るし、「これをしろ」と言えばその通りする、それが軍隊の権威です。百人隊長は軍隊に身を置いていましたので、そのことはよく知っていた。

軍隊の権威でさえもそうなのだから、まして神の権威は絶対であるということです。神が言われれば必ずその通りになるということを、百人隊長は軍隊の権威を例にとってこう言ったのであります。

神が言われると必ずそのようになる、これは私たちの信仰にとっても極めて大切なことです。本日、ルカによる福音書と合わせて、旧約聖書詩編第三三編をお読みいたしました。九節のところにこうあります。「主が仰せになると、そのようになり、主が命じられると、そのように立つ」(九節)。

神が言われることは必ずそのように実現すると、詩編の言葉を紡ぎ出した詩人は固く信じているわけですけれども、六節にこうあります。「御言葉によって天は造られ、主の口の息吹によって天の万象は造られた。」(六節)。天地創造のことが言われていますが、神が言われると必ずそのようになるということは、天地創造に一番よく表れていると思います。

創世記の始めにある天地創造の物語は、神が世界を造られた様子が語られております。けれども大切なのは神が言葉を言われると、必ずその通りになっているということです。神が「光あれ」(創世記一・三)と言われれば光がある。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光るものがあって、地を照らせ。」(創世記一・一四)と言われれば、太陽と月が現れるのであります。

百人隊長はこのように信じたのでした。神が言われれば必ずその通りになると信じたのです。「ひと言おっしゃって下さい」(七節)。先ほど、この言葉が神の言葉を求めているという意味であることを申し上げました。神よ、あなたの言葉をください、あなたがそう言われると、必ずそうなるからです、ということです。あなたがもし私の僕が病からよくなると言ってくださるのなら、必ずそうなるのだと百人隊長は信じているのであります。これこそ、主イエスが感心され、驚かれた百人隊長の信仰なのであります。

信仰が深いのか浅いのか、私たちはもしかすると、信仰を計るものさしのようなものを考えてしまうかもしれません。私たちのものさしで計ってみるとどうでしょう。ある人は信仰深い。ユダヤ人の長老たちが百人隊長を評価したように、あの人はこんなこともしているし、人徳もあるし、信仰深い人とはまさにあの人のことだと言うこともあるでしょう。あの人はふさわしい人だということになる。

ところが別の人を同じものさしで計ってみると、どうもよい結果が出ない。あんなことをしてしまっているし、教会生活もどうも芳しくない。そういう場合には、あの人はふさわしくないということになるのであります。

けれどもこのものさしはユダヤ人の長老たちのものさしであって、本当のものさしではありません。本当のものさしで計るならば、私たちの誰もがふさわしくないという結果しかでないものさしであります。私たちの誰もが、自分はふさわしい、自分は堂々と胸をはって神の前に出ることができるという人はいないのですから。

しかし主イエスはこの百人隊長の信仰に感心をされたのであります。百人隊長はユダヤ人ではありませんでした。ユダヤ人からすれば外国人、異邦人であります。本来ならば救いの圏外であると考えられていた。ふさわしくはなかった。しかし主イエスによってその信仰が見出されたのであります。自分はふさわしくない、自分には誇るべきものは何もない。そんな信仰の持ち主を主イエスは認めてくださった。何も持っていない者が、ただ神の言葉を求めた。この百人隊長の姿こそ、信仰者としてのあるべき姿なのであります。

私が神学生時代、夏期伝道実習というものがありました。ひと夏の間、実習先の教会で過ごすというものです。その夏期伝道実習である祈祷会を担当することになりました。そのときに今日と同じ聖書箇所をお読みして、短く説教を語りました。祈祷会ですので、最後に一人ずつ祈りをすることになります。ある出席者がこういう祈りをしてくださいました。「わたしが病を癒されたのは、家族のために祈るためだった」、そう言われて涙ぐみながら祈りをされていました。

その方は、長い間病を得て、教会生活に復帰をされたところでありました。病からの癒しを経験されていた。そしてその癒しの意味を知ったのです。家族のために祈るために、私は癒されたのだと。

この方の姿も主イエスを感心させるほどの信仰者の姿であると言えると思います。自分には何もないかもしれない。しかし他者のために、ただ主イエスにすがり、祈ることができる。百人隊長が自分の僕のために、何もなくなったところで最後に主イエスに望みをかけて、神の言葉を求めたように、信仰者の姿はこうなのであります。私たちの目にふさわしさ者が信仰者なのではない。自分のふさわしくなさを認め、ふさわしくない者が神の言葉を求めることこそ、信仰者の姿なのであります。

私たちもそうなのであります。ふさわしいから礼拝に招かれたのではない。礼拝はふさわしくない者たちの集いです。ただ神の言葉を求めて集ってきた私たちです。大きな地震や津波に言葉を失う私たちかもしれない。しかしこのときにこそ、神の言葉を求めるのです。「ひと言おっしゃってください」、と。