松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2011年3月6日(日)
説教題「人生の土台を据えよう」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第6章46節〜49節

 「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」

旧約聖書: 詩編 第127編

レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
山上の垂訓(Sermon on the Mount) / コジモ・ロッセッリ(Cosimo Rosselli)

山上の垂訓(Sermon on the Mount) / コジモ・ロッセッリ(Cosimo Rosselli)
システィーナ礼拝堂天井画 (Sistine Chapel)
ヴァチカン(Vatican)

クリックすると作品のある「wikipedia」のページにリンクします。

私が購読しております新聞の一面には、毎日、カラーの写真が掲載されています。その日のニュースに合わせた写真が載せられている。三月一日の火曜日の写真は、ニュージランドのクライストチャーチの写真でありました。この町は大きな地震に襲われた。崩れ落ちた建物があり、その下で何人もの方が亡くなりました。

その写真は倒壊した建物が写っていた写真でありました。倒壊したといっても、全壊したわけではない。一部のみでありました。余震がまだ続き、さらなる倒壊の恐れもあるということで、建物へは当然立ち入り禁止になります。写真には、倒壊した建物の周りにフェンスが覆われている様子が写っていました。

そのフェンスのところに、ハートの形をしたメッセージが張り付けてある。写真に一番よく写っていたメッセージは、こういうものでした。「クライストチャーチは今までよりも、より良く、より強く復興するだろう」というものでした。

このメッセージのすぐ左横に、こんなメッセージもありました。このメッセージは写真ではかなり小さく写っていましたけれども、最近の写真はかなり鮮明です。このメッセージに何が書いてあるのか、はっきりと読みとることができました。こういう内容です。「私たちは大きなことはできません。小さなことを大きな愛でするだけです。(マザー・テレサ)」。

マザー・テレサのこの言葉は有名な言葉です。皆さまもお聴きになったことがあるかもしれません。クライストチャーチは大きな地震の被害に遭った。この町のために、助けを必要としている人のために、何かをしたいという思いがある。大きなことはできないけれども、小さなことを大きな愛の中で行う。マザー・テレサの言葉でありますから、もちろん大きな愛とは神の大きな愛の中で、ということになります。

これは当然のことかもしれませんけれども、大切なことであります。私たちは神と同じことをできないかもしれない。それと同じことや、ましてそれを踏み越える必要はない。神がなさったことの内側の領域で、小さなことかもしれないけれども、私たちのすべきことがある。この言葉はそう言っているのであります。

本日、私たちに与えられましたルカによる福音書の箇所もまた、私たちのすべきこと、行いが問われています。この箇所は、主イエスの説教のしめくくりにあたります。主イエスはあるとき、十二人の弟子たちを山の上で選ばれました。その山から降りて来られ、「平らな所」(六・一七)にお立ちになる。そして弟子たちに向けて、説教をお語りになる。この説教は「平地の説教」と呼ばれています。この説教は第六章二〇節のところから始まり、ずっと続いていく。そして本日与えられた箇所が説教の最後のところになります。

主イエスの説教の内容を見てみますと、かなり大きなことが言われていることが分かります。「敵を愛しなさい。」(三五節)。「人を裁くな。」(三七節)。「赦しなさい。」(三七節)。しかも主イエスは、本日与えられた箇所の冒頭でこう言われています。「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。」(四六節)。「私の言うこと」とはもちろん、「敵を愛しなさい。」(三五節)。「人を裁くな。」(三七節)。「赦しなさい。」(三七節)というような、主イエスがこの説教でこれまでに語ってこられたことでしょう。これらのことを口先だけでなく、きちんと行いなさいと言われる。そんな大きなことはできないとたいていの方は思われるかもしれません。

私たちが信じている信仰の面から言って、私たちの行いをどう考えるかは大きな問題であります。救われるためには行いがともなわなければならないのか。神が求めておられることをそのままできないといけないのか。その上で初めて救いを獲得できるのか。主イエスと同じ行いをしないといけないのか。行いをめぐっていろいろなことを考えることができます。

先週の日曜日に、MCC一致礼拝がありました。私たちが属しております日本基督教団の教会だけではなく、カトリック教会も含めて、様々な教派の教会が集まって、一致礼拝をいたしました。また金曜日には世界祈祷日の集会があった。ここにも様々な教派の教会からの参加がありました。他の教派の先生方に、行いをどう考えるのかと尋ねるならば、異なる答えが返ってくるかもしれません。ここでその違いを取りあげて論じてもあまり意味はありませんので、私たちの教会の考えを確認しておきたいと思います。

松本東教会のルーツをたどっていくと、およそ五百年前の宗教改革の頃にたどり着きます。カトリック教会から分離をして、いろいろな教会ができました。教会ができますと、それぞれの教会が自分たちは何を信じているのか、それを明らかにする努力をします。様々な信仰の言葉が生まれます。その一つに「ハイデルベルク信仰問答」というものがあります。問いと答えを積み重ねていきながら、私たちが何を信じているのかを学んでいけるものです。松本東教会のルーツをたどっていくと、この「ハイデルベルク信仰問答」に出会うことになります。

ハイデルベルク信仰問答の問一はこうであります。「問一 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。答 わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主、イエス・キリストのものであることです」。皆さまもどこかで耳にしたことのある言葉だと思いますが、この言葉の一部が、松本東教会の献金感謝の祈りの言葉としても取り入れられています。

問二はこう続きます。「問二 この慰めの中で喜びに満ちて生きまた死ぬために、あなたはどれだけのことを知る必要がありますか。答 三つのことです。第一に、どれほどわたしの罪と悲惨が大きいか、第二に、どうすればあらゆる罪と悲惨から救われるか、第三に、どのようにこの救いに対して神に感謝すべきか、ということです」。

三つのことを知るべきだとハイデルベルク信仰問答は言います。第一に、罪がいかに大きいかということ。第二に、どのように罪から救われるかということです。ここまでに行いが出てくる余地はありません。人間の功績によってではなく、ただ神の恵みによってのみ救われるとはっきり言われています。

そして第三に初めて行いが出てくると言ってもよいでしょう。「どのようにこの救いに対して神に感謝すべきか」。すでに神がしてくださったことがある。それがただ恵みによる救いであります。それではすでに救われた私たちがいかに感謝をすべきか。感謝の行いをすべきか、そう考えるわけです。救われるために何をすべきかと考えるのではなく、すでに救われた私たちが何をすべきかと考えるわけです。

本日私たちに与えられた箇所の中で、主イエスが語られた譬え話を丁寧に読んでいくならば、このことはよく分かるのではないかと思います。この譬え話は豊かなイメージに溢れています。私たちの行いが家を建てることで表されています。「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。」(四七節)。

このような人の家の建て方はこうであります。「それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。」(四八節)。聖書のもとの言葉であるギリシア語聖書を見てみますと、ここで言われている家を建てることは、次の三つの行為からなることが分かります。すなわち、土を掘ること、深くすること、土台を据えること、この三つであります。健全に家を建てる人は、この三つを行うというのです。

マタイによる福音書に似た譬え話があります。マタイによる福音書では、岩の上に家を建てる人と、砂の上に家を建てる人が比較をされています。主イエスが言われているメッセージとしては同じかもしれませんが、家の建て方は微妙に異なります。ルカによる福音書のこの箇所では、良い家を建てる建て方は、土を掘ること、深くすること、土台を据えることの三つのことをすることです。逆に悪い家はこれら三つのことをしないで、いきなり家を建てることです。

最大の違いは何でしょうか。それは岩に接触しているかどうかだと思います。家を建てる際にいきなり家を建てるのではなくて、まずはそこを掘り下げてみる。そうするとそこに岩があった。その上に土台を据える。そして家を建てる。少しだけ手間はかかるかもしれませんが、大きな違いを生じることになります。平穏なときはよいのかもしれません。どちらも見た目は同じであります。

違うのは目につかないところです。家の下の部分であります。違いが目に見える形で表れるのは、その家が危機に襲われたときです。「洪水になって川の水がその家に押し寄せた」(四八節)ときのことです。しっかり建ててあった家は「揺り動かすことができなかった」(四八節)。しかし土台なしで直接、地面に建てられた家はこうなってしまいます。「川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」(四九節)。

家が倒れる、倒れないかの違いは、家自体の強さにかかっているのではありません。岩に接触しているかどうかが問われるのです。これが最大のポイントであります。私たちにできることは岩に接触することであります。私たち自身が岩になれ、どんなことがあっても揺らがない建物になれ、そのような岩を作り出せ、と言われているのではありません。そうではなくて、岩の上に自分の家を建てる。そのために地面を掘り下げる。それだけなのであります。

先ほど、ハイデルベルク信仰問答で確認しましたように、私たちが救われるために何かを行うのではなく、救われた私たちがどのように神に感謝をするかということが、第三部で問われています。救われた者にとっては、もうすでに岩に接触しているのであります。第一部では、罪がいかに大きいかということが言われています。この段階では、私たちは岩からかなりかけ離れていたと言わざるを得ません。

しかし第二部で、どのように罪から救われるかということが言われます。その救いをもたらしてくださるのが主イエス・キリストです。私たちは主イエスと接触することを許された。ですからキリスト者としての歩みは、この岩に接触した上での歩みになります。

岩に接触している人のことを、主イエスが譬え話の中でこう言われています。「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人」(四七節)。それができる人、と言われているのではありません。主イエスのところに言って、主イエスの言葉を聴き、それを完全にはできないかもしれないけれども、行う人。神に救っていただいた、岩に接触することを許された。すでに救われてその感謝を表す人。この礼拝に集い、神の御言葉を聴き、神に感謝を献げている皆さまのことであります。

松本東教会の礼拝堂に入る扉の前のところに、祈りの箱が置かれております。祈ってほしいことがあったら、紙にその内容を書いて、入れることができるボックスであります。少ないときは二、三カ月、何も入らないということもありましたが、最近、多くの祈りの課題が入れられています。先週は二件ありました。また、祈りのボックスだけでなく、メールで私にこんなことを祈ってほしいと言われる方もありますし、口頭で言われることもあります。

それらの祈りは、どれも大きな祈祷課題であります。ご自分のこと、ご家族のこと、友人や知人のこと。自分の力ではどうしようもないことばかりです。だからこそ神に頼って神に祈る。そして自分だけではなくて、ぜひ牧師にも祈ってほしいという思いが箱の中に入れられている祈祷課題に表れているのだと思います。

私も覚えて祈りをしますが、そのときに感じるのは、キリスト者といえども、今日の譬え話で言われている洪水とは無関係でいられないということです。キリスト者になったからといって、即、幸せになるというわけではない。洪水に襲われることはない、嵐にも干ばつにも災害にも襲われることがなくなるというわけではないのです。家は洪水に襲われる。

しかしそのようなときに、私たちの足元には岩があるのです。私たちの家は岩の上に接触して建てられているのです。試練に襲われるとき、神に対して祈る、自分だけでなく他者にも祈ってもらう。これこそ、岩に接触している人ができることであります。この家は倒れることがない。

少し話を広げているように思われるかもしれませんが、私たちの人生の営みは家を建てることであります。人生の晩年に、自分の人生を振り返って、岩の上にしっかりとした家を建てることができた、洪水に襲われたこともたびたびあったけれども、しっかり最後まで建つことができた、という人もあれば、結局のところ洪水によって壊れてしまいそうな家しか建てることができなかった、いや実際に壊れてしまった、という人もあるでしょう。

先ほど、マタイによる福音書の話を少しいたしましたが、マタイによる福音書ではルカによる福音書と比べてもっと具体的な場面が想定されています。こう記されている。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。」(マタイ七・二一~二二)。

ここでは「かの日」の話しとして主イエスはお語りになられています。神の御前に立たされた「かの日」のときの話しです。終わりの日の裁きのときのこと。自分の家がどこに建てられたのかが問われます。マタイによる福音書では、砂の上ではなく岩の上に建てなさいということが言われていますが、岩の上に建てよというメッセージはルカによる福音書も同じであります。岩に接触していれば、「かの日」における洪水にも嵐にも耐えることができる。どうしてかと言うと、私たちの救い主、主イエス・キリストとしっかりと接触しているからであります。主イエスが救ってくださるのです。

この説教の説教題を「人生の土台を据えよう」といたしましたが、人生における土台だけではありません。主イエスはその先も土台でいてくださいます。私たちが生きるときにも死ぬときにも、私たちの土台は岩なる主イエス・キリストなのであります。この岩の上に建てられているのであれば、どんなときにも、人生の歩みでも、終わりの日、「かの日」であっても、どんな洪水にも嵐にも、耐えることができるのであります。

最後に、使徒パウロが書きましたコリントの信徒への手紙一から引用したいと思います。「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。」(Ⅰコリント三・一一)。私たちにできることは、まずはこの土台を見出すことです。見出すといっても、どこを掘ればよいのか私たちは知っています。行くあてもない宝探しをしているのではありません。正しい場所を知らされている。土を掘れば、この岩を見出すことができる。その岩を土台として家を建てる。ただそれだけです。

私たちが岩になる必要はありません。マザー・テレサが言うように、私たちは大きな愛のもとで小さなことをすればよいのです。主イエス・キリストという岩に接触し、それを土台としつつ、歩んでいけばよいのであります。