松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2011年2月27日(日)
説教題「善さと悪さの源」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第6章43節〜45節

 「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」

旧約聖書: 列王畿上 第3章5〜9節

レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
山上の垂訓(Sermon On The Mount) / フラ・アンジェリコ(Fra Angelico)

山上の垂訓(Sermon On The Mount) / フラ・アンジェリコ(Fra Angelico)
サン・マルコ修道院 蔵(Museo di San Marco)
(イタリア/フィレンツェ)

クリックすると作品のある「wikimedia」のページにリンクします。

説教を語るためには準備をしなくてはなりません。準備にはいろいろなプロセスがありますが、まずは聖書をじっくりと読むことから始めます。たいていの場合、日曜日が終わって翌日の月曜日にすることは、聖書をじっくりと読むことです。このようにして、次の日曜日に向けての説教準備が始まります。

このときに読む聖書の箇所は、何も次の日曜日に与えられている箇所だけではありません。関連する聖書の箇所をいくつも読んでいくことになります。たとえば、本日の場合ですと、マタイによる福音書の箇所も合わせて読んでまいりました。本日、私たちに与えられた箇所には小見出しが付けられております。「実によって木を知る」。

その下に、小さな文字が書かれております。「マタ七・一六~二〇、一二・三四b~三五」とあります。これは、マタイによる福音書のこの箇所に、似たようなことが書かれているということです。当然のことながら、マタイによる福音書のこの箇所も合わせて読んで、説教準備を進めていくことになります。

本日与えられた箇所は、マタイによる福音書においては二箇所に分かれている、第七章と第一二章に二度にわたって、同じような話が出てくるということになります。どうしてマタイでは二度も語らなければならなかったのか。一つにまとめることはできなかったのか。開いて読んでみますと、たしかに同じような話が出てきますけれども、明らかにテーマが違うことが分かります。

第七章のほうでは、こういう言葉によって始まります。「偽預言者を警戒しなさい。」(マタイ七・一五)。第一二章のほうでは、こういう言葉で閉じられます。「あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」(マタイ一二・三七)。つまり、第七章のほうは「偽預言者を警戒しなさい」と言われているわけですから、あなたの先生をしっかりと選びなさいという内容であるわけです。

第一二章のほうは「あなたは、自分の言葉によって」と言われているわけですから、あなたの言葉をしっかりとしたものにしなさいという内容であるわけです。自分の先生の問題なのか、自分自身の問題なのか、その違いがあって、マタイによる福音書では分けられているわけです。

それではルカによる福音書では一体どちらなのか。どちらを取るかで説教の内容がまったく変わってきてしまいます。先週、説教準備をしてきた私にとって、大きな問いでありました。ルカによる福音書では二つに分けていない。一体どちらなのか、それとも両方のことが、ここで同時に言われているのでしょうか。

四四節に、「木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。」(四四節)とあります。いちじくを取ろうと思って手を突っ込んだら、実はそこが茨であって怪我をしてしまった。

野ばらというのは私たちが想像する美しいバラというよりも、あまり美しいものではなく、ぶどうと比較されて、その果実が食べるためには役立たないものであります。しかもとげがある。ぶどうを取ろうと思って手を入れたら、やはりとげがあって怪我をしてしまった。この先生から良い実をいただこうと思っていたのに、良い実をいただくどころか怪我をしてしまった。良い実をいただくことができる先生をしっかりと選びなさい。四四節はこう読めなくもありません。

また四五節に、「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」(四五節)とあります。これを先生のこと、善い先生の心の倉は良いし、悪い先生の倉も悪い、と考えることもできますけれども、私たち自身のこと、私たち自身の心の倉を良くしなさい、そして口から良い言葉を語りなさいと理解することもできるでしょう。

このように、ルカによる福音書のこの箇所では、マタイによる福音書のようにはっきりと決めることは難しいと思います。しかし先週、私たちが聴きました御言葉、四〇節のところにはこうありました。「弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。」(四〇節)。やがて弟子は師のようになるのです。最初は先生をしっかりと選ばなければならないかもしれない。しかしやがては自分も師のようになる。そうするとやはり自分自身のことが問われる。

こう考えますと、ルカによる福音書のこの箇所は、マタイによる福音書の二つの箇所がうまく融合されていることになります。いや、自分の師がすでにキリストであるとわきまえているのであれば、その問題は解決したのも同然かもしれません。あとは師のようになっていく自分自身のことが問われているということになります。私たちはまことの先生、まことの師である主イエス・キリストから、何が良いことで、何が悪いことであるかを学ばなければなりません。

良いことと悪いことの問題、善悪の問題は、聖書だけで論じられているのではありません。信仰を持つ者にとっても持たない者にとっても、善悪の問題は大きな問題であります。

昨年、最もよく売れた本の中に、マイケル・サンデルという人が書きました本があります。「これからの「正義」の話をしよう」という本であります。この人はハーバード大学の教授で、政治哲学が専門です。昨年のテレビでしばしば取りあげられましたので、ご存じである方も多いと思います。サンデルはこの本の中で、正義をめぐって、いろいろな問いを挙げながら論じていっています。このような状況のときに、何が正しいことなのか、何を基準に判断すべきか。問いもかなり具体的です。

例えば、ある町がハリケーンに襲われて被害がでる。被害が大きく、物資も不足気味。経済の原理で言えば、食料もガソリンも家の修理代金も高騰します。それは当然のことだと考える人がいます。

ところが被害に遭った人にとっては、価格が高騰することは、まるで足元を見られたかのように感じます。まるでハリケーンで困っている人の弱味に付け込まれたかのよう。政府がしっかりと対策をして、値上げ禁止法などを制定すべきではないかと考える人もいるでしょう。

サンデルはこのような具体例を挙げて、何が正しいことで何が間違ったことかを論じていきます。サンデル自身の立場ははっきりとしていますが、それを読者に無理強いするのではなく、いろいろな立場から問題を考えていき、答えの出ない問いに挑んでいきます。私も数ヶ月前にこの本を読みましたが、いろいろなことを考えさせられました。

この本での議論は、神なき議論であります。神にお出ましいただかないで、善悪の問題を考えていく。この本では、基準は神ではないのです。もちろん神に登場していただいたからといって、すぐに答えが出るというわけにはいかないでしょう。神がおられる中での議論であったとしても、神の御心は一体何なのか、神からの答えを問い続けなければならないでしょう。

本日、私たちに与えられた聖書の箇所の言葉は、主イエスご自身が語られたものです。主イエスの口から「良い」「悪い」という言葉が出てきている。ですから、私たちは主イエスの存在そのものを無視して、善悪について論じるわけにはいきません。もしそれをしてしまうとするならば、終わりのない神なき善悪の議論になってしまうでしょう。

四三節と四五節に「良い」「悪い」という言葉が出てきます。よくよく注意深く見てみると、四五節の始めの「善い」という言葉は漢字が異なります。おそらくこれは、「善人」という意味で「善い」という漢字を用いているのだと思います。人に対しては「善い」、ものに対しては「良い」という使い分けをしているわけです。

ところが、もとのギリシア語の言葉で四三節と四五節を読んでみますと、四三節の言葉と四五節の言葉では違う言葉が使われています。どちらも「よい」と訳せる言葉です。しかし四三節で出てきた「よい」という言葉は、四五節になるとすっかり消えてしまって、別の「よい」という、はっきりと違う言葉が用いられている。

これら二つの言葉に関して、やはり先週いろいろと調べることになりました。そうしましたら一つ興味深いことが分かりました。四三節で用いられている「よい」という言葉は、どちらかと言いますと、行為に関係することが多いのだそうです。行いがよい、振る舞いがよい、行為がよい、そのように用いられます。これに対して、四五節の「よい」という言葉、これは存在そのものがよいという意味が強いのだそうです。たしかに四五節の内容からすると、心の倉が良いと言われていますので、表面に出てくる行為だけでなく、内側まで、存在そのものまで「よい」という意味であることが分かります。

四五節の「よい」という言葉、実は使徒パウロが好んで用いた言葉です。四三節の「よい」という言葉もパウロは何度か用いていますが、四五節の存在そのものが「よい」という意味の言葉の方を、パウロはたくさん用いているのであります。たくさんの例を挙げることができますが、ここでは一つだけ挙げたいと思います。ローマの信徒への手紙第一二章二節の言葉です。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ローマ一二・二)。

ここで用いられている「善い」という言葉、これは四五節の存在そのものが「よい」という言葉です。ローマの信徒への手紙第一二章の始めに、「こういうわけで」という言葉があります。どういうわけかと言いますと、ローマの信徒への手紙のこの箇所までにパウロが語ってきたように、神がどのようにあなたを救ったかということです。イエス・キリストに結ばれるために洗礼を受け、古い罪の自分に死んで、新しい命に生きるようになった。こういうわけだから、「心を新たにして自分を変えていただき、…何が善いことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ローマ一二・二)。自分が自分自身の力で変わるのではなく、自分を変えていただく。存在そのものを変えていただく、これが「よい」ことなのであります。

ですから私たちにできることは、存在を「よい」ものへと変えていただくことです。本日与えられたルカによる福音書の言葉で言えば、「心の倉」に良いものを入れていただくことです。自分で入れるのではない。まことの先生、師である主イエス・キリストからいただける「よい」ものによって、私たちの倉にもよいものを入れていただくことになる。そのようにして倉全体が変わっていく。存在そのものが変わるのであります。

アメリカ合衆国長老教会というグループが十数年前に「みんなのカテキズム」というものを作りました。カテキズムとは信仰教育のためのものであり、多くのカテキズムは問いと答えからなっています。こどもたちや洗礼志願者はこのようなカテキズムから学んでいくことになります。言うまでもありませんが、どのカテキズムであっても、問一がとても重要になります。

この「みんなのカテキズム」の問一と答えはこのようなものです。「問一、あなたは誰ですか。答え、わたしは神さまの子どもです」。当然、問二はこのように続きます。「問二、神さまの子どもであるとはどういうことですか。答え、わたしが、わたしを愛してくださる神さまのものだということです」。問いはまだまだ続いていきます。神さまの子どもであることがさらに深められていくわけですが、ここではここまでにいたします。

「みんなのカテキズム」が最初に問題にしているのは、あなたの存在は何かということです。あなたは何者か。そのことを「あなたは誰ですか」と問うている。小さな子どもだけではない、大人もまた「わたしは神さまの子どもです」と答えられることを教える。とても幸いなことです。どんなときにでもはっきりとこのように答えられる存在を私たちに与えてくださったのが神であるからです。

罪のために神の子とはかつては言えなかったかもしれない。しかし主イエス・キリストが私たちの罪を赦してくださるために十字架にかかってくださった。罪を赦されたものとして、神の子として、私たちの存在を「よい」ものに変えてくださったのであります。

主イエス・キリストに従う弟子としての歩みの出発点はここにあります。「師のようになれる」(四〇節)と主イエスは言われました。良い実をすでに結んでいてくださる主イエスを師にして、私たちは師から良い実をいただく。それを心の倉に納めていく。そのようにして存在そのものが変えられる、ここから主イエスに従う弟子としての歩みが始まるのであります。

その歩みの中で私たちは、何が良くて何が悪いのか、善悪の問題をたしかに問わなければならないでしょう。神の御心が何かを尋ね求めつつ、歩んでいかなければなりません。しかし私たちがそのような問いを問う以前に、神が私たちのためにしてくださったことがある。神の子にしていただいた。存在を「よい」ものに変えてくださった。神がこのようなよき道を私たちに用意してくださったのであります。