松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2011年2月20日(日)
説教題「澄んだ目で人を見よう」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第6章37節〜42節

 「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」

旧約聖書:出エジプト記 第2章11節〜15節







レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
マニフィカート(Magnificat)

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中国の古い言葉に「五十歩百歩」という言葉があります。戦争のときに戦いを放棄して、五十歩だけ逃げた人が、百歩逃げた人を笑う。しかし逃げた距離に違いはあっても、同じく逃げたことには変わりはないのだから、笑うことはできないはずです。程度の差はあっても、本質的には変わりがない。このことを「五十歩百歩」と言います。

この古い言葉を聞いて、私たちも確かにその通りだと思います。しかし主イエスはもっと本質をついた言葉を言われました。本日、私たちに与えられました聖書の言葉の中で、このような主イエスのお言葉があります。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」(四一節)。「おが屑」は、かつての口語訳聖書では「ちり」となっていました。そして「丸太」は「梁」と訳されていました。古い家の天井部分にある、天井を支える大きな木のことであります。

他人の目の中にある「おが屑」、あるいは「ちり」が見えるかもしれない。しかし実は自分の目の中に、「丸太」や「梁」が入っていた。五十歩逃げた人のことは目に付くかもしれないけれども、実は自分が百歩逃げていた。いや百歩どころか、千歩も一万歩も逃げていた。主イエスのお言葉は、私たち人間の本質的な姿を鋭くついたものであると思います。

そんな状態にある私たちでありますから、主イエスは私たちに言われるのです。「人を裁くな。」(三七節)。「人を罪人だと決めるな。」(三七節)。もし私たちが人を裁こうとすると、私たちも裁かれることになってしまいます。もし私たちが人を罪人だと決めてしまうと、私たちも罪人と定められてしまうことになります。あなたは五十歩どころか百歩も逃げたではないか、と。

聖書の中には、自分の罪を棚上げにして、人の罪を指摘してしまう出来事が数えきれないくらい出てきます。本日、ルカによる福音書と合わせて、旧約聖書の出エジプト記をお読みしましたが、これもそうであります。モーセという人が出てきます。モーセの時代、イスラエルの民はエジプト人の奴隷として働いていましたが、あるエジプト人が同胞の奴隷にひどい仕打ちをしていたのでしょうか。モーセは自分の手でそのエジプト人を殺してしまう。死体を砂に埋めて、そのことを隠す。

そして翌日に、仲間通しでいがみ合っていたのをやめさせようとする。「どうして自分の仲間を殴るのか」(一三節)とモーセは言います。「でもお前はエジプト人を殺したではないか」と言われてしまう。そんなお前には、私たちの監督や裁判官が務まるはずがないと言われてしまうのであります。モーセは何も言い返すことができずに、ただその場を逃れるしかありませんでした。

私たちもこれと同じようなことが起こります。自分のことを棚上げにして、人のことを裁いてみる。そうするともっと強烈な裁きが自分に下るのです。あなたはそう言うけれども、あなた自身がこうではないか、と。主イエスは言われます。「あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」(三八節)。

しかしだからと言って、私たちが何もしない、というわけではありません。「人を裁くな。」(三七節)、「人を罪人だと決めるな。」(三七節)、主イエスがそう言われますけれども、人を裁きさえしなければそれでいいのか、罪人だと決めさえしなければそれでいいのか。それだけで幸せになれるのかと問いますと、すぐに答えがでます。それでいいはずがありません。もしそれだけでよいのであれば、「人を裁くな。」(三七節)、「人を罪人だと決めるな。」(三七節)、そのご命令だけで、本日の聖書箇所は終わってしまいます。

しかしそうではなくて、主イエスはここで一生懸命、弟子たちに語りかけていることがあるのです。それは「赦しなさい。」(三七節)ということ、「与えなさい。」(三八節)ということです。そして最後の箇所には「兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」(四二節)とありますように、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことをするようにと言われているのであります。

おが屑はおが屑でしっかりと取り去られなければなりません。他人の目におか屑があるのに、そのまま放置せよと言われているのではありません。しかし取り除くためにはどうすればよいのでしょうか。

はっきりしていることは、主イエスが言われているように、まずは自分をしっかりと見つめなくてはなりません。「まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって」(四二節)と主イエスはそう言われます。自分の目の中には丸太がある。そのことをしっかりと認識し、自分で取ることができるなら自分で、自分でできないのであれば、誰かにとっていただくしかありません。

そうした上で、私たちは他人の目の中にあるおが屑を取ることができるのです。人を断罪するのではなく、赦すこともできるし、与えることもできるようになるでしょう。

三九節のところで、主イエスがお語りになっているたとえも同じことが言えるでしょう。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。」(三九節)。目の中に丸太がある人にとって、他者の道案内をすることはできません。不思議と他者の目の中にあるおが屑だけは見えるかもしれませんが、おが屑の存在を指摘するだけで、道案内まではできない。他者のおが屑を取ることができないのです。二人とも目からおが屑なり丸太なりを取り除くことができずに、穴に落ち込んでしまうことでしょう。

しかし主イエスが私たちに望まれていることは、もちろん穴に落ち込んでしまうことではありません。私たちの目におが屑も丸太もなく、澄んだ目をすることを求めておられます。兄弟の目におが屑があれば、取ってやることのできるようになることです。人を断罪するのではなく、赦し、与えることであります。その意味で、主イエスが私たちに求めておられることは、とても高いところにあることが分かります。

先々週の日曜日になりますが、本日与えられました聖書箇所の一つ前のところから御言葉を聴きました。ルカによる福音書第六章二七~三六節であります。敵を愛しなさい、というテーマです。先々週の繰り返しの話はここではできませんが、「敵をも愛する本物の愛がある」という説教題で説教をいたしました。本物の愛は、自分を愛してくれた人だけに愛を注ぐのではなく、敵に対しても愛を注ぐ。

そして「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく」(二七節)という言葉で始められ、敵を愛しなさいと言われました。これもまた、私たちにとても高いものを求めておられるように思えます。

そうなのですが、とても大切なことがあります。神は決して妥協をされないということです。本物の愛がある。ところが人間にはそれができない。では神が愛を割り引いてくださるのかというと、そうではありません。

あなたがたには本物の愛は無理だ、だから割引をして、少しだけの愛で構わない、神はそうは言われないのです。兄弟の目の中にあるおが屑が見えるかもしれない、だけれどもあなたがたの目には丸太があるのだから、あきらめなさい、兄弟の目の中にあるおが屑は取らないでよろしい、赦すことができないのだから赦さなくてよろしい、与えることができないのだから与えなくてよろしい、そう言われるのではありません。

あくまでも神は本物へと私たちを招いてくださっている。できない私たちをあきらめてしまわれるのではなく、なんとかしてできる道を開こうとしてくださる、それが神の思いであります。

主イエスは盲人の道案内のたとえのあとで、こういう言葉を続けられます。「弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。」(四〇節)。ここで言われている「弟子」と「師」とは誰のことでありましょうか。いろいろな解釈があるようです。

でも自然に読めば、このときは弟子たちが主イエスの説教を聞いている状況でありましたから、「師」とは主イエスのことであり、「弟子」とは主イエスに従っている弟子たちということになります。「弟子は師にまさるものではない」(四〇節)、弟子たちは主イエスに優るものではない、たしかにその通りです。

しかし主イエスはその次に驚くべきことを言われる。「しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。」(四〇節)。少し細かいことになりますが、大切なことをいくつか指摘しておきます。「修行を積む」という言葉、これは「完成する」という意味があります。しかもこれは文法的に言えば、受身であります。つまり「完成される」というほうが、もともとのニュアンスをよく表していると思います。さらに、「師のようになれる」という言葉、これは文法で言えば未来形です。「師のようになれるだろう」ということです。

まとめますと、四〇節はこういうことになります。「弟子は主イエスに優る者ではない。しかし完成させられるすべての者は主イエスのようになるだろう」。あなたがたは私を超えることはできないが、私のようになれるだろう。主イエスはそう言われるのであります。

聖書の中で、特に新約聖書の中でたえず語られていることは、私たちがキリストに似たものになるということです。このような表現の聖書箇所を調べましたけれども、たくさんの箇所に行き当たりました。その全部をここでご紹介することはできません。いくつかをご紹介いたします。

「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。」(ローマ八・二九)。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。」(Ⅱコリント三・一八)。「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。」(Ⅰヨハネ三・二)。

三カ所から聖書の言葉をお読みしましたが、いずれもキリストに似たものになるということが言われています。先ほどの表現で言えば「主イエスのようになるだろう」ということです。

私たち信仰者にとって、これは極めて大切なことです。私たちが主イエスのようになる、「完成される」ことに向けられているのです。神は私たちを不完全のままでいいと思われない。妥協はされない。あなたにはせいぜいこのくらい、そのような割引をされることはないのです。

もちろんのこと、神は私たちを完成させるために、何もされないわけではありません。キリストも「あなたがたは私のようになるだろう」と言われただけで、何もされなかったわけではありません。神が、キリストが私たちのために何をなさったのか、そのことをしっかりと見なければなりません。

讃美歌第二編の一七七番に「あなたも見ていたのか」という讃美歌があります。これは黒人霊歌であります。一番はこのように歌います。「あなたも見ていたのか、主が木にあげられるのを。ああ、いま思いだすと、深い深い罪に、わたしはふるえてくる」。歌詞の後半部分の「ああ、いま思いだすと、深い深い罪に…ふるえてくる」というのは、一番から四番まですべて同じであります。主イエスの十字架の様々な場面を歌っていきながら、十字架を見ると、深い深い罪に私は震えると歌うのであります。

もとの英語では、「深い深い罪に」という言葉はないのだそうです。十字架を見ると、私は震えてくると英語では歌う。しかし日本語に「深い深い罪に」という言葉が加えられた訳は、とても優れた訳だと思います。主イエスの十字架を見ると、自分自身の罪を想い起こさざるを得なくなる。本日与えられた聖書の言葉で言いますと、自分自身の目の中にある丸太が見えてくる。そして主イエスの十字架によって私たちの罪が赦されたことを知るとき、私たちの目の中の丸太も取り除かれたことを知るのであります。

神が私たちにしてくださったことは、私たちの目の中に丸太がある、そのことを知らせてくださっただけに留まりません。丸太がある、自分でがんばって取り除きなさいと言われるのではない。その丸太を取ってくださった。そして私たちの目を澄んだ目にしてくださった。ここが出発点になります。

私たちも主イエスに従っていく弟子です。もし弟子の条件が自分の目の中の丸太を自分の力で取り除くことであったら、私たちはいつまでも主イエスの弟子になれなかったでしょう。しかし弟子としての出発にあたって、まず神が私たちの目の丸太を取り除いてくださった。そのようにして、私たちの目を澄んだ目にしてくださり、本当に見るべきものを見ることのできる目にしてくださったのであります。

その目をもって、私たちの弟子として歩みが始まるのです。兄弟の目におが屑がある、そのことで断罪するのではなく、その人を赦し、与え、おが屑を取るのであります。ここでは「兄弟」という言葉が使われています。ルカによる福音書で、今までに何度か「兄弟」という言葉が出てきましたが、それらは血のつながりのある兄弟という意味で出てきました。

ここで言う「兄弟」とは、血のつながりの兄弟ではなく、教会で使われる「兄弟姉妹」という意味の言葉です。この意味での「兄弟」という言葉が出てくるのは、ここが初めてであります。ここでこの言葉が使われている意味は大きいと思います。兄弟姉妹であるからには、私たちには共通の父がおられる。父なる神です。

この父がおられなければ兄弟姉妹として成り立つことはありません。父がおられなければ、「兄弟」のおが屑を取り除くことは起こらないのです。「私もかつてはおが屑どころではなく、目の中に丸太があってね、だけれどもその丸太を父なる神が取り除いてくださって」と言って、兄弟を赦し、与え、おが屑を取る。父を思い起こすことのないところで、このようなことは決して起こらないのです。

このような私たちの歩みは、今は完全ではないかもしれません。丸太を取っていただいたとはいえ、私たちの目の中に繰り返しおが屑が入り込んだり、目が曇ってしまうことがあるかもしれません。しかし最大の丸太が取り除かれたこと、そして何よりも私たちが覚えたいのは、主イエスが「あなたがたは私のようになるだろう」と言われたあの言葉であります。私たちは完成させられることに向かっている。不完全なものに向かってではなく、完全なものに向かって、私たちの歩みを導いてくださっているのであります。

最後に、もう一曲、讃美歌の紹介をして終えたいと思います。このあと、讃美歌第二編の五九番を歌います。この讃美歌を作曲したのは、ブラームスという人であります。クラシックが好きな方なら誰でも知っている人物であります。ブラームスが作曲した交響曲第一番の最後の部分が、この讃美歌のメロディになります。ブラームスが作ったこの交響曲は、ベートーヴェンの交響曲第九番、いわゆる第九として知られている「歓喜の歌」「喜びの歌」に似ていることから、第十番と言われることもあるようです。

そのような喜びが歌われたものとして、この讃美歌を整えたのはブラームス自身ではありません。アーネスティーン・ホフ・エムリックという人であります。あるとき、エムリックがブラームスのこの曲を弾いていたら、最後の部分が讃美歌のようになっていることに気付いた。早速、自分で歌詞をつけようと思ったが、どうもうまくいかない。そこで聖書の言葉から歌詞をつけることにしました。

印刷されている讃美歌のところに、「詩編一四四、コロサイ三・一~四」と書かれておりますように、これらの聖書箇所から歌詞が生み出されました。ここではコロサイの信徒への手紙の言葉をお読みしたいと思います。

「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(コロサイ三・一~四)。

「上にあるものを求めなさい」と言われています。どうしてかと言うと、私たちが完成に向かって歩みを進めているからです。讃美歌の三番の歌詞にありますように「目あてはたかく」、つまり目の向けるところは上に高く、天におくのであります。私たちの主イエスの弟子として歩みはこうなのです。自分の低さに捉われる必要がなくなる。高いところに目あてを向ける。どうしてかと言うと、主イエスが私たちに言われるからです。「あなたがたはわたしのようになるだろう」、と。