松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2011年2月6日(日)
説教題「敵をも愛する本物の愛がある」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第6章27節〜36節

 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

旧約聖書: サムエル記上第24章1〜23節








レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
山上の垂訓(Sermon On The Mount) / ヤン・ブリューゲル(父)(Jan Brueghel the Elder)

山上の垂訓(Sermon On The Mount) / ヤン・ブリューゲル(父)(Jan Brueghel the Elder)
the J. Paul Getty Museum 所蔵
(ロサンゼルス(Los Angeles)/アメリカ)

上記をクリックすると作品のある「the J. Paul Getty Museum」のページにリンクします。

聖書の中で、繰り返し語られていることは、愛であります。愛という言葉が何度も聖書に出てくる。主イエスも繰り返し、愛について語られました。それも本物の愛を語ってくださいました。いろいろな切り口がありますけれども、愛についての大切な言葉の一つが次のような言葉です。「あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」(ルカ一〇・二七)。

これは愛の戒めとも言われることがあります。私たちにそのような愛に生きなさいと主イエスは言われる。しかしこう言われますと、私たちはついつい問いたくなるのです。主イエスもあるとき、この愛の戒めに関して、質問を受けました。「では、わたしの隣人とは誰ですか。」(一〇・二九)。神を愛するだけでなく、隣人を自分のように愛しなさいと命じられています。

神を愛するのは分かる。けれども、隣人とは一体誰のことか。どの範囲までが隣人と言えるのか。私の家族までか、教会の兄弟姉妹までか、親しい友人までか、あるいは近所の方もそうなのか。そのように私たちは問いたくなるのです。一体どこまでの人を愛すればよいのか、その線引きをして欲しい。愛さなくてはならない人と愛さなくてよい人の範囲を限定して欲しい、そう思ってしまうのであります。

ところが、主イエスは言われます。「敵を愛しなさい。」(三五節)。自分たちの家族や仲間だけを愛しなさいと言われるのではありません。愛すべき範囲を指定してくださるのでもありません。なんと敵までも愛しなさいと言われるのです。驚くべきことを言われているかのように私たちは思ってしまいます。

しかし、考えてみますと、主イエスが言われていることはもっともなことです。貧しい愛しか持ち合わせていない私たちでさえも、自分に親しい者に対して愛を注ぐことを知っています。相手が自分を愛してくれる。だから私もその人に対して愛を注ぐ。相手が自分に親切にしてくれる。だから私もその人に親切をする。そのことは不可能ではないと思います。その人に対してなら、愛することもできるし、親切にすることも私たちには可能です。

しかしそれは本物ではないと主イエスは言われる。「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。」(三二節)。「自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。」(三三節)。「返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。」(三四節)。主イエスが言われているこれらのことは、もっともなことです。イエス様、ごもっともです、と私たちも納得することができる。

「でも…」とその後の言葉が続いてしまう私たちです。でも、私たちにはそれはできません。自分に近しい者ならば愛することはできるかもしれません。しかし敵を愛せよだなんて、おっしゃることはごもっともですが、私たちにはできません。そのような言葉が続いてしまうのではないでしょうか。

「敵」という言葉が出てきています。「一体敵とは誰ですか」とも問いたくなる。説教者の良い癖でもあり、悪い癖でもありますが、ついつい深読みして聖書の言葉を読みたくなることがあります。

「敵」と言われているけれども、いろいろな敵がある。戦争の敵もあれば、仕事や勉強のライバルのような敵もいます。敵は敵でもいろいろな敵があり、深い意味があるのではないか、と私は思ってしまったのですが、ここの「敵」という言葉には深い意味はありませんでした。言葉通りの敵です。「憎む者」(二七節)、「悪口を言う者」(二八節)、「侮辱する者」(二八節)、「頬を打つ者」(二九節)、「奪い取る者」(二九節)のことが言われているのです。

このような敵を愛するのが本物の愛であると主イエスは言われるのであります。
主イエスはしばしば愛について語ってくださいました。このときばかりでなくて、いろいろなところでです。有言実行という言葉がありますが、主イエスはまさに有言実行の方であります。言葉をただ言われただけではない、ただ愛を語っただけでない。愛そのものを行ってくださった方でもありました。

毎週木曜日にオリーブの会というものを行っております。信仰の初歩的なことを学べるとても楽しい会です。先々週のことになりますが、みんなでワイワイガヤガヤ話し合っていたとき、主イエスが有言実行な方であるという話題が出ました。あるとき主イエスはこうお語りになられました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ一五・一三)。イエス様、これもごもっともです。これ以上に大きな愛はないですと私たちも頷くことができると思いますけれども、実際にその言葉通りにしてくださったのが主イエスであります。

主イエスが自ら十字架にお架かりになって死んでくださった。本来ならばその必要もなかったのに。私たちの罪の赦しのために、私たちの身代わりになって裁きを受け、命を捨ててくださった。これ以上に大きな愛はない。その大きな愛を実際にしてくださった。口先だけなら、私たちもいくらでも愛の言葉を口にすることができると思います。しかし言葉だけではなく、実際にそれを実行してくださった、それが主イエスというお方であります。

このことと関連があると思われるのは、「キリスト教」という呼び方であります。教会は宗教の分類で言えば「キリスト教」であります。ところが、あまり教会の人は「キリスト教」という言葉を用いない。私もそんなに使わないようにしています。自分は絶対にその言葉を口にしないという牧師もあるくらいです。なぜなのか。いろいろな理由が挙げられると思いますが、一つ言えることは、「キリスト教」と言ってしまうと、キリストの「教え」が大切だと思われてしまうからです。

先ほども申し上げたように、キリストは「教え」だけを語られたのではない。むしろ大切なのは、その教えの言葉通りに行ってくださった。そのことが極めて重要です。ですから、キリストの言葉だけを取り出して、キリストの存在を無視して、ああ、これは良い言葉だと言って感動するだけではどこか不十分なところがある。反対に、キリストの存在を無視して、その言葉だけを取り出して、ああ、こんな言葉は私には無理ですと言うわけにもいかないのです。

「敵を愛しなさい」、そう言われて、それは無理ですと、もしお考えでしたら、キリストご自身を思い起こしてください。自分が傷ついてまで、自分の命を投げ出してまで、本当に敵を愛してくださった方がおられるのです。私たちはここから始めなければなりません。

本日、私たちに与えられた箇所の中で、主イエスがとても大切なことをお語りになられています。「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」(三一節)。これは一般に黄金律と呼ばれている言葉です。英語では ”Golden Rule” と呼ばれています。最も美しい倫理的な教えと言えるかもしれません。この黄金律のことに関して調べていたら、いろいろなことが分かりました。

黄金律は黄金律でも、肯定的な黄金律もあれば、否定的な黄金律もあります。肯定的な黄金律は、三一節の言葉そのものです。「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」ということです。これに対して、否定的な黄金律もある。「人からされて嫌なことは、相手にもするな」ということです。二つのパターンがあるわけですけれども、主イエスは肯定的な方を選ばれました。嫌なことは相手にもするな、ではなく、してもらいたいことを人にせよと言われるのです。

私は今日与えられた聖書の箇所をじっくり読んだときに、なぜ、三一節のこの言葉がここに入っているのだろうかと思いました。この文脈には少し合っていないような気がしました。三一節の前までは、敵を愛しなさいと言われている。憎む者に親切にし、悪口を言う者に祝福を祈れ、具体的に敵を愛することが言われている。そして三一節の黄金律がある。三一節の後には、愛してくれる人を愛したところで、どんな恵みがあろうかと言われる。そして三五節で再び敵を愛せよと言われる。そういう文脈です。敵を愛しなさいという流れの中で、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」(三一節)と主イエスは言われるのです。

一体主イエスはここで何を言おうとされているのか。「人にもしなさい」というのは、「敵を愛しなさい」という文脈の中にあるのですから、当然、愛しなさい、敵をも愛しなさいということです。それでは「人にしてもらいたいこと」というのは、同じように、愛されることということになります。つまり、主イエスがここで言われている黄金律の意味は、あなたがたは愛されたいでしょ、だから、あなたがたも人を愛しなさいということなのであります。これこそ、人にしてもらいたいことを人にもせよということなのです。

主イエスは私たちの人間の本当に深いところまでを見抜いておられます。あなたがたは愛されたいはずだ、と言われる。どうしてかというと、私たちは愛し、愛されるために神に造られたからです。神を愛し、隣人を自分のように愛する。そして人を愛するということは、人から愛されることにもなります。このような愛の交わりの中に置かれるために、私たちは造られた。それが十分にできないとしても、あなたはそう造られたのだから、愛し、愛されたいはずだと主イエスは言われるのです。私たちの心の最も深い部分を主イエスは指摘されるのであります。

このことは「敵」と呼ばれる人に対しても同じであります。「敵」と呼ばれる人たちはあなたに対して攻撃を仕掛けてくるかもしれない。憎まれる、悪口を言われる、侮辱される、奪い取られる、いろいろなことをされるかもしれない。しかしその敵もまた、本当は愛されたいのだ。敵はあなたをひどい目に遭わせているかもしれないけれども、本当はその人だって、愛し愛されたいのだ。だから、まずあなたから敵を愛しなさい。人にしてもらいたいことをしなさい、と主イエスは言われるのです。

主イエスは敵を愛しなさいということを語られるにあたって、始めにこう言われています。「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。」(二七節)。私の言葉を聴いているあなたがたから敵を愛することを始めようではないかと言われている。悪意をもって攻撃をしてくる敵に対して、悪意で返していたら、いつまでも「悪の連鎖」が続いて行きます。そうではなくて、主イエスの言葉を聴いている私たちから始めようではないかと主イエスは言われるのです。

敵を愛しなさいというこの箇所は、多くの説教者によって説教がなされていますけれども、その中でも有名な説教があります。マルティン・ルーサー・キング牧師による説教です。キング牧師はバプテスト派の教会の牧師としてその務めに就き、黒人の人種差別と戦いました。戦いましたと言っても、武力で戦ったのではもちろんありません。非暴力を貫いた人です。

キング牧師にとって、またキング牧師と共に生きていた教会の人たちにとって、敵を愛しなさいというのは本当に厳しいことであったと思います。自分たち黒人に対して容赦なく攻撃を仕掛けてくる者がいる。暴力を振るわれることさえあった。目に見える具体的な敵がいたのです。

キング牧師は「敵を愛しなさい」の説教の終盤で、何度も「悪の連鎖」という言葉を使います。そして、悪の連鎖を断ち切ろうと呼びかけます。敵が攻撃をしかけてくる。自分もそれを返す。そうするとまた攻撃がくる。またやり返す。これが悪の連鎖です。現実の私たちの世界はこうであるかもしれません。しかしそれではだめだとキング牧師は言う。どこかでこの連鎖が断ち切られなくてはならない。それでは私たちから始めようではないかとキング牧師は説教するのであります。

キング牧師からの語りかけは、主イエスからの語りかけであります。「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。」(二七節)。愛のないこの世界、悪の連鎖が引き起こされているこの世界に、敵を愛せよという声が響く。そのキリストの声を聴き取ったあなたたちから始めなさいと言われているのです。

しかし、ここで大切なことがあります。あなたたちから始めなさいと言われているかのように思えますが、実は始まりは私たちなのではありません。すでに神が悪の連鎖を断ち切ってくださっているのです。まずそれを始めてくださったのは神なのであります。

本日、私たちに与えられた箇所の最後にこうあります。「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」(三五後半~三六節)。ここで主イエスが言われているのは、神が情け深い、憐れみ深いことであります。しかも誰に対しても、敵に対してもです。

マタイによる福音書にも敵を愛しなさいということを主イエスが語られている箇所がありますが、そこでは主イエスはこう言われている。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタイ五・四五)。神の愛が注がれるのは善人だけではない。そうではなくて悪を行う者に対しても神は愛を注いでくださるというのです。こんな虫のいい話があるかと思われるかもしれません。

しかしその虫のいい話があるのです。神に対して悪ばかりを行う私たちでありました。神を神としない。神に逆らい、そっぽを向く。神はおろか、隣人も愛することができない。悪に悪をもって報いてしまう。神にとっては敵としか言いようのない私たちでありました。私たちのこの悪に対して、神も悪をもって報いることができたはずです。そんなお前たちなどもう知らん、ということだってできたはずです。

しかし神はそうなさらなかった。悪に悪をもって返さず、悪の連鎖を断ち切ってくださった。それが主イエス・キリストの十字架であります。神ご自身が傷んでまで、私たちの悪を、これを罪と言い換えることができますが、罪を赦してくださった。「敵を愛しなさい」、主イエスはこの言葉を単に語られただけでなく、実際にその身をもって、この言葉を実現してくださったのであります。

新約聖書の中に、ヨハネの手紙一という手紙があります。この手紙の中には愛という言葉がたくさん用いられています。愛の手紙と言ってもいい。この手紙の中に、こういう箇所があります。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Ⅰヨハネ四・一〇)。ここに愛がある、どこにあるかと言うと、キリストの十字架に愛がある。キリストの十字架を見ると、神がどれだけ私たちを愛しておられるかが分かる。

そしてこの箇所の続きはこうであります。「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」(Ⅰヨハネ四・一一)。私たちが互いに愛し合うことができるのは、敵をも愛することができるのは、まず神が私たちを愛してくださったからなのであります。

たしかに私たちの愛は貧しい。それははっきりしています。しかし悲観する必要はありません。主イエスがこちらにいらっしゃい、私と一緒に愛の業を始めようではないかと招いてくださっているのです。私たちが失敗することもあるでしょう。「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(三一節)、そう思って、人に善かれと思ってしたことが、有難迷惑になってしまうことや、時には人を傷つけてしまうこともある。愛に破れ、失敗ばかりしてしまう私たちであるかもしれない。

しかし主イエスはそれも承知で、こう言ってくださったのです。私たちを愛の中へと招いていくださった。敵をも愛する本物の愛の中に招かれているのです。失敗することがあっても、ここにまた立ち返ることができる。神がまず始めてくださった本物の愛、これこそ私たちが招かれている愛の原点なのであります。