松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2011年1月30日(日)
説教題「幸いな人とは」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第6章20節〜26節

 さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」

旧約聖書: 詩編 第1編








レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
山上の垂訓(Sermon On The Mount) / カール・ハインリッヒ・ブロッホ(Carl Heinrich Bloch)

山上の垂訓(Sermon On The Mount) / カール・ハインリッヒ・ブロッホ(Carl Heinrich Bloch)
ホープギャラリー所蔵

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人と話をするときに、相手の目を見て話すものであります。もちろん、相手の目を見なくても話をすることができる手段はあります。大昔から、人は手紙をやりとりすることで相手と話をしてきました。近代の電話もそうでしょう。遠く離れた相手の顔を見ることができませんが、話をすることができます。最近ではインターネットという通信手段もできました。

しかし何と言っても、相手と顔と顔を合わせて話をするに優る手段はありません。特に大事な話の場合は、電話などで済ませることはしないで、必ず相手と会って話をします。そしてその話を伝えるときには、相手の目を見て話すことになるでしょう。

主イエスも大切な話をたくさんお語りになってくださいました。本日、私たちに与えられましたルカによる福音書の箇所もそうです。主イエスがこれから大切な話をされる。ルカはそのときの様子をこう記します。「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。」(二〇節)。

このときの状況を確認しておきましょう。主イエスが山の上で一二人の弟子たちを選ばれました。そして山から降りて来られ、「平らな所」(一七節)にお立ちになります。そこには、十二人以外にも大勢の弟子とおびただしい民衆がいました。病人もいた。主イエスは病人を癒し、汚れた霊に悩まされた人々も癒されます。そして、説教が語られます。目を上げて、弟子たちを見て、どうしてもここで伝えたかったことが主イエスにはあったのであります。

「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。」(二〇節)。説教の第一声はそのようにして始まります。私たちが用いております新共同訳聖書では、「貧しい人々は」という言葉が最初の言葉ですが、もとの言葉では「幸いである」という言葉が最初です。かつての文語訳聖書では「幸いなるかな、貧しき者よ」となっています。第一声は「幸いだ」という言葉であります。主イエスはどうしても、幸いを告げたかったのであります。

主イエスの言葉遣いはとても興味深いものがあります。どうしてかと言いますと、「貧しい人々は…」というふうに言われているのに、すぐその後に「あなたがた」と言い換えているからです。どこか遠くの「貧しい人々」のことを言っているのかと思いきや、「あなたがた」と言うのであります。私の話を聴いている、ほら、あなたのことですよ、と主イエスは言われるのです。

弟子たちにとって、主イエスとの歩みは始まったばかりでありました。これから主イエスに従い、主イエスの後をついて行く者たちであります。その歩みは、楽なものではありませんでした。主イエスがついておられるから、万事が大丈夫、幸せが手に入る、そのような歩みではなかったのです。

あるとき、主イエスは弟子たちを伝道のために派遣されます。派遣にあたって、主イエスは弟子たちにこう言われます。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい。だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい。」(ルカ九・三~五)。

ほとんど何も持って行くな、と言っているに等しいことが命じられています。食べ物もお金もです。旅先で調達せよ、と言われている。もし食べ物が得られなかったら、お腹が空き、飢えることになります。飢えだけでなく、寒さをしのぐことのできる泊まる家が得られなかったら、泣くことになるかもしれません。さらには「だれもあなたがたを迎え入れないなら」(九・五)ということも言われています。

これはまさに二二節のところで言われていることだと思います。「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき」(二二節)。その意味で、「貧しい人々」(二〇節)、「飢えている人々」(二一節)、「泣いている人々」(二一節)、迫害される人々は、弟子たちのことなのであります。ほら、あなたがたのことですよ、と主イエスは言われるのであります。

そうなのですけれども、主イエスは言われます。あなたがたは「幸いである」(二〇節)、と。どうして幸いなのかという理由を、主イエスはきちんとおっしゃってくださいます。「神の国はあなたがたのものである。」(二〇節)。文法的に言いますと、「あなたがたのものである」というのは現在形です。もう神の国はすでにあなたがたのものなのですよ、と驚くべきことを言われている。

神の国という言葉は、ルカによる福音書では一つの重要な言葉です。三〇回以上もこの言葉が出てきます。ルカによる福音書の最初から御言葉を聴き続けている私たちでありますが、神の国が出てくるのはこれで二回目です。一回目は第四章四三節に出てまいりました。「しかし、イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」」(四三節)。ここでは主イエスが神の国の福音を告げ知らせなければならないと言われているのですが、その具体的な言葉が、本日与えられた主イエスの言葉と言ってよいでしょう。

神の国ということに関して、いろいろな説明の仕方ができると思います。神がおられるところ、神の言葉を聴くことができるところ、神の支配がなされているところ、どれもみな正しい理解です。ルカによる福音書を読み進めていけば、そのことは自ずと明らかになります。それでは後は読んでおいてくださいというのは無責任すぎると思いますので、一つの例を挙げたいと思います。

今から一六〇〇ほど前のことになりますが、アウグスティヌスという人がいました。当時の教会のリーダーと言ってもよいほどの人です。私たちの信仰の基本的な考え方の土台を築いた人と言ってもよい。アウグスティヌスはたくさんの本を書きましたけれども、後の時代になってからも多くの人がアウグスティヌスから学びました。私もその一人です。別館の書斎にはアウグスティヌスの本がたくさんあります。

アウグスティヌスが書いた本の中で、『神の国』という大著があります。私も持っておりまして、分厚い五巻本の本であります。いろいろなことが記されていますけれども、アウグスティヌスがこの『神の国』を執筆したのは、一つの大きな目的がありました。当時、ローマ帝国は衰退の一途をたどっていました。ローマ帝国内にゲルマン民族が侵入してきて、国が脅かされる。ローマ帝国は東西に分裂し、やがて西ローマ帝国は滅びる運命。そんな状況の中にアウグスティヌスは生きていました。

当時のローマ帝国内の人々の中には、ローマ帝国がこんな状況になってしまったのは、教会のせいだと考える人が大勢いたのです。昔はローマ帝国の神々を拝み、ローマ帝国は力強い国だった。ところがキリスト教の国になって、国はどんどん悪くなってしまった。教会のせいだと非難を受けていたのです。

アウグスティヌスはそれに対して反論をするために、『神の国』を書きました。彼の主張をここで全部を取りあげることはできませんが、要点だけを言うとこうなります。世界には、地上の国と神の国の二つが常に混じり合う。二つが完全に調和することはない。最後に残るのは神の国のみ。神がローマ帝国をかつて繁栄させたのは、ローマ帝国内に福音が広まるための手段であった。その役目がもう果たされた。最後まで残るのは神の国だけである。

このアウグスティヌスの考えを頭の片隅に置いて、二四~二六節の言葉を耳にすると、よく分かるのではないかと思います。「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。」(二四~二六節)。

かつての繁栄を誇った頃のローマ帝国が、ローマの人々がこうなってしまった。どうしてかと言うと、神の国とは関わりのない、地上の国と関わりのある豊かさだったであったからです。

しかしここで大切なことがあります。ローマ帝国やローマの人々だけに、二四~二六節の幸いではないことを押し付けるわけにはいきません。あの人たちだけ災いだったと言って、二四~二六節の問題を片づけるわけにはいかないのです。どうしてかと言うと、ここでも主イエスが「あなたがた」と語っておられるからです。幸いを語ったときのも「あなたがた」、災いを語るときも「あなたがた」。しかもそこで聴いていたのは同じ人たちであります。

これをどのように考えればよいのでしょうか。主イエスが同じ人たちに対して、どちらもあなたがたと言っておられるのですから、ある人を幸いな人、別な人を幸いでない人と分けることはできなさそうです。そうではなくて、むしろあなたがたの中にも、かつてのローマの人々のようになってしまう面がある。しかしその幸いでないことに生きるのではなく、神の国はもうあなたがたのものなのだから、幸いな者として生きなさいと招かれているのであります。

聖書の中にたくさんの人物が出てきますが、福音書に出てくる多くの人物が、主イエスとの出会いによって変えられた人です。いろいろな人を挙げることができると思いますが、レビという徴税人を取り上げたいと思います。

レビのことに関しては、クリスマスのときに与えられた聖書の箇所に登場いたしました。ルカによる福音書第五章二七節からの箇所です。徴税人は税金を必要以上に集めて、私腹を肥やしていました。レビも主イエスと出会った日に、主イエスのために「盛大な宴会」(五・二九)を催すことができましたから、裕福な人であったでしょう。本日の聖書箇所の二四節の「富んでいる」などという人は、レビに代表されるかもしれません。

しかしレビも主イエスと出会う。弟子として招かれる。先ほど申し上げましたように、弟子としての歩みは、ときに飢えることも泣きたくなるようなときもあったでしょう。レビも貧しくなった。しかしあなたは幸いだと主イエスは言われるのです。神の国と関わりなく、地上の国の富で生きていたレビを、たとえ地上の国の富がなくなっても、神の国と関わりのある者として、幸いな者として招いてくださったのであります。

レビは過去の人ではありません。レビのように幸いに生きることができるようになった人たちが、私たちの身近にもたくさんいます。先週の一週間、私はいろいろなところに出掛け、あるいは訪ねて来られる方があり、いろいろな方と会う機会が与えられました。別館の書斎にじっくり座って説教の備えをするという時間は十分に取れなかったかもしれませんが、本日の聖書の言葉を心に刻みつつ、幸いな方々とたくさんお会いして、幸いを味わうことができました。

特にその幸いを味わうことができたのは、私が病床の教会員を訪問したときのことです。お会いして、しばらく話をいたしました。そして最後に聖書の言葉を読み、祈りをいたしました。

そのときお読みした聖書の言葉は、マタイによる福音書の幸いの箇所であります。これは主イエスがお語りになった説教の最初の言葉であります。「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」(マタイ五・三)。この幸いで始まり、八つの幸いが語られていきます。八つ目の幸いは「義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」(マタイ五・一〇)であります。ここでは神の国ではなく天の国と言われていますが、同じことです。

しかもやはり貧しさから幸いが始まっています。マタイによる福音書では、単に貧しいと言われるのではなく、「心の貧しい」というように、心が付け加えられます。心と訳されていますが、霊という言葉と一緒です。霊の貧しい、霊的に貧しい人々は幸いであるということです。

私たちが用いております新共同訳聖書を出版する前に、共同訳という聖書が出版されました。新共同訳の前段階のものです。その共同訳聖書では、「心の貧しい人々」というのを、「ただ神により頼む人々」と訳しました。もとの言葉は明らかに、心が貧しい、霊が貧しいと訳すべきですけれども、少し解釈を含んだ訳にしたのです。結局は「心の貧しい」という訳を新共同訳では取ることになったのですけれども、「ただ神により頼む」という訳は、ここで言っている貧しさをよく表していると思います。

ルカによる福音書では「心の」という言葉はありませんけれども、マタイによる福音書と同じ意味を含んでいます。貧しいという言葉は、単にお金がないとか、そういう貧しさだけを表しているのではありません。頼るべきものが完全に何もない、という欠乏、窮乏の状態を表しています。「ただ神により頼む」しかないのです。自分の力やこの世の力ではどうしようもない。自分の貧しさを知る、そのときに、ただ神により頼むのであります。

病床で八つの幸いの言葉をお読みして、短く説教をいたしました。神により頼むことしか私たちに残されていないかもしれない。貧しい私たちであるかもしれない。しかし主イエスは幸いだと言ってくださる。神の国が私たちのものであるからです。この地上のことでは富むこともなく、満腹することもなく、笑うことも、ほめられることもないとしても、「天には大きな報いがある」(二三節)のです。地上に報いがなくても、決して消えることのない報いが天にはあり、そのことを喜べる。喜び踊ることができるのであります。

病床での小さな礼拝のひとときでした。私たちはただ神により頼む以外の貧しさしかなかったかもしれない。けれども、ここで神の言葉が語られ、神の言葉が聴かれた。主イエスが言われた幸いがあった。神の国がこの小さな礼拝にも実現していたのであります。

本来、私たちは幸いではなかったのです。二四~二六節で語られている不幸のほうが私たちには相応しかった。しかしその不幸を主イエスが引き受けてくださった。二二節に「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき」(二二節)とあります。人の子とは主イエスのことですが、憎まれる、追い出される、ののしられる、汚名を着せされる、これらの言葉は主イエスの十字架のときに相応しい言葉です。

主イエスは神の子として来てくださった。幸いを受けるべきでした。不幸など受ける必要はなかった。しかしその主が不幸を引き受けてくださった。そして私たちの代わりに不幸を引き受けてくださったからこそ、私たちは幸いを受けることができたのです。だから主イエスは「あなたがたは幸いだ、神の国はあなたがたのものだ」と言ってくださるのであります。

今日の説教の説教題を、「幸いな人とは」といたしました。先週一週間、教会の前の看板にこの説教題が掲げられていました。教会には幸いがある。神の言葉が語られる。「あなたがたは幸いだ、神の国はあなたがたのものだ」と宣言がなされる。この説教を聴いている、皆さまが幸いな人なのであります。