松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2011年1月23日(日)
説教題「救いの中心点」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第6章17節〜19節

 イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。

旧約聖書: 出エジプト記 第34章29〜35節

レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
イエス、病人をいやす(JESUS HEALING THE SICK.)/ギュスターヴ・ドレ(Gustave Doré)

イエス、病人をいやす(JESUS HEALING THE SICK.)/ギュスターヴ・ドレ(Gustave Doré)

松本東教会の礼拝に普段出席されている方には言うまでもないことですが、松本東教会ではルカによる福音書を少しずつ区切りながら、御言葉を聴いております。このようなスタイルを取る説教を、連続講解説教ということがあります。聖書の言葉を連続して、抜かすことなく飛ばすことなく、御言葉を説いていく説教のスタイルのことであります。

もちろんすべての説教者がこういうスタイルを取っているわけではありません。教会暦と言って、教会の暦にしたがって聖書箇所が選ばれるスタイルもあります。私たちが属しております日本基督教団にも、教会暦にしたがって選ばれている聖書箇所というものもあります。それによりますと、本日は「降誕節第五主日」、つまりクリスマス後の第五番目の日曜日で、本日のテーマとして「宣教の開始」というテーマが与えられています。そのテーマをもとに、聖書箇所がいくつか選ばれています。

この教会暦を採用している説教者は、それらの聖書箇所の中から選んで、その箇所から御言葉の説き明かしをするということになります。このようにその時期に相応しい聖書箇所から説教をするというのが、教会暦にしたがった説教のスタイルということになります。

連続講解説教がよいのか、教会暦がよいのか、比較をして白黒をつけることは無意味でしょう。どちらにもそれぞれのよさがあります。それぞれの長所をここで長々と挙げることはいたしませんが、連続講解説教のよさを一つだけ指摘したいと思います。連続して聖書を読むわけですから、ある箇所を飛ばすわけにはいきません。

私たち人間の思いからすれば、ドラマティックな箇所や大切な言葉が記されているところだけから、説教を聴きたいと思ってしまいます。そうすると、あまり重要ではない箇所を飛ばすことになってしまいます。しかし連続講解説教の場合はそういうわけにはいかないのです。これが長所の一つであると思います。

スイスのジュネーブの教会を改革した宗教改革者のカルヴァンという人がいます。私たちの教会は八〇年から九〇年ほど前に、日本基督教会というグループの一教会として誕生いたしましたが、そのグループのルーツを辿っていきますと、このカルヴァンにたどり着きます。カルヴァンも連続講解説教を大切にしました。

この人はほぼ毎日、説教をしたと言われています。その説教を書き留めた人がいて、今でもカルヴァンの説教を読むことができます。聖書のほとんどの部分から説教を語ったのではないかと思います。カルヴァンも連続講解説教のよさを語っています。すべての箇所を説教することになる、普通だったら選ばれないような箇所も説教されることになる。カルヴァンが言うように、このことが一つのよさではないかと思います。

ルカによる福音書から御言葉を聴き続けている私たちでありますが、私たちもその点を大切にしたい。あまり知られていないかもしれない箇所も、聖書の言葉であります。有名な箇所ばかりでなく、すべての箇所から神が私たちに語っておられることを、共に聴いてまいりたいと思います。

本日、私たちに与えられたルカによる福音書の箇所は、第六章の一七~一九節の箇所であります。先ほど述べた理由から考えると、あまりよい分類の仕方ではありませんが、この箇所はあまり有名ではない箇所かもしれません。連続講解説教でないと、なかなか選ばれない箇所だと思います。

先週、私たちに与えられた箇所は、十二人の弟子たちを主イエスが選ばれる箇所であります。山の上で徹夜の祈りがなされ、十二人が山の上に呼ばれ、選ばれる。ドラマティックな出来事であるかもしれません。そして来週、私たちに与えられようとしている箇所は、主イエスがお語りになられた説教の言葉です。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。」(二〇節)。これも主イエスが語られた説教の言葉ですから、とても大切にされている箇所です。

これらの有名な箇所に囲まれているのが、本日与えられた箇所であります。主イエスが弟子たちを選ばれ、その山から下山し、説教を語る。そのような物語の中にあって、物語をつなぐために置かれているかのような箇所にも思えます。事実、聖書のことを解説してくれる注解書を読みましても、この箇所はつなぎの箇所だと記している注解書もあるくらいです。しかしだからと言って、この箇所を軽んじるわけにはいかない。神が今日のこの日に、私たちに向けて語られるメッセージが必ずあるはずです。

今日の箇所の状況をもう一度、確認したいと思います。主イエスが十二人の弟子たちを選ばれて、山から下山する。そこに待っていたのは大勢の人々でありました。人々は「ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から」(一七節)やってきた人々でありました。主イエスがおられたのは、おそらくガリラヤ湖という湖の近くだったと思います。

ユダヤ全土がどこなのかという問題もありますが、エルサレムはガリラヤ湖から一〇〇キロ以上離れています。ティルスやシドンというのは、ガリラヤ湖の北西の方角にある海岸線の町です。ここにも強固なユダヤ人コミュニティーがあったようです。そこからガリラヤ湖までの距離も数十キロは離れています。現代ならばたいしたことのない距離かもしれませんが、当時ですととても一日で来られるような距離ではありません。何日もかけて旅をしてやってきた人々が、山のふもとに集まっていたのであります。

人々の気持ちとしては、一刻も早く、お目当ての主イエスにお会いしたかったでしょう。病人を連れて来ている人もいるのです。山の下で待っていないで、一刻も早く癒してもらいたかったでしょう。登れるものなら自分から登っていきたいと思った人もいたかもしれません。しかし人々はそうはしなかった。私が読みました英語の注解書に、”privacy”という言葉が何度も出てきました。人々は主イエスのプライバシーを守った。山の上での主イエスの祈りの時間を尊重した。主イエスが山から下りて来られるときを、じっと待っていたのであります。

そこへ主イエスが山から降りて来られる。人々が主イエスのところに殺到した様子がよく分かります。「群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。」(一九節)。本日、与えられた箇所には小見出しが付けられております。これは聖書の言葉ではなく、ここにはだいたいこういうことが記されているという標識でありますが、「おびただしい病人をいやす」とあります。主イエスを中心にして、病人をはじめとするおびただしい人よって取り囲まれた様子がよく伝わってきます。

しかしそこにいたのは病人だけではありませんし、人々の目的は病の癒しだけではありませんでした。一八節にはこうあります。「イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。」(一八節)。ルカの記述をみてみますと、教えを聴くことと病気を癒してもらうことが分けられておりません。ある人は病気を癒してもらうためだけに来て、別の人は教えを聴くためだけに来たというわけではない。病気を癒してもらった人も、そうでない人も、誰もが主イエスが語られる言葉を聴くことになったのです。

その具体的な言葉は二〇節以降に記されております。これは来週以降、私たちに与えられようとしている聖書箇所です。主イエスの言葉は二〇節に始まり、第六章の終りの四九節まで続きます。この説教を「平地の説教」と言うことがあります。どうしてかと言うと、一七節にありますように「平らな所」で語られた説教だからです。

この「平地の説教」としばしば対比されるのが、マタイによる福音書に記されている「山上の説教」です。マタイによる福音書のこの箇所を見ますと、「山に登られた」(マタイ五・一)と記されています。ルカとは書かれ方が明らかに異なります。

それではどちらが正しいのか、山の上なのか下なのかという議論がなされることがあります。ある人は、ルカが言っている「平らな所」とは山の中腹にある平らなところで、マタイによる福音書の山の上とは矛盾しないと考えます。別の人は、主イエスは一回限りの説教を語られたのではなく、何度も大切なことを繰り返し語られた、山の上でも下でも語られたと考えます。どちらが正解なのかは分かりませんが、どちらもなるほどと思わされます。

ある説教者が、マタイによる福音書のように山の上ではなく、ルカによる福音書の「平らな所」という言葉に注目して、このように言っています。山の上だと主イエスところに行くまでに山に登らなくてはならない。そうすると山の上まで行くことができない病人もいたかもしれない。しかし主イエスは山から降りて来てくださった。その説教者は「平らな所」にそのような意味を見出します。

たしかにそう言えると思います。長旅をしてきた病人にとって、どのくらいの高さの山だったのかは分かりませんが、山を登るにも一苦労です。山の下でくたびれてしまった人もいたかもしれない。ルカによる福音書第五章には、床ごと主イエスのところに運び込まれた病人の癒しの物語が記されています。そのような病人もこのときもいたかもしれない。その者たちにとっては、山には登れなかったかもしれない。主イエスが自分たちのところに降りて来てくださったことが、救いにつながったのであります。

いずれにしても、主イエスがお立ちになった「平らな所」には、様々な人がいました。聖書が記しているように、「大勢の弟子」もいましたし、「おびただしい民衆」もいましたし、病人もいましたし、「汚れた霊に悩まされていた人々」もいました。健康な人もいましたし、病人もいましたし、病人の看護をする人もいたでしょう。しかし誰もが等しく主イエスの話を聴くことになったのであります。

教会にもいろいろな方がいます。山の下にいた人々が教会に集う人を表していると言っても過言ではないと思います。山の下に集まって来た大勢の人々のように、いろいろな目的があるかもしれません。ある方は病の癒しを求めて、別の方は心の平安を求めて、ある方は人間関係の破れを修復するために、来られる方があるかもしれません。その目的は様々です。教会にできることは多くはありません。医療行為ができるわけでもないし、専門的なカウンセリングができるわけでもありません。しかしそれでも教会には神の言葉を聴くために、多くの方が集まって来られます。

教会ではどうして神の言葉を聴くことを大切にしているのでしょうか。その答えともなる聖書の言葉があります。ヨハネの手紙一の冒頭の言葉です。「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。」(Ⅰヨハネ一・一)。「命の言」というのが主イエス・キリストのことです。ヨハネの手紙一を記した著者は、主イエスのことを「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」と言います。その方を伝えるのだと筆を執ったわけです。

手で触れるということに関して、本日私たちに与えられた箇所も無関係ではありません。「群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。」(一九節)。ルカは人々が主イエスに手で触れた出来事を大切にしています。そしてこの方に触れることによって、病が癒された、病への勝利が得られたことが記されています。

たしかに私たちには二千年前の人々に混じって、この山の下にいた人々のように、主イエスのことを直接、手で触れることはできません。主イエスは十字架にお架かりになり、復活された後、天に挙げられたからです。主イエスは今、天におられます。

しかし主イエスが二千年前、私たちのところに天から降ってきてくださったことの意味はとても大きい。主イエスはクリスマスのときに、私たちと同じ人間としてお生まれになってくださった。本日与えられた箇所で山から降りて来てくださったのと同じように、私たちのところにまで天から降って来てくださった。私たちの信じている神は、山の上に、天の上にただおられ、さあがんばって登っておいでと言われる神ではありません。

そうではなく、自らが降ってきてくださる。そして病を癒してくださる、言葉を語ってくださる、そういうお方であります。私たちを救ってくださるために、神の最大の下山が行われた。そのようにして私たちのところに来てくださったのが、私たちの救い主、主イエス・キリストであります。この救い主を事実、手で触れることができた。ヨハネによる手紙一もまた、事実、手で触れることができた、そんな近くまで来てくださった救い主のことを、命の言として伝えているのであります。

だからこそ、私たちは今日も教会で神からの言葉を聴きます。神の最大の下山の物語を今日も聴くのであります。この方が降ってきてくださり、すべての死や病や、あらゆる悲惨から私たちを解放してくださった、真の勝利者、私たちの救い主、主イエス・キリストの物語を聴くのであります。