松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2010年12月26日(日)
説教題「まったくの新しさ」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第5章33節〜39節

 人々はイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」そこで、イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」そして、イエスはたとえを話された。「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」

旧約聖書: エレミア書 第31章31〜34節









クリスマスのひとときを皆さまと共に過ごしました。一二月一八日の土曜日には、こどもクリスマスが行われました。その翌日の日曜日には、クリスマス礼拝、午後には祝会が行われました。そして先週の金曜日、おとといのことになりますが、クリスマスキャンドル礼拝が行われました。

いずれの礼拝、集会も盛況でありました。そのほかにも青年会のクリスマスがあり、週の半ばの祈りの会でも、クリスマスを覚えました。このように様々な礼拝や集会で、私たちはクリスマスの出来事を味わい、クリスマスの本当の意味を心に刻むことができました。

クリスマスは主イエスがお生まれになったことです。この地上に生まれてくださったということは、私たちと同じ人間になられた。神がそのようにして私たちのところにまで来てくださったのです。その意味は大きかった。この救い主によって、まったく新しいことが始まるからであります。

毎週の日曜日の礼拝で、聖書朗読をいたします。お読みするのは二箇所であり、まずは旧約聖書から一箇所、そのあとで新約聖書から一箇所を読むようにしております。私たちの松本東教会では、新約聖書のルカによる福音書を連続して読み続けておりますが、ルカによる福音書に響き合うような旧約聖書の箇所を毎回合わせてお読みしております。説教の中で旧約聖書に触れることもあれば、まったく触れないこともあります。しかしそれでも、旧約聖書も合わせて読むことを大切にしたいと思っております。

聖書が二つに区分されていることは、聖書を初めて読まれる方もすぐに気付かれると思います。旧約聖書と新約聖書がある。古い聖書と新しい聖書がある。どうしてこのように区分されているのでしょうか。

まず一つ言えることは、成立年代が異なるということでしょう。旧約聖書がどのように成立したのかは一概に言うことはできませんが、主イエスの時代にはほぼ編纂がなされており、成立をしていたと言えます。主イエスもしばしば「聖書」という言葉を使われております。その場合の聖書とは、旧約聖書のことです。

それでは新約聖書がどのように成立したのでしょうか。主イエスの直接の弟子たちが生きている頃は、弟子たちの口から直接主イエスの話しを聴くことができました。しかしやがて亡くなってしまいます。今まで口で語られてきたことを文章として書かなければならなくなった。

そこで一世紀の後半から、たくさんの文章や手紙が書かれるようになりました。それらがやがて集められ編纂されて、新約聖書として成立いたしました。具体的にいつ成立したのかということを定義するのは難しいのですけれども、主イエスの後の時代になってから成立したことは言うまでもありません。

このように、旧約聖書と新約聖書に分けられた理由を、成立年代の違いから説明できるかもしれません。しかしこの理由だけでは不十分です。どうしてかと言いますと、旧約聖書と新約聖書が私たちに告げるメッセージが変わってくるからです。簡単に言いますと、旧約聖書は救い主を待っている状況にあります。人々は救いを待っている。

本日お読みしたエレミヤ書の箇所もそうでしょう。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。」(エレミヤ三一・三一)。契約という言葉が出てきましたけれども、契約の「約」の字をとって、旧約聖書と新約聖書と言います。神と人が、古い契約から新しい契約で結ばれる日が来る。それが救いの日であり、旧約聖書ではこの救いの日を待っているわけです。

しかし新約聖書では救い主が来られた状況にあります。救いがやってきて、新しい契約を結んでくださった。そしてこの救い主こそが主イエス・キリストです。もう救いはもたらされた。それが旧約聖書と新約聖書の大きな違いであります。

クリスマスのときに主イエス・キリストが私たちのところに来てくださったことを覚えましたけれども、主イエスが来られることによって、今までは知らなかった聴いたこともなかったまったく新しいことが始まるのであります。それは聖書を二つに分割してしまうくらいです。主イエスが来られるところには、まったくの新しさがもたらされるのであります。

本日私たちに与えられましたルカによる福音書の聖書の箇所もまた、古さと新しさに関わる話です。古い考えと新しい考えが衝突するという話であるとも言えます。どういう状況でこの出来事が起こったのか。先週の日曜日、私たちはこの一つ前の箇所から御言葉を聴きました。レビという徴税人を主イエスが弟子にされる。そしてレビは主イエスのために宴会を開いた、そのような状況でありました。今日の話はその宴会の席での出来事であります。

主イエスに対して、このように言う人々がいました。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」(三三節)。このようなことを言われたくらいですから、この宴会の席だけでなく普段から、主イエスと弟子たちは食事を楽しんでおられたのでしょうか。なぜ他のグループの人たちのように断食をしないのかと、いわば非難されたわけです。

断食とは食事を絶つことであります。食事をしないことは、苦しんでいる状況になることです。断食には自分以外の他者に助けを求める目的がありました。他者が助けてくれるのであれば、神はなおさら助けてくださる。断食は神に向けられたコミュニケーションでありました。

具体的な例を旧約聖書から見たいと思います。イスラエルの国にダビデという王様がおりました。そのダビデの子ども、生まれて間もない子どもが死にそうになっていました。そこでダビデは断食をした。しかし子どもは死んでしまいます。ダビデは断食を止めて、こう言いました。「子がまだ生きている間は、主がわたしを憐れみ、子を生かしてくださるかもしれないと思ったからこそ、断食をして泣いたのだ。だが死んでしまった。断食をしたところで、何になろう。」(サム下一二・二二~二三)。

このような嘆くべき状況にあったときにも断食をしましたが、主イエスの時代、断食がかなり制度化されていたようです。ファリサイ派の人々は週に二度、断食するという制度を持っておりました。月曜日と木曜日は断食の日だったようです。

さらにヨハネの弟子たちもしばしば断食をしていたようです。リーダーであるヨハネは主イエスに洗礼を授けた人ですけれども、この人は「いなごと野蜜を食べ物としていた」(マタイ三・四)と言われています。かなり質素な食べ物を食べて生活していたわけですけれども、ヨハネの弟子たちも、たびたび断食をしていたのではないかと言われています。

ファリサイ派もヨハネの弟子たちもしばしば断食をする。それなのにあなたの弟子たちはなぜ断食をしないのか。きちんと断食をすべきであるという考え方、これがいわば古い考え方であります。そこに登場するのが、主イエスによってもたらされるまったく新しい考え方であります。

まったく新しい考え方と言っても、主イエスは断食を否定なさるのではありません。主イエスご自身も断食をされたことがありますし、断食するときにはこのようにしなさいと教えられたこともあります。しかし主イエスが来られた今となっては、断食の意味が新しくなるのであります。

まず主イエスが言われるのは、婚礼のときの話であります。今日でも私たちが結婚式に出席いたしますと、結婚式の他に披露宴やお茶の会がもたれることが多いでしょう。食事やお茶菓子がふるまわれます。おめでたい席なのに、もしも断食を優先させてしまい食事を断わるということがあったら、それは失礼にあたるでしょう。当時の社会でも同じだったようです。

主イエスは言われます、「花婿が一緒にいるのに」(三四節)。花婿とは主イエス・キリストのことです。クリスマスの出来事が起こり、わざわざ主イエスが私たちのところに来てくださった。花婿が到着し、婚礼が整った。主イエスが来てくださるということは、まるで婚礼が行われるということに等しいのです。喜びの席です。それなのに、断食することができようかと言われるのです。

さらに主イエスは二つの譬えを話されます。いずれも新しいものと古いものが衝突するという話です。一つ目は服の譬えです。古い服が破れたとしたら、その部分に継ぎ当てをしなければなりません。しかし新しい服をわざわざ破って、継ぎ当てをする人はいないでしょう。古い服に新しい継ぎ当ては似合いませんし、新しい服も破れてしまいます。

二つ目はぶどう酒の譬えです。当時はぶどう酒を入れる革袋がありました。動物の皮でありましょう。旧約聖書にこんな記述があります。「このぶどう酒の革袋も酒を詰めたときは真新しかったのですが、御覧ください、破れてしまいました。」(ヨシュア九・一三)。今日のワインボトルと比べて、もちろん耐久性は低かったのでしょう。古い革袋が新しいぶどう酒を駄目にしてしまうのです。二つの譬え話とも、古いものと新しいものが相容れないということが言われています。

これらの譬え話の最後に、主イエスは核心をつくことを言われます。「また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」(三九節)。古いものと新しいものがそぐわないという話を今まではされていましたけれども、古いものにこだわって新しいものを受け入れない人がいるものだと言われるのです。

人間は古いものに満足していれば、古いものを止めてまで新しいものを欲しがらないものです。慣れ親しんだものからの変化を拒むということはよくある話です。制度や組織が新しいものに変化するときに、必ず抵抗する人たちが出てくるものです。今までのままの方がよい、今日与えられた聖書の言葉で言えば、「古いものの方がよい」と言うのであります。

同じことが信仰の面でも言えると思います。主イエスが私たちのところに来られた。新しいことがすでに始まっているというのに、古いものに縛られたままでいてしまうことが私たちにもあります。だんだんと聖書のことが分かり、主イエスの救いが分かってきた、信じてもよいかなと思うのに、足踏みをしてしまう。前に足を運んで踏み出せばよいのに、今のままでも満足している、十分にやっていきると考えて留まってしまう。私もかつてそうであったことがありますし、皆さまもそういう経験をされたことがあると思います。

しかし主イエスは私たちを新しい方へと招いてくださいます。聖書を旧約聖書と新約聖書を分けなくてはならなかったほどに、まったくの新しい救いの出来事が、主イエスが来てくださったことによって始まったのです。「わたしが来たのは、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(五・三二)、主イエスはご自分が来た理由をそう話されました。これは先週、私たちが聴いた御言葉です。

これこそが、まったく新しいことと言えるでしょう。花婿が到着した。婚礼が始まる。この婚礼の喜びに私たちを招き入れてくださる。この婚礼には神がおられるのです。神が私たちと一緒にいてくださり、今までまったく知らなかった新しい喜びを与えてくださるのであります。

私が説教の準備をしたときに読みました注解書の中に、「新しい喜び」と言葉がたくさん書かれた注解書がありました。本日私たちに与えられました箇所には、「喜び」という言葉はありません。とはいっても、婚礼という言葉から、婚礼には喜びがあるということは想像できます。

この注解書を書きました聖書学者は、何度も「新しい喜び」と言うのです。たとえば「主イエスは新しい喜びを教えてくださった」とその人は言います。さらに「初代教会は新しい喜びに生きていた」ということも、その人は言います。

初代教会は、主イエスが天に挙げられた後に建てられました。その時点で、もうすでに主イエスは地上にはおられませんでした。十字架にお架かりになり、復活されるまでの三日間、主イエスが不在という状況であり、まさに花婿が奪い取られた状況にありましたけれども、主イエスが天に挙げられた後の教会も花婿が奪い取られた、断食しなくてはいけないという状況だったのでしょうか。そうではありません。

初代教会において、ファリサイ派の人たちのように、定期的に断食をしていたなどという記録はありません。この注解書に記されておりますように、初代教会は新しい喜びに生きていた。主イエスが共におられる婚礼の喜びに満たされていたのであります。

先週の火曜日、ある会のお招きを受け、そこでクリスマス礼拝を執り行いました。礼拝自体は四五分くらいで終わり、最後の一五分ほど、感想や質問をお受けする時間がありました。そのとき、一人の方がこんな感想を言われました。「私は最近、聖書を読み始めました。十字架の話を聴くと、イエス様のことをかわいそうに私は思えてきます」。この発言を聴きまして、私はなるほどと思いました。

主イエスは罪なきお方です。本来ならば十字架にお架かりになる必要はありませんでした。しかし私たちの罪をすべて担ってくださり、十字架にお架かりになってくださった。そのようにして私たちの罪が赦された。これはもうすでに起こってしまった出来事です。あとはこの出来事の受け止め方の問題でしょう。この方が言われたように、主イエスにかわいそうなことをさせてしまったと受け止めることもできるかもしれません。

このように受け止めた場合、私たちも断食すべきということになるかもしれません。かわいそうなことをさせてしまった罪滅ぼしのために、あるいは、主イエスの十字架の苦しみを少しでも感じるために、私たちも断食すべきかもしれません。

しかしこの考え方は、今日の物語にあるような古い考えになってしまうでしょう。もうすでに新しい喜びがあるのです。主イエスの十字架の出来事を深い畏れをもって受け止めなければならないことには変わりはありません。しかし感謝をもって十字架の出来事を受け止めたときに、かわいそう以上に、私たちの新しい喜びとして受け止めことができる。

主イエスは私たちにこの喜びをもたらすために、来てくださったのであります。主イエスが来られたのに、そのままでいることはできません。古さに捉われたままでいることもできません。主イエスによってまったく新しいことが始まるのです。私たちはその喜びの中に招き入れられるのであります。