松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2010年12月19日(日)
説教題「クリスマスの本当の意味」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第5章27節〜32節

 その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」

旧約聖書: エゼキエル書 第18章30〜32節

レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
聖マタイの召命(Calling of Saint Matthew)/ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ(Michelangelo Merisi da Caravaggio)

聖書並行記事 マタイによる福音書 第9章9〜13節(マタイを弟子にする)から
聖マタイの召命(Calling of Saint Matthew)/ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ(Michelangelo Merisi da Caravaggio)
サン・ルイジ・ディ・フランチェージ聖堂(San Luigi dei Francesi)
(ローマ/イタリア)

上記をクリックすると作品のある「wikimedia 」のページにリンクします。

 二〇一〇年のクリスマスを迎えました。アドヴェント・クランツの四本のろうそくすべてに火が灯りました。ご覧になってお分かりのとおり、ろうそくの長さは同じではありません。三週間前の日曜日に一つ目の火をつけました。二週間前の日曜日にはもう一つを追加して二つの火を、先週の日曜日にはさらに一つを追加して三つの火をつけてきました。今週、四つ目の火をつけることになりました。だから、ろうそくの長さが同じではないのです。

このように教会では、三週間も前からクリスマスを心待ちにしてきました。しかしなぜ教会ではクリスマスを心待ちにするのでしょうか。すぐに思いつく答えは、クリスマスは主イエス・キリストがお生まれになったというものです。これは言うまでもないことかもしれません。主イエスの誕生日だから、お祝をするのも当たり前と思われるかもしれません。

しかしなぜ主イエスはお生まれになったのでしょうか。主イエスは神の子です。神さまがどうしてこの地上に生まれなければならなかったのか。その理由があるはずです。その理由こそが、クリスマスの本当の意味です。教会ではクリスマスの本当の意味を心に刻み、クリスマスのときを過ごします。

クリスマスの本当の意味は、聖書の中に記されています。いろいろな箇所を挙げることができるかもしれません。クリスマスにふさわしい聖書箇所もたくさんあります。しかし今日、私たちに与えられました聖書の箇所にも、明確にクリスマスの本当に意味が記されております。

私たちの松本東教会では、毎週の日曜日、少しずつ区切りながら、ルカによる福音書から御言葉を聴いております。今日お読みしたのはルカによる福音書第五章二七~三二節でした。先週は第五章一七~二六節。先々週はその前の箇所になります。

今日はクリスマスで、ルカによる福音書から離れて、クリスマスの特別な箇所を読んでもよかったのですけれども、いつもの続きの箇所をお読みいたしました。たまたま今日はこの箇所になっただけかもしれませんが、クリスマスにふさわしい箇所が与えられたと思っております。

本日与えられた箇所の最後に、主イエスのお言葉が記されております。こういう言葉です。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(三二節)。聖書の至るところにクリスマスの本当の意味が書かれておりますけれども、この箇所もまた、他の箇所に負けるとも劣らない箇所であると思います。主イエスご自身がクリスマスの本当の意味をここで明らかにしてくださるのです。

今週の金曜日、二四日の夜になりますけれども、クリスマスキャンドル礼拝が行われます。夜ですから電気を消せば、この礼拝堂は暗くなります。暗い中でキャンドルを灯して礼拝を行います。クリスマスの讃美歌も歌います。お時間のある方は、ぜひここにもいらしていただければと思います。

そのキャンドル礼拝のためのプログラムを先週から用意しています。キャンドル礼拝の中で読まれる聖書の箇所や、歌う讃美歌をもちろんそこに載せます。そしてそれだけでなく、キャンドル礼拝に来てくださる方に向けて、私からの短いメッセージもそこに載せる予定でおります。そのメッセージの中に、こういう言葉を記しました。

「クリスマスを少し難しい日本語にしますと「降誕祭」となります。イエス・キリストがお誕生になられ、私たちのところに降ってきてくださったお祭りです。しかし、ごく一般的なお祭りや単なる誕生日ではありません。神さまの助けが必要な私たちのために、神さまが私たちのところにまで降ってきてくださった、これこそがクリスマスの本当の意味です」。

降誕祭の「降」の字は、降りるという漢字を書きます。主イエスがまさに降りて来てくださった。上の方にどっかりと腰をおろして、さあ登って来られるなら登っておいでと言われるのではありません。神のところまで登っていくことができない私たちのために、神の方から降りて来てくださった。何のために降りて来てくださったのかと言うと、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるため」(三二節)という理由です。

この聖書の箇所には、「正しい人」と「罪人」という言葉が出てきます。まったく正反対な意味の二つの言葉です。こういう言葉が出てきますと、私たちは問いたくなります。どんな人が「正しい人」で、どんな人が「罪人」なのでしょうか。私はどちらなのかとも問いたくなるでしょう。

本日与えられました箇所には、主イエス以外に二通りのタイプの人間が出てきます。一方のタイプはレビをはじめとする徴税人であります。徴税人は税金を集める人です。当時はかなりの嫌われ者でありました。税金は支配者であるローマ帝国への税金です。ですから徴税人は支配者たちのために税金を取り立てることになります。徴税人は敵国のために働いているということになります。しかも徴税人は必要以上の税金を取り立てて、その差額を自分たちのものにして私腹を肥やしている始末です。徴税人は罪人の最たる者と言われておりました。

他方のタイプはファリサイ派、律法学者と呼ばれる人たちです。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」(三〇節)と言った人たちです。彼らは自分たちを罪人とは思っていませんでした。神さまからの掟をきちんと守り、清く正しく生きていると思っていました。ですから、自分たちは罪人である徴税人とは関わりを持たない、食事も一緒にしないということであったのです。

しかし実を言うと、彼らが本当に罪人でなかったかと言うと、そんなことはありません。彼らは清く正しく生きることばかりを考えすぎて、肝心の神さまを忘れてしまっていたのです。こういうことをしなければ大丈夫、ああいうものを食べなければ大丈夫、そのことだけで満足してしまい、神さまのためにそれをしていることを忘れてしまったのです。

主イエスもそのことを厳しく指摘されます。ですから本当のところは、徴税人が罪人で、ファリサイ派や律法学者が正しい人というわけではないのです。聖書では、ファリサイ派や律法学者たちも含めて、すべての人が罪人であるとみなされています。

すべての人が罪人であると言われて、皆さまは納得されるでしょうか。納得されない方ももしかしたらいらっしゃるかもしれません。ここで言う罪人とは、法律に触れるような「犯罪人」のことではありません。主イエスが十字架にお架かりになるとき、その右と左に二人の「犯罪人」が一緒に十字架につけられました。死刑に定められた「犯罪人」です。聖書にもはっきりと「犯罪人」と書かれています。こういう犯罪とは区別して、罪というのは神に対するものです。神に負い目があることと言ってもよいでしょう。

こう考えますと、私たちも例外ではなくなります。神の前に胸をはって出られる人はいないでしょう。ですから教会では、「私たちはみな罪人です」という言葉をよく用います。説教の中でもしばしば「私たちは罪人です」とか、「あなたは罪人です」という言葉が出てきます。

教会に初めて来られた方にとっては、あまり心地の良い言葉ではないかもしれません。教会に行けば、慰めの言葉や励ましになるメッセージを聴けると思って行ったら、「あなたは罪人です」と言われる。明るい顔をして帰るどころか、「そうか、自分は罪人だったのか」と暗い顔をして帰らなくてはいけない。時々、そんな残念な話も耳にします。それは説教を語る、私たち説教者の責任であるかもしれません。

しかし安心していただきたいと思います。たとえ罪人であっても、主イエスは「わたしが来たのは、罪人を断罪するためである」と言われたのではありません。もしもそう言われたのなら、私たちは暗い顔をしなければなりませんが、主イエスが言われたのはむしろその逆のことです。「わたしが来たのは、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と言ってくださった。だから私たちは罪人であっても、明るい顔をすることができるのです。その道へと招いてくださったのです。

これがクリスマスの本当の意味です。私たち罪人を招くためであり、悔い改めさせるためです。招くという言葉はよくお分かりになると思います。では、悔い改めさせるという言葉はどうでしょうか。

悔い改めるという言葉は、もともとは向きを変えるという意味があります。神に背中を向けて生きてきた人間に、神が背中の方向から声をかける。そうするとその人が振り返る。神の方を向く。神と顔と顔とを合わせて生きることができるようになる。これが悔い改めるということです。クリスマスは神が降りて来てくださり、私たちに声をかけて、向きを変えさせてくださった、そのような出来事であると言えます。

まさにそのような出来事が自分の身に起こった人物、それがレビという人です。今日の物語の主人公です。先ほど申し上げましたように、レビは徴税人であります。それも徴税人の中ではかなりの地位にいた人物だったと思われます。なぜかと言うと、彼には「盛大な宴会」(二九節)を開催する能力があったからです。

徴税人の下っ端ですと、あまり得られるお金は多くなかったようです。ですから、レビは徴税人の中でも地位が高く、お金もたくさんあった。自分の仲間や部下もそこに大勢招き、盛大な宴会を開催できたと考えられます。

そんな徴税人だったレビに主イエスはいきなり声をかけ、彼を招かれます。「わたしに従いなさい」(二七節)。レビが何か目に引くようなことをしたからではありません。レビはただ座って、いつものように税金を集める仕事をしていただけです。何か善いことをしたから主イエスに声をかけられたのではなく、ただ一方的に声を掛けられ、主イエスが招いてくださったのです。

この招きの後で、レビは盛大な宴会を開くのであります。レビはこのときまで私腹を肥やしていましたが、彼が何のためにお金を貯めていたかは分かりません。贅沢な暮らしをしたかったのか、仲間内での宴会をたくさん開いて楽しみたかったのか、あるいはただ単にお金を貯めていたのか、それはよく分かりません。

しかし主イエスに従った後に開いたこの宴会では、今まで開いていた宴会とは、お金の使い方がまったく変わったのであります。今までは自分たちのための宴会でした。それが主イエスをもてなすための宴会に変わるのです。自分のために私腹を肥やしてきたお金の使い道が変わるのであります。

このようなお金の使い方だけを見ても、レビがまったく向きを変えていることが分かります。主イエスが来られて招かれると、こういうことが起こります。主イエスは最初にただ「わたしに従いなさい」と言われただけです。そののちのレビの行動は、全く自主的です。何もかも捨てたのも、主イエスに従ったのも、宴会を開いたのも、すべて自分からのことです。

このことから、信仰者の歩みがどのようなものであるかが分かるでしょう。信仰者の歩みは、すべて神からの招きの結果であります。招いていただいた声によって、私たちは後ろを振り返ります。そこに神がおられる。ああ、神さまそこにおられたのですかと、神の方を向いて、神と向き合って歩むのです。

神と顔を合わせて歩んでいると、自然と私たちの顔つきも変わってきます。この前、ある方がこんなことを言ってくださいました。「松本東教会の皆さんは、とてもいい顔をされていますね」。私も含めてですが、普段からこの松本東教会に来られている方にとっては、あまり意識されていないことかもしれません。

私もこのように言われて、ああ、確かにその通りだと改めて思いました。皆さんとてもいい顔をされています。神さまからのメッセージを喜んで聴いて、生き生きと神さまと向き合って歩まれているお顔をたくさん見出すことができます。

レビもこのとき、暗い沈んだ顔をしていたわけではないでしょう。これからは主イエスに従って生きていくのだ、そのために生き方をがんばって変えなければならない、身を引き締めなければと、こわばった苦しい顔をしたのではないでしょう。喜んで主イエスのために宴会を開き、そこに自分の徴税人の仲間たちも大勢呼び寄せました。その席に居合わせた人たちに、「私が今日お会いしたのはこの方です。この方が声をかけてくださり、私はこの方に従うことになりました」、そう言って、明るい生き生きとした顔をしていたのだと思います。

もちろん、私たちがこの世に生きている以上、時には暗く沈んだ顔になることもあるでしょう。時には病人のような顔になることもあるでしょう。しかし主イエスはどんな病をも治すことができる医者として来てくださいました。そんな私たちを主イエスが招いてくださり、私たちの顔つきや生き方を変えてくださるのであります。

今日はクリスマスです。主イエスがお生まれになられた。私たちのところに降りて来てくださったのです。何のためにか、その答えはもう明らかです。罪人の私たちを招いて、悔い改めさせてくださるためであります。これこそが、クリスマスの本当の意味なのであります。