松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2010年12月12日(日)
説教題「私の信仰が他者を救う」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第5章17節〜26節

 ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。

旧約聖書: 民数記 第15章22〜28節

レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
屋根から運ばれていくカペルナウムの中風患者(Jesus heals a paralytic)中風病から回復した男が自分の床を担ぐ(Jesus heals a paralytic)

屋根から運ばれていくカペルナウムの中風患者/中風病から回復した男が自分の床を担ぐ(Jesus heals a paralytic)
サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂(Basilica di Sant'Apollinare Nuovo)
ラヴェンナ(Ravenna)/イタリア

本日、この礼拝におきまして、転入会式が行われました。七人の兄弟姉妹が正式にこの教会のメンバーとして加えられました。七人の方とも、日本基督教団以外の教会からの転入会となりましたので、礼拝の中で転入会式をいたしました。ご覧になってお分かりの通り、誓約をしていただきました。日本基督教団信仰告白に対する誓約であります。

どうしてこのような誓約が必要となるのでしょうか。それは、私たちが信じている信仰に同意していただけるかを確認するためであります。「教会の信仰」にその方が同意していただけるのかと言ってもよいでしょう。もちろん、人それぞれの導かれ方はあるでしょう。信仰の歩みは誰もが同じというわけではありません。むしろ神はいろいろな方法で、様々な時期にその人を導いてくださいます。

しかし、何を信じているのかと問われたときに、あの人とこの人では別の事柄を信じているというのでは、困ったことになってしまうのです。たとえば、極端な例かもしれませんが、この人は復活を信じているけれども、あの人は復活を信じない、というのでは困ったことになってしまいます。罪の赦しをこの人は信じるけれども、あの人は信じていないというのも困る。

ですから、「私たち」が何を信じているのか、「教会」が何を信じているのか、はっきりさせなくてはなりません。それを言葉化したのが、私たちで言いますと日本基督教団信仰告白になります。

本日、転入会された方々には、日本基督教団以外の教会に属しておられたので、これに同意していただきました。日本基督教団の教会からの転入会の場合ですと、すでに日本基督教団の信仰告白に同意をされているわけですから、転入会式をして誓約していただく必要はないわけです。このようにして、私たちはこの人もあの人も、同じ信仰に生きていると言うことができるのであります。

教会では「私たちの」信仰が大切になります。私個人の信仰、言葉は悪いですが独りよがりの信仰を貫くのではありません。本日、私たちに与えられました箇所にも、このことが表れていると思います。

主イエスは中風の人を癒されました。中風の人を床に乗せて運んできた人たちがいたわけですが、なぜ癒されたのかと言いますと、主イエスは「その人たちの信仰を見て」(二〇節)癒してくださったのです。床に寝かされていた中風の人自身の信仰ではありません。運んできた人たちの信仰を主イエスはご覧になり、癒してくださったのであります。

運んできた人たちが具体的に、どのような信仰に生きていたかは記されておりません。しかしその人たちは、同じ信仰の思いを抱いていたと思います。主イエスというお方なら、この中風の人を癒してくださるだろう。救い主となってくださるだろうと思ったのであります。そして実際、その通りのことが起こりました。床に寝かされていた中風の人に、何かの功績があったからではありません。ただ、運んできた人たちの信仰によって救われたのであります。他者の信仰が中風の人を救ったのであります。

この物語は、物語としてはとても分かりやすい話だと思います。先ほど聖書朗読もいたしましたし、同じ話をここで繰り返すことはいたしません。しかし物語の展開が分かりやすいとはいえ、主イエスがお語りになった言葉にしっかりと目を留めなければならないと思います。この主イエスの言葉によって、救いとは何かということが分かってくるのであります。

主イエスはまずこう言われています。「人よ、あなたの罪は赦された」(二〇節)。聖書といえども、こうもはっきりと罪の赦しが宣言されている箇所はないでしょう。主イエスご自身が赦しを宣言してくださるのです。ところが、この言葉に噛みつく人たちがいるのです。律法学者たちやファリサイ派の人々であります。

彼らは心の中でこうつぶやくのです。「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」(二一節)。彼らの言葉はまったく正しいと言えます。罪を赦すことができるのはただ神のみであります。その罪の赦しの宣言を突然言い出すとは、この男は何者だ、と彼らは思っているのであります。

本日、合わせてお読みいたしました旧約聖書の箇所は民数記第一五章であります。民数記のこの箇所の周辺には、罪の赦しのための手順が記されております。罪を犯した場合、動物の犠牲を献げることが定められております。その儀式を中心的に執り行うのは祭司であります。祭司の執り成しによってこのような儀式を行い、初めて罪の赦しが得られるのです。もちろん罪を赦してくださるのは神でありますが、儀式を経て、祭司の執り成しがあって、初めて得られるものなのであります。

その罪の赦しを、献げ物も儀式も祭司もなく、いきなり主イエスは宣言したのであります。律法学者やファリサイ派の人たちは反発しましたし、人々も驚いたかもしれません。中風の人を運んできた人たちも、癒しを求めてやってきたのに、主イエスからいきなり罪の赦しを宣言されて、驚いたと思うのです。

主イエスは人々のその心を見抜かれます。もしも人々がこのような思いにならなければ、話はここで終わっていたかもしれません。人々が罪の赦しの宣言に心から納得して、ああ良かった、これで事が足りたと思っていれば、物語は二〇節で完結していた。

そして二一節の「ところが」という言葉に繋がらなかったかもしれません。主イエスは人々が納得せずにいるのをご覧になり、話を続けてくださるのです。あなたがたは納得していないとは、「愚か者よ」と言われて罰するわけではないのです。不納得で信じられない人たちのために、話を続けてくださるのであります。

主イエスは続けてこう言われます。「何を心の中で考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」(二二~二四節)。ここで主イエスは二つのことを言われ、どちらが易しくてどちらが難しいのか、よく考えてごらんなさいと言われます。「あなたの罪は赦された」と宣言するのと、起きて歩けるようにするのでは、どちらが易しくてどちらが難しいのかと問われるのであります。

人々は罪の赦しを信じ切ることができませんでした。主イエスはその宣言なされたわけですが、人々は本当だろうかとつぶやき、主イエスの言葉を信じ切ることができませんでした。「言うは易し、行うは難し」と人々は思っていたかもしれません。

ですから、もし、この中風の人が起き上がって歩きでもすれば、主イエスの罪の赦しの宣言は本物だったということになるわけです。より難しいことができれば、より簡単な方もできるはずだということです。ですから、二一節以下の続きの物語は、信じ切ることができない者たちのために、信じることができるように、奇跡を行ってくださった物語であると言えます。

特に覚えておきたいのは、当時の社会の考え方で、体に何かの不自由のある人は、その人自身や両親に罪があったと考えられていたことです。中風は体がマヒしてしまう病であります。この人が生まれながら中風だったのか、しばらくしてから中風になってしまったのかは分かりません。しかしいずれにせよ、当時の人の考えでは、中風の病が、その人や家族の罪と関連させられて考えられていたのであります。

念のために付け加えておきますが、主イエスははっきりとこの考え方を否定されています。あるとき主イエスがこう問われました。「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」(ヨハネ九・二)。主イエスはお答えになられます。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(ヨハネ九・三)。

主イエスがこう言われたのは、目の見えない盲人の癒しのときでありました。はっきりとこの考えを否定されるのです。しかしルカによる福音書のこの箇所に書かれている人たちは、中風の人の病の原因を、本人や家族の罪であると考えていたのでしょう。従いまして、もし中風が癒されるならば、罪それ自体も解決されたということになります。主イエスの罪の赦しの宣言も本当だったと認められることになるのであります。

このように考えていきますと、主イエスが信じ切ることができない者たちのために、本当にいろいろなことをしてくださるのであります。本来ならば、二〇節の罪の赦しの宣言で満足すべきであったかもしれません。もしも中風の人の病が癒されなかったとしても、罪が赦されたと宣言してくださったのですから、それだけで満足すべきでありました。しかし不信仰の私たちのために、奇跡を見せてくださる。その奇跡によって、本当に大切なことを私たちに知らせてくださるのであります。中風の人の癒しという奇跡の出来事によって、本当に罪が赦されたという事実が分かるのであります。

主イエスは中風の人に奇跡を行われます。中風の人に向かってこう言われるのです。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」(二四節)。そう言われるとすぐに、この人は立ちあがり、寝ていた台を取りあげて、神を讃美しながら家に帰るのであります。

私が先週一週間、この説教の準備をしながら絶えず考えていた問いがあります。それは、なぜ中風だった人は、寝ていた台を取り上げたのかということであります。もっともこれは、主イエスが「床を担いで家に帰りなさい」(二四節)と言われたからであり、中風だった人はその言葉の通りにしたにすぎません。しかし主イエスはなぜそう言われたのでしょうか。その場にこの人がずっと寝ていた台を残してきてもよかったわけです。

聖書のことを解説してくれる様々な注解書を読みました。しかし明確な答えは得られませんでした。たしかに聖書の中にはっきりと書かれていないので、なかなかこの答えを書くことは難しいのだと思います。一つ言えるだろうことは、寝ていた台を持ち上げたことは、中風の病が癒されたという象徴的な出来事だということです。今まで中風の人はこの台の上に寝かされていました。この台に担われていた。しかし病が癒され、今度は自分がこの台を担ぐ。台を担ぐことは、中風が癒された印にもなると思います。

そんなことを考えながら、過ごしておりましたら、ある説教に出会いました。その説教者が説教の中で、こんなことを言っておられました。「中風の人は今まで、この担架に乗せられて、人々に担がれていた。しかし癒された今、今度は自分がこの担架で別の人を担いで、主イエスのところに連れてくることになった」、その説教者はそう言うのであります。とても心の惹かれる、美しい想像であると思います。

もちろん言うまでもないことですが、この中風だったの人が今まで乗せられていた担架を、本当にそのまま使って、同じような中風の人を運んだわけではないでしょう。しかしこの中風だった人は、癒されて神を讃美しているくらいでありますから、その後、主イエスのことを証ししながら生きたことは確実でしょう。主イエスが中風だった私にこんなことをしてくれた、喜んでその出来事を話して歩いたのだと思います。

そして今度はあなたも主イエスにお会いしてごらんなさいよと言ったのだと思います。このようにしてこの人は、今度は担架の担ぎ手になり、別の人を主イエスのもとに導く導き手になったのであります。

思い起こしてみますと、私自身も様々な信仰者の方々の手によって主イエスのもとに運ばれた者でありました。私は小さい頃から教会学校に通いました。教会学校には教会学校の教師たちがおります。小さい子どもでありますから、いろいろと悪ふざけをしたり、ちょっかいを出したりするものです。

しかし例えばお祈りをしている最中、いくら大人たちにちょっかいを出しても、悪ふざけをしても、大人たちは微動だにしませんでした。もちろんお祈りが終わると怒られるのでありますが、お祈りの最中はいくら話しかけても駄目でした。ああ、本当にこの人たちは神さまと繋がってお祈りしているのだと子ども心に思ったものです。今考えると信仰者の姿をそのとき見せてもらったと言えるでしょう。

やがて私も成長し、高校生になりました。大人の礼拝に出るようになりました。最初、これは大変な苦痛でありました。礼拝も説教も讃美歌も長いし、説教もところどころ分かる言葉が出てきますけれども、ほとんど分からないという状況でありました。

そのような礼拝を終えて、家に帰るときの車の中で、私の両親が今日の説教をめぐっていろいろと話をしているのです。今日の説教はよかった、こんなところがよかったと言って、帰りの二〇~三〇分ほどの道のりを、車の中で盛り上がっているのであります。私はもちろんその会話に加わることはできませんでしたが、ああ、信仰者にとって、本当に大切な話がなされていたのだなということはよく分かりました。

このように、私が信仰を持つに至るまで、実に多くの信仰の導き手がおりました。私の場合は、教会学校の教師や両親ということになるのですが、皆さまにも誰かしらの信仰の導き手がおられるはずです。家族であったり、教会の同世代の友であったり、青年の方ですと青年会のメンバーであったりと、それは人それぞれであるかもしれませんが、必ずそのような導き手がおられるはずです。その導き手たちは、私たちを担架で主イエスのところに担いでくださった。だからこの私たちが信仰を持つようになったのであります。

担がれた私たちは、今度は担ぎ手になります。一緒に担いでくれる信仰の友も与えられるでしょう。そしてその方と一緒に、別の人を主イエスのもとに担ぐ人に変わるのです。担がれる人から担ぐ人へ。私たちの生き方が根本的に変わっていくのであります。

皆さまの中に、ご自分の家族や友人に伝道をしたいとお思いの方も多いと思います。なかなかそれがうまくいかないと嘆いておられる方も多いでしょう。そんなときに、私たちが心に刻んでおきたいことは、神が担架の担ぎ手である私たちの信仰を見てくださるということです。私たちの信仰をご覧になり、担架に担がれている人を、この中風の人のように、神が罪の赦しを宣言してくださり、信仰者に変えてくださるかもしれません。ですから、私たちは信仰を持つことを、別の言葉で言えば、担架の担ぎ手であることをやめるわけにはいきません。

説教の冒頭でも申し上げましたように、本日は七名の方がこの教会に加えられました。ルカによる福音書の物語で言えば、私たちと一緒に担架を担ぐことを担ってくれる担ぎ手が与えられたことになります。教会にいる信仰者は担架の担ぎ手であります。

かつて自分が担がれて主イエスに出会った、その喜びをまた別の方に味わっていただくために、担架を担ぐのであります。教会では一緒に担ぐ信仰の友が与えられるでしょう。そのように喜んで一緒に、人々を主イエスのもとに担いでいく。罪の赦しの宣言の言葉を聴き、救いに入れていただく。これこそが教会の姿なのであります。