松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2010年12月5日(日)
説教題「よろしい。清くなれ」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第5章12節〜16節

 イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。

旧約聖書: レビ記 第14章1〜9節


レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
Jesus heals the Leper/Piero di Cosimo

Jesus heals the Leper/Piero di Cosimo
ヴァチカン システィーナ礼拝堂/イタリア

私たちは神に招かれています。神が礼拝へと招いてくださり、私たちは今日、ここに来ることができました。私たちが、礼拝に行こうと思ったからだと言われるかもしれません。たしかに私たちにそのような思いがあったのです。しかし神が招いてくださらなければ、私たちは礼拝に来ることもできません。

先ほどの祈祷のときにも祈りましたが、私たちに礼拝に出席できるだけの相応しさがあるのではありません。むしろ、私たちは神の御前に出るのに相応しくない。資格もない。神が招いてくださらなければ、私たちは礼拝に出席することさえ、できないのであります。

教会は、多くの方を招きたいと願っております。クリスマスは特にそうであります。多くの方をお招きする、またとない機会です。アドヴェント・クランツに第二の火が灯りましたが、いよいよ、二週間後にはクリスマス、四つの火すべてが灯ります。様々な礼拝や集会を計画して、クリスマスをお祝いしようとしております。そこへ、多くの方を招きたいと願っています。今週末には新聞の折込広告のチラシを出します。予算の関係で、すべての地域、すべての新聞というわけにはいきませんけれども、多くの方をお招きすることを願っています。

先週、こどもの教会では、アドヴェント・カレンダー作りをいたしました。そこに多くのこどもたちが集まってくれました。普段から教会に来ているこどもたちばかりではありません。友だちに誘われてやってきた、初めてのこどももおりました。教会からの案内を見てやってきた親子もおりました。

先週は特別なことをいたしましたので、私たちも新しい方がやってくるという想定で、準備をすることができましたけれども、基本的にはいつ新しい方がやってきてもよいというスタンスでおります。先週は新しい方が来てもよいけれども、今日は駄目ということは決してないのです。

教会はこのように、新しい方に対して、いつでもウェルカムという姿勢でいます。教会のホームページもそうです。「どなたにでも教会の礼拝は開かれています」とはっきりと書かれています。ほとんどの教会、いやすべての教会がそうでしょう。もしも初めての方はお断りという教会があったとしたら、その教会はひどい教会だと非難されてしまうでしょう。

それではなぜ教会は、どなたが来てくださっても構わないというスタンスでいるのでしょうか。そんなことは当然ではないかと思われると思います。そうです、それが当然のことになっています。しかし当然であることの理由があるはずです。その理由とは何でしょうか。それは神があらゆる者を招いておられるからです。

主イエスはあるとき、罪人と言われていた人たちと食事をなさいました。貧しい人に向かって語りかけ、虐げられて立場の弱い人と一緒に過ごされました。主イエスのそのお姿は、招きのお姿です。主イエスが、神がそのように招いてくださるのに、私たちが招かないわけにはいかない。教会の前で門前払いをすることは許されないのであります。

教会は誰でも来ることができる、これは当然のことですけれども、なぜそうなのかということを考えたときに、神が招いてくださっているから、この答えに行き着くのであります。

本日、私たちに与えられました聖書の箇所に、重い皮膚病にかかった人が出てきました。この物語は、重い皮膚病にかかった人にとって、招きの物語であります。主イエスがこの人を招いてくださった。言葉をかけ、しかも手まで差し伸べてくださり、この人を癒してくださったのであります。

この物語をさらによく味わうために、重い皮膚病に関して、少し説明を加えなければならないでしょう。聖書の中に、しばしば重い皮膚病という言葉が出てまいります。私たちが少しずつ読み進めているルカによる福音書にもたくさん出てきます。

皆さまがお持ちの聖書には、「重い皮膚病」と書かれているでしょうか。中には「らい病」と書かれている聖書をお持ちの方もおられると思います。実を言いますと、私の前にありますこの大きな聖書、この聖書にも「らい病」と書かれております。「らい病」と書かれている聖書は、少し古いものでありまして、新しいものは「重い皮膚病」に表記が変わりました。

なぜ変わったのでしょうか。一つには、「らい病」に関する偏見があるからでしょう。今日ではらい病ではなく、ハンセン病と言います。らい菌と呼ばれる菌を発見したノルウェーの医者ハンセンにちなんで、ハンセン病と名付けられました。皮膚に感染症を引き起こし、症状が出ます。歴史的にも、差別や偏見の対象になりました。しかし実は感染力も弱く、今日では治療も可能で、新規の患者はほぼゼロになっております。過去に対する反省がなされ、かつての病名である「らい病」が「ハンセン病」と改められたのです。

それでは聖書もかつて「らい病」と書かれていたものを、「ハンセン病」に改めればよかったのかもしれませんが、そうはしておりません。重い皮膚病といたしました。どうしてかと言いますと、聖書が言っている重い皮膚病が、果たしてハンセン病のことを言っているのか、よく分からないからであります。

本日、合わせてお読みいたしました旧約聖書の箇所は、レビ記であります。お読みした第一四章の始めの箇所は、皮膚病が治り、その人が共同体に復帰するための儀式について、書かれております。それに先立つ第一三章では、様々な皮膚病に関する症状が記されております。皮膚に湿疹、斑点、疱疹が生じた場合、白くなった場合、赤みがかった場合、黄色みを帯びた場合、やけどをした場合、実に様々なケースに関して、果たしてこれは皮膚病なのか、そうでないのかの基準が記されております。皮膚病と一言で申しましても、実に様々な症状があることが分かります。

ですから、重い皮膚病、イコール、ハンセン病とは決して言うことができないのです。新共同訳聖書が「らい病」を改めて「ハンセン病」にしなかったことは正解だったと私も思います。ハンセン病と訳してしまうと、その特定の皮膚病だけということになってしまいます。しかしレビ記を読めば、これはもっと広い意味のある言葉です。はっきりと定義することはなかなか難しいので、新共同訳聖書の新しい訳は「重い皮膚病」と訳したのでしょう。

別の翻訳である新改訳聖書という聖書があります。この新改訳では「重い皮膚病」とも訳さないで、「ツァラアト」というカタカナ表記にしました。元の言葉をそのままカタカナにしただけですが、「重い皮膚病」と訳したのでも、本来のニュアンスをなかなかよく表すことができないと考えたのでしょう。それならば、いっそ元の言葉のままで、カタカナ表記をしようではないかということになったのであります。

このように、重い皮膚病と言っても様々な症状があるわけですけれども、ルカによる福音書に出てくるこの人に一体どんな症状があったのでしょうか。やはりそれはよく分かりません。

ただ、一二節の始めに、この人の症状が少しだけ分かる言葉が記されております。「イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。」(一二節)。この人は皮膚病でありましたが、「全身」が皮膚病でありました。しかもその皮膚病は重かった。皮膚病の中では最もひどい症状が表れていたのだと思います。

先ほどのレビ記にもありましたが、皮膚病かどうかを判定するのは祭司であります。祭司が皮膚病の人の症状をよくみて、それこそレビ記第一三章に照らし合わせて判定をします。「あなたは汚れている」「あなたは清い」。そのような判定を下します。おそらく、この人も何度も祭司にみてもらったのだと思います。しかし「あなたは汚れている」という結果ばかりだったでしょう。

皮膚病を患っている者は、共同体の中で暮らすことは許されませんでした。町の門のところで、つまり町の中には入らずに、生活をしていたようであります。用事があって町の中に入らなければならないときにはこうします。「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」(レビ記一三・四五~四六)。

この人もそうしなければならなかったと思います。そうやって生きていたのだと思います。ひどい話だと思われるでしょうか。たしかに今日ではもはや通用しないことであります。もちろん教会もこのようなことはいたしません。誰でも礼拝にお招きします。レビ記の第一三章にこう書いてあります、だからあなたは礼拝堂に入ることはできません。せめて教会の門のところまでにしてください、そこで礼拝をしてください、そんなことは許されないのです。

しかしなぜ許されないのでしょうか。人間の基本的な人権を尊重する社会になったからでしょうか。それもたしかにあるかもしれませんが、何よりも私たちがわきまえておかなければならないことは、神が招いておられるという事実であります。今日の物語で言いますと、共同体の中に入ることが許されなかった重い皮膚病の人を、主イエスが招いてくださっているのであります。神が招いておられるのですから、私たちが招かないわけにはいかないのです。

この説教の準備をするために、聖書の解説をしてくれる注解書をいくつか読みました。その中で、ある聖書学者が、とても心を惹かれることを言っておりました。「この物語は、孤独な重い皮膚病を患っていた人のwelcome backの物語である」、と。Welcome backとは、帰ってくることを喜んで迎えることであります。お帰りなさい、と言ってもよいと思います。つまり、この物語は孤独な重い皮膚病を患っていた人の、お帰りなさいの物語であります。相応しくないと思われていた人を、主イエスがお帰りなさいと言って、招いてくださった物語なのであります。

この重い皮膚病にかかった人は、神を信じる信仰者でありました。この信仰者にとって、主イエスとの出会いがこのとき与えられます。この信仰者は主イエスにお会いするとひれ伏し、こう言ったのです。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」(一二節)。

「主よ」と呼びかけています。先週、私たちに与えられました箇所は、漁師であったシモン・ペトロを弟子にするという物語でありました。ペトロは最初、主イエスに対して「先生」(五・五)と呼びかけておりました。ところがやがて「主よ」(五・八)と呼ぶことになる。そして主イエスの弟子になるのであります。

ペトロもこのときから主イエスと歩みを共にされました。このときペトロは主イエスのすぐ近くにいたと思います。この重い皮膚病にかかった人は出会った最初から「主よ」と呼びかけている。おそらくペトロも驚いたことでしょう。

さらにこの重い皮膚病にかかった人は「御心ならば」と言っています。あなたのご意志ならば、そうしてくださいと言っているのです。この人は、主イエスに重い皮膚病を癒すことができる力があるということを、完全に信じておりました。しかもそれだけではありません。その力をお持ちのあなたが望まれるならば、そのご意志があるならば、私を清くしてくださいと言っているのです。御心ならば、そのようにしてください、しかしあなたの御心でないならば、それを受け入れますと言っているに等しいのです。

この人の信仰に私たちも驚かされます。そして主イエスもこの人の言葉に答えて、こう言われます。「よろしい。清くなれ」(一三節)。「よろしい」という言葉と、「清くなれ」という二つの言葉を、主イエスは口にされています。他の訳の聖書を見ても、「清くなれ」という言葉はどの聖書も同じです。しかし「よろしい」という言葉は、実にいろいろな訳があります。たとえば、かつての口語訳聖書は「そうしてあげよう」でありました。もっと古い文語訳聖書では「わが意(こころ)なり」です。先ほど取り挙げました新改訳聖書には「わたしの心だ」とあります。

元の言葉、ギリシア語の聖書を読むと、一言こう書いてあるだけです。「わたしは望む」。私は意志する、ということです。この重い皮膚病にかかった人は「あなたが意志されるなら」と言いました。主イエスはそれに答えて、「わたしは意志する、清くなれ」と言われたのであります。ここに神のご意志が、御心が示されたのであります。

そして神の御心は、重い皮膚病を癒すことだけに留まりません。この人を共同体の中に復帰させることを望まれます。だからこそ、主イエスは言葉を続けて言われるのです。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」(一四節)。

祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、とは、先ほどお読みしたレビ記に書かれていることです。主イエスはその通りに行って、祭司に「あなたは清い」と言ってもらい、共同体に復帰しなさいと言われるのです。それが私の意志だと言ってくださるのであります。

一三節に「イエスは手を差し伸べてその人に触れ」という言葉があります。普通ですと、汚れた人に対して手を差し伸べることはしません。触ってしまうと、その汚れがうつると考えられていたからです。しかし主イエスは触れてくださった。触れることによって、その汚れがうつることはありませんでした。むしろ、主イエスの清さが勝った。共同体に復帰することができる清い者とされたのであります。

本日、与えられました物語は、名もなき町で起こった出来事です。聖書には「ある町」としか記されませんでした。主イエスの生まれ故郷のナザレ、ペトロが住んでいた町カファルナウム、これらの有名な町とは違って、その名も忘れ去られてしまった町でありました。しかしこの出来事は忘れられることはありませんでした。人々の心に深く刻まれた出来事を人々は語り伝え、聖書に記されることになったのです。

この偉大な物語を愛してきた人々は、主イエスの招きに慰められたのだと思います。神の御前に出る清さなどない私たちです。私たちは本来ならば、先週の箇所にありましたように、シモン・ペトロと口を揃えて言わなければならないでしょう。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」(五・八)。また、重い皮膚病にかかったこの人のように、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」(一二節)と言わなければならないでしょう。私たちは罪人であり、本来、神の御前に出るに相応しい清さなどないのです。

そんな私たちを神は招いてくださいます。「よろしい。清くなれ」と言われ、私たちを、神を礼拝する共同体の中に入れてくださいます。それが神のご意志であり、御心です。礼拝に招かれる資格もなかった私たちです。自分でその資格を勝ち取ったのでもありません。そうではなくて、ただ主が招いてくださる、主が清くしてくださる、だからこそ私たちは礼拝に出ることができるのです。神が招いてくださるから、礼拝は誰でもウェルカムですということになったのであります。

私たちの信じている神は、こういうお方であります。相応しくない者を相応しい者へとしてくださり、ご自分のところへ招いてくださるお方であります。今日もこの招きに応えることができました。そして今、私たちはクリスマスの季節を迎えています。わたしだけでない、あなたも招きを受けている、この神の招きを一人でも多くの方に伝えたいと願っています。