松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2010年11月28日(日)
説教題「神がここにいた」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第5章1節〜11節

 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

旧約聖書: 詩編 第98編







レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
The Healing of Peter's Mother-in-law/ジェームス・ティソ(James Tissot)

The Miraculous Draught of Fishes/(Raphael)
ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館 蔵(Victoria and Albert Museum)
(ロンドン/イギリス)

上記をクリックすると作品のある「wikimedia 」のページにリンクします。

教会の暦で言いますと、本日からアドヴェントに入りました。アドヴェントは日本語では「待降節」と言います。文字通り、主イエス・キリストがご降誕されるのを待つ。それがアドヴェントの意味であります。世界共通ではありませんけれども、一一月三〇日に最も近い日曜日からアドヴェントを始める教会が多いようです。クリスマス、主イエス・キリストがご降誕されるときまでの備えの期間であります。

先週の日曜日の午後、この教会ではクリスマスのための備えをしました。本日、教会に来られた方は、入口のところにクリスマス・リースが飾ってあるのを御覧になったでしょう。受付のところにはクリスマス・ツリーが、そして四本のろうそくが立てられたアドヴェント・クランツも礼拝堂の中にあります。

そのアドヴェント・クランツに、一つの目の火がともりました。今日から毎週日曜日、一本ずつ火をともしていくことになります。来週は二つの火がともります。再来週は三つ、そしてクリスマスの当日には、四本すべてに火がともるようになるわけです。このようにして、毎週、ろうそくの火の数が増えていき、クリスマスを数えるようにして待つわけです。

こどもの教会では、本日の朝、アドヴェント・カレンダー作りをしました。アドヴェント・カレンダーは、もちろんカレンダーでありますけれども、クリスマスまでの日を数えるようにして待つというカレンダーです。今回作りましたカレンダーはたくさんの窓がありまして、窓を閉じていると、数字が書かれております。

数字は日を表しているわけで、たとえば今日が一〇日だったら、一〇の数字の窓を開けるわけです。その中にかわいらしい、クリスマスにちなんだ絵が描かれています。そのようにして、毎日毎日、窓を開いていく。そしてクリスマス当日、すべての窓が開かれることになります。そのようにして、クリスマスを数えるようにして待つわけです。

このように、クリスマスには待つ楽しみがあります。ろうそくに火をともすアドヴェント・クランツにしても、毎日、窓枠を開いていくアドヴェント・カレンダーにしても、クリスマスの日を心待ちにするわけです。クリスマスは主イエス・キリストがお生まれになったことを覚える日。私たちのところに神の独り子が来られることを、このようにして待つのであります。

先ほどからアドヴェントという言葉を多用しています。日本語にすると、待降節となるわけですが、この言葉は教会が古くから大切にしてきた言葉であるラテン語の言葉です。「到来」ですとか、「来る」という意味のある言葉です。

英語でadventureという言葉があります。日本語にすると「冒険」になりますが、この言葉もラテン語のアドヴェント、「到来」という意味から来ています。冒険をしていると何かの出来事が起こります。その何かの出来事がまさに「到来」しようとしている、そのことから転じてadventureという言葉になったようです。このようにアドヴェントには「到来」という意味があるのであります。

本日、私たちに与えられました聖書の箇所は、ルカによる福音書第五章の始めの箇所であります。アドヴェント、到来ということとは無関係のように思えますが、決してそんなことはありません。松本東教会ではルカによる福音書から御言葉を聴き続けています。毎週、少しずつ区切って、読み進めています。

その区切りで今日は第五章の始めのところになりましたけれども、私はアドヴェントにふさわしい箇所が与えられたと思っています。どうしてかと言いますと、ここにシモン・ペトロという人物が出てきていますけれども、彼にとって、主イエス・キリストが到来してくださった物語だからであります。

本日、与えられた箇所の中には、シモンという名前がありますが、八節のところにはシモン・ペトロとあります。本当の名前はシモンでありました。ペトロというのはあだ名です。「岩」という意味があります。主イエスが付けてくださったあだ名かもしれません。岩のように頑固だったのか、それともやがてペトロは教会を建てる中心人物となりますので、岩の上に立てられた教会ということで、そのあだ名になったのかもしれません。

本日、与えられた箇所は、先ほど聖書朗読もいたしましたし、分かりやすい話だったと思いますので、ここで繰り返して語ることはいたしません。しかし、シモン・ペトロの立場から、この物語をもう一度、見つめ直すことをしたいと思います。

シモンは漁師でありました。ゲネサレトという湖、別名ガリラヤ湖でありますが、この湖で漁をして、生計を立てておりました。主イエスが来てくださったこの日も、シモンはいつも通りに漁をしておりました。しかしいつも通りでないこともありました。大勢の群衆が押し寄せていたことは、いつもと違うことだったでしょう。

しかしそれだけではない。漁をするのに良い時間帯は夜でありますが、昨夜はなんと一匹も魚が獲れなかったのです。漁をして、一匹も獲れないなどということがあるのでしょうか。シモンにとっても初めての経験だったかもしれません。漁師にとっては屈辱的なことだったでしょう。

何も獲れなかった漁を終えて、シモンは湖の岸辺で網を洗っていたのであります。主イエスの言葉を聴こうと、群衆が押し寄せて来て、騒がしかったかもしれません。しかしシモンにとって、そのことはどうでもよいことだったかもしれません。何も獲れなかった。しかし網は洗って、後片付けをしなければならない。シモンの網を洗う手は、むなしさがあふれておりました。

私たちにも、その気持ちがよく分かると思います。長い時間をかけて苦労はしたものの、成果はまったく得られなかった。そのような結果になってしまった。それでも、むなしく後片付けをしなくてはならないのであります。

そんなシモンに声がかかりました。主イエス・キリストが声をかけたのであります。群衆が自分に迫ってくる、落ち着いて話ができない、ということだったのだと思います。シモンの持っていた舟に乗せてもらい、陸地にいる群衆と少し距離を置いて、話をしたい、だから舟を出してくれ、と言われたのであります。

ここでシモンは断ってもよかったでしょう。徹夜での漁を終えて、後片付けをしていたときであります。何も獲れなかったことを、家族になんと言おうかと思っていたかもしれませんが、とにかく家に帰って、休みたかったと思います。シモンは疲れを覚えていたのであります。

ところがシモンは断らなかった。その理由は聖書に書かれておりませんので、想像する以外にありません。しかし一つ考えられるもっともな理由があります。実はシモンは主イエスのことをすでに知っておりました。第四章三八節にこうあります。「イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ。」(四・三八)。

このとき、主イエスはシモンのしゅうとめの病を癒してくださっていたのです。シモンにとって、主イエスは恩人であります。家族の病を癒してくださった人です。その主イエスからの頼みであります。自分のしゅうとめを癒してくれた、その恩返し、お礼のつもりもあったのかもしれません。

いずれにしましても、シモンにとって、積極的に主イエスと関わりを持とうとしたのではありません。ただ頼まれたから、それに応えたにすぎません。反対に、陸地には大勢の群衆がいました。主イエスの話を聴こうと、主イエスを押しつぶさんばかりに押し寄せて来て、熱狂している群衆です。明らかに、シモンとは正反対でありました。

しかしシモンは、主イエスと同じ舟に乗ることになりました。自分が意図したわけでもないのに、シモンは特等席で、主イエスの話を聴くことになった。シモンにとっては、いつの間にか、神がすぐそこまでやって来ているということになったのであります。

シモン・ペトロの立場から、この物語を見つめ直しています。神が自分のところにやってくる。このことは、教会の信仰にとって、とても大切なことであります。信仰、神を信じると言いますと、私たちの方から神のところに出向くことのように思います。たくさん本を読んだり、勉強したり、修行をしたり、祈りをしたり、そのことによって私たちから神の方に近づくと思いがちです。しかし、教会の信仰は、むしろその逆なのであります。

私が神学生だったとき、夏に夏期伝道実習というものがありました。夏期伝道実習を受け入れてくださる教会に赴き、夏の間、伝道の実習をするというものです。たいていの神学生は二度、この実習に行くことになります。私の一度目は、三重県の津にあります教会での実習になりました。その夏は一カ月半にわたって、三重県で生活をすることになりました。

その夏期伝道実習の最中、教会員の方に車を出していただき、同じ三重県にあります伊勢に出かけました。伊勢にあります教会を訪問するとともに、伊勢神宮もせっかくですから行くことにしました。

伊勢神宮に限らず、神社を参拝するときは作法があるのだそうです。まずは鳥居をくぐる。手を洗って清める。そして参道を進んでいく。この参道が長い参道である場合が多い。伊勢神宮もそうでした。かなりの距離を歩き、やっとの思いで神がいるとされているところにたどり着く。神道の世界では、神さまに会うまでにずいぶん苦労をするものだなと思わされながら、歩いたことを思い起こします。

私たちも神にお会いするために、こちらから苦労して出向いて行かなければならないのでしょうか。聖書が示す唯一の神を信じている私たちは、そうは考えないのです。むしろ、今日のシモンの物語にありますように、神が向こうから来てくださる、これが私たちの神なのであります。しかも私たちはそのことに気付くのが、いつも遅いのであります。気付いたらそこに神がおられた。神が神の方から来てくださる。これが私たちの信じる神なのであります。

本日の説教の説教題を、「神がここにいた」といたしました。説明を加えなければならないかもしれませんが、これは過去形ではありません。そういうニュアンスではなくて、「気が付いたら神がここにいた!」というニュアンスです。もう少し良い説教題を付けた方がよかったかもしれません。他のどこでもない、あっちでもない、そっちでもない。気が付いたらここに神がいた!という説教題であります。

シモン・ペトロにとっても、気が付いたらここに神がいた、という事態になりました。このことに気付く前と後では、シモンの言葉も行動も変わっていることが分かります。

まずは言葉ですが、シモンは最初、主イエスのことを「先生」(五節)と呼んでいます。この言葉は英語ではmasterと訳されている言葉で、日本語では「先生」のほかに「師匠」などと訳すこともできます。この言葉が、主イエスを神と認識したときに変わるのです。シモンは「主よ」(八節)と呼びかけることになります。この方が神であると分かったときに、その呼びかけ方が変わるのであります。

また、シモンの行動も変わってきます。今までは同じ舟に乗って、少し舟を操作しながら、群衆に語りかける主イエスのすぐ横で、何気なく普通に、このお方の横にいることができた。しかし主イエスを神と認識したとき、そのままではいられなくなるのです。主イエスの足元にひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(八節)と言うことになったのです。

シモンが足元にひれ伏したのは、舟を陸地に戻してからか、あるいはすぐその場で、舟の中のことだったかは分かりません。もしもすぐに舟の中でひれ伏して、「わたしから離れてください」と言ったのなら、周りは湖でありますから、おかしな言葉であります。主イエスに湖の中に入ってくださいと言っているようなものですから。しかしそう言わざるを得ないほどの変わりようだったのであります。

シモンにどうしてこんな劇的な変化があったのか。それは主イエスの言葉通りに網を降ろすと、たくさんの魚が獲れたからであります。おそらく、今までシモンが経験したことのないほどの大漁だったのだと思います。網を引く手には、かつてないほどの手ごたえがあった。むなしく網を洗う手の感覚とはまるで違います。神の力を、たしかにその手で感じ取ったのであります。

シモンがこのような経験をすることができたのは、主イエスが言われた言葉の通りにしたからにすぎません。「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」(五節)。ある説教者がその説教の中で、こう言っています。「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」、この言葉は、人間が口にし得る最も偉大な言葉である、と。どういうことでしょうか。

神の言葉があり、その言葉を聴いた人が、あなたのお言葉ですから、その通りにいたしましょう、と答えるのです。神の言葉を聴き、聴いた通りに応答する。だからこそ、人間が語り得る最も偉大な言葉になるのです。シモンもそれをしたにすぎません。しかしそれは最も偉大なことでありました。

そうでなければ、こう答えるほかなかったでしょう。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。私は漁師、漁に関しては玄人です。あなたは素人。網を降ろしても何も獲れるはずがありません。だからあなたの言葉通りにはいたしません」。

シモンは網を打つときは、もちろん完全に信じていたわけではありません。魚がたくさん獲れる、絶対に獲れるなどと確信して、網を打ったのではないでしょう。あなたがそうおっしゃるのですから、その程度の気持ちだったと思います。しかしそのとき、シモンのところに実は神が来られていた。その神から言葉を聴いた。そしてそれに応え、その言葉通りにしたのであります。シモンが行ったのは、ただそれだけなのであります。

この出来事を経て、シモンはようやく自分のところに神がおられたことに気付きました。私たちもそうでしょう。何か大きな出来事が起こる。それが苦難であることもあります。しかし、あるときに神が自分と一緒にいてくださることに気が付く。シモンのように、すでに神の訪問を受けていたのにそれに気付かず、ようやく遅ればせながら気付くのであります。

シモンがここで言っている言葉は、おかしな言葉と感じられるかもしれません。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(八節)。せっかく神が来てくださっている、神がここにいたということが分かったのに、離れてくれなどと言わなくてもよいのではないでしょうか。

別の聖書の箇所、ヨハネによる福音書に、シモンのこのときの気持ちをよく表している言葉があります。主イエスご自身のお言葉です。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。」(ヨハネ三・一九~二〇)。

光と闇が正反対のものとされています。神が光であり、私たち人間が闇です。闇は光に照らされることを恐れます。自分の罪が、光によって明るみに出されてしまうからです。それだったら、暗いままであることを好みます。暗ければ、罪も明らかにされないからです。

シモンもそういう思いだったでしょう。光がやってきて、自分の罪が照らし出されてしまった。主イエスの清さを前にすると、自分の罪が際立ってしまう。神に近づけば近づくほど、いや神が近づいて来られれば近づいて来られるほど、光と闇の違いが際立ってしまうのであります。

しかし近づいて来てくださった主イエスは、「恐れることはない」(一〇節)と声をかけてくださいます。自分を清くしてから出直して来なさいとは言われません。罪人を門前払いされるようなことはないのです。むしろ、シモンのように負い目のある者を、ご自分のところに招いてくださいます。

主イエスは続けて言われます。「今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」(一〇節)。この言葉は未来形であったり、何かの条件が付けられていたりしているわけではありません。あなたは人間をとる漁師になるだろうと言われているのでも、こういうことをしたら、人間をとる漁師にしてあげましょうと言われているのでもありません。主イエスが断言してくださる。あなたはこうなるのだと断言してくださるのであります。

そしてその断言の結果、シモンは主イエスに従う者になります。最後の一一節にこうあります。「そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。」(一一節)。

「すべてを捨てて」という言葉が出てきました。私たちはこの言葉にたじろいでしまうかもしれません。自分はすべてを捨てて、神に従うことができるだろうか。一体何を捨てればよいのか、本当に何もかも捨てないといけないのかと思わされてしまうからです。

聖書は言います。シモン・ペトロを含めた「彼らは」すべてを捨てて従った、と。本当でしょうか。厳密に検討するならば、彼らは本当にすべてを捨てたわけではないと言わざるを得ません。彼らはあるとき、弟子たちの中で誰が一番偉いかという議論をしました。彼らは偉さに執着していた、捨てられなかったのであります。

そして何よりも言わなければならないのは、主イエスが十字架にお架かりになるとき、すべての弟子たちは主イエスを見捨てて逃げてしまいました。彼らは自分の命に執着した、捨てることができなかったのであります。厳密に言うならば、すべてを捨てているのではないのです。

それにもかかわらず、聖書は「すべてを捨ててイエスに従った」(一一節)と言うのであります。シモンは神の言葉を聴きました。お言葉ですからと言って、その言葉を軽んじることをしませんでした。同じように、私たちも神の言葉を聴いています。その言葉に希望をおく者、望みをかける者のことを、聖書は「すべてを捨てて主イエスに従う者」と言ってくれるのです。

本日、私たちに与えられた神の言葉に望みをおく者、ここに自分たちの希望を見出す者は、すべてを捨てて主イエスに従う者にされるのです。主イエスが私たちにそう断言してくださいます。

私たちがすべてを捨てて従うことができるのは、このお方に対してのみです。主イエス以外にはすべてを捨てることはできません。この世のどんな人に対しても、あるいはどんなものに対しても、そんなことはできないのです。私たちが望みをおき、すべてを捨てることができるのは、この方のみなのであります。

今日からアドヴェントです。主イエスが私たちのところに来てくださいました。私たちに神の言葉を与えてくださいました。私たちはこの言葉にすべての望みをおきます。必ずや希望が見出せるでしょう。