松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2010年11月14日(日)
説教題「救いを独占するな」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第4章42節〜44節

 朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。しかし、イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された。

旧約聖書: イザヤ書 第49章1〜6節

かなめ石

カファルナウム/カペナウムを見下ろす丘(Capernaum)/イスラエル

主イエスがお一人になられる。本日与えられました聖書の箇所は、そのような書き出しで始まります。時間は朝になっておりました。夕べから、多くの病人が主イエスのもとにやってきました。主イエスはその一人ひとりに手を置いて癒されました。どんな病をも癒すことができる医者でありました。

一人ひとりでありますから、ちょうど病院で患者一人ひとりを診察するようでありました。一人につき、どれくらいの時間を費やされたのでしょうか。夕べから始めましたが、もしかしたら徹夜の診察だったのかもしれません。さすがに主イエスといえども、疲れを覚えておられたと思います。

朝になり、主イエスは人里離れたところにいかれました。そこは誰もいない場所です。何をされていたのでしょうか。休まれていたのか。ルカによる福音書第五章一六節にはこうあります。「だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。」(五・一六)。本日与えられた箇所には、祈っておられたという言葉はありませんけれども、主イエスが心を神に向けて、祈っておられたのだと思います。

主イエスは何を祈っておられたのでしょうか。ルカによる福音書では、主イエスの祈られる姿を大切にしています。これからも私たちは、たびたび主イエスの祈る姿に出会うことになりますが、すでに御言葉を聴きました箇所を振り返ってみたいと思います。第三章二一節にこうありました。「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると」(三・二一)。

これは主イエスが洗礼を受けられたときのことです。洗礼を受けられた後、これからいよいよ本格的に神の国を宣べ伝えるための歩みを始めようとされます。その歩みの開始にあたって、主イエスは祈られた。父なる神の御心をたずね求めるように、祈っておられたのです。

本日与えられた箇所のところでも、主イエスは祈りつつ、これから進むべき道を問うておられたのだと思います。自分の生まれ故郷のナザレの町で過ごし、その後、カファルナウムの町で過ごされておりました。ナザレの町では、残念なことに殺されそうにさえなり、町を追い出されてしまわれました。

そして次の町であるカファルナウム。この町ではナザレとは正反対に、人々は主イエスに大変お世話になっていた。悪霊を追い出していただき、病を癒していただいていたのです。夕べからたくさんの病人を癒しておられました。そして、朝になっても、病人の来訪は続いたのでしょう。人々は一人になられた主イエスを捜しにやってきたのであります。

先ほど申しましたように、ナザレの町では主イエスは殺されそうになり、追い出されてしまいます。ナザレは救い主を追い出してしまった町です。明らかにナザレは「悪い町」として描かれております。それではカファルナウムはその反対に「良い町」として描かれているのでしょうか。

一見そうだったように思えます。ここでは主イエスがたくさんの癒しを行っております。しかしカファルナウムの人々は主イエスが離れて行かないように、必死に引きとめますけれども、主イエスはこのように言われて、出て行かれてしまわれます。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」(四・四三)。いわば叱られてしまい、主イエスに出て行かれてしまったのです。

なぜカファルナウムの町の人々は、このように言われてしまったのでしょうか。主イエスが悪霊を追い出し、大勢の病人の病を癒してくださった。人々は主イエスのお力をその肌で感じ取ったのです。この人はすごいと思ったことでしょう。しかしこのすごいお方が、自分たちの町から出て行こうとされている。まだまだ病人は残っている。この朝も病人を連れてきた。他の町には行かないで、せめてもう少し自分たちのところにいて欲しい。知らずのうちに、救い主を独占したいとカファルナウムの人々は思ってしまったのであります。

カファルナウムの町にとっては、主イエスがいてくださった方が、たしかに良かったかもしれません。病人は癒されますし、悪霊は追い出されますし、カファルナウムの町はもっと良い町になったに違いない。町はさらに大きく、豊かに発展したかもしれません。主イエスほどの力をお持ちの方が自分たちのところにいれば、それは十分に可能であります。

しかし主イエスがカファルナウムに対してとられた行動は、決してカファルナウムの町を見捨てるような行動ではないでしょう。カファルナウムの人々にとって良いと思っていたことと、神が良いと思われたことが一致しなかったのです。主イエスは朝、祈りつつ、神の御心を問いました。そしてその道を選び、進まれた。カファルナウムに留まり続けるよりも、その道に真理があったからです。私たち人間が考えることと、神が思われることとの間にギャップがあったのです。私たちは何が本当に良いことなのか、このギャップから考えなくてはならないでしょう。

毎週木曜日にオリーブの会を行っております。一〇月より新たに始まりました会であります。この会では、信仰の初歩的なことを学べるように、一冊の本を使っています。その本にはテーマごとに文章が書かれており、その文章を読み、また聖書を読み、みんなで学んでおります。先週のテーマはこういうテーマでありました。「わたしたちは幸いを求めて生きています。イエス・キリストは幸いをもたらすために来てくださいました。その幸いとは何でしょうか」。

幸いという字は、幸せという字と同じです。誰もがこの世の幸せに無関心にはいられないと思います。オリーブの会に参加された方が、この世の幸せと聖書の幸いとは違うと言われておりましたが、その通りだと思います。私たちにとっての幸せとは何でしょうか。お金持ちの人は幸せ、仕事に成功した人は幸せ、健康に生きることは幸せ、いろんな幸せを挙げることができると思います。しかし主イエスが私たちにもたらしてくれる幸せ、幸いと言った方がよいかもしれませんが、これらの幸せとは違うものであるのです。

先週の水曜日には、教会員の方の葬儀がありました。葬儀の翌日の木曜日ということでしたので、オリーブの会に出席された方にとって、昨日の今日ということになりました。やはりその教会員の方の歩みを通して、本当の幸いとは何かということを考えさせられたようです。

その方のことに関しては、葬儀の説教の中で詳しく触れましたが、ここでそれを繰り返すことはいたしません。ただ一言だけ申しますと、終戦を迎え、今までの価値観が正反対にひっくり返されるような経験をされたようです。自分はどう生きるべきか、真剣に問う中で与えられた答えが、神を求める道でありました。その後、教会で信仰を持って生活をされます。昔からこの教会におられる方は、その歩みをよくご存じであるでしょう。

私が言うのもなんですが、とてもよい葬儀であったと思っております。何名かの方に、そのような感想を言っていただきました。たしかにその方が亡くなられたことは、寂しくもあり、悲しいことであります。厳しいことであります。しかし、その方の信仰者としての歩みを振り返ってみると、寂しさや悲しさを乗り越えるのに十分な祝福がある。これは葬儀に出席された多くの方が感じ取ったことでしょう。信仰を持って歩むことの幸いを味わうことができた。だからこそ、とてもよい葬儀であったと思うことができるのです。

カファルナウムの人々にとっての本当の幸いとは何だったのか、そのことを考える必要があるでしょう。カファルナウムの町の病人が癒されること、カファルナウムの町が大きく発展すること、たしかにそうなればそうなったで、とても良いことですけれども、それはこの世の幸せであります。先週のオリーブの会でのテーマだったような、主イエスがもたらしてくれる幸いとは、ずれているでしょう。

主イエスは父なる神の御心を祈りつつ問い、町を離れる決意をされましたが、町を離れるにあたって、主イエスは人々にこう言われています。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」(四・四三)。

主イエスがここで言われている言葉も、カファルナウムの人々の思いとは違う次元の話をしていることが分かります。主イエスは、「わたしは他の町でも病人を癒さねばならない」と言われているわけではありません。「他の町でも悪霊を追い出さねばならない」と言われているわけでもありません。そうではなくて、「神の国の福音を告げ知らせなければならない」と言われているのです。

主イエスの口から出てきた大切な言葉は、「神の国」という言葉であります。ルカによる福音書では、初めてこの言葉が出てきました。例えばマルコによる福音書では、その初めのところで「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ一・一五)、と主イエスは言われます。ルカによる福音書では、なんと三三回も「神の国」という言葉が出てきます。もっと早く出て来てもよさそうですけれども、ようやくここで初めて出てくるわけです。

神の国とはどういうところでしょうか。ルカによる福音書から御言葉を聴き続けて行けば、自ずと明らかになるかもしれませんが、実はもうすでに神の国がカファルナウムにも実現し始めています。救い主が来られ、悪霊にも病にも勝利をされたのです。救い主の支配が始まっていた。神が支配されるところ、それこそが神の国なのであります。悪霊や病が支配するとことではないのです。

主イエスはここで、神の国の支配が始まったということを、告げ知らせねばならないと言われています。カファルナウムという一つの町を立派にすることが主イエスの目的ではありません。主イエスは神の国を実現なさいます。その実現、神の支配が始まったということこそ、福音であり、私たちにとってよき知らせです。この世のどんな幸せなことが実現するよりも、私たちが本当に聴きたい知らせなのであります。

私たちはこの世の幸せではなく、本当の幸いとは何かということを考えてきました。悪霊が追い出される、病気が治る、そのこと自体もたしかに幸せなことです。しかし本当の幸いとは、それだけに留まりません。悪霊にも病にも打ち勝つ方がおられ、その方が支配をされている。そのような神の国が実現する。その神の国の中に私たちが置かれる。このことこそ、私たちの幸いであります。そして神の国が実現したという知らせ、この知らせこそが、私たちに本当の幸いを告げ知らせてくれる知らせなのであります。

神の国の福音は広がっていきました。本日与えられた箇所の最後のところに、こうあります。「そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された。」(四・四四)。ユダヤという言葉が出て来ました。この福音書を記したルカが、どこまでの範囲を考えていたのかは分かりません。しかし少なくとも、主イエスがこのときおられたガリラヤ地方だけでなく、もっと広い範囲を考えていたでしょう。

神の国は広がっていった。福音も広がっていった。そして私たちのところにまで広がってきました。私たちが神の国の福音を聴くことができるようになるまで、広がってきたのであります。

カファルナウムの人々は、もちろんそんなところまで広がるとはまったく思わなかったことでしょう。このことは、カファルナウムの人々が求めていた幸せではありませんでした。主イエスに長くこの町に留まってもらって、この町に良いことをしてくれることが幸せだと思っていた。その町だけの幸せが、自分たちにとっての幸せであったのです。

しかし主イエスはその思いを正されます。自分の町さえ良ければよい、自分たちさえ良ければよいという思いを、カファルナウムの町の人々は知らず知らずのうちに抱いてしまった。幸せを独占するところに、真の幸いはありません。

木曜日のオリーブの会で、参加者のある方が、この世の幸せについて、このように発言されていました。この世の幸せは、人と比べるところにある。人よりもお金を持っている、だから幸せだとか、人よりも良い仕事についている、だから幸せだとか、この世の幸せはそういうところがあると言われたのです。たしかにそれはその通りだと思います。

主イエスがもたらしてくださる真の幸いは、皆で共に分かち合うことができます。人と比べて、自分の幸せを確認しなければならないのではないのです。私は幼児洗礼を受けておりましたので、信仰告白をすることになりました。信仰告白式が終わった礼拝の後で、たくさんの人がお祝の言葉を言ってくださいました。中には握手を求めて来られる方もあったくらいです。私自身ももちろん嬉しかったのですけれども、なぜ周りの人がこんなに喜ぶのか、このときはまだ理解できていませんでした。

しかし教会学校の自分が受け持っていた生徒が洗礼を受けたときに、この喜びの意味が分かりました。自分が知っているこの幸いを、この人も味わうことができる。この喜びは大きかった。主イエスが私たちにもたらしてくださる幸いは、決して独占することによって得られる幸いではないのです。むしろ、一緒に喜びあうことができるのであります。

最後に、水曜日の葬儀の中でも、引用をいたしました言葉を、ここでも引用いたします。これはご自身が書かれた本の中にある言葉であります。「なくてはならないものはひとつである。それは主の足元に座って十字架の言葉に幼子のように徹底的に耳を傾けることなのである」。

この言葉にありますように、神の国の福音を聴くこと、それも幼子のように、主の足元に座って耳を傾けることが、本当の幸いです。自分一人だけ座って聴くのではない。他の多くの方と一緒に神の言葉を聴くことができる。それが教会というところです。今日もそのようにしてご一緒に御言葉を聴くことができました。ここに私たちの真の幸いがあるのであります。