松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

facebook.png


HOME > 礼拝説教集 > 20101107

2010年11月07日(日)
説教題「病の正体が暴かれて」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第4章38節〜41節

 イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ。イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。悪霊もわめき立て、「お前は神の子だ」と言いながら、多くの人々から出て行った。イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊は、イエスをメシアだと知っていたからである。

旧約聖書: ヨブ記 第30章38〜41節





レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
The Healing of Peter's Mother-in-law/ジェームス・ティソ(James Tissot)

The Healing of Peter's Mother-in-law/ジェームス・ティソ(James Tissot)
Brooklyn Museum 蔵
(ニューヨーク/アメリカ)

上記をクリックすると作品のある「Brooklyn Museum」のページにリンクします。

私たちの人生において、病との闘いを避けて通ることはできません。小さな病も大きな病もあります。私たちの身近にも、現在、そのような闘いの最中に置かれている者も多い。また、今は病を得ていなくとも、病にかかることを避けられる者は、一人もいないのです。

本日の説教の説教題を「病の正体が暴かれて」といたしました。説教題を付けるのは、一週間前のことになります。週報に次週の予告として載せますから、一週間前には説教題を付けなければなりません。これはかなり苦労をいたします。説教題を付けるために、もちろん聖書をしっかり読み、他の本なども参考にしながら付けていきます。

しかし説教題を付け終わって、次の日曜日のために、もっと本格的に聖書を読み、黙想をして、注解書を読み、ということをやっていきますと、時々、説教題をつけ直したくなるという思いがいたします。一週間前の時点では、聖書がこういうことを私たちに語りかけていると思っていたのが、実は少しずれていたということが分かるのです。

「病の正体が暴かれて」という本日の説教題、この説教題は別に聖書の内容とずれているとは思いませんでしたし、説教題をつけ直したいとも思いませんでしたが、我ながら、ずいぶん大胆な説教題を付けたな、と思わされています。教会前の看板にもこの説教題が、先週の一週間、掲げられておりました。このような説教題を掲げたからには、説教で病の正体に関する話をしなくてはなりません。

もちろんのことでありますが、私は医者でも生物学者でもありませんから、医学的に、また生物学的に病とは何かを考えることは、ふさわしくありません。いや、そのような専門的な知識がなくとも、病とは何かを定義することも可能かもしれません。ウイルスですとか、病原菌とか、そのような悪いものに体がやられてしまうことであると言うことができるでしょう。それはそれで、病の一つの正しい理解であると思います。

しかし、本日ここで私たちが考えなくてはならないことは、このような医学的、生物学的に考えることではありません。そうではなくて、大切なのは、聖書が病をどう捉えているかということであります。まずは、聖書が病をどう見ているのかということを、しっかりと把握したいと思います。そして、その病とどう闘っていくのか、神がどのように解決してくださるのか、そのことを、神が本日、私たちに与えてくださる言葉として、聴きたいと願います。

本日、私たちに与えられた聖書の箇所には、多くの病人が出てまいります。そして主イエスがその一人ひとりを癒してくださる話であります。まず、病を癒していただくのは、シモンのしゅうとめであります。シモンとは、主イエスの弟子、一番弟子とも言われるペトロのことであります。

ペトロが弟子にされるのは、ルカによる福音書で言えば、第五章の初めのところであります。「漁師を弟子にする」という小見出しが付けられておりますが、魚をとる漁師であったペトロがこのときに弟子にされるのです。従いまして、本日の箇所ではまだペトロは弟子ではまだありませんでした。ペトロが弟子になる前に、ペトロにとっての家族が癒されることになったのであります。

この日は安息日でありました。近くの会堂で礼拝がなされた。先週、私たちが御言葉を聴いた箇所であります。礼拝の最中か、礼拝の最後のところで、悪霊に取りつかれた男が叫び出します。主イエスはその男から、悪霊を追い出される。そのような出来事が起こりました。そして無事に礼拝を終えられて、おそらく近くの家であったシモンの家を訪問するのであります。

当時のしきたりとして、礼拝が終わりますと、礼拝での説教者を自宅に招く。そして食事を一緒にするということがなされたようです。主イエスもその招きを受けられた。この日は安息日でありますから、そんなに長い距離を歩くことはできません。もちろん労働をするわけにもいきません。そんなわけで、主イエスもその招きを受けて、近くの家で食事をしていたわけです。

その家には、一人の病人がおりました。熱を出していた病人がいたのであります。しかも「高い熱」であると書かれております。医者にも看てもらったのかもしれませんが、どうすることもできなかったのかもしれません。人々は主イエスに病人のことを頼みました。

不思議なことです。たしかに主イエスは会堂で、汚れた悪霊に取りつかれた男から悪霊を追い出しました。しかし高い熱を出した病人を癒しわけではありません。人々はそれにもかかわらず、この病人を主イエスに委ねた。このお方ならば、なんとかしてくれるかもしれないと思ったのかもしれません。

主イエスは「高い熱」という病に向かって何をされたのか。悪霊のときと同じく、この熱に対して、叱りつけたのであります。汚れた悪霊に対しても「黙れ、この人から出て行け。」(四・三五)と叱りつけられましたが、熱に対しても同じでありました。そうすると、シモンのしゅうとめから熱が出て行ったのであります。その結果、このしゅうとめがどうしたのかと言いますと、「すぐに起き上がって一同をもてなした。」(四・三九)のであります。

シモンのしゅうとめは、病の状態から一気に健康な状態へと回復させられたと言うことができます。完全な回復であり、完全な健康を取り戻すことができました。病と健康。この説教では、病とは何か、この問いから出発いたしましたが、病を考えるためには、健康とは一体何なのかということも、合わせて問わなければならないでしょう。

健康という言葉を広辞苑でひきますと「身体に悪いところがなくすこやかなこと」とあります。やはり広辞苑からも、健康は病の反対側にあると言えます。健康は病でないこと。しかしやはり問わなくてはならないのは、病さえなければ本当に健康なのかということです。

たとえば、体には何の病も得てない人がいるとする。重い病はおろか、風邪さえひかない。ところがその人が、生きる目的を失っていたり、毎日を無為に過ごしていたとしたら、その人は健康でしょうか。医学的、生物学的には健康であると言えるかもしれません。しかしその人が健全であるとは言えないと思います。

逆に、病を得ている人がいたとします。しかも重い病で、それほど後は長くないという人であるとします。それにもかかわらず、その人が生き生きと過ごしている。病を得ていない人以上に、生き生きとしている、そういう人もまたいるのです。この人はたしかに病です。医学的、生物学的には病人であります。健康ではありません。しかしこの人はとても健やかであると言うことができるでしょう。

こう考えますと、本当の健康、本当の病を考え直さなくてはならないと思います。聖書を読み、神の言葉を聴いている私たちは、医学的、生物学的な定義に留まることはできません。聖書が私たちに伝える健康と病を考えたいと思うのです。

そのためにも、シモンのしゅうとめの様子に目を留めたいと思います。彼女が病から健康へ、一気に回復させられたことは先ほども述べました。彼女は病のときは、床の中にいざるを得ませんでした。主イエスは枕もとに立って熱を叱りつけられました。そのときまでは寝ていたわけです。それは何よりも、主イエス一同をもてなすことができないことを意味しました。

ところが、病が癒され、彼女が何をしたかと言うと、すぐに一同をもてなしたのであります。単純に病が癒された、良かったですね、という話ではありません。このとき、彼女にとって一番必要だったことへと回復させられたのであります。

「もてなす」という言葉が出てきました。この言葉は元のギリシア語で「ディアコニア」という言葉であります。もともとは、この箇所にありますように、食事の給仕をする、食事のお世話をするという意味でありました。しかしやがてこの言葉は発展していきます。聖書の中で「奉仕」という言葉が出てきますが、この言葉に発展していくのであります。教会の奉仕、仕えるという言葉へと広がっていくのです。

ドイツに「ディアコニッセ」という制度があります。「ディアコニッセ」はドイツ語では女性形でありまして、日本語にするならば、「奉仕女」と訳すことができるでしょう。カトリック教会には修道院制度がありまして、女性の場合ですと、修道女と言います。ディアコニッセというのは、修道女のプロテスタント版と言ってもよいと思います。この制度は一九世紀に始まった制度でありまして、キリスト者の若い女性が志願することができます。結婚を放棄して、生涯を献げることを誓約します。そして教会的な愛の業に、生涯、励むことになるのです。

このように、「もてなす」という言葉は、教会とともに発展していきました。食事の給仕から、教会的な奉仕にまで意味が広がった。ドイツでは生涯を献げての奉仕にまで広がったのであります。その原形の姿が、ペトロのしゅうとめであると言ってもよいでしょう。病から健康を取り戻した。それは何よりも、神に奉仕することができなかった者が、神に奉仕することができるようになったのです。神との関係が思わしくなかったところから、神との関係が健全になったのです。

つまり、病とは単純に病気になっていることが病なのではなく、神との関係が思わしくない状態になっていることであり、逆に健康とは、神との関係が良好であると言うことができます。その人がどんな医学的、生物学的な病を得ていても構いません。神との関係が健全ならば、その人は健康であるのであります。健康にしても病にしても、私たちは神との関係で考えるときに、このような結論を出すことができるのです。これこそ、聖書が私たちに示す、健康と病であります。

シモンのしゅうとめの癒しが行われ、夕方になりますと、日が暮れていきます。当時のユダヤの社会では、日没になるとその日が終わり、新しい日が始まります。私たちですと時計の針が十二時を過ぎると日が変わるわけですが、当時の人は太陽が沈むとその日が終わり、新しい日付となったのです。つまりこのときは安息日が終わったということになります。病人を連れて出歩ける日になった。人々は主イエスのところに病人を連れて押しかけるのです。名医がいる病院の診察開始時刻に、どっと病人が押し寄せるようなものでしょうか。

主イエスはその一人ひとりに手を置いて癒されますが、そのときの様子をルカが記しています。「悪霊もわめき立て、「お前は神の子だ」と言いながら、多くの人々から出て行った。」(四一節)。病の癒しを行っているはずなのに、いつの間にか、悪霊を追い出す話になっています。

病は悪霊の仕業なのでしょうか。それとも医学的、生物学的なウイルスですとか、病原菌などが、悪霊に等しいと言うのでしょうか。病イコール悪霊とははっきりとは書かれていませんので、たしかなことは分かりません。ただ一つ言えることは、病も悪霊も、やはり神との関係で考えたときに、神と人間との関係を壊してしまうという点で、等しいものであると言うことができます。

先週の説教で申し上げましたように、悪霊は神と関わりを持たないで生きようとします。そして私たち人間を、自分の仲間に引き入れようとします。私たちに取りつき、私たちを神から引き離そうとするのです。これと同じように、病の場合も、私たちが神から引き離されることになる可能性があるのです。

本日、合わせてお読みした旧約聖書の箇所、これはヨブ記でありますが、ヨブという人物の話しです。ヨブもまた、病を得て、神から引き離されてしまいました。あるとき、ヨブのもとにサタンがやってきて、ヨブに苦難が襲います。家族が亡くなってしまったり、財産を失ったり、ヨブ自身もひどい皮膚病にかかってしまいます。

ヨブはこのような苦難になっても、最初は無垢でありました。神との関係に生きていましたが、だんだんと神から離れてしまう。なぜ自分がという問いに始まり、自分は悪くないという思いにかられ、次第に神を呪ってしまう。ヨブ記を丁寧に読んでいけば分かることですが、ヨブはだんだんと神に祈らなくなってしまう、自分の正しさを主張するようになります。しかし最終的にはヨブは悔い改めます。そして病も癒され、家族や財産も回復するという話であります。

ヨブも病を得たとしても、神から離れなければよかったのかもしれません。そうであれば、たとえ体には皮膚病があったとしても、神との関係は健康でありました。しかし弱い人間にはなかなかそれは難しいものです。病によって神から離れることが起こってしまう。そうすると、それこそ本当の病人になってしまいます。聖書が言う病になってしまう。この意味では、悪霊も病も同じであります。神との関係が健康である人を、神との関係が不健全な病人へと引きずりこんでしまう力が、どちらにもあるのであります。

本日、私たちに与えられた聖書の箇所の最後のところには、こうあります。「イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊は、イエスをメシアだと知っていたからである。」(四一節)。これは聖書の一つの謎と言ってもよいと思います。なぜ主イエスがこう言われたのか。

私が神学生になるよりも前に、この謎に関して、ある牧師に質問をしたことがあります。そうするとその牧師はこう答えました。「そうですね、このことをめぐって、一冊の分厚い本を書くことができるくらいです」。明確な答えが得られなかったわけですが、そんなに簡単に答えることはできないほどの深さがあることは事実でしょう。

実際に聖書の解説書を開いて見ても、いろいろなことが書いてあります。一概に答えることはできないのでしょう。ある説教者がその説教の中で、この謎をめぐってこう言っています。悪霊は神の子だと言うことができた。では私たちがこの言葉を言うことができたのはいつか。それは主イエスの十字架のときだった。十字架の下にいた兵士の一人が「本当にこの人は神の子だった」と言った。主イエスの十字架のお姿を見て、初めて私たちはこの方が神の子であったと告白することができるのであります。

なぜ主イエスが十字架にお架かりになられたのか。それは私たちすべての罪を担い、私たちの代わりに、十字架にお架かりなってくださったからであります。私たちの罪を赦すためです。このようにして、罪に対する勝利を得ることができました。十字架でこそ勝利が決した。悪霊からの攻撃にさらされ、病にもむしばまれる私たちです。そのようにして神から離れることが多い私たちです。それをまさに罪と言いますが、その罪に勝利してくださった。それが十字架であります。十字架の勝利によって、罪からも悪霊からも病からも、私たちは解放されたのであります。

神の目からすれば、私たちは誰もが病人であります。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(五・三一~三二)。主イエスはこのように言われました。

ここでも主イエスは、病と健康を罪の側面から見ているわけですが、主イエスの目から見れば、私たちは罪人であり、だからこそ病人であるのです。神を必要としています。何よりも神による罪の赦しを必要としています。これこそが、病からのまことの癒しであります。医学的な病を得ていていも構いません。神の前に健康に歩む道があるのです。それこそ、主イエスが命をかけて、十字架の上で切り開いてくださった道なのであります。