松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


HOME > 礼拝説教集 > 20101031

2010年10月31日(日)
説教題「悪霊を追い出す」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第4章31節〜37節

 イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった。

旧約聖書: サムエル記上 第16章14〜23節







レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
Jesus Heals a Demoniac/ギュスターヴ・ドレ(Gustave Doré)

Jesus Heals a Demoniac/ギュスターヴ・ドレ(Gustave Doré)

上記をクリックすると作品のある「catholic resources」のページにリンクします。

本日は一〇月三一日であります。一〇月三一日と言えば、何の日でしょうか。日本の社会においては、特別な意味を持つことはありませんが、ドイツなどでは、この日は祝日であります。宗教改革記念日という日であります。宗教改革のことは歴史で習った方も多いと思いますが、一〇月三一日が宗教改革を祝う記念日とされています。

このような記念日を設ける場合、一体どの日をその記念日に設定したら良いのかということを考えなければなりません。宗教改革の結果、プロテスタント教会はカトリック教会から分離することになりましたが、これはあくまでも結果から見ただけであります。最初から分離するつもりで宗教改革が始まったわけではありません。

プロテスタント教会が独立をしたと宣言した日があれば、その日を宗教改革記念日にすればよいのですが、残念ながらそんな日はありません。宗教改革のプロセス自体は徐々に進行していったわけですが、そうしますと、どの日を記念日にすればよいのかという問題が生じるわけです。

一〇月三一日という日がどうして選ばれたのかと言いますと、一五一七年一〇月三一日、マルティン・ルターが、ヴィッテンベルクという町の城門に、九五カ条の提題を掲げた日とされています。このときルターはカトリック教会を離脱して、新しい教会を作りたいとか、そのように考えていたわけではまったくありませんでした。当時の教会のあり方に対して、これで本当に良いのかという問題提起をしたにすぎません。問題提起をして、議論をするきっかけになればと思ったにすぎないでしょう。

しかしこの九五カ条の提題によって、宗教改革が起こったきっかけになったというのは事実であります。そして、この提題が掲げられた日が、宗教改革記念日となったのであります。本日の礼拝では、宗教改革記念日ということもありまして、ルターによる讃美歌を二曲、この説教の前までに歌うことにいたしました。

ルターはこの九五カ条によって、何を議論したかったのでしょうか。この九五カ条は別名「贖宥の効力を明らかにするための討論」とされています。贖宥というものが、問題にされているわけです。贖宥、あるいは贖宥状とも言われますが、これは当時のカトリック教会で盛んに行われていた制度であります。罪の赦しを得るためには、贖宥状というものを、お金を出して買わなければならない、と考えられていたのです。しかもその人が持っている財産に応じて、贖宥状の値段が変わってくるのだそうです。罪の赦しを得るための金額が制度化されていたわけです。

ルターはこの制度に対して、反対をしました。聖書のどこにそんなことが書いてあるのか、と。九五カ条の中の、第三七条でルターはこう記しています。「真実のキリスト者ならだれでも、生きている者も死んでいる者も、贖宥の文章なしで神から彼に与えられた、キリストと教会とのすべての宝にあずかっている」。このようにルターは、当時の教会の贖宥という制度をめぐって、議論をしたかったのであります。本当にこれで良いのか、と。

宗教改革は英語で言いますと、”Reformation of Church”と言います。Reformationは家のリフォームなどとも言いますが、改革ということです。Churchは教会でありますから、教会の改革であります。宗教改革と言うよりも、教会改革と言った方が私は正確だと思います。いずれにしましても、ルターの時代、教会は改革を必要としておりました。ルターをはじめとする改革者が何人も現れ、そしてカトリック教会から結果的に離れて独立する教会がいくつも現れることになりました。

その結果、カトリック教会の方も贖宥を止めて、カトリック教会内部の改革も進んでいったのです。歴史的には、これを対抗宗教改革などと言います。このように、教会はたえず、自分たちのことをそのつど吟味せざるを得ない、本当にこれで良いのかと問わざるを得ない状況に陥ってきたのであります。

教会の中はこの世界と違って「清い」と考えられることもあるかもしれません。聖書の中にも、どこどこ教会に召されて聖なる者とされた者たちへ、という手紙の書きだしがありますが、これは教会が清いだとか、教会に集っている人が清いと言っているわけではありません。

聖なる者というのは、神によってその教会に召されている者、という意味です。皆さまですと、神によって松本東教会へと召されている、聖なる者たちへ、ということになります。決して教会に集っている者が、汚れなく、清いということを意味しているのではないのです。むしろ、よく言われることですが、教会は罪人の集まりであると言わなければなりません。教会の歴史を学べば学ぶほど、そのことが分かってくるとさえ言ってもよいのです。

本日、与えられた箇所の三三節にこうあります。「ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。」(三三節)。主イエスはこのとき、カファルナウムの街で礼拝をしておりました。礼拝はその街の会堂で行われておりました。礼拝は、先週与えられた箇所にありますように、おそらくナザレの街で行われた礼拝と同じスタイルだったでしょう。聖書朗読がなされ、説教が語られた。

カファルナウムでもそのように行われて、主イエスが御言葉を語ったのだと思われます。その礼拝の途中だったのか、あるいは礼拝が終わった直後だったのかは分かりませんが、ある出来事が起こりました。汚れた悪霊に取りつかれた男が叫び出すのです。汚れた悪霊が、礼拝をしている会堂の中にまで、入り込んでいたのであります。

悪霊に取りつかれた男はどんな男だったのでしょうか。聖書を読む限りでは、この男がどんな男だったのかはまったく分かりません。この福音書を記したルカは、そのようなことには関心を示していないのです。この男に悪霊に取りつかれるだけの弱さがあったとか、悪霊に取りつかれて当然の男だったとか、そんなことにはまったく触れられておりません。また、現代の精神的な病とこの男を重ね合わせることもまた、誤った方向へと私たちを導いてしまうことになるでしょう。

ルカはここでわざわざ丁寧な言葉遣いをして、「汚れた悪霊」(三三節)という言葉を用いています。「汚れた」という言葉と、「悪い」という言葉を二つ重ね合わせて、主イエスがたえず導かれてきた「聖なる霊」とは正反対のものを描き出そうとしたのかもしれません。

汚れた霊でも悪霊でも構わないのですが、私たちがこの言葉を聴くと、どのようなイメージを抱くでしょうか。日本的なイメージで言いますと、私たちに何か悪い作用を及ぼす霊であると考えられるかもしれません。不幸が起こるとか、病気になるとか、先祖にたたられるとか、そのような悪いイメージを呼び起こすことになるでしょう。

しかし私たちはそのような霊の存在を信じることはありません。むしろ、聖書が言う悪霊をしっかりとわきまえなければなりません。ルカによる福音書のこの箇所以降、たくさんの悪霊が出てきます。そして多くの悪霊を主イエスが追い出しておられます。あるときには、悪霊の頭であるベルゼブルという名前の悪霊も出てきます。それらの悪霊が何なのか、私たちにどんな影響を及ぼすのかということを、しっかりと捉えておかなければならないでしょう。

まず考えたいのは、悪霊がこの男に叫ばせている言葉です。「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」(三四節)。驚くべきことに、悪霊は主イエスの正体を知っています。神の聖者であると知っているのです。カファルナウムの街の人々は、ここまでは気付いていなかったかもしれませんが、悪霊はそのことを知っているのであります。

そして悪霊が何よりも主イエスに対して言いたかったことは、「かまわないでくれ」という言葉であります。「かまわないでくれ」、この言葉はかつての口語訳聖書では、「あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです」と訳されておりました。悪霊としては、神とのかかわりを持ちたくないのであります。神に勝つ見込みがないからです。だから、係わらないでくれ、かまわないでくれと言うのであります。

悪霊にとって、何よりも恐れていたのは、神とのかかわりの中に置かれるということです。神から離れて、神と無関係のところにいたかった。そして自分だけでなく、他の者も神から引き離させたかった。悪霊の考えはそうなのであります。数週間前に、ルカによる福音書の第四章の冒頭にあります、悪魔から主イエスが誘惑を受けられる箇所から御言葉を聴きました。そのときにも申し上げましたが、悪魔は人を神から引き離そうとします。

この意味で、悪霊も悪魔と同じであります。同じ目的を共有している。聖書の言葉としては、もちろん悪魔と悪霊は違う言葉が用いられていますが、その目的は同じなのです。人を神から引き離そうとする存在、それが悪魔であり、悪霊なのであります。

悪霊に取りつかれると、神との関係が壊れてしまうというのは言うまでもありません。そして、神との関係が壊れることは、その人の生活が破綻するということにもつながるのです。今日与えられております聖書箇所に出てくる悪霊に取りつかれた男が、普段どのような生活をしていたのかは分かりません。少なくとも彼は、礼拝の中にいることはできました。しかし大切な礼拝の最中で、大声で叫び出す始末でありました。人々の中で、共同体の中で生活するには、少し支障もあったのかもしれません。

同じルカによる福音書には、悪霊に取りつかれていた別の男が登場します。この男の場合、状況はもっとひどいことになっています。彼は墓場を住まいとしていました。鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されているという生活でありました。それほどまでに、彼は悪霊によって、生活が破綻させられていたのであります。

主イエスが戦われたのは、この悪霊に対してであります。人をむしばみ、神から引き離すだけではありません。その生活を根本のところから破綻させる力をも持っています。そして主イエスはこの悪霊に勝利をされました。そのときの様子が、三五節に記されています。「イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。」(三五節)。

本日与えられました箇所は、マルコによる福音書にも同じ物語が記されています。しかもその言葉使いも、ほとんど同じであります。しかし一つ大きく異なっているところがあります。それは今お読みいたしました三五節の中の言葉、「悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。」(三五節)というところであります。悪霊が去ったのち、この男がどこに置かれたかと言うと、「人々の中」であります。しかもこの男は「何の傷も負わ」されることはありませんでした。

つまり男は共同体に、何の傷もなく復帰することができたのであります。主イエスはただ悪霊を追い出されたのではない。破綻していた生活から立ち直らせ、共同体へと復帰させられた。しかも共同体の中の一人の礼拝者として、完全に復帰することをお許しくださったのであります。この意味で、主イエスは悪霊に対して、完全な勝利を成し遂げてくださったのであります。

主イエスが勝利をされた勝利のお姿は、私たちにとってとても頼もしい姿であります。言うまでもないことですが、主イエスが悪霊に勝利されたように、私たちが単独で悪霊と戦い、勝利をするというのではありません。そんなことできるはずがありませんし、逆に私たちが悪霊にやられてしまうことも目に見えています。

汚れた悪霊に取りつかれたこの男が私たちの目の前にいたとしたら、私たちには何の力もありません。この男を癒すことなど、私たちにはできません。逆に私たちが取りつかれてしまうかもしれません。私たちができること、そしてすべきことは、このお方に悪霊を追い出していただくことであります。

この説教の後で、讃美歌を歌います。「主われを愛す」という讃美歌です。誰でもこの讃美歌をご存じでありましょう。子ども向けの讃美歌であるかもしれません。もともと、これは英語の讃美歌であります。英語の歌詞をそのまま直訳するとしたら、もう少し違う日本語になるかもしれませんが、日本語の歌詞もまた、味わい深いものであります。「主われを愛す、主は強ければ、我弱くとも、恐れはあらじ」。

この讃美歌が歌いますように、悪霊の力がどんなに強くとも、主イエスが私たちの味方でいてくださる限り、恐れる必要はないのです。私たちが弱くとも、主イエスは強くいてくださるからであります。

主イエスのこの力強さは、主イエスが語られる言葉にも表れていましたし、悪霊を追い出すという行為にも表れていました。主イエスの言葉にも行為にも、権威と力があったのです。人々はただその言葉、その行為に驚くばかりでありました。

本日与えられた箇所に、二か所、驚くという言葉が出てまいりました。三二節には「人々はその教えに非常に驚いた。」とあります。そして三六節には「人々は皆驚いて、互いに言った。」とあります。ついでに申しますと、先週の聖書箇所であります第四章の二二節にはこうあります。「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。」(四・二二)。

驚きという言葉が連続して用いられています。日本語だと「驚く」という同じ言葉でありますが、実は元の言葉ではすべて違う言葉が用いられています。同じ驚くにしても、いろいろな驚き方があることを、様々な言葉で表していると言えます。

私たちは神がなさることに、いろいろな形で驚かされるのであります。驚くべき御業を見させていただく、体験させていただくのです。そして驚いたからには、私たちは変わっていきます。私たちの共同体も変わっていきます。そもそも何の変化もない中に置かれていたら、驚くということも起り得ません。

神の言葉に触れ、力に触れ、私たちは驚く。そして私たちは変化していく。汚れた悪霊に取りつかれた男が癒され、彼は共同体に復帰しました。彼が癒されたのはもちろん大きな変化ですが、彼が復帰した共同体にとっても大きな変化でありました。人々は神の御業に驚き、ますます神を讃美する共同体へと変えられていったのであります。

この説教の冒頭で言いましたように、本日は宗教改革記念日であります。私たちの松本東教会は八〇年、九〇年の歴史がありますが、その発足当初、日本基督教会というグループに属しておりました。長老制度を採用し、改革派、あるいは改革長老派というグループに属する教会であります。このグループのルーツをずっと辿っていきますと、スイスのジュネーブで活躍した改革者のカルヴァンにたどり着きます。

この改革派の教会が改革をするにあたって、こんなスローガンのもとで改革を行っていきました。「御言葉によって常に改革される教会」。五百年前の改革によって、改革がなされたらそれで万事がよいというわけではありません。常に改革していく必要がある。その時代の新しいものを取り入れるというわけではありません。御言葉によって、という言葉を付け加えるのです。

御言葉によって、常に改革を進めていくのです。そのためには、私たちは御言葉を聴きます。そしてその御言葉に驚く。そうすると私たちはそのままではいられない。私たちも教会は変わっていくのであります。私たちも教会も、御言葉によってさらに前進してするのであります。