松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2010年10月24日(日)
説教題「思い込みからの脱却」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第4章22節〜30節

 皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

旧約聖書: 列王記 第5章1〜14節







かなめ石

断崖の山(Mount Precipice)
ナザレ/イスラエル


 先週の月曜日から火曜日にかけて、教師向けの研修会でありました。そこに私も参加をしてきました。会場は山梨県の甲府でありましたので、長野県内の牧師と三人で車に乗り合わせて、甲府へ向かいました。その車内で、ある牧師がこんな話をしていました。母教会から説教に来て欲しいとの依頼があった。しかしそれは断っている。預言者は故郷では敬われないからね、と言って笑って話しておられました。もちろん牧師と預言者は違うわけですけれども、牧師同士が会話をすると、このような話題になることがあります。

預言者が故郷では敬われない、これを牧師に当てはめて言いますと、牧師が母教会では敬われない、ということになるのだと思います。果たしてそうなのでしょうか。私はこう思います。牧師が母教会に行くと、ちゃんとした牧師として敬われないということが起こる。変な意味で敬われてしまうと思うのです。母教会ですと、その牧師にとっては、自分のことを小さいときから知っている人がいたりします。

昔の君はやんちゃだったねとか、教会学校の先生の手を焼かせていたのよとか言われます。私はあなたが赤ちゃんだった頃に、抱っこしたこともあるのよ、それが今ではこんな立派な牧師先生になって、と言われてしまうのです。もちろん牧師にとって、母教会は大事であり、母教会で支えてくださったことは、大変有難いことだと思っています。しかし母教会以外では決して言われない言葉を言われてしまうのも事実であります。

私が存じ上げている先生で、神学校を卒業し、自分の母教会へ赴任した方がいます。赴任した最初は、とても苦労したようです。赴任すると、自分が小さい頃からお世話になった方々がたくさんいます。自分にとってお世話になった方々は、赴任した今でも、やはりお世話になった方々には変わりないのです。そうしますと、その方々をなかなか牧会するという目で見ることができないのだそうです。お世話になった先生は、やはりお世話になった先生のままという状態が続く。その見方から脱却するまでに、十年かかったとその先生は言われました。

母教会、出身教会に牧師が赴任するときには、他の教会では起こり得ないことが起こってしまうのです。そこでは、教会員が変な先入観を持って牧師を見ることになってしまいます。そしてそれは牧師にとっても変わるところがありません。教会員を変な視点で見てしまうということが起こってしまうのであります。母教会に説教奉仕に行かない、断っている先生も、このことを考えておられるのかもしれません。

本日、私たちに与えられた聖書の箇所にも、主イエスが故郷では敬われなかった話が記されております。主イエスご自身が言われています。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。」(二四節)。ここで起こった出来事は、主イエスのこの言葉通りの話であります。

先週、私たちに与えられた聖書の箇所は、本日の箇所に先立つ第四章一四~二一節でありました。先週と今週の箇所は、二一節と二二節のところで区切ったことになります。ずいぶん中途半端なところで区切ったな、と思われる方もおられるかもしれません。たしかに、この話は同じ日の同じ出来事であります。一連の出来事です。しかし、二一節と二二節の前後では、テーマがずいぶんと変わってくるように思えます。

二一節までは、主イエスが聖書を読まれ、その聖書の言葉をもとに説教を語っておられます。しかし二二節以降では、主イエスの説教が終わった後の話しであり、その説教に対する人々の評価に関することに、話題が移っています。しかもその人々は、主イエスの故郷であったナザレの人々です。「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」という主イエスの言葉が鮮明になってきているのです。

人々は主イエスをどのように評価したのでしょうか。そのことが二二節に記されています。「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」」(二二節)。主イエスに対するいろいろな評価の言葉が出てきます。

まずはほめるという言葉です。ほめると言いますと、よい意味でほめることであるとまず思います。しかしこの箇所を読みますときに、単純にそうだったとは言えない面もあると思います。ほめるという言葉、ここで用いられている言葉のもともとの意味は、証言する、証しをするという意味になります。実際に他の聖書箇所では、証言をする、証しをするという訳になっていることが多い。それを、この箇所ではほめるというように訳しているわけです。たしかにこの言葉にそういう訳を当てはめることができることは否定できないでしょう。

証言をする、証しをする場合に、考えてみますと、良い方向に証言をすることもできれば、悪い方向に向かっても証言することもできます。あの人はどういう人だと評価をするわけですが、あの人にはあんなすばらしいところがあると証言することもできます。逆に、あの人のこんなところは良くないところだと証言することもまた可能です。

この聖書箇所では一体どちらなのかということが問題になります。いろいろな聖書の翻訳を比べてみますと、大多数がほめる、つまり良い方向に証言しているように訳しています。悪い方向に証言しているように訳しているのは少数派です。しかし、ほめるという言葉には、少なくとも単純に、手放しにほめるというだけではなくて、裏の意味が隠されていることは、踏まえておいた方がよいと思います。

さらに、驚くという言葉が、二二節にはあります。これもほめると同じように考えることができます。驚くのも、良い意味で驚くのと、悪い意味で驚くのと、二通りの驚きがあることはすぐに分かります。イエスさま、あなたはすばらしい、驚きました、あなたを救い主として信じますという場合もあれば、「この人はヨセフの子ではないか」という驚きもあるでしょう。たかがヨセフの子なのに、なぜこんな驚く言葉を語ることができるのか、という場合もあるのです。

このように考えていますと、主イエスに対する人々の評価は、とても複雑であることが分かります。単純に手放しにほめたとは言えません。どうしてこんな評価になってしまったのでしょうか。二三節に「カファルナウムでいろいろなことをした」と記されていますが、カファルナウムやナザレ以外の街では、こんなことにはならなかったのかもしれません。

ナザレ出身の主イエスが、生まれ故郷に帰って来た。そうすると、人々は変な先入観を持って、主イエスのことを見てしまうのです。「この人はヨセフの子ではないか。」(二二節)という言葉が、一番よくそのことを表していると思います。人々は、主イエスのことを何の先入観も持たずに見ることはできず、色めがねを付けて見ざるを得なくなっていたのであります。

その人々の心の奥底にある思いを言い当てている主イエスの言葉が記されております。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」(二三節)。「医者よ、自分自身を治せ」ということわざは、当時のよく知られたものであったようです。医者が他人を治療するけれども、自分自身をも治療せよ、ということわざです。

カファルナウムでもしたのだから、あなたの故郷でも同じことをすべきだろうと人々は考えるわけです。いや、人々の心の中にあったのはそれ以上のことかもしれません。カファルナウムでしたのだから、この故郷に対しては、もっとすごいことをして当然だろう。昔からよく知っている仲だし、それが当然ではないかと、人々は心の奥底で思っているのであります。

人々のその思いとは裏腹に、主イエスはさらに言葉を続けます。かつての預言者エリヤとエリシャの話を持ち出すのです。人々にとってはよく知られた話であったでしょう。しかもエリヤとエリシャは有名人で、偉大な預言者でありました。エリヤとエリシャ、それぞれの話には共通点があります。

エリヤが遣わされたのは、ユダヤ人のやもめのところではなく、異邦人のやもめのところだけに遣わされた。エリシャが遣わされたのは、ユダヤ人の思い皮膚病を患っている者のところではなく、異邦人のナアマンのところだけだった、という話です。エリシャの話に関しては、先ほどお読みいたしました旧約聖書の箇所にある通りです。

ユダヤ人にとって、自分たちは救いの内側、異邦人は救いの外側という考えがありました。そういう先入観です。思い込みです。ところが、主イエスは言われるのです。エリヤとエリシャのあの話を思い起こしてごらんなさい。救いの外側と思われていた異邦人のところだけに遣わされたではないか。あなたたちの思い通りにはならないのだと、はっきり言われたのであります。

主イエスのこの言葉は、ますます人々の怒りをかうような言葉になってしまいました。火に油を注ぐかのような言葉です。主イエスがこのことばを封印しておかれれば、人々からこれほどまでの怒りはかわなかったかもしれません。自分の思っていたことをずばりと言い当てられると、逃げ道がなくなってしまうものです。反論する言葉が出て来ない。そしてそれが怒りという感情に結びついてしまうのであります。

なぜ、主イエスはこれほどまでにはっきりと言われたのでしょうか。なぜこれほどまでの怒りをかうような言葉を口にされたのでしょうか。主イエスがこれほどまでに激しい言葉を口にしなければならない理由があったはずです。その理由とは何でしょうか。

ナザレの人々が抱いていたのは、この人はこの町が故郷なのだから、特別なことをしてくれるはずだという思い込みです。「医者よ、自分自身を治せ」(二三節)というのも、「カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ」(二三節)というのも、その思い込みの表れです。もしあなたがこの町の人間なら、これこれのことをしてみろ、と言っているわけです。

鋭い方はお気づきかもしれませんが、今の言葉は、どこかで耳にしたことのある言葉ではないでしょうか。二週間前には、主イエスが悪魔から誘惑を受けられる箇所から御言葉を聴きました。第四章の初めの箇所であります。ここには悪魔からの誘惑の言葉が記されています。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」(四・三)。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。」(四・九)。もしあなたがこういう人物なら、これこれのことをしてみたらどうだ、と悪魔は誘惑しているわけです。主イエスを本来の救い主の姿から遠ざけようとする誘惑です。

さらに同じような言葉を加えるとすれば、主イエスが十字架にお架かりになったときに、人々から投げかけられた言葉も忘れることはできません。十字架の下にいた人々は主イエスに言います。「他人を救ったのだ。もし、神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」(二三・三五)。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」(二三・三七)。一緒に十字架につけられていた犯罪人の一人も言います。「お前はメシアではないか。自分自身とわれわれを救ってみろ。」(二三・三九)。

ナザレの街で人々から言われた言葉も、悪魔から誘惑を受けられたときに悪魔から言われた言葉も、十字架にお架かりになったときに周りの人から言われた言葉も、いずれも主イエスにとっては誘惑の言葉です。もしあなたがこういう人なら、こういうことをしてみろと迫ってくる言葉です。主イエスを本来の救い主の座から引き下ろしてしまうような言葉であります。

ナザレの人々にとって、「カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ」(二三節)というのは、何気なく抱いた思いかもしれません。ナザレは田舎町です。少しでもこの町を良くするために、ひと肌脱いでくれという思いだったのかもしれません。しかしその思いが悪魔の思いとさえ等しくなってしまう、これはとても恐ろしいことであります。主イエスというお方を、変な思い込みや先入観をもって見てしまうと、恐ろしいことになってしまうのです。主イエスはその思いをはっきりと戒められます。大した問題ではないなどと、妥協はされないのです。

私たちにとっても、救い主を思い込みや先入観をもって見てしまうことがあるかもしれません。神さま、あなたが救い主なら、私の困難な状況を打開してくれるはずだ。私はあなたを信じている、だからきっと祝福があるはずだ。あの人の病が癒されたのだ、だから私の病も癒してくださるはずだ。こういう私たちの思いを挙げていけば、きりがない。際限なく出てくることでしょう。

本日、私たちに与えられた聖書の言葉を通じて、そのような思いから脱却しなさいと神が私たちに言われています。あなたの救い主を、思い込みや先入観を持って見ることを止めなさい。色めがねをはずしなさいと言われているのです。

そして、その思い込みから脱却したとき、色めがねをはずしたときに見えてくる本当の救い主の姿があるはずです。それこそが、十字架にお架かりになった救い主の姿です。私たちの罪のために、私たちの代わりに十字架にお架かりくださり、死んで、お甦りになった。このお方によって、私たちが新しい命を得ることができるようになったのです。私たちはこの救い主のお姿を仰ぎ見ることができるようになるのであります。

本日、与えられた聖書の箇所の最後の部分が、私たちにとって、何よりの福音です。「しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。」(三〇節)。具体的な状況は分かりません。人々が怒りのあまり混乱してしまい、主イエスを見失ってしまったのでしょうか。いずれにしても、主イエスはその場から立ち去られました。まだ十字架の時ではなかったからです。二九節などは、主イエスの十字架の出来事を暗示しているかのような箇所ですが、まだその時ではなかった。

主イエスが人々の間を通り抜けて立ち去ってくださったからこそ、十字架の出来事が起こりました。その出来事を見て初めて私たちは本当の救い主の姿を知ることができたのです。思い込みや先入観から解放されたのです。色めがねなしで、救い主を見ることができるようになったのです。あらゆる誘惑や、人々からの思い込みに屈服することなく、主イエスはまことの救い主としての歩みからそれることがなかった。救い主であることを貫いてくださったのです。このお方こそが、私たちの信じている救い主なのであります。