松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2010年10月17日(日)
説教題「聖書の言葉が、今日、実現する」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第4章14節〜21節

 イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

旧約聖書: イザヤ書 第61章1〜4節







かなめ石

シナゴーグ・チャーチ(Synagogue Church)
ナザレにある古代の会堂跡の教会
ナザレ/イスラエル

 松本東教会の礼拝は十時半から始まります。礼拝に先立ち、司式・説教をいたします私と、奏楽をする者と、献金感謝の祈りを献げる者が集まりまして、祈りをして、礼拝に備えます。そしてその祈りが終わると、私は礼拝堂の前の席に座り、礼拝開始時刻の十時半を待つことになります。

礼拝堂に入られた皆さまも、ご挨拶を済ませ、ご用のある方は用事を済ませて、十時半の礼拝に備えることになります。初めのうちはまだ礼拝堂の中は、少しガヤガヤしているかもしれません。しかし、礼拝開始一〇分前にもなりますと、先ほどとはうって変わり、この礼拝堂は静寂に支配されます。話をされる方は誰もいない。誰もが口を閉ざし、礼拝に備えるのです。

私はこの静けさがとても好きです。そして皆さまの礼拝の心をよく表していることだと思います。この静けさは、神が語られる言葉を待つ静けさです。今日、神は私たちにどのような言葉を与えてくださるのだろうか。ほかのどの日でもない、今日という日に、どのような御言葉を聴くことができるのだろうか。皆さまのそんな思いが、この沈黙によく表れているのではないかと思います。

ついでに申しますと、私は前日の土曜日に、週報の印刷をするために、この場にやってきます。明日の礼拝のために、奉仕をしてくださる方にお会いすることもありますが、たいていの場合は私一人だけです。週報の印刷をまず終え、ここの講壇に立ちまして、明日の礼拝の聖書の箇所にしおりを挟みます。

そして聖書朗読の練習をいたします。マイクは使いませんが、静かな礼拝堂に私の声が響き渡ります。そして明日、語るべき言葉を思い浮かべます。私はこの一週間、御言葉を語るための備えをしてきたのですから、こんなことを言うのはおかしなことかもしれませんが、神は一体どんな言葉を、私たちに与えてくださるのだろうかと思い浮かべます。

この時間も、とても静かな時間です。礼拝前の沈黙の時間と等しく、とても静かな時間です。私たちがこのような沈黙に支配されるのは、御言葉を待つ時間です。神がお語りくださる、その御言葉を沈黙して待つ。神の前に沈黙することは、私たちにとって、とても大切な時間であります。

同じような沈黙が、本日与えられた聖書箇所にも記されていました。主イエスが聖書を朗読される。そしてその後、口を開いて、主イエスが言葉を語られるわけですが、その言葉を待っていた聴衆も、沈黙に支配されました。二〇節にこうあります。「イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。」(二〇節)。

ここには沈黙という言葉や、聴衆が静まり返っていたというような言葉はありません。しかし、そこにいたすべての者が、沈黙をしていたことは手に取るように分かります。一体、この人からどんな言葉が出てくるのだろうか、人々はそう思ったのです。

本日与えられた聖書箇所に、当時の礼拝のスタイルが描かれていると思います。礼拝のために会堂に人々が集まるわけですが、そこでは聖書朗読がなされる。係の者がいて、その人が会衆の中から選ばれた者に、聖書を手渡し、朗読をしてもらう。この聖書は私たちが今持っている本の形式ではなくて、巻物です。巻物を開いて、聖書朗読が行われました。

朗読する箇所は比較的自由に選べたようです。朗読は立って行われます。それが終わると、係の者に聖書を返却する。そして今度は座って、その聖書に関する教えを、今の私たちで言う説教に相当することを、朗読した人が行う。当時はそのような礼拝のスタイルであったようです。

主イエスはこのとき生まれ故郷であったナザレにおりました。ナザレの街の会堂で、礼拝を守られていたのです。聖書朗読と説教の当番に指名されたわけです。主イエスがこれから説教を語ろうとされるときに、なぜ、すべての人の目が注がれるような沈黙になったのでしょうか。主イエスはナザレの出身で、ナザレの街を出て、活躍をする。一四節から一五節にかけて、こうあります。「イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。」(一四~一五節)。

ナザレはガリラヤの近くでありますから、主イエスの評判もナザレにまで伝わっていたと思われます。自分たちの間で育ったあのイエスが、どうやら評判の人になり、皆から尊敬を受けているらしい。その主イエスが礼拝での当番に当たった。この人から一体どんな言葉が語られるのだろうか。主イエスは、そこにいたすべての人の注目を浴びたのであります。

主イエスが朗読された聖書の言葉は、イザヤ書の言葉でありました。本日、お読みしました旧約聖書の一部であります。旧約聖書のイザヤ書の言葉とそっくり同じではありませんが、ルカはイザヤ書第六一章一~二節を引用しています。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、/主の恵みの年を告げるためである。」(一八~一九節)。

主イエスが聖書を開いたらたまたまこの箇所だったのか、それともあえてこの箇所を選ばれたのかは分かりません。いずれにしましても、そのときに最もふさわしい聖書の箇所が与えられたことは間違いないでしょう。「主の霊がわたしの上におられる」という言葉で始まります。これ以上の言葉はありません。なぜなら、主イエスが霊に導かれて歩んできたからです。

主イエスが洗礼を受けられたときの様子が、第三章の終わりのところに記されています。「洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。」(三・二一~二二)。

洗礼を受けられた後、主イエスは誘惑をお受けになられます。この誘惑を受けられたときも、主イエスは霊によって導かれたと記されています。「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。」(四・一~二)。

そしてガリラヤに帰られたときもそうです。「イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。」(一四節)。主イエスはこのように霊と共に歩まれてきました。そして「主の霊がわたしの上におられる」という箇所で始まる聖書の言葉が与えられる。これ以上ふさわしい言葉はないと言ってもよいでしょう。

このあとに続く言葉も、主イエスの歩みを見れば、いかにふさわしい言葉であったかが分かります。主イエスの歩みとは、まさにここに書かれている歩みの通りです。預言者イザヤがかつてイスラエルの民に対して、救いが到来するという預言をしました。そのときはまだ実現しなかったかもしれないことが、今日、ここで実現するのです。主イエスというお方がやってきて、これらのことが実現されるのであります。

主イエスのこの聖書朗読に引き続いて、説教が語られます。その説教の最初の言葉はこうでありました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」(二一節)。主イエスの説教のすべての言葉がここに記録されているわけではありません。おそらく、主イエスの説教の最初の言葉だけが、記録されたのではないかと思います。

ルカによる福音書から御言葉を聴き続けている私たちですが、この箇所に至るまで、あまり主イエスご自身の言葉に出会わなかったのではないでしょうか。先週、御言葉を聴きました悪魔から誘惑を受ける箇所では、主イエスと悪魔が対話をしながら戦っています。主イエスが語られたことが記されていますが、これらはすべて聖書の言葉です。主イエスのオリジナルの言葉というわけではありません。

主イエスご自身の言葉と言いますと、主イエスが十二歳だったとき、少年時代の言葉は記録されています。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」(二・四九)。これを例外として扱いますと、大人になられてからの主イエスの生の言葉は、これが初めてであります。そしてこの言葉こそ、主イエスがここで語られた説教の中で、最も大切な言葉なのであります。

とても面白い言葉です。実現するのは「今日」という日です。昨日でも明日でもありません。しかも、「あなたがたが耳にしたとき」です。聖書の言葉というのは、もちろん著者がまず記します。ルカによる福音書でしたらルカがまず書きます。そしてその書かれた言葉が読まれます。朗読されます。その朗読を耳にする者がいます。そして耳にしたそのとき、今日という日に、その言葉が実現すると主イエスは言われるのです。

このとき主イエスが強調して言われたのは、この聖書の言葉は、書かれた過去の日にもう実現して、それっきりというのではない。将来のある日に実現するだろうというのでもない。今日、この箇所が読まれたときに、この言葉が実現したと言われるのであります。

ルカによる福音書では、今日という言葉が一つの大切なキーワードになっています。たくさんの箇所を挙げることもできますが、そんな暇はありませんので、二つの箇所だけに触れたいと思います。

一つはザアカイの物語です。税金を徴収する仕事をしていたザアカイは、ある日、主イエスと出会います。ザアカイは背が低かったので、群衆に遮られて、主イエスのことを見ることができませんでした。そこで木に登った。すると主イエスの方からザアカイが登っていた木のところに来られ、言われます。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(一九・五)。ザアカイは喜んで降りて来て、喜んで主イエスを家に迎えます。

そして主イエスが家でこう言われました。「今日、救いがこの家を訪れた。」(一九・九)。ザアカイにとっての救いの日を、主イエスは今日と言ってくださいます。他のどの日でもありません。ザアカイが主イエスに出会った日が今日という救いの日です。もちろんこのときにイザヤ書第六一章の言葉をザアカイが耳にしたわけではありません。しかし主イエスと出会うことによって、イザヤ書に記されている言葉と等しいことが、ザアカイにとって実現するのです。主イエスとの出会い、それが救いにつながります。

もう一つ、取りあげておきたいのは、主イエスが十字架にお架かりになったときのことです。主イエスの右と左に、それぞれ犯罪人が十字架につけられておりました。犯罪人の一人が主イエスを罵りましたが、もう一人がそれをたしなめて、主イエスに言います。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」(二三・四二)。主イエスが答えて言われます。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」(二三・四三)。

おや、と思われるかもしれません。先ほど唱えた使徒信条のように、主イエスは十字架で死なれ、陰府に降られました。復活されたのは三日目です。そして天に挙げられたのはもっと後のことです。「わたしと一緒に楽園にいる」と言われましたが、主イエスが実際に行かれたのは「今日」という日ではなかったはずです。しかし、主イエスは「今日」と言われました。その犯罪人にとっては、主イエスとの出会いの日です。犯罪人にとっての救いの日が今日であり、今日こそが、その救いの実現の日なのであります。

このように、ルカによる福音書の「今日」という言葉を辿っていきますと、いろいろな人が主イエスと出会っていることが分かります。しかも主イエスが、その者たちに救いをもたらしてくださっている。その救いの日、それが「今日」という日です。その「今日」という日が、次々と起こっているのです。

主イエスというお方は、決して過去の人ではありません。主イエスが地上を歩まれたその時代の人だけに、出会ってくださっただけではないのです。その後を生きた人たちとも出会ってくださいましたし、今を生きる私たちとも出会ってくださいます。そして救いへと導いてくださいます。私たち一人一人にとっても、「今日」という日があるのです。救い主に出会う「今日」という日が与えられるのです。

今日は二〇一〇年一〇月一七日という日であります。そして今日のこの日も私たちにとっては新しい「今日」であります。今日という日は、二度と返ってくることのない日であり、今日も新たに神の恵みが注がれる日です。今日は今日ならではの恵みがあるのです。

今日の礼拝でも、私たちは主イエスにお会いしています。礼拝で聖書が読まれ、説教が語られる。「今日」という日に、私たちに一番ふさわしい聖書の言葉が与えられ、神の言葉を聴くことができます。主イエスが「あなたの救いは、今日、実現した」と宣言してくださいます。だからこそ、私たちは沈黙をして、御言葉を待ちます。「今日」という日に、神が私たちに最も必要なことを語りかけてくださることを信じ、私たちは御言葉を待ち望むのです。

先月のことになりますが、九月二〇日にこの教会の教会員であります方のゴスペル・コンサートが行われました。歌われた曲は全部で六曲です。最後に歌われた曲が、”This is the day”という曲でありました。「この日は主が造られた。我らは喜ぼう、この日をば」という歌詞で歌います。この曲は詩編の言葉がもとになっています。「今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び踊ろう。」(詩編一一八・二四)。私たちもこの詩編の言葉のようでありたいと思います。今日もまた、神が新たなことを私たちにしてくださるのです。