松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2010年10月10日(日)
説教題「誘惑との戦い」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: ルカによる福音書 第4章1節〜13節

 さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、/あなたをしっかり守らせる。』また、/『あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。』」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。

旧約聖書: 申命記 第8章1〜10節







レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
曠野のイエス・キリスト(Christ in the desert)/イワン・ニコラーイェヴィチ・クラムスコイ(Иван Николаевич Крамской,)

曠野のイエス・キリスト(Christ in the desert)/イワン・ニコラーイェヴィチ・クラムスコイ(Иван Николаевич Крамской,)
トレチャコフ美術館 蔵(State Tretyakov Gallery)
(モスクワ/ロシア)

上記をクリックすると作品のある「wikipedia」のページにリンクします。

 本日私たちに与えられました聖書の言葉は、私たちにいろいろなことを考えさせます。主イエスが悪魔の誘惑に遭われる。悪魔と戦われて勝利をされる。主イエスのお姿は、私たちにとって頼もしいものであります。福音書は主イエスの勝利の様子を伝えているのでありますが、ここから様々な疑問が浮かびます。主イエスの勝因は何だったのか。私たちが誘惑に遭った場合はどうすればよいのか。主イエスのようにいくだろうか。そもそも主イエスはなぜ誘惑を受けられたのか。悪魔の質問の意図は何だったのか。いろいろな問いが次々と浮かんでくるのであります。

 福音書には多くのことは記されていません。主イエスが誘惑に遭われて、悪魔とのやり取りが載せられているだけです。主イエスと悪魔以外に、少なくとも他の人間は出て来ないのです。私たちが主イエスと悪魔の戦いの間に割って入るようなことはできません。しかし私たちの頭の中に浮かんだ様々な問いに答えるためにも、まずしっかりと私たちの心に、主イエスが悪魔と戦われたことお姿を焼きつけなければなりません。まず悪魔に勝利されたことを心に刻まなければならないのであります。

 本日の聖書箇所から、ルカによる福音書の第四章が始まります。しかしここで一区切りというわけではありません。この福音書を記しましたルカが、章や節の区切りをつけたわけではなく、もともとは連続した文章でありました。そう考えましたときに、この箇所は主イエスが洗礼を受けられた話の続きであり、主イエスの系図の直後の箇所ということになります。

 主イエスが洗礼を受けられたときに、天からの声が響いていたということを、ルカは記録しております。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(三・二二)。天の父なる神から主イエスに対して、あなたは愛する子であり、わたしの心に適う者であると言われているわけですが、具体的にどういう意味で、心に適う者なのでしょうか。

 その答えが、続く系図に暗示されています。この系図では、主イエスの父親であるヨセフから遡っていきますと、イスラエルの偉大な王様であるダビデや信仰の父であるアブラハムだけでなく、人類最初の人アダム、そして神にまで至ります。アダム以来の人類の罪をその身に背負うために、主イエスはこの系図に名前が刻まれたわけです。

 そして第四章の誘惑の箇所、この箇所ではさらに主イエスがどんな救い主であるのかが、明らかにされています。悪魔の三つの誘惑の言葉がここには記されています。もしもその誘惑に負けてしまい、悪魔に屈服してしまうならば、私たちが知っております主イエスの救い主のお姿が変わってしまいます。別の救い主になってしまうのです。そしてそのお姿は、父なる神の御心に適わないものとなってしまったでしょう。

 ですので、この箇所は主イエスがどのような救い主であるのかが示されていると共に、主イエスが誘惑によってぶれずに、まことの救い主であることを貫いてくださったことが記されています。

 第一の誘惑に着目したいと思います。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」(三節)。悪魔は主イエスが神の子であることを知っています。しかも石をパンにできるほどの力があることも知っています。実際、主イエスは五つのパンと二匹の魚で五千人以上もの人のお腹を満たしました。このときは、石をパンに変えたわけではありませんでしたが、主イエスはこのような力をお持ちです。そのことを悪魔が分かっていたからこそ、囁くのです。石をパンにしてみたらどうだ、と。

 石がパンに変わる、これは何を意味するのでしょうか。私たちは料理をするために、必ず食材を必要とします。私も妻と一緒にスーパーマーケットなどによく買い物に出かけますが、あれが食べたいと思ったら、そのための食材をまず買わなければなりません。食材を買い、家に持って帰り、その食材を調理します。そのように手間暇をかけて、初めて食べたいものを食べることができます。こういう手順を踏まずに、そこらへんに転がっている石が、自分の食べたいものに変わればどんないいことかと思います。そんな力を持っている人が、自分たちの家族の中にいればと思います。

 食べ物がなくて苦しんでいる者たちにとって、このことはもっと深刻です。世界には飢餓があります。私たち日本などの経済的に強い国が、世界中から食べ物を買い占めます。世界にはすべての人が十分に食べていけるだけの食糧が与えられているにもかかわらず、私たちは正しく分配することができていないのです。飢えている人が大勢います。その人たちにとって、石がパンになるというのは、とても魅力的な話です。そんな力を持っている人がいれば、間違いなく重んじられるでしょう。世界の飢餓の問題が、一気に解決することでしょう。

 主イエスにとって、石をパンに変える、そのことをし続けることによって、救い主になる道もあったでしょう。食べ物に関する神になる。私たちの胃袋の主になるという道です。このことだけでも、世界にとって十分に有難い救い主です。

 ところが、主イエスはそうはなられなかった。悪魔の誘惑に対して、こう答えられます。「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」(四節)。どこに書いてあるのかと言いますと、主イエスも親しんでおられた申命記の聖書の箇所であります。先ほどお読みした旧約聖書の箇所になります。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命記八・三)。

 ルカによる福音書には、パンだけで生きるものではない、というところまでが引用されていますが、実際の申命記の言葉は続きがあります。主の口から出るすべての言葉によって人は生きる、このことが聖書の言わんとしていることであり、神の御心でもあり、主イエスの歩まれた道でもあるのです。主イエスは第一の誘惑を退けられました。

 続いては、第二の誘惑です。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だからもしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」(六~七節)。悪魔はこのような誘惑の言葉を主イエスにかける前に、一瞬のうちに世界のすべての国々を主イエスに見せました。悪魔はそんな力を持っていることにも驚かされますが、同時に、世界の国々の一切の権力と繁栄に対して力を持っていることにも驚かされます。

 たしかに、世界を見回してみますと、ここに神に力が及んでいるというよりも、悪魔の力の方が強いのではないかという思いにさせられます。神が支配されているのなら、なぜこのような悲惨なことが世界に起こるのだと言いたくなります。神ではなく、悪魔に支配されていると言った方が、簡単に説明をつけることができそうですし、もっともらしいように聞こえてしまうのではないでしょうか。

 主イエスが支配される世界に、私たちも魅力を感じます。主イエスが私たちの上に立ってくださったらと思います。しかしその主イエスは悪魔に屈服してしまわれるとしたらどうでしょうか。主イエスが私たちを支配されることに変わりはありませんが、その上に悪魔がいるのです。この世界は力あるお方である主イエスの支配によって、少しは良くなるかもしれませんが、悪魔はなおも君臨している。本当に罪や死の問題は解決しているのだろうかと疑いたくもなります。

 主イエスはこの誘惑に対して、このようにお答えになりました。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」(八節)。ここでも主イエスはご自分の言葉を用いずに、聖書の言葉で答えます。今度は申命記の第六章の言葉をもってです。主イエスは自分の上に神以外のものを置くことをしないと言われます。主を拝み、ただ主に仕える。それこそが真実の神の国で私たちがなすことなのであります。悪魔がなおも上に君臨するというわけにはいかないのです。

 最後の誘惑である第三の誘惑です。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』また、『あなたの足が石に打ち当ることのないように、天使たちはあなたを手で支える。』」(九~一一節)。最後の誘惑は最も巧妙な誘惑です。今度は悪魔も聖書の言葉という武器を用います。主イエスが二つの誘惑に聖書の言葉をもってお答えになられたからでしょうか。悪魔はもくろみが失敗してしまったわけですが、それならば今度は自分が聖書の言葉を用いて誘惑を試みるのです。

 シェイクスピアが「ヴェニスの商人」という劇を書いていますが、その中にこのような言葉があります。「悪魔でも聖書を引くことができる。身勝手な目的にな」。悪魔がここでしていることは、まさしくそのことであります。悪魔も聖書を知っています。悪魔が知っていたのは、詩編第九一編であります。この詩編の中から、二つの言葉を引用して誘惑するのです。神の子なら飛び降りたらどうだ。天使たちが守ってくれる、足が石に打ち当たることがないように支えてくれると書いてあるではないかと、誘惑するわけであります。

 主イエスがもしこの誘惑に負けて、実際に飛び降りてしまったらどうなるのでしょうか。ある書物によりますと、エルサレムの神殿のてっぺんから下までは、およそ一八メートルあるのだそうです。ビルの高さにいたしますと、六階くらいに相当するでしょうか。そこから飛び降りるのですから、天使が助けてくれなければ死んでしまいます。もし助けてくれたとすれば、主イエスはすごい奇跡を行った人だということになるでしょう。あの人はエルサレム神殿から飛び降りたけれども、天使を呼び出して助かることができた。すごい力を持っておられる方だ。そのような奇跡によって、人々をひきつけることになったでしょう。

 しかしこれも主イエスが進むべき方向ではありませんでした。主イエスは不思議な奇跡によって、人を惹きつける方法には進まれませんでした。悪魔のささやきのポイントはそこにあると思います。神殿という最も人から注目される場所から飛び降りて、手っ取り早く、人々の注目される救い主になるというのではないのです。主イエスは悪魔に対してこのように答えられます。「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」(一二節)。これも申命記第六章の言葉ですが、悪魔が提案するように、神を試すような方法を主イエスは取られずに、この誘惑を退けられました。

 主イエスはこのように三つの誘惑を受けられましたが、見事にこれらの誘惑を退けられました。いずれの誘惑にも屈してしまえば、私たちが知っている救い主のお姿とは違うお姿になってしまいます。主イエスはただ胃袋を満たすだけの主ではない。悪魔にひざまずきながら、この世界を支配されるのでもない。不思議な奇跡を行って人を惹きつけるような主でもない。

 そうではなくて、これからいよいよ本格的に神の国を宣べ伝え、十字架に向かって歩まれる主です。アダム以来の罪をすべてその身に背負い、十字架にお架かりになる主です。主イエスは誘惑に負けずに、私たちの主であることを貫いてくださったのであります。

 主は私たちの先頭に立ってくださり、誘惑を退けてくださいました。私たちも主イエスのように、誘惑を退けたいと願っています。本日の説教の説教題を「誘惑との戦い」といたしました。私たちも悪魔と戦うのであります。悪魔の誘惑から無関係でいることはできません。しかも悪魔の誘惑は巧妙であります。

 悪魔は、私たちが最も弱いときに、攻撃をしてきます。主イエスの場合もそうでした。主イエスが第一の誘惑を受けたのは、何も食べずに四〇日が経過した後のことでありました。断食を初めて最初の日ではなかったのです。主イエスの身も心もボロボロになっていたときに、悪魔が来て囁いたのです。パンに変えたらどうだ、と。

 しかも悪魔は時に私たちには分からない姿で近づいてくることもあるのです。今年の七月のことになりますが、松本地区の信徒大会が行われました。テーマは「聖書物語」。松本地区に属する教会が集まり、それぞれの教会から聖書物語に関する出し物をいたしました。私たちの教会は、ルカによる福音書の第一五章にあります、放蕩息子の箇所から劇を演じました。

 その中に面白い劇でありました。実はその教会の劇が始まる前、別の教会が劇を行っている最中でありましたが、私が後ろを振り返ると、そこに悪魔が座っておりました。次の劇のために、スタンバイをしていた方が、悪魔のメイクをして、悪魔の服をまとって私たちの間に座っていたのです。ああ、次の劇では悪魔が出てくる。案の定、その通りでありました。主イエスが悪魔からの誘惑を受けられる場面が演じられました。

 このときは、はっきりと悪魔の姿を認識することができたわけです。もし悪魔が今やってきたということが一目で分かれば、私たちも対処できるのかもしれません。しかし悪魔は私たちに気付かれないような姿で、近づいてくるのです。

 今日の聖書箇所の最後のところに、こう記されています。「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。」(一三節)。悪魔はこのときはあきらめて、時が来るのを待ったわけですが、その時は十字架のときであります。主イエスの最も身近にいた弟子であるユダに、悪魔は入ったのです。

 ルカによる福音書のその箇所には、こう書かれています。「しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。」(二二・三)。主イエスのことですから、そのときユダの中にサタンが入っていたことに気付かれたと思いますが、私たちでしたらどうでしょうか。最も身近な者を利用して、悪魔が近づいてくるのであります。

 主イエスと同じように誘惑にさらされたとき、おそらくほとんどの者が、いやすべての者は自信を持つことができないでしょう。誰一人、自分は大丈夫だ、悪魔のどんな攻撃にさらされても、主イエスのように誘惑を退けることができる、そう考える人はいないでしょう。ではどうすればよいのでしょうか。

 今日与えられた聖書箇所から、いろいろなことを読みとることができるかもしれません。主イエスが聖書の言葉だけで、悪魔を退けています。私たちも同じようにできれば、どんなによいかと思います。さあ、私たちも聖書に親しみ、聖書の言葉で悪魔からの誘惑を退けましょう、そのように説教をすることもできるでしょう。

 しかし、私はそれだけでは不十分であると思います。主イエスがこのとき悪魔に勝利された。さらにはユダの裏切りにより十字架に架けられて、悪魔の勝利で終わったかに見えた先に、復活があった。主イエスは罪の力にも死の力にも、そして悪魔にも完全に勝利をされたのです。このお方が私たちの救い主です。

 このお方は私たちを救ってくださるのですから、このお方の存在を無視して、私たちだけの力で悪魔と戦うわけにはいかないのです。主イエスの存在を無視して、悪魔と同じようにただ聖書を利用し、悪魔と力比べすることは、私たちにふさわしいことではありません。主イエスのお力のもとで、私たちは戦う必要があるのです。

 悪魔は神さまから引き離そうと誘惑を試みてきます。主イエスの場合も、父なる神の御心通りに歩ませないようにしようとしました。救い主の姿を変えてしまおうとしたのです。私たちにも悪魔は神から引き離そうとして誘惑をしてきます。それこそが、悪魔が誘惑をしかけてくる目的であります。

 私たちは今日、礼拝に来ることができました。もしかしたら、悪魔は今日も私たちを誘惑してきたのかもしれません。「神を礼拝してもいいことはありませんよ。松本城ではそば祭りがやっているではありませんか。教会よりも、あっちの方がよっぽど楽しそうではありませんか。お腹一杯食べましょうよ」。

 そのような誘惑にさらされながらも、私たちは決して完全に負けてしまうことは、もうないのです。私たちの救い主である主イエス・キリストは、十字架にお架かりになり、三日目に復活をなさいました。あらゆる罪を赦し、死の力を無力にし、悪魔を打ち破られました。キリストは勝利者です。この勝利は、どんなことがあっても、もはや揺るがされることはありません。私たちはこの勝利のもとで戦うだけです。完全な敗北などもはやないのです。ルカが私たちに伝えている勝利者こそ、私たちの主イエス・キリストなのであります。